無題(14)

克明に見へざる世界は渾然と一つの像に迫りて来る
酸素吸ひ炭酸瓦斯吐き自ら命作れる不思議に生きる
わが命に宇宙が一つを成してゆく不思議さに目を閉じてゆく
読みすぎて網膜失せし過ぎし日を思へり内なる生の命令
盲ひゆくも神の姿と思ひつつ日頃の用に少々困る
脱けし字を補ふ行の曲りゆき消して一首を改め作る
ルノアールは病みて新たな視覚像もしと思惟像作らねばならぬ
ぶっすりと歯を立て朝のいちじくの露けく甘きを口に広ぐる
過ぎし日の熱く生きたる記憶をかへる術なく寝台に居り
ところ天おやつに出でていくつかの食ひたる峠の茶屋呼びくる
ところ天おやつに出でて峠茶屋冷たき夏の水を恋ふかな
共に病むことの不思議や突然に出会ひ大きな?に笑へり
真夜に置く露の如くに結びゐて朝の光を映しゆかんか
黄と黒の翅に頭上を飛び周り大きな蜘蛛の縄張りらしき
老犬は尾の先のみを振りてをり撫でるを止めれば即ち止めて
生きてゐる証とは何ぞ書きてゐる文字に詰りて不意に思へり
ペダル踏み一気に京都へ走りたり憧れたりし若き力は
自爆テロと細胞自死の相似形追ひ求めゆきひと日傾く
盲ひてゆく目に白秋は何見しや盲ひてゆく目に歌集を撰す
移民とふ移住なせしは四千万一億二千万のは今人足りぬ
廊を掃く木影となりて白雲は秋澄む空を走りゆきをり
残りゐし網膜も血が出てゐると医者と茶碗を見闇残れ
どんよりと頭の底の血が暮れて八十半ば何うにもならぬ
後五分思ひ出したように瞼閉ぢごろりと横たわりてゆきたり
自在なる飛翔つばめの傍へ過ぎ我は草踏む歩みを運ぶ
なるようになりゆく世界にと知性の後れ締めつけ来る
わが母はドストエフスキーを愛読すひそかに懐かしき思ひ出に持つ
八十を過ぎたる母はゲーテーを読みておりたり記憶に刻む
反りし木の椀がれたる葉は宙を飛び風何時止むとも見へず

寝台に真夜を座したる八十五唯口中に飴のとくるのみ
君のことばかり聞きをり語りたき世界のことは話に出でず
水草は根を張る水にたゆられ亦寄せられて浮きつ沈みつ
透明の金色の液盛り上りコップに朝のお茶注がれる
かはきたる喉を流るる水の冷へ胃より体へ拡がりてゆく
断崖に御堂の建ちて古の人等は祈り持ちたり
生命に自が出来初めしその時も微かな光りでありしと思ふ
屈せざる我と思ひてゐたりしがおとろふ光に頭垂れをり
去年の葉を落せし梢は空を指し葉を出すべき日差受けをり
人間の指の?きは指の間の細胞自殺なせしが故と
いも虫の細胞一変蝶になるを一瞬働く永き時間
美しく飛びゐる蝶は円型の細胞自ら死して整ふと

残りたる視力は光りかき集め新聞大文字目を通しをり
人生を意識の深さに求めたりひたすら己にかへりゆくべし
たずぬれば果を知らざる大きさに我の意識の広がりてゆく
黄熟の稲穂の照り返りゆき杜の聖明るくゆれる
意識とはホモサピエンスが生れもて得たる経験の全てなるべし
意識はと尋ねてゆきて誰知らずこれの偉大に照らされる
高く低くつばめ飛び交ひ海越へて帰りゆくべき翅調ふらしき
死なさへん一人となりて寝台に坐り直して見廻してをり
体けいの施設浜辺に閉されて今年の水の津も冷へたり

すず虫のなく声せぬは雄食は雌はよへともぐりたるらし
かけられし言葉にぽろぽろ涙せしこの女会ふを忘れ立ちをり
我といふ不思議の生に数へきて知らむと努めし生涯なりき
はけば吸ふおのずからなる呼吸にて我の命を保つと思ふ
黄熟の稲穂?りつたひ秋の空は一日の明るさ増してゆきたり
黄熟の稲穂刈られて葉散りて細くなりたる裸木立ちたり
咳押へ歩める夜の廊にしてゴキブリ素早く横切りてゆく
大きなる山の緑のなす起伏に生るる言葉が歩み運ぶ

陽に透ける若葉の輝りを携へて風はカーテン捲上げて入る
休みなく時計は時を刻みをり人の作りし時計の針の
枯れたりと諦めをりしいくつかの芽を吹き来しは亦も眺むる
黒雲の先端分れて走りゆき青葉散らして雨ふりたりし
なべて皆宇宙の今を作りゐる顔と歌会に並ぶは眺むる
うす桃に時にゆれつつ咲くつつじ木蔭深きは止まりて見る
八十老藤原優と名を書きて床に墨幅掲ぐは眺む
残されまいとり残されまい移りたる書話の棚をめぐりゆきつつ
百年の時に成りたる奇しき枝競ひて京都街路樹ありぬ
縁側に入り来る人に沈黙あらしめて竜安寺石庭のあり
簡潔に組まれし石は常の日のせわしき心断ちて据はりぬ
ながながと探りてをりし女等は顔晴れ晴れと別れゆきたり
隣人の恵み大地のめぐみにて甘き苺を舌につぶしぬ
石組を見る目は己に帰りゆき石庭に人の沈黙ながし

蜘蛛の目の光り巣を振り裏山の入口草木の生ひ茂りたり
入りゆく道も茂りて蜘蛛の目の光れる山となりにけるかも
孫の顔早く見たしと言ひてをり己の老ひて死に近ずくを
伏せし種子芽生へたるかと覗きをり待ちゐて死する時の近ずく
ほめられし言葉に浮び探らるる言葉に沈みぼうふらに似る
地虫鳴く声耳底に棲まへるは愈々他人と離るるならん
ゲノムにて歌作れぬと人間の底なきもに思ひ運びつ
我は我他人と比ぶる卑しさを時にもちゐつ事に気がつく
草蔭にすみれが開く紫の恍惚ありて春盛りゆく
黄に赤に運べるいのち年々の春の野原の妍鮮やかとして
教養人と言はるを否みしニーチェの生き態肯ひ過し来りぬ
つんぼにて人中に出るは嫌なれど退屈よりはと靴を出したり
内部より開く力の輝きてチューリップ朝を並び咲きたり
細菌と同じ祖先を持ちたりとひととなりしは死をもちし故
日々に見る野径の草が育みしわれの眼と老ひて来りぬ
死のゲノム持ちたるのみが繁栄をなせると生き死に問ひ直さるる

新しきウエイトレスの緊張も舌にまろばせコーヒーすする
橋の上に橋のかかりて走りゆく車が黒きガスを降らしぬ
白き足水にゆらめきこの辺り女等喋りて灌ぎゐたりき
少年はひたすら自転車漕ぎゆけりひたすら動くものは見守る
バス降りし人等それぞれおのが行く道に分れて消へてゆきたり
地の中に如何なる時の移りゐて近年庭の蟻の減りたる
これからは自己責任の時代とふ福祉おんぶの脚細りたり
舗装路に鋸目二条切り込まる亦堀り返し工事するらし
掘り返し埋設工事の加へられ舗道は幾つの機能をかくす
少子化増税などと疲労する日本まざまざと時移りゆく
豊かさが運びし肥満と筋肉の弱さに人のひしめき合へる
少子化老齢化に喘ぎつつ敬老なぞを言はねばならぬ
がむしゃらに生きし戦後のはるかにて肥満の体に車走らす
校庭に藷を植へしははるかにて鉢植の花妍を競へり
放たれし犬は躍れる四肢となり背を波打たせ走りゆきたり

緑まだ浅き楠葉の日に透きて道は朝の歩み誘(いざな)ふ
展かるる期待に笑みの自から旅行のバスのくるを待ちをり
粗い壁と眺めてゐしが静かなる波表はすと説かれて恥じぬ
拡大鏡かざしたりしが一点の曇り拭くべくちり紙とりぬ
国債の評価が南アと並べると唇固く暫く閉ざす
すばしこく這ひて居りしが指先に押へつぶしぬ命と言へり
鋼線の堅さに降りゐる白き雨少し濡れむと歩み出でたり
埋め得ぬ空げきの尚しんしんと母の死にたる齢となりぬ
枯るる草茂りゆく草晩春の野辺を弱りし足運びゆく
移れゆく秒進分歩の世の流れ時に顔上げ抜手切りつつ
葉となりて毛虫の糸引き下りをり来年咲く迄忘られてゐよ
補聴器を買へよと言へり年老ひて聞へ難きも利点の多く
口を開け泡を吹きゐし酸欠の魚等もぐりぬごめんごめん
来年の種子を調ふ菜の花の春行く光に閉し初めたり

小さなる波紋ひろがり翻へるつばめは水をくくみたるらし
一羽ゐし枝に一羽の飛び来り大きくゆれて二羽去りゆきぬ
見当らぬ時計探しをり身につけし時計のなければならぬが如く
もう探すところのあらず片づけし跡をつらつら眺めてハテナ
夕風は室にこもりし暑気払ひ栞挟みし本を開きぬ
身に合へる穴掘りけものの眠りもつやすらぎも知る此頃にして
哀歓のいくつしまひてポストあり入れたる人の姿の見へず
常日頃下夫は夢と唄ひつつ阿修羅の如き振舞をもつ
出でてきて見ゆる限りを空眺む視野狭窄を避けんむなしさ
轢かれたる百足の骸いくつ見え山路に木蔭深まりゆきぬ
南天の赤く色付き空を飛ぶ鳥の眼を研ぎてゆきたり
草の垢小突ける魚の波立ちていのち親しき歩み寄せゆく
夕風は冷へを携へて入り来りしをり挟みし本を開きぬ
手帖出し次の土曜は空いてます世俗びっしり詰めし男よ
血圧の薬を怠惰の所以にして午後を碁打ちに出でてゆきをり

一通のハガキをポストに入れてより明日は得たる我の日となる
一本の舗装道路の貫きて人の統べたる原野となりぬ
労務費が一割未満の中国とたたふ眼ぞ顕微鏡見つむ
ハンマーと汗に生きしははるかにて物は顕微鏡の先に作らる
舗装路に二すじ鋸目入れられて如何なる変ぼう初まらんとす
伸びてゆく朝顔の蔓咲かすべき紅を育む光りそそぎつ
線無数交叉なしゐる青写真拡げて堤に男立ちをり
後悔の山程あれどわが力あらん限りを生きしとおもふ
曲りつつ生きる限りの実を結び胡瓜大方葉の枯れゆきぬ
松下は何を作るかではなくて何を創るを考へゆくと
暮れて来て長く伸びたるわが影の頭より闇に呑まれてゆきぬ
解ろうと勤め来りぬ結局は解らぬと言ふことが解りぬ

売りし株が値上りせるを読みてをり心静かな笑にありしか
こんこんと湧き出る水の究まりなし柄杓をとりて喉を潤す
半日を闇に還りし静けさにさやかな朝の空気吸ひをり
祈祷とふ笑ひを殺す顔をもち立てる男を我は笑ひぬ
一生を尋ねて遂に解らざりき解らぬものの力に生きる
相ぼうを極まる一に表さん歌ぞ仏頭刻まれてゆく
アフガンの貧を講演せし男五十万円取りて帰れり
のろのろと亀の這ひをり人間の一日と代へ得ぬ万年の生
来世を透みし眺むる眼鏡などついに持たざり目薬を差す
人生の終りに近づき迷あり迷ひも人の豊かさとする
かげり来て栞挟みをり夜を徹し読み了へたるは遥となりぬ
年を経し思考の弛み皮膚の弛み曝きて夏の鏡立ちたり
末期がんの便り来りて千万の人が嘆きし嘆きを記す
はりはりと噛む歯に鳴れる青胡瓜もろみを塗りて朝を養ふ
瞼なき魚は如何なる眠りもつ入りゆく深き静かなる闇

世の中に永遠とふがありとせばわが身体の外にはあらず
細胞の六十兆を調へし時を思へば眼の眩む
机の前に眼を閉ぢて己が身の荘厳を見る果しのあらず
来りたる所を知らず去る所を知らず机の前に坐しをり
問ひ問ひて究め得ざりし人間とふこの不可思議に唯に坐しをり
学び来て得たるもののみこの我といふ古住今来唯々問はむ
細胞の六十兆をあらしめし四十億年われの齢ぞ
目は絵画耳は音楽芸術の永遠とふは身体にこそ
茜差す光と映へ合ふ赤とんぼ数減りたるは農薬の故
愛されて花の咲きたり黒き影ひきたる我の暫し立ちたり
憎まれて伸びゐる草も天と地の摂理に生きる抜きて捨てたり
映りたる空にも鴉飛びてをり堤が囲む水の小さく
今暫しせねば書き得ぬことのありわが過ぎ○しの拙なくありし
足が土踏みゐることの充足に峠の上に出でて来りぬ
朝の廊に蝉仰向に死にてゐて祈り求めし心を探る

太陽の光りが成れる葉の緑大きな空を仰ぎゆきたり
蓋をせし碗にも入りし虫の居て暑さは日々の盛り増し来ぬ
鋸形の鱗をもつは蝮にて暫く息をひそめ眺むる
朝々の轢かれしむくろ異形なるものを棲はせ山蔭ふかし
朝早き山路に鴉歩めるは轢かれて死にしむくろ啄む
撲り返せば殺すが故に耐へゐると空手五段の男の嘆く
小さなる蛙が跳びて引きをりし犬は俄に英雄となる
手を伸べて届く青にはあらねどもとんねる出でし峯に差し出す
木とのみを前に佛を問ひてをり木にものみにも我にもあらず
加へたるのみ一打に佛顔の現れ次の一打を導く
みひらきて尋ねゆく空杉ほこを越へて一羽の消へてゆきたり
ホッケーに国際的興奮の中に入り終りて如何なる国際人ぞ
ひたすらに残る疑問に残りたる命つくさん擬げあるな
我は唯己が命を問はむのみ人に教ふるものにはあらず
愚かにて八十余才の求と得ぬ疑問をもてば問はせ給へ

一夜寝し闇が養ひし眼にて朝のみどりのあきらけくこそ
千の弟子万のファンをもつ幾多郎知りくる者なしと記す
大きなる鳥の目の絵をぶら下げて鳥を追へよと持ち来下さる
挙げてゐる声が感情たかぶらせたかぶる声となりてゆきたり
自らを制御なし得ぬ声響く聞くものを制す愚かなる声
蛇百足朝の山路に轢かれゐてこの辺多く夜を生くらし
歩みつつ幾首か歌の浮び来て詩想の脈の涸れ居らぬらし
?願と威嚇の混る声響く力量足らぬ言葉もつ故
不孝なりし故に八十の半ばにてお母さんと時折叫ぶ
次々と信長書かれ切り張りの像輝きて歴史はありぬ
中世史新たに出され中世の人の中世史埃積みたり
マルクスは地下にふん装変へてをり出番の来る予感もちつつ
歌作るは驚け何でもないことに庭に草が生へ来しことに
記号にて動く世となり富を生む力は頭脳のみとなりゆく

むかし昔稼ぐ追付く貧乏なしの言葉がありきいつしか聞かず
人見へぬ工場に袋に詰められて箱に詰められ倉庫に送らる
青光る苔を育てて水落つる所の岩は夏を潜まる
亦はめの轢かれてをりぬ暑き陽は毒もつものを育てたるらし
万の露光りを交し逢日の日照りに耐へしか皮ふの救はる
修羅のなき山と思ひて休めるに小さなる蚊の来りてたたく
挙げてゐる声の次第にたかぶりて汝も迷に生きゐる一人
しずかなる山と思ひて休めるに血を吸ふ小さき蚊をたたきをり
蟻が来て蝶の来りて犬の餌落ちし所の夏の賑はし
昨夜(よべ)の雨涼風生みてごみ壕に運ぶ歩みをさやかならしむ
立つフォーム風を流して汗乾き山に暫しのいこひと終る
情念の泉涸れしか鉛筆を握りしままに言葉とならず
つながれし鎖引っ張り立ち上り前肢およがせ寄らんとなしぬ
枯れし草が先ず目に入り萌へ出ずる春の堤を歩みゆくかな

のみ先に大悲の相彫り出すと井上昇佛頭を刻む
木の中に在す佛頭彫り出すと井上昇暑く語れり
降臨の気分暫く味はひて犬引く山坂下りてゆきぬ
朝起きて一日を如何に過さんか炎暑に萎へし頭と手をもつ
源は此処にあらんか水澄みて山褪に浴ひ絶ゆることなし
涼しき風吹きゐる今日も目の重し長き炎暑の借をもつらし
暮れてゆく舗道に二すじ蒼深み車輪の音の暫し絶へたり

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください