平常底

 通された茶室に「平常心是道」の条幅が掛っている。掃き清められた畳目がすがすがしい。私は主人の居ない間を、平常心とは何かと考えた。平常とは喫茶喫飯であり、一挙手一投足である。日々の営為である。心とは何か、何事かがあったときに平常の挙惜動作をもち、取乱すことがないということであろうか、それもあるようにおもう、併し平常心是道は禅家の至り着いた最も深い境地であると聞いている。唯取乱さないということのみに道元が危険を冒して入唐し、盤珪が尻の肉が腐る迄結伽佚坐を組んだのであろうか。私はわれわれの行々歩々の底には生死を賭けて求めなければならない深いものがあると思わざるを得ない。平常の底には死を透過してのみ見得る、深いものがあると思わざるを得ない。われわれの一挙手一投足は如何なるものの上にあるのであろうか。

 行々歩々は生命が身体的であることによってもつものである。われわれの身体は生命が想像を絶する長い時間と、形態の変化によって形作って来たものである。人間は六十兆の細胞と百四十億の脳細胞より成るという。この複雑な有機的統一態は、三十八億年前の生命細胞の発生より、十八億年前の真核細胞の誕生、更に六億年前の多細胞生命への進化、海生類、両棲類、爬虫類、哺乳類を経て人類へと形成し来ったのである。われわれが今あるとは三十八億年の時間の集積としてあるのであり、更に生れ来る子孫の無限の未来を宿すものとしてあるのである。

 人間は物を作り、言葉をもつ、物を作り言葉をもつとは、無限の過去と未来が現在の意識としてはたらくということである。内によって外を作り、外によって内を作り、作られたものが作るものとなることである。内によって外を作るとは、内が死することによって外となることであり、外によって内が作られるとは、外を殺して内とすることである。作られたものが作るものとなるとは、内外相互転換が相即的に創造的発展であることである。我々の祖先は汗と血によって自然と闘い、死を生へと転換していったのである。時間の蓄積とは斯る力の表出の蓄積である。

 斯かる世界形成の一要素として我々は歴史的形成的にあり、身体は世界形成的として、歴史的現在としてはたらくのである。歴史的現在としてはたらくとは、世界の現在に面し、世界の現在を作るものとして、蓄積された世界の現在の富、社会機構、芸術、道徳等を何等かの意味に於て内包し、生きてゆくものであることである。

 私達は今三度の飯を美味いとか、まずいとか言って潤沢に食っている。併し日本の長い歴史に於て米が潤沢に食えたのは極く最近のことである。私の幼時はまだ学校へ辨当をもって行けないものが多く居た。だから感謝せよと私は言うのではない。喫茶喫飯にも無限の営為の重なりがあり、我々はそれを受取って渡すものとして最善をつくした営為をもたなければならないとおもうものである。

 営為は一瞬一瞬である。併しその一瞬一瞬は無限の時間に於て成立するのである。過去未来を結ぶ永遠の時に於て成立するのである。私は平常とは一瞬一瞬が宿す永遠なるものの自覚に生きることであるとおもう。

 最近寿命が伸びたと言っても私達は百年足らずで死ぬ。而して我々は永遠の時を宿すものであり、無限の時を知るものである。而して我々は形成的生命として、この矛盾によってのみ動いてゆくものである。この矛盾の喪失は死である。何うすることも出来ない死をもつものとして身体はある。私はこの岩頭に立って、生死を截断せんとするところに聖者の苦悩があったとおもう。

 人間が意識的生命があるとは、その行為に於て一瞬間の方向か、永遠の方向か何れか一を撰択するものであることである。本能的欲求は現われて消えゆくものとして瞬間的方向に成立し、言葉を媒介とする自覚的欲求は、蓄積することによって形成するものとして永遠の方向をもつ、この場合意識が要求するものは何れが根源的であるかということである。禅家に自己本来の面目という言葉がある。一瞬を知り、官能を知るのは言葉であり、生命の有限に悩むとは否定せんとすることである。そこに人生に真ならんとすとき、現在を汚 濁として、永遠を愛慕して止まない所以がある。肉体を本能の根源として徹底的に否定し なければならない所以がある。大死一番とは意識の転換を行うことである。身体の統帥としての意識の転換は亦身体の転換である。私はそこに先人の苦行があったとおもう。

 瞬間が永遠であり、永遠が瞬間である生命に於て一方の否定は全体の死である。瞬間なき永遠は単なる空虚に外ならない。意識の転換とは本能的欲求の一々が永遠の内容となることである。無限の時間の陰翳をもつものとなることである。前に書いた如く一腕の飯に先人の無限の労を見ることである。自覚的生命としての人間は、単に飲食するということにも、無限の時を孕む全人類一なるものがはたらくのである。一挙手一投足を我を超えた全生命の我への具現とするのである。私は喫茶喫飯、一挙手一投足の底には達すべからざる深さがあるとおもう。平常心是道とは斯る深さに生きること とおもう。よく言われる日々是好日という言葉も、全人類一なる目より生れてくるものとおもう。一期一会も 自覚的生命の今として出合うということである。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

小児外科医のモチベーション

 先日、鳥取大学医学部学生に対して消化器・小児外科の医局説明会が行われ、私も「小児外科医のモチベーション」について話しました。外科が扱う病気で大部分を占める成人領域の多くの疾患は悪性腫瘍ですが、これとは異なり小児外科疾患の殆どは胎児期における器官形成過程の異常により起こります。つまり最初唯一つの受精卵が分化し各器官に形成されますが、その時の異常が原因で例えば先天性食道閉鎖症は食道と気管の分離不全により起こります。この食道閉鎖症といえば、歌手の椎名林檎さんは生まれてすぐにこの病気と診断され慶応大学病院で手術を受けています。慶応大学に小児外科医がいてすぐに手術したため、命が助かっただけでなく、現在のシンガーソングライターとしての椎名林檎さんがあるわけです。食道の手術後によくある声帯を動かす反回神経の麻痺によって声がかれることもなく、歌手として活動出来ているのです。慶応大学主催の学会の時にゲストとして来られましたが、慶応の小児外科医たちはみんな口々に「私が手術を担当しました」「術後をずっと私がみていたのです」と言うのです。これはすなわち椎名さんの手術に対して自負心や誇りを持っているということだと思います。このように小児外科医はこどもの病気を治すことはこどもの未来をつくる」という重要な使命を持っているのです。身近な例では医学部5年の学生が昔、私が阪大病院にいた時に、動脈管開存症の手術を受けたようで、これがきっかけで医学部を選択したといっています。もう1人の医学生はp63遺伝子(細胞周期やアポトーシスを制御し形態形成に関与する)の欠損による外胚葉系の異形成を主とするEEC症候群を合併し、先天的に両手の第3指が欠損、両足の第2,3趾が欠損、口唇口蓋裂があり、全身麻酔だけでも10回以上手術したようです。彼は幼少時代にいじめにあっていたようですが、「それが何やねん。お前らを見返したるわい」と頑張り現役で鳥取大学医学部に入学され、また高校からバスケットやゴルフをされてきました。小児外科医を目指してくれるようです。

 手術を受けた後成人ならぐったりしてなかなか起きれない、歩けない状態が長く続きますが、小児は大きな手術を受けても術後早期から病棟内をウロウロ動き回ったり、テレビゲームをピコピコやりだしたりして、また成人のように糖尿や高血圧などの他の合併症も少ないため、回復力は極めて強いのです。このような強大な小児の生命力と成長や発達能力の凄まじさに目を見張るものがあり、逆に彼らから『元気』をもらいこれが小児外科医のモチベーションになります。2021年東京パラリンピックにて水泳部門でいくつかのメダルを獲得した先天性四肢欠損症の鈴木孝幸さん、先天性小眼球症による視覚障害のために楽譜を全て聴覚でのみ理解、暗譜し、若干20才にてアメリカ・クライバーンピアノコンクールで優勝した辻井伸行さんなど、「失った機能を他の器官・臓器で代償する人間の能力には計り知れない」ものがあり、若い程その効果がよく発揮されます。さらに上記医学部学生のようにハンデイをはね返し、むしろポジティブに捉えて頑張る「若い力」を育成し、その成長を見届けるのは楽しいし嬉しいものです。

(2023.6)

見逃し配信

コロナ対策として、他人と接しないようにという政策がとられて来ましたが、ある番組で「ヒトがヒトと群れる時には脳の報酬系が働き快楽物質であるドーパミンが出て幸福な気持ちになるが、長期にヒトから離れ孤立するとこの報酬系が低下し、対人恐怖が増加する。情報だけを共有しても感情の共有が出来ない」という趣旨のことを言っていました。このことが動物においても実験で証明されたというのです。確かに人間関係を築く上では弊害ばかりのような気がしますが、一方でテクノロジーの発達により極めて便利になったなあと思うことがあります。

その1つが各種学会などにおけるWEB会議と、私にとってはこの上なく嬉しい企画、ラジオやテレビの「見逃し配信」が大きく発展したことです。私はオペラやクラシック音楽ファンなので、これまでは聴けない観れない放送はオーデイオ機器を駆使して「留守録(1週間丸ごと収録する録画機なども出ていました)」に依存していましたが、時に「留守録忘れ」、「放送予定に気が付かない」ことが重なり忸怩(じくじ)たる思いをしたものです。それがこの「見逃し配信」では放送後1週間はいつでも聴けるわけです。例えば音楽番組は「NHKラジオ、らじる★らじる」では無料で1週間のほぼすべての番組が聴け、スマホでアプリを取れば大阪の地下鉄でも山陰本線の鈍行列車の中でいつでも好きな時間に楽しめるという、極めて有意義なものです。他にもNHKプラスではテレビドラマ、植物学者牧野富太郎を扱った「らんまん」「どうする家康」田中みな実主演の「悪女について」(有吉佐和子の原作は読んだことあります)など、どこでも無料で見れるし、他局やBS、WOWOWの番組もOKのようです。

(2023.7)

リズムについて 其の2

 私達は何故リズムを尚び、リズムを問うのであるか、それは我々の生命がリズム的であり、リズム的に表われるからである。リズム的であり、リズム的に表われるとは如何なることであろうか、私はそれは我々の生命が身体をもつところにあるとおもう。身体は内外相互転換を行動に於てもつものである。行動によって、はたらくことによって物を作り、生活の糧を得るものである。

 水は高きより低きに流れる、物の動くのは重力による、それに対して身体は自発的な力をもつものである。身体が行動的であるとは重力を越えた力を持つことである。重力を否定して独自の力学体系をもつことである。自己の行動力学をもつのである。而して否定するとはその中にあるものがそれを超えることである。重力を否定するものは、重力の作用をもつ物としての性質をもつものである。重力の作用をもち、作用を受けるものとして初めて重力を否定することが出来るのである。身体の行動は斯る物としての重力と、自発的な力の対抗緊張としてもつのである。その最も端的な現れが歩くことであるとおもう。歩くには足を挙げなければならない。足を挙げることは地球の重力に抗することである。欲求とか、意志とかの内発的な力がはたらくことである。挙げた足を下ろすことは地球の重力に即することである。歩くとは相否定する力がはたらくことである。これを自発的な力をもつものとしての我々の側より言えば飛躍と断絶をもつことである。この飛躍と断絶の連続が生命の表れとしてリズムの感覚となるのである。リズムとは身体の力の表出の感覚であり、時間の形相である。

 生命は全て形成的であり、特に動物は力の表出なくして生存はあり得ない。動物の行動は全てリズムをもつということが出来る。木を登るリス、野を駆ける馬、銀鱗をひらめかして泳ぐ魚、それ等に感ずる躍動感はリズムの感覚である。併し魚や馬は本能のままに走るのである。そこに快適な感覚はあるのかも知れない、併しリズムとしての感覚の把握をもつことはないであろうとおもう。事実私達も亦所用で道を歩くとき、水は何かの機会で駆けるとき、力の表出の感覚はあってもリズムの感覚はもっていないとおもう。リズムの感覚が生れるには更に高次なる意識への到達がなければならないとおもう。

 身体の行動にはおのずから情緒を伴う。行動は情緒であり、情緒は行動である。私達が日常買物に行くときでも強制された場合は足取りが重く、自分の欲しいものを買いに行くときは急ぎ足となる。身体は情緒的に自己を表出するのである。併し日常の行動は欲求にしたがい、情緒は欲求の陰翳である。私は我々の意識がリズムを捉えるには、情緒が欲求より独立して、情緒が行動を構成することがなければならないとおもう。よろこびがさまざまのよろこびの動作を構成することによって自己を表現するのである。かなしみがさまざまのかなしみの動作を構成することによって、人間の行動の深奥を露わにするのである。それは自己の所在を自己が把握することによって、より豊潤なる世界を展開し、より多様 なる行動をもち得る高次なる世界への到達である。私はそこに舞踊を見、音楽、絵画等の 表現を見ることが出来るとおもう。私は斯る表現の、表われた形の方向にではなく、表わす生命の方向にリズムが見られるのであり、表わすものとして、表わす動きにリズムの感覚をもち得るのであるとおもう。それでは斯る高次なる感覚は如何にして持ち得るのであろうか。

 芸術は神に祈り、神の形を表さんとするところにその始原をもつと言われる。生命は瞬間的なるものが永遠なるものとしてある。我々が記憶をもつということも、過去となった一瞬一瞬が保持されているということである。過去が保持されているということは、現在に於てはたらいているということである。人間は一瞬一瞬を統一する大なる生命であることによって記憶をもつのである。過去が現在にはたらくとは、この大なる生命を実現せんとすることである。一瞬一瞬が大なる生命の内容として、大なる生命を実現せんとするとき、瞬間的なるものは瞬間に止まることは出来ない。大なる生命を実現するものとして、一瞬一瞬は構成されるのである。構成されるとき、構成するものは一瞬一瞬の支配者となるのである。永遠なるものは一瞬一瞬を構成することによって自己の姿を見てゆくのである。我々が神を表わさんとすることは、神が自己自身を見てゆくことである。リズムは神の創造の波動として我々は感覚にもち得るのであるとおもう。

 われわれの身体が一面物として地球の重力にしたがう方向と、内発する力によって重力を否定する方向をもつとき、積極的なる力の表出を動として、力の収まる方向を静としてさまざまのリズムの姿が見られるとおもう。身体に直接するものとして舞踊がある。舞踊を基準として身体を超えた動的なものの方向の極に音楽がある。それは象に表わすことなきが故に純なる韻律の流れである。情感の直接なるあらわれである。重力の作用の最もはたらく表現として、建築は静的なるものの極にあるとおもう。ショペンホウエルは建築は 剛性と蓋性の対抗の美であると言っている。陶器の如きもあの土で作られた重量感と安定感は静的なるものであるとおもう。そしてその鑑賞は建築も陶器も皮膚感覚が重大な要素をもつようにおもう。

 身体を軸として動と静を分つとは形を二分することである。一つは動が静を包むのであり、一つは静が動を包むのである。動が静を包むとは、転ずるものがそのままに形である。転ずるものは形なきものである。それが形をもつとは、形作られたものを表わすのではなくして、形作るものが自己をあらわすのである、よろこびかなしみのリズムに於て形作られるものを宿すのである。私は音楽は斯かるものであるとおもう。

 静が動を包むとは、作られたものとしての形を写すことである。絵画、彫刻等はその中に入るとおもう。それはよろこびかなしみを孕む形を固定化さすことによって、対象として自己を離れて自己を見るのである。鑑賞の時間を介在さすことによって、反芻することによってよろこびかなしみを深めてゆくのである。深められた情感に於てより大なる次の製作へと移りゆくのである。私は舞踊や音楽のリズムが、共に動きを要請するリズムであるのに対して、絵画や彫刻は人生の内奥への呼びかけをもつリズムであるとおもう。

 私達は草や木や、雲や水にもリズムを感じる。私はこのリズムを感じる草や雲は自然科学的認識としての対象の自然ではないとおもう。そこに観察されるのは物の組成である。花が開くのはその充足に於て、よろこびの目をもって見、雲の流れを自在として、解放されたものの豊かに於て見るのである。私達に呼びかける生命として対するのである。私達は創造的生命として身体を外に見る。斯く外に見られた身体として我々は雲や草木に対するのである。

 私は日本的生命の根底には豊かなリズム感があるようにおもう。田植に歌、漁には船乗り歌、酒作りの歌等々私はそれは労働の苦しさを癒やす為の手段のみではなかったとおもう。田植の動作が歌のリズムを生み、歌のリズムが田植の動作を呼ぶのである。自然と人間が作業に於て一である。一であるとは充足でありよろこびである。近頃よく日本人の働き過ぎが言われる。私は日本人の働きの根底にはリズム的な同一があるのではないかとおもう。休息は呼吸を入れるのであって、西洋的な労働と遊びを截然と分つのは体質に押染まないのではないかとおもう。日本人の遊びは古代の道に遊ぶと言った如きであると思う。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

表現としての感動について

 抒情詩は共感の芸術であり、共感を呼ぶものは感動である。短歌も日本的抒情詩として、その内容は感動でなければならない。私は斯かるものとして短歌は何かと問うとき、感動とは何かを先ず明らかにしなければならないとおもう。

 辞書によると感動は深く物に感じて心を動かすことと書いてある。私はこの深く物に感 じることに二つの場合があるとおもう。一つは物が強くはたらくことであり、一つは心が 強くはたらくことである。物が強くはたらくとは、困っている時に予想以上の支援を受けたような時である。心が強くはたらくとは、物の質量によらずして心がそこに自分の姿を見出したようなときである。一つは受動的であり、一つは能動的である。一つは日常生活に於て、一つは表現的努力に於て見られるものである。今私が問わんとしているのは勿論後者である。

 私は表現としての感動は、我があり、我が生きているということが世界に関っているこ とにあるとおもう。私達は朝目が覚めると、まだ暗いとおもい、もう明るいとおもう。ま だ暗いとおもうのは人々はまだ眠っているであろう、もう少し眠っていようかということ であり、もう明るいとおもうのは、多くの人が起きている頃になった、私も起きて今日の はたらきをしなければならないということであろう。思いは人との関りの中から生れてく るのである。起きて洗面をするということは社会が営んで来た習慣に従うことであり、 歯を磨くということは、歯刷子を使い歯磨粉を使うことである。喫茶喫飯、一挙手一投足ことごとく世界に関るのであり、世界に関ることによって我々は生きてゆくのである。裸で坐って何もしていないときでも、裸であるとおもうことが既に、人の目を潜在的に意識しているのであり、着衣を反極にもっているのである。

 世界に関るとは、私達の心は常に対象に向って動いているということである。対象とは世界の内容であり、それに向って心が動くとは、われわれの自己は対象によって実現されるということである。対象を見るとは自己を実現するということである。そしてわれわれが世界の内容としての対象を見たということが、世界が世界を実現したということなのである。

 世界とはこの我を超えたものである。この我を超えるとはこの我の生死を超えるということである。生死を超えるとは生死を包むことである。生死はその中にあり、生死をそこに写して見ることである。そこに映して見るとは世界は無数の生死によって形作られたということである。無数の生死によって形作られた内に写すとは、無数の生死は一つということであり、世界は創造的形成であるということである。無数の生死を介して世界は大なる創造線をもつということである。対象が世界の内容であるとは、対象は無数の生命の生死を介して見出されたものである。

 私は対象は斯るものとして、われわれの心は常に対象に向って動いてゆくのであるとおもう。生命は内外相互転換的である。内外相互転換的とは内を外とし、外を内とすることである。その原型的なものが食物を摂って身体と化することである。外を内とし、内を外とすることは技術的である。技術的として身体は機構的である。われわれの身体は機構的として技術の集積である。その身体の技術は無数の生死によって集積されたのである。更にわれわれの身体は表現的身体である。表現的身体とは、外が内に対立するのではなく、内として外を転換するものとなることである。手の延長として道具をもち、声の延長として言葉をもつことである。われわれのもつ内外相互転換とは、無限の生命の内外相互転換の蓄積として、外を内に写し、その内を外に写して形作られてきたものである。私達は同じ生命であっても犬の目が向く処に私達の目は向かない。それは蓄積の系譜を異にするからである。ペルーの山深く今尚原始生活を営む人々は、輝くアンデス山頂の荘麗な雪嶺を悪魔の姿として怖れるそうである。我々が雪嶺を美しいと仰ぎ見るのは、私達の目の中に幾多の先人の目の努力がはたらいているのである。

 歴史は大なる内面的発展の流れである。内面的発展の流れとは、先人の目がわれの目の中にはたらき、先人の手がわれの手となってはたらくことである。私達は毛筆の字を習うときに王義之の手本を見る、それは王義之の目と手がこの我の目と手の中にはたらくということである。物の生産而り、芸術、道徳而り、我々の日常全ては全人類を一ならしめる時の統一に於てあるのである。私達が生きるとは斯る大なる創造線に添うということである。

 私は感動とは斯る大なる創造線に添うことによって真個の自己に触れた感情であるとおもう。併し王義之に習い、丸山応挙に学ぶことは未だ真に創造線に添うことではない。われわれは生命としてはたらくものである。王義之がはたらくことによって見出したこの手と目は、その極王義之を殺すことによって自己の目と手として生かすのでなければならない。自己の個性による新たな形が生れるのでなければならない。そこに生命が新たなる生命を生んで死んでゆく所以があるのである。創造線とは無数の生命が生死によって描く曲線である。

 日常の全てが歴史の内面的発展としてあるものとして、一挙手一投足全てが真個の自己を表すものとなるのでなければならない。唯前に書いた如く習性の中に狎れたときに真の自己を自出し得ないのであるとおもう。通常われわれが日常というとき、日常とは習慣の中に埋没した営みであるとおもう。それが真個を表わすものとなるためには外に創造的生命の表出とならしめるものが無ければならないと思う。創造的生命の表出とならしめるとは動いてゆく今を捉えることである。言葉あるいは物によって形に現前せしめることである。形に現前するとは最早ときの流れの中に埋没したものではない。時を内に包むことによって形は現前するのである。大地を踏んだ、空を仰いだということを言葉に表わすとき、言葉は無限の過去を潜め、無限の未来を孕むものとして出で来るのである。唯大地を踏んだ、空を仰いだと言う如きは身体に即して外ならざるものである。見るべからざるものである。それを言葉として、物として見るということは大なる力の表出である。表現は自覚的生命の生む苦しみである。而して形に見るということが創造線に添うということである。私は感動とは努力によって、力の表出によって自己を形に実現し、大なる世界の創造線に自己を見出たことであるとおもう。力の表出によって形を見出すとは、創造的世界を自己の内に見ることである。創造線に添うということは全人類の形成作用を自己に見るということである。そこにわれわれは生死する自己を超えるのである。一瞬が永遠を包むものとなるのである。斯るものとして私は感動は力の表出によって現われてくる新たな自己の感情であるとおもう。努力の止むとき感動は淡き残像となるのである。偉大なる作品は感動の持続の影であり、感動の持続は止むことなき努力であるとおもう。自覚的形成的に働く生命が、働く自己を表現に証するのが感動であるとおもう。

 心が対象に向って動くということは、生命形成的に外に関るということである。生命形 成的に外に関るとは、作ることが作られることであり、作られることが作ることである。 そこに生命の創造的形成があるのである。創造的形成として、心が対象に向くということ は、心が対象から招かれるということでなければならない。招かれるとは対象はわれわれを呼ぶものとして、対象と我は対話的にあるということである。

 創造的形成に於て対象が呼びかけるとは如何なることであるか、前にも書いた如く創造は内を外とし、外を内とする限りない営為である。内が外を宿し、外が内を宿すのが世界の形象である。それは作られたものが作るものとなり、作るものが作られたも のとなることである。内は製作者となり、外は物として製品となるのである。われわれの心の向く対象は製品となるのである。そして製品は生命の形への表れとして、形成としての技術によって作られ、技術を内蔵するものとして次の形を呼ぶのである。芸術的表現の世界に於ては、ゲーテやロダンがその作品に於てわれを招き呼ぶのである。自然に対かうと思うときでも れわれは単なる自然に対うのではない。アンデスの例に述べたごとく、われわれの内に先人の詩的表現の言葉がはたらき、言葉が目となってはたらくのである。ここに月に喜びを見、かなしみを見るのである。その底には先人との対話があるのである。

 内外相互転換は単なる連続ではない、外を物として、内を生命としての相互否定である。生命の否定は死である。ゲーテがわれわれを招くとは、われわれよりも偉大なるものとしてあるということである。重力に於てより大なるものが引く如く、表現に於てより偉大なるものが招くのである。而してわれわれが対うとは、対うものを転じて我の内容とし、われの働く力となさんとすることである。転じ得ざることは死である。招くとは亦一面死を以って迫ってくることである。招く力は大なる力である、そこに我々は死ななければならない、死して生れなければならない所以がある。斯るものとして表現は苦痛であり、力の表出を伴わなければならないのである。そして言葉をもつ自覚的生命としての人間は断る苦痛を介してのみ喜びをもつことが出来るのである。私はゲーテやロダンを例に引くことによって稍大袈裟にしすぎたようである。併し私は日常の喫茶喫飯といえども表現するというには呼び声があるのであり、呼び声の根底には人類の形成があるとおもうのる。連綿としてわれわれの目、われわれの言葉を養って来たものがあるとおもうのである。如何なる表現も苦しみであり、努力であるとおもうのである。

 身体は情緒的である。情緒的であるとは身体の動きは情緒の表出を伴なうということである。生死は身体の最大事である。そこには最も大なる感情の起伏が見られるとおもう。自覚としての表現的世界に死ぬとは絶望することである。それは肉体の死以上の苦しみである。生きるとはそれを超えた歓喜である。私は歴史的世界は数え切れない人々が斯る絶望と歓喜に生き、呼び応えた所として感情の海であるとおもう。芸術的表現の世界は共感の世界である。斯く共感をもち得るの全歴史が喜び悲しみの場として、感情の海の意味をもたなければならないとおもう。感情の海とは一つのものとして直に繋がるということである。静御前の涙が直に我々の目より流れることである。荊軻の怒りが我々の唇を引き緊めることである。聖母に抱かれた幼児のほほえみが、われわれの頬をゆるませることである。判断を超えて全時間を唯一現在としてあらしめることである。私は感動とはわれわれの感情が斯る海に流れ入ることであるとおもう。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

書店の時間的考察

 田村さんが活字浴と称して、書店に行くのが私の贅沢であるという歌を作っていた。私も活字中毒というのであろうか、書店を見るとふらふらと入ってしまう。別に何を買うというのでもない、強いて言えば未知なる内の欲求に出合いたいということなのであろうか、自分の知らない自分の内奥の姿が映し出されているものがあるような気がするのである。ささやかなロマンとでも言うものであろうか。それと書店は知の凝縮である。知は物を写す。並んでいる本の表題を見ていると、世界の動き、現代の心の動きに触れたような気がする。勿論気がするだけである。併し今書こうとするのはそのようなことではない。ふと垣間に見た時間空間についてである。

 若い母親らしき女が絵本を買っている。差出された本を見て、女店員が愛想のつもりであろうか、「おいくつになられたんですか」と尋ねている。すると若い女は長い間絵本の並んでいる棚の前に立って、片っ端から開けて見ていたくせに「四才になったんですが、こんな本でよいのでしょうか」と尋ね返している。そして「そうですねえ、皆さんこの本はよく買って帰られますよ、それにあの本もよく売れています」の答に、もう一冊の本を取って来て二冊を包んでもらい安心したような足どりで帰って行った。私はそこに子供のすこやかな成長を祈っている母親の姿を見ると共に、ふと本が内蔵している時間の相に思いを馳せた。

 本は既にあるもの、形作られてあるものとして過去の内容である。併し彼の女が子供に読ませることによって、子供の成長をはかるということは未来に関り、未来を拓くものであることである。そう思って見ると犇(ひし)めいて本棚に向っている人全てが、明日の自分を形造るためのようである。八割を占める学生は、受験のためか知識欲のためか知らない、併しその何れも成人の日に用立てんがためである。料理の本の前に立っている女性は明日の家庭の団らんのためであろう。小説を買っている人は、情感のみずみずしさを保つためであろう。よきにせよ悪しきにせよ、本は明日の自分を作るために読むようである。

 本という既成のものによって、読むものが自己の未来を作るとは、形作られたものは形作るものであるということである。過ぎ去ったものははたらくものであるということである。過ぎ去ったものが働くことによって未来が形作られるとは、未来は過去の投げた影であるということが出来る。併しそのことは過去は未来によってあることである。そこに撰択がある。私は前に母親らしき女が片っ端から絵本を開いていたと書いた。彼女はその時子供の未来像を描いていたのであろう。彼女は子供の未来像と結びつけ得る絵本を買ったのであるとおもう。撰択は未来が自己に結びつく過去の撰択である。未来の要請として過去はあるのである。未来の要請によって過去があるとは、未来ははたらくものとして未来であるということである。

 一冊の本はそれ自身の内容をもつものとして分つべからざるものである。それに対して過去と未来は相対するものである。未来は過去によってあり、過去は未来によってあるとは、過去と未来は相互否定的に結ばれているということである。未来は過去の否定として未来であり、過去は未来の否定として過去である。分つべからざるものは道元禅師の言う同時である。一冊の本は一つの時として存在する。分つべからざるものとして一である。それが過去と未来として相対立するものを含むとは、形が形を生み、形が形を作る創造的なるものの一点としてあるということである。無限に対立するものを含む同時とは、時を 超えて時をあらしむる永遠ということである。一冊の本は時を含む永遠なるもののあらわれとして、内に過去と未来をもつことが出来るのである。

 創造とは作られたものが作るものとなることである。私達がドストエフスキーの小説を読んで感動したとき、その感動がものを見るときにはたらくのである。私は短歌を作るものであるが、斉藤茂吉の「赤茄子の腐れていたるところよりいく程もなき歩みなりけり」 に心うたれて以来、そのように感じ、そのように表現しようと心に掛っていたのを思い出す。私達が書店に見る膨大な文字の氾濫は、形が形を生み、文字が文字を生む人類創生以来の作られたものが作るものとなってきた結果である。分つべからざる本の内容とは、この創造線の一点としてあるということであり、内に相分つものをもつとは、この形成作用を背負うことによってあるということである。

 背負うことによってあるとは、本が創造をもつということではない。創造するものが本 に自己を表わし、表わすことによって自己を見てゆくということである。創造をもつも は、買った母親であり、読む子であり、更に著わした作者である。生死する生命である。生死する生命が自覚的形成的である時、創造があるのである。生れてくる子が未来となるのであり、死んで行った者が過去となるのである。死んで行った者より生れた我々が、死んで行った者等が作った世界を否し、我々の世界を作ったところに死者は過去となるのであり、生れてくる子が我々の作った世界を否定して、彼等の世界を作るところに未来があるのである。而してそれが作られたものより作るものへとして、一つの連続をもつところに時の成立があり、創造があるのである。一ころ時代が違うと言う言葉が流行ったことがある。親乃至は先輩の思考方法を否定する言葉であり、行動の断絶を宣言する言葉であった。生命が自覚的形成的として創造的となればなる程斯る断絶は避け得ないものとなる。斯かる断絶が作られたものより作るものへとして一なるところに創造があるのである。

 作られたものより作るものへとして、否定を超えて生命が一であるとは、生命の創生以来、作られたもの作るものへとなった作るものが今もはたらいているということである。死者が過去となり、生れてくる子が未来となるとき、現在とは生命と生命が呼び交すことである。多くの人が関り合って一つの世界を形作っていることである。最初の生命が今にはたらいているとは、自覚的形成としての最初の表現物が、我々に呼びかけるものをもっているということである。クロマニョンの絵が、 印度のボェウダが、エヂプトのピラミッドが我々に呼びかけをもつということである。書店の棚よりゲーテやミケランジェロを取り出すことは、われわれがその呼びかけに応答するということである。呼び応えるところに現在があるとすれば、創生以来の全生命は大なる現在にあるということが出来る。断絶は斯る世界に於て連続し、一なるものの内容となるのである。

 本が過去を蔵し、未来をはぐくむものでありつつ分つべからざるものであるとは、斯る ものの表れとしてあるということである。分つべからざるものとは直に一であるというこ とである。過去と未来が現在に於てあるということである。呼び応えるという一つのはたらきの中にあるということである。過去と未来が現在に於て一つであるとは、呼び応えるということは、初めと終りを結ぶいのちがはたらくということである。初めと終りを結ぶものは、内に否定と断絶を含むものとして永遠なるものである。否定と断絶に於て呼びかけと応答があるのであり、呼びかけと応答に於て現在があるのであり、現在が成立することによって時の統一、変化の統一があるのである。一冊の本は永遠なるものがはたらくものとしてあるのであり、全てあるものは永遠なるものの形としてあるのである。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

奉仕の原点について

 お馴染みの一休物語である。併しここに御登場いただくのは一休さんではない、一休禅師である。

 ある日の夕方一休禅師が門前に立っていると、一人乞食がやって来て、横柄に手を出し「物をくれ」と言う。手許に持合せのなかった禅師がとって返し、幾何かを与えると、乞食は袋に入れてすたすたと歩き出した。流石の禅師もいささかむっとして、「おい」と呼び止め、「お前は他人に物をもらって有難いと思わないのか」と言った。すると振り返った乞食は、「お前は他人に物を与えて有難いと思わないのか」と言って、後も見ずに去って行った。はっと心を打たれた禅師は、乞食の姿が見えなくなる迄手を合せて拝んでいた。以上の話は恐らく作り話であろう。併し実際の有無に関らず、私はこの中に深い真実があると思わざるを得ない。

 物は労苦の結晶である。殊に古代に於ては、努力なくして一物もあり得なかったと言い得ると思う。その物を無償で他人の所有とするのである。流した汗を思えば、もらう方は感謝して当然である。それによってもらった者は、自己の生命をつないでいるのである。与えるものは、与えようと与えまいと本人の気持次第である。双方に権利・義務の関係が生じているのではない、任意である。そこには優越、劣後の感情さえ生れて当然であると思う。

 併しそれは人と人、我と汝の関係に於てである。若し人類普遍の目をもって見れば何うであろうか。全てのものがそれによってあり、それによって有ると言われる神の前に立つと考えた時に何うであろうか。もてる者ともたざる者、与え得る者と、与えらるる者、何れが神に感謝すべきであろうか。

 大歴史家ランケは、如何なる歴史も世界史につながると言っている。我々は全人類一としてあり、我々の行為は全人類一なる声に呼ばれてあるのである。私有財産の発生は、我々を自己と他者に引き裂いていった。併し引き裂かれたところに生はない。自己と他者は世界を造るものとして、対立しつつ一なるところに生はあるのである。全人類一なるものに回帰するところに、我々の行為はあるのである。

 私は奉仕とは、人と人との対立を超えて、全人類一としての、神の前に立たんとする行為であると思う。奉仕の精神とは、与えられる者はもとより感謝すべきである。併し与えるものはより大なる感謝をもつところにあると思う。そこには最早与えるものと、与えられるものがあるのではない、全存在の深みへと入ってゆくのである。我々の生を与えたも のを表わしてゆくのである。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

木蔭に寝乍ら

 私は夏になるとよく好古館の東の公園に本を携えて行く、そこにはたくさん植えられた 楠の木があって、その中に特に大きなのが一本ある。丁度午后の二時頃になると下に置かれたベンチが翳ってくるので、私は仰向けに寝転んで本を読むのである。濃緑の葉が内部見えない位繁っているのを見ると、その一樹は葉に満ちているようにおもう。併し寝転んで下から見上げると、見えるのは複雑に伸びて組合う枝が殆んどである。それは丁度傘を拡げたようである。骨組の上に布を張ったようにして葉がついているのである。私は曽って樹木は葉を光合成が最も効率的に出来るように拡げるというのを読んだことがある。成程とおもう、そして何時もこれが太陽光線を最もよく受ける為に自然が作った形なのだなあとおもう。よく見ると重なり合っているように見える葉の一枚一枚が、自分の太陽光線を享受出来る面をちゃんと持っている。而してそのことは、下に寝転ぶ私にとって大変快適な空間を作ってくれるのである。全てが太陽光線を最大限に受けようとすることは太陽光線の少ない所は陶汰されてゆくということである。上に伸びた枝が繁って、曽って葉をもった、下になった枝は枯れてゆくということである。見上げる私は高い木の一番上の方迄自由に視線を遊ばすことが出来るのである。

 高く大きく拡げた木蔭を通う風は涼しい。木蔭を区切って外は照りつける日差しに暑い風が吹いている。その風が蔭に入るととたんに涼しくなる。私はそれが何時も不思議で仕方がない。そして未だそれを解明した本に出会ったことがない。併し私は不思議なものに身を委ねているのも楽しいことのようにおもう。標とした無限なものの上に漂うているような気がするからである。

 本を読んでいると時折り、大きな目の紋様を持った蝶が降りてくる。降りてくるのが殆 んど何時もその蝶であることをおもうと、恐らくこの楠の何処かに棲んでいるのであろうか、私にはこの目の紋様が翅にどうして出来たのであろうかということも不思議の一つである。第一に考えられることは敵を威嚇するためである。これは誰も思うことであり、恐らく正しいのであろうとおもう。不思議は次の問いからである。何うしてそれを蝶が知っているかであり、何うして翅に紋様として現れたかである。外に現われるためには何か内にはたらくものがなければならない。如何なるものがはたらいたのであろうか、そこで考えられるのは、蝶は度々斯る目を持ったものに襲われ、殺されたということである。この丸いのは恐らく鳥の目であろう。そしてこの様な目に出会った時、蝶は本能的に逃走の飛翔をもつのであろう。併しそれが何うして翅に巨大なる目の紋様となって現われたのか。

 私はここで更に細胞の不思議へと思考を進めなければならないようである。鳥の目に恐怖するとすれば、同じ形相の更に大なるものは、より大なる力をもつ筈である。大なる力は小なる力を圧伏する筈である。逃げ出さなければならない目は、更に大なる目によって追い払える筈である。私は恐怖によって紋様が出現したとすれば、蝶の内部に斯る生命の論理が働いたとおもわざるを得ない、測り知ることの出来ない時間の中に、限り無く襲われ、食われることによって、生命細胞は斯る形を現わし来ったとおもわざるを得ない。如何にしてという問いを超えて、生命細胞は保護色虫が自在に色を変えるごとく、生存に最も適する形を実現するものとおもわざるを得ない。

 近頃は余り見かけないが、一時よく原始社会の彫刻が公園などで並べられたものである。直線の輪郭の顔、逆立つ眉、大きく剥いた眼、張り出た鼻、分厚い唇、そして犬のような牙、それらは全てわれわれを威圧し、恐怖に導くものであったようにおもう。それ等は原始人が魔除けに作った形であるという。それ等は全て悪魔の形相である。悪魔を払うために更に大なる悪魔の形相を見出たのである。勿論それは生命細胞が自己を具現したのではない、自覚的生命として外に、木や石に表わしたものである。併し私はそこに生命細胞と人間の表現の接続を見ることが出来るように思う。生命細胞の中に人間の表現の原質を見ることが出来るようにおもう。

 形は内なるものの表れであり、内なるものの表れとしての形が美であるとすれば、私は芸術の淵源はここにあるようにおもう。原始表現は、更に生命細胞に潜むものの中にあるようにおもう。勿論蝶の紋様が芸術とは言えないし、原始的表現も芸術とは言えないものであろうとおもう。人間は自覚的として外に物を作り、内に愛を創った。そこに人間は無限の多様なる形をもったのである。言葉を介して形が形を生んでゆくのである。価値はそこより生れる。美も美的価値として内面的発展をもつものであり、芸術とは形の内面的発展に付けられた名であるとおもう。併しての形が形を生んでゆく内面的発展の力は、蝶が襲われ食われた限り無い時間の中に見出して来た、目の紋様の出現と同じ力がはたらいていると思わざるを得ない。生命細胞が目の紋様をもったということは思議すべからざるものである。私はそれと共に芸術家の手を動かす形の出現も思議すべからざるものであるとおもう。芸術家は作ることが呼ばれることであるとおもう、知らざる手が導くのである。私は私達の背後に全生命を一とした、大なる生命の運びがあるようにおもう。我々の思議は不思議の上にあるのである。不思議が思義するのである。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

色 即 是 空

 以前に読んだ生物学の本には、人間の細胞は三十兆、脳細胞は百二十億と書いてあったと記憶する。それが今度の本には細胞が六十兆、脳細胞が百四十億と書いてある。短期間にそんなに増える筈がないから測定の方法が精密化したのであろう。前に読んだ本では脳のはたらき得る可能性は、百二十億の百二十億乗、全宇宙の電子の数に匹敵すると書いてあった。そうとすると現在は更に増えていることになる。但し人間が生涯に使うのは十数%にすぎないと書いてあった。それにしても人間の想像を絶する深大さには、驚異とも畏敬ともつかないものをもつばかりである。

 生命は三十八億年程前に誕生したらしい。その生命が単細胞生物から、多細胞生物となったのは六億年程前らしい。それから陸棲動物となり、両棲類、爬虫類、哺乳類より人類へと進化したらしい。即ち六十兆の細胞と百四十億の脳細胞は、人類が三十八億年の生死の陶汰を繰り返して形作ってきたものである。二十億年の無核生物、十二億年の単細胞生物、六億年の海中、陸棲を積重ねてきた生命の構造物である。多彩なる機能は長い間の、生死の中より獲得してきた形質である。

 この頃テレビできんさんぎんさんというのが評判になっている。双生児の姉妹で共に百才であるらしい。評判の原因はその長生にあやかりたいということらしい。この頃の平均寿命は男七十六才位女八十一才位と新聞に書いてある。私達の若い頃の人生五十年に較べれば長生きになったものである。併し死は幾つになっても悲しいものである。

 般若心経は五蘊(ごうん)は皆空なりと照見して一切苦厄をし給うと説き、色即是空と説く。五蘊は五官であり、感覚であり欲求である。欲求の対象は物である。物は全て対立をもつものであり、対立は相互否定的である。否定すると共に否定されることによって物はあるのである。否定すると共に否定されるとは形が変ずることである。物は必ず壊れるものである。身体も亦形あるものとして、必ず死にゆくのである。物の壊れてゆくのは所有するものにとって苦しみであり、死ぬことは生きるものにとって苦しみである。生を死に映すとき、見るもの聞くもの全て苦しみたらざるはない。斯る苦しみは皆空なりと観ずることによって救済されると説くのである。

 何故死ぬことは悲しく苦しいのであるか、犬は老いの来るのを悩まない、唯食物を探すだけである。鯉は背を包丁で割かれても静かである。死に面せずして死に苦悩するのは人間だけである。他の動物は健康であるのに悩むことはない、そこに人間の知があるのである。人は他者の死を見て自己に来る死を知る。他者の死を知るということは、自己ならざるもの、自己を超えたものを知ることである。それは無数の生死を知ることである。人は必ず死ぬという命題は、唯一人や二人の死を見ることによって生れたのではない。病・老・死を無数に見ることによって来ったのである。自己を超えた無数の生死を見ることは、無限の時を見ることである。生死を超えた時間を見ることである。死のかなしみは、生死を超えた無限の時間の中に、自己の有限を見るが故にかなしいのである。無限の時間の中に映すとき、有限なるものは何れも儚きものとして、泡沫と生れて消えゆくもののかなしみを持たざるを得ないのである。

 如何にして人間は無限の時間を見、自己を有限と見るのであるか、私はそこに三十八億年の生命形成を見ることが出来るとおもう。私達の生命は一瞬一瞬の内外相互転換に於て自己を維持してゆく、呼吸をし、食物を摂り、ニュースを聞き、他者と語らって生きている。併しその一瞬一瞬は六十兆の細胞を作り、百四十億の脳細胞を作った、三十八億年の時間を孕むものの一瞬である。我々の身体は生れて死ぬ、併しこの泡沫とも言うべき八十年は、過去の無数の生死の集積としての身体である。無数の生死の集積とは、生死を超え生死を内に包むということである。私達は歩き乍ら様々のものを見る、一歩一歩異ったものを見る、而して其の一々は脳細胞の測り得ないはたらきを背後にもつ目によって見るのである。一瞬一瞬は意識の達すべからざる時間をもつのである。達すべからざるものとして、過ぎゆく一瞬一瞬がそれによってあり、その中にあるものとしてそれは永遠なるものである。生命が動的として無限にはたらくとは身体的に自己を形成することであり、身体は永遠なるものが瞬間的であり、瞬間的なるものが永遠なるものとして自己を形成するのである。動的であるとは矛盾の統一ということであり、永遠なるものに瞬間的なるものを映し、瞬間的なるものに永遠を映すことによって自己を形成してゆくのである。矛盾の統一として、永遠なるものと瞬間的なるものが相互限定的に自己を形成してゆくとは、生命は自己の中に自己を見てゆくことであり、身体は生命の具現としてあることである。身体は身体の中に自己を見てゆくのである。

 人間は言葉をもつものとして自覚的に自己を限定する。自覚的とは外に表現的に自己を見てゆくことである。瞬間に永遠を映し、永遠に瞬間を映すということは表現的に自己を見てゆくことである。見るものの方向に三十八億年の生命を宿す永遠なるものがあり、見られたものの方向に現在の形として、形より形へと移りゆくものがあるのである。無限なるものの前に立つ有限なるものの悲しみはここにあるのである。身体は見られたものであると同時に見るものである。悲しみ苦しみは動的なるものとしての、身体がもつ矛盾乖離にあるのである。苦悩は無限と有限、永遠と瞬間が対立することにあるのではない。自己が自己ならざるところにあるのである。対立するとは自己が自己ならざることである。自己ならざる自己が、自己ならんと努力するのが苦悩である。それは苦悩せんとして苦悩するのではない、矛盾はそれ自身が一なることを要求するものであり、人間に於ては自覚と して、言葉に露わならんとするのである。真に生きんとすればする程、生の根源として湧き来るのである。

 この我とは今此処にせんべいを嚙り、原稿紙にペンを走らせている我である。それ以外に我があるのではない。それは他者に罵られて腹を立て、病みては床に呻吟するわれである。やがて死して焼場に送られる我である。何処迄も色身としての我である。色身を離れて我はない。而して色身の世界は対立矛盾の世界であり、苦悩の世界である。空なりと観ずるとは如何なることであろうか。色身は現実に於て如何にして救済されるのであろうか。離れてあり得ないものを離れる観とは如何なるものであろうか。

 今囓っているせんべいは、人類が長い歴史の中に経験の蓄積としての技術による世界形の内容としてあるのである。私は今身の養いとしてせんべいを食っている、それは外を内とする行為である。この一瞬の内外相互転換は無限の時間を背後にもつ一瞬である。このせんべいが世界形成の内容としてあるということは、このせんべいを作った人が技術をもつものとして、無限の時間を内にもつものでなければならない。世界とは無限に多様なる技術の集積が形成的に一として動くところである。即ちせんべいを作ったものも、せんべいも、せんべいを食うものも無限の時をもつものとしてこの一瞬があるのである。無限の時間の蓄積は技術的形成として歴史的創造の世界である。我々は創造的世界の一要素としてあるのである。ここに於て我々は更に深き自己に面するのである。罵られて腹を立てる自己は、罵るものに対する自己であり、罵られることによって失われる自己である。創造的世界の要素となるとは、無限の時間を内にもつものとして、斯かるものを超えて中に見るものとなるのである。それは自己の生死をも裡に見るものである。人類の形成し来った全時間に目を置くものとなるのである。全時間の現在としてはたらくものとなるのである。はたらくものは永遠の今としてはたらくのであり、我々がはたらくとは永遠の今として自己があることであり、そこに真の自己を見るのが観である。

 色即是空とは一瞬一瞬が永遠の具現であり、現身の生死が創造であることである。そこより蓄積が生れ形成があることである。一瞬が永遠に転じ、永遠が一瞬に転ずるのである。生死するものが、生死が直に永遠であることを覚ることである。対立するものは対立なきものの対立であり、一者は対立するものの一者である。斯る動転が形成するはたらきということである。対立するものは一者に消え、一者は対立するものに消えるのである。消えることは亦出現することである。より大なる形へと歩を進めることである。生死するものは永遠の中に消えることによって真に生死を現し、永遠なるものは生死の中に消えることによって真に永遠を現すのである。

 我々は形をもつ対立するものとして、生死するものとして、永遠の中に消えゆくことに よって真に自己を現わすことが出来るのである。消えてゆくとは相対を滅して永遠即自となることである。全てが永遠の相貌となることである。欲求的自己を殺すのである。絶対に死ぬのである。それは勿論肉体の死ではない、世界形成としての我よりを捨てるのである。我よりを捨てるとは、我のはたらきに世界のはたらきを見るのである。我の一挙手一投足を世界の一挙手一投足とするのである。我のはからいを世界のはからいとして、生滅を包むものに目をおいて生滅を見るのである。肉体のあるところに官能はある、官能が死すとは、一瞬としての欲求が永遠の陰翳を帯びるということである。言葉の内容となることである。

 禅家に大死一番という言葉がある。死とは無に帰することである。大死とは積極的に自己を殺すことである。自己否定に徹することである。生命形成が瞬間に永遠を映し、永遠に瞬間を映すものであるとき、大死とは永遠に瞬間を映すことであり、そのことは亦同時に瞬間に永遠を映すことである。我々が永遠の中に消えたということは、我々に永遠を現わしたことである。

 生死するこの我が永遠の中に死して甦り、永遠が生死す我に消えて形を現わすとは、生命形成とは絶対の無として動いてゆくことである。三十八億年の生命は刹那生滅的に形成し来ったということである。絶対の有は絶対の無である。そこに色身に対する空の救済があるのである。色があるのでもなければ、空があるのでもない。永遠と瞬間が純一として現在より現在へとこの我がはたらくとき、有限と無限に乖離したこの我は真個の我の具現を見るのである。それが色即是空であり、そこに救済があるのである。斯かるものとして色身を離れるというは更に大なる光りを色身に受けるということである。救済とは現実に生きることであり、日常に生きることである。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

夢想

 昔はよく技術の練達を願って二十一日の断食をし、水垢離をとって神に祈ったようである。神陰流とか、夢想剣とか言われるものは満願の日に現われた神が示した技から編み出したものであるらしい。剣のみではない、仏像を彫り、天女や竜を描くにも同様の祈願をこめて、形の啓示を祈ったとは書物に見るところである。

 一日中で私達の創造的思考の最も働くときは、午前五時頃であると書いてあるのを読んだことがある。人類の偉大なる発想は多くこの時に生れたとあったようにおもう。午前五時と言えば瞼はまだ閉じたままで、頭脳のみがはたらくときである。断食と水垢離、夜明け前の目にまだ眠りの残るときに、私達は創造的発想をもつとは如何なるはたらきによるのであろうか。

 この二つに共通する条件は何であろうか、私はそこに意識が身体を放れると共に、身体が対する現実より放れるのを見ることが出来るとおもう。二十一日の断食と水垢離は疲労と衰弱の故に、午前五時頃は横臥と、目覚めた身体が未だ活動の準備が整っていないが故に、意識は現実としての身体や対象に面していないとおもう。意識が現実に面していないとは如何なることであるか。

 生命は内外相互転換的にある。内外相互転換的にあるとは、内が外を否定し、外が内を否定することである。外を否定して内とし、内を否定して外とすることである。生命が動的であるとは、斯る転換として動的であるのである。対象は単に我々に見られたものとしてあるのではない。生死を距てる対抗緊張に於てあるのである。斯る転換が我々の日々の営為であり、現実とは斯る日々の転換の営為である。

 意識とは斯る転換より生れると共に、斯る転換を映すものである。映すというは其の中に見るものとしてより大なる立場に立つのである。我々は経験を蓄積するものとして物を作る。経験を蓄積するとは一瞬一瞬の転換がはたらくものとなることである。昨日の営為が今日の営為となることである。意識とは断る経験の蓄積である。昨日の営為と今日の営為を統一するものである。無限の過去の死を生に転じた一瞬一瞬を、現在の死生転換の参考としてはたらかしめるものである。生命形成の初めと終りを結ぶものとして、永遠の相下に一瞬一瞬を成立せしめるものが意識である。

 一瞬一瞬の内外相互転換がはたらくもの、見るものとなるとは生命は形成的であるということである。それは外を作ることによって内を作り、内を作ることによって外を作ることである。内とは無限の過去としての外を現在に於てもつものであり、外とは無限の過去としての内を現在にもつものである。我々が今もつ営みとは斯る生命の無限のはたらきである。

 意識は身体の意識であり、身体を離れて意識はない。それが身体を離れるとは転換としての対立緊張を失なうことである。対立緊張を失なうとは、外よりの否定としての圧迫をもたないということである。内としての外を形成するはたらきが、現実としての外の圧力を極小として、自由に形を見ることである。そこに夢想がある。夢想とは内を外とする形成作用が、外の抵抗を失なって、内よりの形成を何処迄も肥大させてゆくことである。身体を離れるとは、外の抵抗を極小とする故に力の表出が最小限にとゞまることである。そこに夢想の非現実性がある。夢想は多く欲求が表象的に肥大して、外として、物として実現することの出来ないものである。それが創造的内容となって、大なる形相を生むとは如何なることであろうか。

 私はこの問題に迫る前に、内外相互転換について少し突込んだ考察を加えなければならない。外は物として我々を取り巻くものである。それは形あるものとして対立するものであり、対立するものとして多なるものである。形あるものとして既に作られたものであり、 既に作られたものとして過去に属するものである。外を内にするとは、過去としての多が現在の中に消えてゆくことである。現在の生命形成の中に形を失なってゆくことである。人間は自覚的生命として物を製作する。製作するとは過去が消えて、未来が現われることである。過去としての多が消えてゆくところとして、外が内となるとは、多が一となることである。

 私は夢想が偉大なる形相を生むには、既に全心身を投げ込んだ問題意識があったとおもう。問題意識は常に多の矛盾対立である。多は一への回帰に於て多である。問題は多が自己を一として見ることが出来ないことより起きるのである。矛盾は多が一ならんとするが故に矛盾である。外を内ならしめんとする生命形成に於て矛盾である。対立は何処迄行っても対立である。それは一となることの出来ないものである。それが極小となるとは、対立が極小となることである。そこに突然内が現われるのである。一が出現するのである。この現われた一が偉大なる形相である。それは全心身を領じたが故に、極小としつつ底深く外につながっていたのである。

 外を内とするとは、世界の秩序を身体の秩序に於て見ることである。内外相互転換として物は身体の外化である。世界は身体の延長として世界である。物と化した身体がその対 立に於て、再び身体に還るのが外を内に見ることである。矛盾対立は身体の生死にある。 物と身体は相互否定的に形相形成的である。世界の矛盾対立が統一に於て捉えられるとは、 身体的一に於て捉えられることである。夢想に於て外としての物の圧力が消えるとき、突如として身体の秩序が物の形に現われるのである。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

幼心

 幼心と言っても、本文は幼児の心理を書こうというのではない、唯ゲーテの幼時の思い出というのを考えているとき、不意に孟子の「長じて幼心を失わざる、是を大人という」言葉が浮んで来たので、ゲーテから孟子を捉えて見ようと思った迄である。故に本書の幼心とは孟子の言葉の幼心である。

 ゲーテは幼時バラの花を見ていると、はなびらの中よりはなびらが出て来て室に溢れたという。勿論本当にはなびらが出てきたのではない、想像の中に溢れ出たのである。併しそれは単に想像の産物ではない、現実のバラのはなびらがはなびらを産んだのである。現実のはなびらが想像の中に自己増殖をもったのである。

 生命は無限に動的である 動的であるとははたらくものであることである。はたらくと は形に自己を見てゆくことである。人間は自覚的生命として外に自己を見てゆく、物を作る青年の情熱、壮年の実践、老年の英知とよく言われる。何によって斯る変化を遂げてゆくのであるか、私はそこに身体の熟成を見ることが出来るとおもう。青年は身体躍動して血気旺に循るときである。それは自己を捨てて、世界を自己に見ようとする意志がおのずから働くときである。情熱とは全身全霊を挙げて、世界と結合し世界を実現せんとすることである。壮年は心身充実し、世界という茫漠たる理念から、世界を構成する物と自己の個性が結合し、世界を実現してゆくものとなることである。青年が理想に面するに対し、現実に面するのである。老年の英知とは、身心鎮静して活動力を失い、青年の情熱と壮年の実践、理想と現実を統一した相に於て観照することである。青年の非現実性、壮年の理想喪失を世界形成の立場から適切な言葉を見出してゆくことである。

 それでは幼時とは何であろうか、私はそこに成長を見ることが出来るとおもう。僅な日 時の間に見違へるばかりである。成長は細胞増殖である。私は細胞増殖に幼時の身体を見ることが出来るようにおもう。成長し増殖してゆく身体には常に新しい機能の統一がなければならない。匍匐(ほふく)より直立歩行し、直立歩行より走り出し、言葉を覚える、それは常に新しいものに面する飛躍である。私はそこに幼心があるとおもう。匍匐より歩行し更に言葉をもつということは、その一々が新しい対象面を拓くということである。対象面を拓く ということは自己の外への投げかけをもつということである。

 幼時の感情、行動、表現は自由であり飛躍である。泣いていたと思っていたのが笑い、直ぐく走っていたのがくるりと向きを変え、字も知らないのに絵本に向って声を挙げている。そこにはいささかの渋滞もない、対象と自己は行動的空間として、純一より純一へと移ってゆく、私はそこに幼時の細胞の生長増殖を見ることが出来るとおもう、それは新陳代謝と質を異にしているようである。生長増殖は形成であり、飛躍である。無よりの創造である。

 長じて幼心を失わざるとは如何なることであろうか。長じるとは身体が完成することで ある。身体の完成は対象の形相が固定をもつことである。併し生命は内外相互転換として常に新しい状況に接する。固定は生命の死である。そこに無心に還り、既成の形を超え現在の形をもつ、そこに幼心があるとおもう。転換は否定的転換である。外を否定して内となし、内を否定して外となるのが転換である。そこには常に変化がなければならない、形の飛躍がなければならない。

 私は大人と小人を分つものは目を転じ得るか否かにあるとおもう。内を否定して外とすることは自己を対象化することである。物になるということである。このとき物は自己を映した物である。目を転じるとは映された物に目を置くことである。我々は物を製作することによって世界を形成する。この世界から逆に自己を見るのである。見出た世界を自己の形相として、形相の底からはたらくものとなるのである。形作った世界が世界自身の内面的発展をもつのである。そこに創造があり、対象を知り、自己を知ることが出来るのである。目を映された物に転じるとは、世界となってはたらくものとなることである。欲求としての自己よりの目をもつ自己を殺すことである。

 否定的転換は死生転換である。我々が生きているとは一瞬一瞬生死相分つ峰を歩いているのである。働かざるものを待つのは死である、働くとは死を生に転ずる行である。一々に死に一々に生きる生命形成は飛躍である。それは過去がそこに死に、未来がそこに死ぬことによって出現するものとして、絶対現在として生命はあるのである。過去と未来は現在に死ぬことによって、現在に生れるのである。そこに死して生れるものとして現在は絶対の無である。

 私は大人とは自己を殺して世界として甦った人であるとおもう。自己は斯くあるという のではない、現在を自己の初まりとして、現在に死に、現在に生れるのである。過去と未来を截断して、今に生きるのである。そこは自由であり絶対の無である。大人とは絶対の無にして、無なるが故に過去と未来を真に生かす人であるとおもう。世界の創造的形成の創造線に沿う人である。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

日本的時間:春期研修旅行参加の記

 奈良に入って気のつくことは重厚な邸宅の多いことである。以前に何かの本で紀伊路から大和路に入ると、家並みが立派になるのでよく解ると書かれていたのを思い出す。其の本によると大和は天領で租税が四公六民であり、役人の数も少なくて悪辣な行為もなかったらしい。それに対し紀州徳川家では、耕地の少ない領土の上に、御三家の体面を保つために、非道いときでは八公二民という誅求を行ったらしい。そこには役人と住民の争いのあったのは当然である。家並みの差は三百年の蓄積の差であったのである。

 途中車が道を間違えて進めなくなってしまった。近所の人が出て来て手を振ったり、口々に何か喋っている。私の坐っている窓の正面には四十才位の女性が、自分の家の窓から隣のコンクリートブロックの塀に足を掛けて見ている。私はそのざっくばらんな庶民性に思わずほゝえみが浮んで顔を見た。この辺の距てのない生活のありさまが見えるようである。気兼ねなく暮せるということは美徳の一つに数えてよいであろう。車は二度三度右に向きを変えようとするが曲れない、止むなく千米程歩いて行くことになった。雨が止んでさわやかであるが歩くとさすがに暑い。途中新築の豪壮な家があった。誰かが「寺よりあの家が見たい」と言っていた。登り坂の千米はややきつい。

 一万株と案内に記された牡丹は大方散りはてて厚い葉が風にそよいでいた。牡丹の花は美しい丈に崩れた姿は無残である、反り返った花びらが二片三片、突き落とされるようになって下を向いている。しべは伸びて細くなり、輝くような金色は疾うの昔に忘れてしまったようである。散った花は土に埋く積っている。花体を成さない花びらは何となく疎ましいものである。その代り芍薬(しゃくやく)の花が満開であった。炎え立つような真紅の花が多かった。併しそれも広い牡丹園の一隅をのみ占めるとき、却って寂莫の感を深めるものであった。或はそれは期待に対する失望感であり、老いの深まる私の感情移入であったかも知れない。当麻寺に入って先ず目についたのは、境内に渡された長さ六七十米、巾二米ばかりの木の組橋であった。それは本日の御練りに、中将姫が西方浄土へ渡御すべく作られたものであると思わせた。私は見ながらこのような説話を作った時代的土壌に思いを馳せた。平安時代に於ける浄土欣求穢土遠離の思想は凄まじいものであったらしい。輪廻転生を信じた人々は極楽に生れんことを希い、地獄に生れることを非常に恐怖したらしい。罪を逃れんが為に当時の王侯貴族は、財と時間のゆるす限りを吉野・熊野に詣ぜたと記されている。名を忘れたが或天皇の如きは十数回も熊野行幸をされ、その内幾回かは険難な道を撰んで 御自身難路を徒歩で行かれたというのを読んだことがある。その為に朝廷の財政の逼迫もかえり見られなかったようである。

 一見華かに見える平安朝の宮廷は、陰謀と奸計の渦巻く所であったらしい。父子相背き、兄弟相食むというのは常のことであったらしい。虚言と殺戮は自分が生きるための欠くべからざるものであったようである。そして彼等はその自分の罪に怖れおののいたようである。それ程怖ろしければ為なかったらよいように思う。併し当時の氏族制度に於ては、自己の意志は氏族の意志によって決定されるものではなかったかとおもう。個人を超えた大きな意志が否応なく押し流し、駆り立ててゆくのである。一族が意志としての行動単位であり、その頂点として一族の栄枯を担うものとして、罪へと入ってゆかなければならないのである。

 中将姫は二十九才で夭折したと誰かが教えてくれた、小さいときは継母に非常に虐げられたらしい。それが蓮糸で曼荼羅を織る仏への帰依によって、極楽浄土へ行けることが出来たらしい。それはその時代の上下挙げての一つの救いであったであろう。上は身を苦しませ、仏への帰依によって極楽に行けるという希望をもたせ、下は今はこんなに虐げられている。併し帰依によって来世は楽が出来るんだという希望である。そして多くの人々は自分を中将姫に化して、荘厳な儀式に自分が極楽に行く幻想をもったのであろう。

 おそくなった昼食を伝えてくる、奥の院の隣の中の坊へ入るようにとのことであった。 中に入ると大きな玄関の中の薄暗い所で、幾人かの僧が物を並べて売っていた。それは実に殺風景であった。併し上り所はこちらと言われて、向きを転じたときに見えた堂の桧葺きは見事であった。時代に錆びた黒褐色の重厚な屋根はよく、堂内の荘厳を閑寂に包んでいる。立札があって奈良三名園の一つと記されている。それよりも腹の虫に餌をやるのが大切である。下駄を脱ぐと立っていた女の人が「一番奥の室に行って下さい」と言った。曲った廊下を人の後についてゆくと既に半分位席がふさがっている。蓋をとると寺院の常とする精進料理である。誰かが「こんなん食どったら健康によいやろなあ」と言った。きっと糖尿病か高血圧に悩まされているのであろう、同病相憐む、同感の思いで食べる。後人々が上を向いているので見ると、天井絵が一杯貼ってある。つまらん絵だろうと思って案内を見ると、私ももっている著名な仏画家木村武山の名があり、其の他幾人か私の知っている画家の名が出ている。私達門外漢が知っているというのは、その世界に入って見ると大概大したものである。私は名前によって評価を変えてゆく自分の眼を嘲笑しながら再び見上げた。

 外に出て引卒されて二、三拝観に廻った後は、時間があるので自由に行動せよとのことであった。皆はさすが歴史を知る会の会員、旺盛な学究心はたちまち四方へ散って行った。私は本日の観覧の為に、特に用意された中の坊の門上の二階へと登った。ここは普段は使わないのであろうか、莚の敷いてないところは白い乾いた埃が堆く積んでいた。窓から見下すと見物は大分増えたようである。並んだ露店商の前を往来しながら、たこやきを頬張り、焼とうもろこしを嚙っている。私は子供の頃の祭を思い出していた。服装こそ変れ同じような情景であった。私はその昔も、その昔も同じような情景が連綿として続いたのではないかと思った。人々はこの行事のもつ近代的意義を求めようとしない、繰り返されることを当然としている。それではこのような行事の意義は何なのであろうか、私はそれを過去への結びつきに求めることが出来るようにおもう。現代でもよくコミュニケーションの場として祭りが催されている。併し現代のそれは近代的生産によって引き裂かれた人々の結合の意味である。農耕を中心とした昔に於ては生産が協同体的であった。古代の祭は超越者とのコミュニケーションだったのである。過去を現在の根源として、過去への結びつきに現在を超えた大なる生命を見たのである。

 日本人は歴史書に大鏡とか、増鏡とかいって鏡の字をつけたと言われる。鏡は写して自己を見るものである。日本人は理想とか、夢に自己を見ようとしたのではなく、過去に映して自己を見ようとしたのである。私達の小さい時でも一番大切なことはしきたりを守ることであった。昔の日本人はしきたりを守ることによって、社会秩序を守ってきたということが出来るとおもう。その必然として故事とか由緒とか言うことが大事がられた。浅野内匠守が殿中で刃傷の沙汰に及んだのも故事にまつわるものであった。手の引き様、足の出し様の一つ位何うだってよいと我々はおもう。併し昔時に於ては大名家断絶の一大事を孕むものであったのである。村の寄合一つにしても定められた席順というのがあった。そしてその一つを破ることも社会秩序を乱すことであった。人間陶治も亦忠孝貞信といった既成観念に素直になることであった。

 人間は物を作ることによって人間になったと言われる。社会とは物の生産と配分の機構であるということが出来る。物を作るに技術が必要である。技術は歴史的に形成されてきたものである。歴史的に形成されたとは伝統的であるということである。伝統とは未来へ伝えるべきものである。新しい生命が受け継いでくれ、より合理的な新しい形が生れるのが歴史的形成ということである。伝統は未来をはぐくむものをもつことによって伝統である。技術は自覚的生命の内容として無限の発展を内にもつものである。発展とは否定が肯定であることである。今の形が否定されて、より大なる能力をもつ新しい形が生れるのが発展である。物の製作に於て過去が未来を呼び、未来が過去を呼ぶのである。技術は未来に過去を映し、過去に未来を映すことによって進歩してゆくのである。

 天照大神と豊受大神を床に祀り、飯篠長威斎を剣聖とし、芭蕉を俳聖とし、柿本人麿を歌聖とした日本人は、何処迄も技術を過去への深化に求めたとおもう。過去に未来を映すのである。それに対して神の創造を終末観に捉えた西洋的生命は、未来に過去を映す方向に歩んだとおもう。日本的社会が因習に停滞したのに対して、進歩と発展の方向である。私はそれは歴史的形成の大なる流れの撰択であって、何方が善いとか悪いとかは言うことが出来ないとおもう。進歩には時の分断がある。そこに永遠の相は失われなければならない。現在問題となっている抽象的個人の、刹那的退廃の因子をそこに含んでいるとおもう。過去に映す方向は停滞の反対給付として、即天去私とか、わびさび、平常底、自然法爾に自己を見出して行った。

 今や世界は一つである。そして一つの世界は進歩と発展の方向を撰択している。歴史の流れは生命の大なる自己形成の流れである。流れを決定するものは流れ自身である。個人の恣意によって流れを変えることが出来るものでない。唯われわれも意志を有する歴史形成の個として、形成の課題を洞察し、より大なる世界への誘導をもたんとするのみである。斯る意味に於て歴史的現在が持つ課題は、私はよく言われる人間喪失と人間回復にあるとおもう。喪失とは進歩による分断である。回復とは全生命への共感である。

 前にも書いた如く自覚的生命の表現としての具体的なはたらきは、過去に未来を映し、未来に過去すことである。併しこの二つは相反する概念である。相反するものは同時に現れ得ないものである。歴史は何れかを優勢として動かなければならないのである。併し一方の行き過ぎは、一方の反撥として均衡をとってゆくものである。私は現在人間喪失を最も感じているのは日本人ではないかと思う。そして新しい世界観を確立するものも日本人ではないかと思う。勿論因習や停滞は許されない、進歩の分断を包むものとしてある。包むことによって真に進歩と個があるものとしてである。

 私は今少し紙面を借りて私の時間についての考えを暦によって検証したいとおもう。人間は暦を作ることによって初めて時間をもったと言われる。暦とは過去を参考として一年間の予定を作るものである。暦は経験の集積であると共に、来年の必要によって作られたのである。暦は過去と未来と統一としてあるのである。去年の中に来年があるのであり、来年の中に去年があるのである。私が過去に未来を映し、未来に過去を映すというのはそうゆうことなのである。そして過去と未来が出合うということが作るということである。私達が行為する今というのは、何時も過去と未来が出合うところである。われわれは記憶と願望が結びつくことによって物を作るのである。そのことは物を作るということは、過去と未来の延長をもつということである。時間の初まるところは過去でも未来でもなくして現在であると言われる所以はここにあるのである。

 訳の解らぬことを思ったり、考えたりしている内にお練りの時間が迫ったようである。 散らばっていた人々が橋のめぐりに集り、緊張に動きが止まって来たようである。四五人しかいなかった観覧席は人で溢れ、井上秀雄さんは「撮してくる」と言って出てゆかれた。「来た、来た」という声に目を凝して見ると、葉蔭の間に何か面のようなものが見える。やがて面を被った二人が現れ、其の後にやぐらのようなものを担いだ四人が過ぎ、稚児行列がすんで、仏面を被り、異様な衣裳を着けた十数人重々しい足取りで歩み去った。その後二人の仏面を被った男二人が、手を差し出し、足を踏みしめる勇壮な舞を踊って過ぎ去った。唯その一々が何を象徴しているのか知らない浅学な私は充分な鑑賞の出来ないのが残念であった。それでも日本の古代に触れ、古代の心を考え、我々の内奥に流れるものに思いを致し、思想を豊潤になし得た有意義な一日であったとおもう。

 小野に着いたときは大分暗くなっていた。 どうして帰ろうかと思っていたら内藤会長さんが送って下さった。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

東大寺サミット‘92参加と見学の記

 帰りの汽車の中で井上秀雄さんより、今回参加の記事を書いてくれと言われた。少々酔っていた私は即座に肯いた。そして一夜明けた今日、今度は少々後悔している。実はこの旅行は学究心といった大それたものではなかったのである。商売の出張で散々旅に出た私は、廃業してから三年半宿泊する旅行をしたことがなかった。それで一度外に泊った旅行がしたかったのである。

 併し全然興味がなかった訳ではない。私は私なりに東大寺建立に対して解くべき一つの課題をもっている。それは大なる失費による国力の疲弊と、人民の困苦である。その反対給付としての、飛躍的な技術の発展であり、偉大なる理念の表現である。曽って流浪者巷に溢れ、弱きは餓死し、強きは盗賊となって掠奪を事としたというのを読んだことがある。死者道辺に累ったと書いてあったようにおもう。而して斯る悲惨に顔を覆わない強靭な意志があって初めて、斯る大事業の完遂は可能であろう。それは個的感情を超えた世界意志といったものがはたらくのであろうか。例えば乃木大将が悲傷を胸にかくして、「進め、進め」と号令した如きである。そして斯る世界実現の意志を、如何に個的感情に感応させ個的意志に結びつけるかが統卒者の素質であろう。強靭な意志は世界意志の権化となるところより生れるのであろう。個と全の矛盾対立は流血流汗の残酷がつなぐのである。而してこの大事業のもたらしたものは実に大である。第一に用材の伐採、搬出の技術、河川、道路の整備、輸送用具の工夫、航路の開拓、石刻、鋳造の技術、更には大なる建築、装飾の技術、それ等は未来に限り無い可能性の展望を与えるものである。仏心の形相化は民衆の心の拠り処として心を一ならしめるものである。併し私にはまだこれ等を統一する論理体系をもっていないのである。

 電車の中で配られたパンフレットには、参加都市の名が載っていた。それは宮城県より山口県迄、日本本土を縦断するものであった。披いた私は当時既に強大な統一国家の実現していたことを感じた。勿論その中には第一次創建に関るものと、第二次創建に関るものがある。併し最北の宮城県の涌谷金山と、最南の山口県の長登銅山は第一次に関ることは、この憶測を否定するものでないとおもった。聖武天皇の夢を開いたのはこの強大な国家の成立であったのであろう。

 防府駅に降りた私達に近寄って丁寧に頭を下げた方がおられた。市の観光課の方が待って下さっていたのである。会長や飯尾さんと暫く話をされて、準備されたバスに案内して下さった。実に周到であり、其の態度は誠心を感じさせるものであって、私達を愉しくさせるものであった。そしてそれは町が変り、人が変っても、二日間を通じて変ることのないものであった。

 その日は防府の名所廻りとして、阿弥陀寺、防府天満宮、毛利公邸等を観光した。その内阿弥陀寺は重源上人の創建として、天満宮は日本三大天神の一つとしてという外は特に記すべきものが無かったようにおもう。唯阿弥陀寺は僧侶が、天満宮は神官が石段の下迄迎えに来ておられた。それは初めての経験であり、貴賓に接するものの如くであった。私はそれがサミットの重大によるものか、この辺りの恒例とするのか知らない。

 毛利公邸は明治の元勲井上馨が、建築技術の粋をあつめて造営しただけあって、その宏壮目を瞠るばかりであった。門に至る迄、及び門に入ってから玄関迄の道には両側に、剪栽の手の行届いた松が並んでいる。玄関の前は広くなり、右手に庭園に入る門が開かれている。靴を脱いで上ってゆくと、天皇宿泊の間というのが続いてあり、数奇を極めた格子天井は、今日の職人の日当を以って算えれば量り知れないものであるとおもわれた。一番奥の室に竹で囲いがしてあって大名火鉢が置かれていた。精緻を極めた金蒔絵は、千回もうるしを塗り重ねたであろう厚さをもっていた。恐らく豪家一軒に価する値打ちをもつものであろう。出ると女の人が居て二階へ上るように言われた。そこは庭園が一望に見下せるところであった。上る途中この階段の板は何とか言う木であると教えてくれたが忘れた。床に法眼栄川の落款の絵が掛っていた。眺めていると、横の人が「いい画ですか」と尋ねられた。私は栄川の名に記憶がなかったので「法眼は技芸の最高の者に与えられたものですから、幕府の絵所預りかはそれに準ずるもので悪くはないのでしょう。私はよく知らないのです」と答えた。その後その人は助役の山本さんではなかったかという気がしている。若しそうであればもっと礼をつくすべきであった。私はどうも粗忽でいけない。降りると博物館と記した板が立ててあった。入ると流石毛利家の宝物は凄い。入口から栄川のものがずらりと並んでいるのを見ると、恐らく毛利藩お抱え絵師であったのであろう。見てゆく内に梅花を描いた青緑山水があった。古木特有の枝の曲線が田能村竹田に似ている。唯竹田よりも稍繁雑である、近寄って見ると直入と書いてあった。名前を言うと二、三の 人が「わしも持っとる」「わしも持っとる」と言った。加西に二年程滞在していたと聞い たことがあるので、小野近在には所有者が多いようである。克明な父竹田の画風の継承は氏の誠実を思わせる。時間の制約があるので何うしても見るのは私も所有する作者のものになり勝ちである。そうゆう意味で記憶に残っているのは長沢芦雪の虎の対幅と、丸山応挙の鯉の三幅対である。芦雪の虎は他の絵に較べて略された線で書かれていた。一見粗雑なように見えたがその目はらんらんとしていた。私は日本画程眼睛を尊んだ絵はないとおもう。そこには感覚の快よりは、生命の気韻を尊んだのではないかとおもう。芦雪はこの眼が描きたかったのではないだろうかとおもう。応挙の鯉は彼の最も得意とするところであると幾度も聞いた。併し私の今迄見て来たのは残念乍ら複製ばかりであった。それだけに念入りに眺めた。精緻を極めた写生はさながら泳いでいるようであった。併しそれ以上は私には解らなかった。内藤さんが「一幅壱千万円なら買う」と言われた。私は内心「私なら二百万だ」とおもった。出口に雪舟等揚の水墨山水があった。読むと模写と書いてあった。恐らく蔵の奥深く秘されているのであろう。それにしても雪舟はこの近くに住んでいた筈である。それにしては作品が少ないように思われた。博物館を出てから玄関迄行く途中、建物の間に十数坪程の空間があった。そしてそこにもちゃんと石と木の配置があった。流石に違ったものである。玄関を出てから庭園を少時逍遥した。一万五千坪の庭は広大である。石木池水の配置は目を飽きさせないものであった。唯庭園の知識の乏しい私はそれを表わすべき言葉を知らない。

 夕飯のたのしみは今回の旅行の目的の一つである。日本料理双鶴と書かれた室内の一隅に腰を下した一行は、膳の来るや遅しとビールで乾杯をした。私はその後日本酒二本を註文した。歓談と昼の観光の疲れに、酒は快く体内を廻り、千金とも言うべき陶然とした気分になる。広瀬さんが女性二人と宗教論義を初められ、真言宗から空海へと移っていた。そこへ私が「空海の根本的な誤りは即身成仏をしたことにある」と口を挟んだ。そこで広瀬さんの猛反撃を受けた。論争を記述することは本文の目的より外れるので、一寸紙面を 借りて私の論旨の要点だけ書かせていただきたいとおもう。

 私達の身体は生死する身体である。しかし身体の内にある言語中枢は生死を超えたものである。昔語り部によって祖先の事歴を語り継いだと言われる如く、言葉は人間の始めと終りを結ぶものである。単細胞として発生した生命は、人間に於て六十兆の細胞と、百四十億の脳細胞の構造を形成したのである。我々の身体は三十八億年の生命形成の統一としてあるのである。われわれの一瞬一瞬の行為は斯かる統一をもつものとしてはたらくのである。而して斯る統一は一瞬一瞬の営みが形成してきたものである。瞬間が永遠であり永遠が瞬間である。われわれの身体は永遠と瞬間の相として生の相を実現してゆくのである。死と不死の矛盾の統一として生きているのである。

 般若心経の色即是空というのは、瞬間的なものが永遠の相としての形相を見出すことであり、空即是色というのは、時の統一として永遠なるものが瞬間の行為に表われることである。瞬間的なるものが永遠の相を見るとは、死して生きるということである。消えて現われるということである。死して生れないところに生命の動きはない。単細胞動物から大日如来の世界の実現を説明することが出来ない。空海が岩蔭に今以って食事をし、衣更えするというとき、曼陀羅は唯凝固した形骸として、現実を動かす力を失なったと言わざるを得ない。人類は空海の残飯に生きるのではない、はたらいて食うのである。

 サミットは三日の朝九時から初まった。主題は重源上人を語るであった。小野からは坂田大爾氏が発表者として高座の席に並ばれた。ライトに照し出された坂田氏は、その白哲の美貌に於て群を抜いていた。背すじを伸ばした姿勢は自信に溢れているようであった。三重県の大山田其の他の方が各地域に於ける上人の事蹟について語られた。その一々の詳細は書き切れるものでもないし、亦知っても仕方のないことと思うので心に残って、感慨を湧かせられたことだけ書きたいとおもう。その一つは上人が東大寺の僧ではないのに、多くの僧を置いて大勧進に後白河法皇によって推挙されたということであった。私はこれ程上人の力量、人間的魅力を語るものはないとおもう。該博なる知識、高潔なる人格、強固なる意志は勿論として、何よりも出会ったときにその人との一体感を覚えさせるものがなければならない。昔坂上田村麿は、怒れば髭が針金の如く逆立ち虎も恐れたが、笑えば幼児も寄ってきたというのを読んだことがある。命の次に大切であるといわれる金を出させるのである。暴力的強請によるのでなければ、その人に包まれるような力を感じなければならないとおもう。後白河法皇は上人に、世界意志と個人感情を結びつける力のあることを直観されたのではあるまいか。白皙の美丈夫坂田氏の発表も勝れていた。それは他の発表者が個々の事柄に着いたのに対して、上人の一々の事業を瀬戸内航路重視に結びつけたことである。一般論として重源上人を語るサミットとしては、事業家上人を語ること多くして、人間上人を語ることが少なかったことが不満であった。司会の女子大教授はそれに気付かれたのであろうか、時間を延長してエピソードを尋ねられたが不発に終った。

 その後で小学生の男女十四、五人による重源太鼓の披露があった。それは会の緊張をほぐしてくれて、まことにたのしいものであった。余程練習しているのであろう、幕が開いてライトに照し出された有様は、見事に並べられた人形館を見るようであった。大太鼓が一つ、後は酒用に使う四斗樽である。重源は酒呑みであったのであろうか、その一つ一つに小さな少年少女が微動はおろか、またたきもせずに立っている。やがて小さな口から切口上で、交る交るに由来を語り、琴が弾かれて、太鼓が打鳴らされた。

 この町の町おこしのキャッチフレーズは重源上人の町である。曽っては町おこしといえば殖産興業であった。重源と殖産興業は私には何うも繋りを見ることが出来ないようにおもう。或は日本は物質的なものよりは、時間の深さ、心の豊かさを求める時代となったのであり、その表れとしてこのような言葉が見出されたのであろうか。

 慌しく昼食を摂り、バスは佐波川の上流へと向った。上人が東大寺用材を調達したというところである。川幅はいよいよ狭くなってゆく。私は東大寺のあの太い柱となる材木を何うしてこの川から運んだのであろうかとおもった。聞くところによると、この流れのままではとても運べるものではないのだそうである。それで海迄の短い間に百八十もの堰を作ったのだそうである。そして水を貯めて流したのだそうである。私は技術の生れるところを教えられるように聞いた。

 バスの駐車した処に案内板があった。それによると伐り出した用材の巨きなのは、直径一、八米長さ三十米にも及んだらしい。伐採道具、搬出用具、搬出方法、人員の調達等は何したのだろうかと思った。書物によると上人は現在の山口県の支配を委されていたらしい。それにしてもこの峻険な山からの伐採、搬出は、現在の我々でさえ途方に暮れさせ るものである。

 聞くところによると上人は協力を拒む人々を詢々と説いて廻ったらしい。さもあろうと おもう、今次大戦に於けるわれわれの協力とは状況が違う。二次大戦は帝国主義的国権拡張の最後の時であり、世界中の書棚に愛国の文字が並んだ時期である。唯さえ貧しかった無知なる人々が何うして協力し得ようか、恐らく上人の魅力と、不退転の意志が成就せしめたのであろう、今でも協力した村落と協力しなかった村落に草がどうとかの言い伝えが残っているそうである。

 月輪寺の前に立ったとき、私は目が拭われたように思った。実にいい、厚い藁葺きの屋 根がやや白さびて、最も単純な三角の線をひいている。その下に柱と扉が簡素に並んでいる。今迄複雑な組木や、反り返った屋根の作りが棟を重ねているのを見て来ただけに、心の故郷といった思いを懐かざるを得なかった。それは他の寺院が目に荘麗なのに対して、住いを移してしずかに生を養いたいとおもわせるものであった。

 岸見の石風呂というのは、月輪寺を出たバスが、いくつかの山間を縫った山裾にあった。説明によると、佐波川上流から用材を運んだとき、非常な難事業で病人やけが人が続出、こうした人々を救うために石風呂を方々に造らせたそうである。それは小舎の中に炭焼かまどのようなものが築いてあった。中を覗くと両側に席のようなものが敷いてある。使用法は薪を燃して内部を熱した後、焚殻を掻出してから室内に入り、内部の熱気に浴したものとおもわれる。と書いてある。現在のサウナ風呂と軌を一にするものである。

 サウナ風呂といえばソ聯が米国と対立し、世界史のヘゲモニーを握っていた頃、中央アジアの世界の長寿地、飯尾さんによればウクライナとのことであるが、其処を調査研究したところ、健康の原因はサウナ風呂と乳酸菌であると発表してたちまち世界中に普及したものである。上人は斯る知識を何処から得て来たのであろうか。それとも炭焼きや、陶器作りから創出されたものがあったのであろうか、ともあれ重源は風呂作りが好きである。浄土寺にも湯屋跡があるそうであるが、到る処に作っている。それは恐らく愛情より出たものであると同時に、人心収攬術の一つであったのであろう。光明皇后の湯屋施療の逸話が残っている如く、それは広く行われたものであり、民心に大なるものを与えたのかも知れない。

 長登銅山跡は深い山中にあった。説明によれば本邦銅精練に画期的な変革があった証拠が学術的に発見されているらしい。併しそれは専門家の問題であって、われわれは唯鉱滓の埋った丘と暗い坑道を見るだけである。それよりも感心したのは、この深い山中迄観光課の方が来て、パンフレットを持って待っていて下さっていたことである。何の寺でも茶と菓子の接待を受け、心温るおもいに二日間を過せたのはこの誠意によるとおもう。

 それにしても歴史を知る会の旅行は、何時も内容が充実していて有難い。単に見るだけでなく掘り下げて考えられるものがある。会長、副会長、井上秀雄さん、原田さんに御礼を申し上げる。

 尚短歌百首作る予定であったが目まぐるしい行程で半分も出来なかった。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

具象と心象について

 短歌雑誌を読んでいるとよく具象・心象とか、写実・象徴とかリアリズム・ロマンチズ ムという字に出合う。そしてそれは相反し、相否定する概念であるらしい。何れが詩的表現の立脚的として根源的であるか、丁々発止とした論戦の見られるのも度々である。併しその論戦は何時も空転の感が免れ難いように思う。それは何れの側も自己主張のみがあって、相手の論点を自己の論点の中に包摂することが出来ないことに起因するとおもう。そこには不毛の平行があるのみである。そしてそれは写実なら写実、象徴なら象徴の出で来った本来への省察の欠除によるとおもう。相反するものがその根源性を争うということは相反するものは根源的一より出で来ったということである。斯るものに対して少し立入った考察を加えて見たいとおもう。その為に私は見るということは何かということから入ってゆきたいとおもう。

 鯛は深海にあっては人間の五千倍の明らかでものを見ることが出来るといわれる。併し見るのは敵と餌だけだそうである。禿鷹は三千米の上空より地上をありありと見ることが出来るそうである。これも見るのは餌となる野ねずみだけだそうである。物があって目が見るのではない。内外相互転換的にある生命が、内外相互転換的に生きるところに見るということがあるのである。動物にとって外は食物的である。食物を摂って身体と化せんとするところに見るはたらきがあるのである。動物は行動的である。行動には力の表出が伴う、そこに外は対立するものとなる。行動的として外に対立をもつとは、空間的な生命圏を形作ることである。見るとは内と外とが生命圏に於て一としてはたらくことである。外を摂取する行動圏が生命圏である。生命圏とは餌を獲る行動範囲であり、そこは生命の形相を実現してゆく世界である。摂取の行動を起すのは欲求であり、欲求は身体の飢渇より来るのである。見るというのは外に物があって目が見るのではない。生命としての身体の欠乏の充実として見るのである。生きんとする意志が見るのである。目とは身体が行動体として、生命圏の形成に身体を切り開いて流れ出る生命の機構である。視覚の発展は生命圏の創造的発展である。

 人間とは斯る生命が自覚的であるのである。人間のみにあって他の動物にないものは言語中枢であると言われる。人間は言葉をもつ動物であり、人間の身体は言葉によって動く身体である。欲求は言葉をとおした欲求であり、我々が見るとは言葉をとおした欲求に於て見るのである。言葉をとおした欲求とは、一瞬一瞬の内外相互転換を統一する、大なる生命の欲求となることである。言葉は昨日の我と明日の我を今に於て把持せしめるのである。昔語り部が個の生死を超えた歴史を語り継いだと言われる如く、過去をあらしめ、未来をあらしめるものとして、無限の生死の断絶を一つならしめるものである。無限の時が一であるとは、生命の一瞬一瞬の内外相互転換は技術的であり、経験は技術的形成として蓄積されるということである。斯る蓄積としての技術的形成が記憶である。蓄積が記憶であるとは蓄積をあらしめるものは言葉であり、言葉は蓄積として生命の初めが働くことであり、終りがはたらくことである。

 人間のみにあると考えられる文化はここより来るのである。初めと終りを結ぶ生命が蓄積として今内外相互転換的に行為していることが文化的営為である。経験を蓄積するとは昨日の経験が今日働く力となるということである。昨日の失敗が今日生かされるということである。過去として消え去ったものが現在を動かしているということである。斯る意味に於て蓄積は亦創造である。私はよく用があって書道塾に行くのであるが、古代中国の手本を傍に置いて熱心に筆を動かしている。古代中国の手本で習字するということは、習うものの中に古代書家がはたらくということである。

 経験の蓄積が技術的であるとは、内外相互転換が物の製作となることである。経験として過去がはたらくとは外を変革することであり、外を変革するとは、形作られた身体を内として、その秩序に外を構成することである。技術的形成として内が外となり、外が内となる内ははたらくものであり、外は物である。生命は何処迄も内外相互転換として、自覚的生命としての人間は物を作ることによって生活してゆくのである。

 経験を蓄積し、物を作るということは生得的な生命圏を超えて、生命圏を拡大し多様化することである。私は其処に人間の視覚があるとおもう。鯛や禿鷹より遥に劣る視覚をもつ人間は、望遠鏡や顕微鏡をもつことによって驚異的に視野を拡大することが出来た。私達の少年の頃は肉眼で見える星は南北半球合せて六千、それが望遠鏡では十万もあると言われたものである。それが今では百億とか言われる。単に望遠鏡のみではない、見えない黒い星とか、百数十億光年とか、宇宙の塵の存在の如きは、思惟として数理の如きが視覚の内容として働いているようである。微に入っては最小単位と見られていた分子が原子の構成よりなるものであり、原子は素粒子によって構成されているという。そこも亦理論が発見よりも先行しているようである。宇宙や原子の世界は、自覚的生命の欲求の形相であり、視覚の内容である。物を作る生命が拓いて行った生命圏である。

 以上いくらか私達の目というものを明かにすることが出来たとおもう。勿論短歌を作る 目は器械を介して見るのではない。直接この目で見るのである、持って生れた目で見るのである。併し単に生得的な目で見るのではない、言葉を介して見るのである。そこに私は物を介して物を見る目と同じはたらきがあるとおもう。

 生命が内外相互転換的であるとは、外が内となり、内が外となることである。外の拡大は内の拡大である。外に物を知ることは内に自己を知ることである。外としての物の形相に対するものは、転換としての一瞬一瞬の喜び悲しみである。言葉を介して見るとは、言葉が物の翳を背負うことによって一瞬一瞬を凝固させ、喜び悲しみに多様なる陰翳をもたすことである。言葉に凝固したものが一瞬一瞬に溶解し、更に凝固する。そこに喜び悲しみの展開があるのである。私は斯る展開の把握が詩であり、日本的形成の把握が短歌であるとおもうものである。それは喜び悲しみとしての言葉による蓄積である。蓄積は前にも言った如く初めと終りを結ぶもの、永遠なるものの具現である。蓄積が永遠であるとは世界を作るということである。ホメロスが、ダンテが、ゲーテが、人磨が我々に呼びかけ我々に応ふるものとなることである。過去、現在、未来の一々の人々が喜び悲しみに於て応答するものとなるのである。無数の人々の心の襞が自己の心の中に陰翳を作り、当面するよろこび悲しみに形を与えてくれるのが表現である。

 勿論我々の喜び悲しみの依って来るところはゲーテや人麿ではない、人と物、人と人との生きてゆく対立の矛盾である。人と物、人と人との対立そのことが世界形成であり、歴史的事件である。通常よろこび悲しみは私の中より起ると思われている。勿論私の中より起るのには違いない。併しその私は歴史的軋轢によってある私なのである。世界が自己自身を形作ってゆく一要素としての私である。そこに我々の表現衝動があるのである。我々の一挙手一投足は世界の自己具現である。世界の具現なるが故に一挙手一投足に世界を見ようとするのが表現である。

 世界として物と我とが相対し、それがはたらく現在の熔鉱炉の中に投げ入れられることによって製作があるとは、それが言葉によって把握されるとき、二つの立場があるということが出来る。一つは物からの方向であり、一つは人からの方向である。一つは作られたものからであり、一つは作るものからである。製作に於て人と物、過去と未来がそこに消えるとは無にして成ることである。無にして成るとは単になくなることではない。人と物とが相互否定的に格闘することである。人と物が愈々鮮明となりつゝ転換的に一ということである。無とか消えるというのは斯る転換が世界の自己実現であり、人も物も世界の内容として対立するということである。二つの方向よりの立場が成立するとは、否定的対立として、格闘することによってあるものとして、相互転換的に対手を帯びることによって全体を把持するものとなるが故である。物よりの立場も全体の相貌を帯び、人よりの立場も全体の相貌を帯びるのである。二つの立場は相反するものとして、全体の相貌に於て激突するのである。

 斯る立場から先ず具象について考えて見たいとおもう。具象とは字の如く象を具えたものであり、対象となるものである。対象とは見られたものであり、見られたものとは前に言った如く、欲求が外に象となって現われたものである。それは自覚的生命に於て物として我に対立するものである。具象とはその本質に於て物である。物は人間が製作すること によって実現するものである。人間が作るとは、内として形のなかったものが露わとなる ことである。無限に動的として形のなかった生命が、自覚的として自己自身を見たのが象であり、物である。無限に動的なる生命が自己自身を見たものとして、物は単に形として静止としてあるのではない。物は自己自身を超えて、呼声をもつものとして物である。勿論物はそれ自身に声を持たない、対象として主体としての人間に対するとき、その宿した時の深さ、技術の高さに於て見る人々に製作を呼びかけるのである。見る人々は其処に生命の大なる創造的発展を見、これも亦その創造線に参与せんと欲するのである。私はそこに写生とか、写実というのが主唱せられる論拠があるとおもう。

 人と物、過去と未来が相互否定的に一であるところは、物の生れるところであり、物の生れるところが事実の世界である。自覚的形成的世界は、事実より事実へと転じてゆくのである。物の無いことは死を意味し、物を作ることは力の表出を要する。物と人が相対するとは、物は死をもって我々に迫ってくることである。我々の喜び悲しみが生死の翳を帯びるものであるとき、喜び悲しみは物が担い、物によって見られるものである。アララギの観照としての写生が、生活詠に至り着かなければならなかった所以がここにあるとおもう。

 心象は具象が物に即したのに対して、言葉に即する方向である。物の象に対して、言葉は象なきものである。而して物の象は言葉によってあるのである。物は名付けられることによって自他相分ち、自他相分つことによって存在するものとなるのである。名の無き物の世界は渾沌に過ぎない。名付けられることによって自他相分ち、自他相分つことによって物があるとは、物の製作は言葉がはたらかなければならないということである。名付けられるとは一瞬一瞬の内外相互転換を超えるということである。時を超えて時を包む普遍者となるということである。時を超えて時を包むとは蓄積の内容となったということである。経験の蓄積は言葉に於て蓄積されるのである。そこに物は作られるのである。

 言葉によって経験が蓄積され、経験の蓄積が物の製作であるとは、物は言葉を宿すことによって物であり、物が言葉を宿すことによって物であるとは、言葉は物を宿すことによって言葉であることである。言葉と物は互がそれによってあるものとして対立するのである。自覚的生命は斯る対立を媒介として自己自身を形成するのである。対立を媒介とするということは、自覚が深くなることは対立が鮮明となることである。物が物自身の方に内面的発展をもち、言葉が言葉自身の内面的発展をもつということである。そこに物の方向に現実の意識が生れ、言葉の方向に想像の意識が生れるのである。

 想像は言葉が、内外相互転換としての情緒に結びついたものである。外としての物ではなく、内としての生命の方向に内面的発展をもったものである。私は心象をここに求めたいとおもう。よろこびかなしみは何処より来り、何処に去りゆくかを知らない。それは物の如く象をもたない、其処に言葉の自由なる飛翔がある。勿論それは物と断絶したものでない。言葉も情緒も形成作用の一面として反極に物を宿すのである。それは幻覚に過ぎない、否幻覚といえどもそれが身体より出ずるものとして物に関るのである。

 情緒や言葉に宿された物は質量をもたない、或は質量をもつとしても極少にされたものである。質量をもたないということはその可塑性に於て抵抗をもたないということである。言葉はその宿す物の形象の構成に於て、空中に楼閣を築くことも可能である。言葉が情緒と結合するという意味に於て、情緒の高揚と共に拡大してゆくのである。否想像が情緒を高揚させ、情緒の高揚が想像を拡大させるのである。

 自覚的生命が形成的であるとは、相反するものが何処迄も相反する方向に自己を限定してゆくことである。反極をもつことである。内外相互転換的である生命は自覚的となることによって、何処迄も内が内の方向に発展し、外は外の方向に発展するのである。そこに内外相互転換的に一であった生命は、絶対否定を媒介する一となるのである。一方向への展開は具体的な生命を失うものとして死への道を歩むのである。物はその象の固定化に於て、想像は根なき草として果てに滅亡をもつものである。死を救済し、生に転ずるのが否定的一である。想像は固定する物の象に流動を与え、生の流れに復帰を与えるものであり、物はその形の対立に於て、想像を誘発して止まざるものである。物の対立矛盾なくして想像はあり得ず、想像なくして物の新たな象はあり得ないのである。矛盾の果ての想像に理想があり、理想より見て現実があるのである。理想が大となることは、現実が愈々はたらくものとなることであり、現実が愈々はたらくことは、理想が愈々大となることである。而してこのことは理想と現実が愈々乖離することである。

 勿論芸術としての、短歌表現の具象と心象は現実と理想と同一ではない。併し私は多くの点で相似をもつとおもう。現実の方向に具象があり、理想の方向に心象があるのである。具象の方向は物であり、心象の方向は想像である。異なるところは現実と理想は生活そのものにつながるのに対し、心象と具象は生活の表象の意味を有することである。現実と理想が身体の存亡に関るのに対して、具象と心象は、生命形成の真実を何れがより深く言葉に捉え得るかである。

 前にも言った如く、自覚的生命の生命形成は否定を媒介する。否定を媒介するとは相互否定的に形成することである。具象が心象を否定し、心象が具象を否定するのである。象が心象を否定するとは、物が想像を実現することである。物に実現するときそこに想像はなくなる。心象が具象が否定するとは、物を想像の内容として、想像の展開をもつことである。言葉に於て形が形を生んでゆくことである。具象と心象は相互補完的である。相互補完的とは前述した如く、一方向のみでは自己の死をもつことである。他者によってあるのである。而してそれはあく迄他者によって否定され、他者を否定するものとして相互補完的である。リアリズムとロマンチズムは何処迄も闘わなけれればならないのである。対手が泣く迄言い争って相互形成をもつのである。

 闘うものは勝敗がなければならない。勝敗は時が背負ったようである。本来相互補完的なるものに勝敗のあるべき筈がない。併しそれが何処迄も対立する以上、何れかが主導することによって表現があるのである。そしてその否定として次の形が生れるのである。短歌に於て万葉の具象に対して、幽玄的なものを表そうとした古今は、仏老的観念を基底にもって物を見、言葉に表そうとしたということが出来る。斯る姿勢に対して痛烈な反撃をもったのが子規以下の写生であった。そして現在短歌は写生を如何に克服しようとしているかにあると思われる。全ての形は身体を媒介するものとして、生成・成熟・老化をもつのである。形は行き詰らざるを得ないのである。行き詰るとは無限に動的な生命形成の現在を担い得ないものとなることである。そこで相反するものが世界の動的形成の底より反撥してくるのである。斯る世界形成の呼び声が、歌人をして自己の使命を感ぜしめるのである。

 万葉に還れの大合唱に初まった近代短歌運動は、万葉的表現の模倣を目指すものでは決してなかった。古今集以来の作歌の根底にはたらく観念への挑戦であった。生命形成は更にその奥に直截なるものをもつことの直観であった。それは単に観念を否定するものではなくして、観念を包むものとしての現実の把握を目指すものであった。多くの人の写生論には浪漫主義を意識しての、写生の根源性の主張が読みとれる。写生の根源性とは浪漫主義を包摂するということである。現在短歌は斯る写生のより深奥に観念を見ようとするのである。そのことは近代写生のもつ理念が表現しつくされたということである。出口のない袋小路に追い込まれたということである。類型の枠より出ることが出来なくなったとい うことである。

 相互否定的なるものが、相互依存的であるとは何れも根源的ではないということである。根源的なるものは、両者が争うことによって形が生れてくるということである。争うことによって生れる形は、対立するものを含むより根源的な形であるということである。万葉に対して古今は一層根源的なものを見たのである。それによって万葉的立脚点から見ることの出来ないさまざまのものを見ることが出来たのである。近代短歌は万葉に還る精神として、更に万葉にも古今にも見ることの出来ない世界を切り拓いて行った。現代短歌は写生論によって見ることの出来ない世界を創出しようとしているのである。写生論者は或はこれを否むかも知れない。併し生れ来ったものは死すべく生れ来ったのであり、現われたものは否定さるべく現れ来ったのである。表現の世界は否定されるところにこそ意義をもつのである。

 具象の根源性が更に大なる心象の根源性を生み、心象の根源性がより大な具象の根源性を生むのである。そしてそれは歴史的時に映されるのである。一頃反戦を詠い、安保を詠う時局詠の如きが、新たなる短歌創造の内容の如く言われたことがある。併し対象を変えるだけで、新たな創造が出来る程安易である筈がない。それは翼讃短歌の如く言葉のみ壮にして、状況を離れれば戯画の如きが残る丈である。私達は現在の歴史的状況を詠うのではない。写生によって見ることの出来ない世界を観念より拓いてゆかなければならないのである。斯くして創り出された目が、歴史的現在の目となるのである。われわれは歴史の追尾者ではなくして、歴史を創るものである。歴史を内にもつのである。

 創造的形成は無限の発展であり、多様化である。併しその一々は奪うべからざるよろこびかなしみをもつ、赤人のよろこびかなしみは、茂吉のよろこびかなしみに換えることは出来ないものである。その意味に於て一々は完結をもつのである。前のものが後のものに否定さるべくあるとは、前のものは後のものの為にあるということではない、一々は自己の奥底を見てきたのである。斯る意味に於て否定とは対話である。そこに次のものが包摂してゆく所以がある。死するもの否定さるものは呼びかける永遠の声となるのである。若し写生が否定されたとしても、その生きて見出たよろこびかなしみに於て、作歌するものに呼びかけて止まないのである。そこに歴史を超え、具象・心象を超えた短歌的表現の世界がある。具象・心象はその中に成立するのである。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

抒情詩としての短歌の表現について

 動物の生命は行動的である。人間も動物として行動に於て生命を維持してゆくもので ある。斯る行動は何処からくるのであろうか、私はそこに生命の内外相互転換を見ることが出来るとおもう。内外相互転換とは内を外とし、外を内とすることである。それによって生命を維持するとは外を食物とし、内を身体とすることである。食物は身体ならざるものである。それを捕捉するために身体を動かすのが行動である。

 私は感覚と感情はここに生れるとおもう。我ならざるものを捕捉するために識別がはたらかなければならない。食物として適当なものと不適当なものの撰別がなければならない。感覚は識別作用であると言われる。感覚はそこに萌芽をもつのであるとおもう。食物を捕捉したときそこに身体は充足をもつ、その反対は空虚であり、奪われたときには反撃して取り返さんとする、そこによろこびかなしみ怒りの湧き来る根源があるとおもう。そこに感情があるのである。

 感覚と感情は行動の両端として行動に於て一である。行動に於て一であるとはこの両端を見ることが行動であるということである。感情は主体に即するものとして、感覚は対象に即するものとして相反するものである、相反するものが一つとして行動はあるということである。生命が行動に於て自己自身を維持するとき、行動は生命の具体でなければならない。行動に於て自己を実現してゆくのである。斯る行動がその一極に感覚をもち、反極に感情をもつということは、生命は感覚と感情に自己を見てゆくということである。感覚と感情が一なるところに生命の具体があるということである。

 行動に於て生命が自己を実現してゆくことは、行動は生命形成としての行動である。感覚と感情は生命形成としての両極となるのである。私はそこに感覚と感情の相即的な展開を見ることが出来るとおもう。相即的な展開とは、感覚は感情によって自己の展開をもち感情は感覚によって自己の展開をもつということである。内に感情がはたらくことが、外に多彩な感覚が生れることであり、外に多彩な感覚が生れることが、内に豊潤な感情が生れることである。それが行動に於て一なることが相即ということである。事実として感覚の識別作用は単に物に対するより起るのではない。例えば愛児が風邪に罹ったとき、わずかな力の衰えや、かすかな顔色の変化を識別するのである。われわれが畑を見ても種々な野菜があるなあと思うくらいである。併し栽培者は水や肥料の過不足、日照りや病害等をその葉や茎に見るのである。識別を動かすものは愛であり、愛はよろこびかなしみに現われるのである。よろこびかなしみが識別するのである。

 亦感情は感覚の識別の多様を内にもつことによってより深い自己の陰翳をもつことが出来るのである。画家は色彩の中に色彩を見ると言われる。画家はそれを描くことによって見てゆくのである。識別作用とは創造作用である。画家がチューリップを描こうとして新たな赤い色を見出したということは、視覚的生命をより大ならしめたことである。画家はそこにより大なるよろこびをもつのである。私達はその顕著なる例を陶工柿右衛門にもつ、椽側の板迄焚いたと言われる彼が、目差した色彩を実現したときそのよろこびは如何に大であったであろうか。そして私はその後の彼はこれ迄の感情生活を一変せしめる程の豊かなものをもったとおもうものである。それは勿論視覚に関るもののみではない、味覚に於てもより微妙な味わいを見出した料理人は、そこに言い知れない充足感をもつとおもう。私は豊かな人間とは、裡に何処迄も識別としての感覚を潜めた感情の持主であるとおもう。偉大なる人間とは大なる創作力をもった人間であり、大なる創作とは、大なる識別と統一であるとおもう。

 私は短歌を作るものであるが、短歌ではよく観念と具象が言われる。私はこの観念と具象に、感情と感覚の具体的な姿があるとおもう。観念とは主体の方に成立するものである。私はそこに感情に映された感覚を見ることが出来るとおもう。感情が感覚の陰翳を宿したところに成立するとおもう。識別の多に自己を見出してゆく主体的一の成立が観念であるとおもう。

 それに対して具象とは感覚の識別的多が感情的一を含んだところに成立するとおもう。具象とは一つの全体像である。例えば色彩がいくらあっても具象ではない。そこには意味による統一がなければならない。多の一々が全体の構成者として、全体を帯びるところに多があるのである。識別とは分けてゆくことである。一者が自己の中に自己を見てゆくことである。一者が自己の中に自己を見てゆくことは、見られた一々、識別された一々は全体的一者の姿であるということである。私は識別された一々が全体が孕むところに具象があるとおもう。そこに識別としての感覚的多が感情的一を含むのである。斯るものとしての短歌表現は如何にあるべきであろうか。

 私は短歌は抒情詩として生命形成の主体的方向に成立するものであり、識別されたものの方向ではなくして、識別するものとしての観念の表現であるべきであるとおもう。観念が自己自身を見るところに抒情詩があるとおもう。而して観念の表現なるが故にその内容は何処迄も具象でなければならないとおもう。前にも書いた如く、感情的一は感覚的多をもつことによって感情的一である。そこに感情は陰翳の深さを増すのである。嬉しいという言葉は嬉しい事ではない、嬉しいことを内容として出る言葉である。嬉しいという事は病気の孫の頬に赤さが戻って来たといった事である。それ故にこの場合抒情的表現としては、臥せている孫の頰に赤さが戻って来ただけでよいのである、それで嬉しいということは表現されているのである。生命営むと言ってもそれは何も表わすものではない。春の若芽のかすかな緑の移りを言うとき、そこに生命の営みは語られているのである。

 それは感覚的な識別の方向に見出される物が、物理学的な法則としての一般概念に捉えられるのと対をなすとおもう。自然科学が一般が個を包むのに対して、芸術に於ては個が一般を包むのである。若芽の緑のかすかな移りを見る目は、人類が限りない哀歓の上に養なって来た目である。具象で捉える根底には時間の普遍があるとおもう。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

自覚について

自覚とは自己が自己を見ることである。自己が自己を見るとは、見られたものものも亦見るものでなければならない。見られたものものも亦自己が自己を見るものであることによって自己が自己を見ると言い得るのであるとおもう。私達の自覚とは斯る無限の創造的形成の上に成立するのであるとおもう。

見られたものとは何か、それは森羅万象としてのわれわれを取り巻く環境である。草木瓦礫であり、虫類鳥獣であり、人類社会である。見られたものも亦自己が自己を見るものであるとは、斯るものの全てが自己が自己を見るものでなければならない。われわれ人間の自覚は斯るものの上に成立するのでなければならない。併し私達は瓦礫が自己を見るものであるとおもうことは出来ない。草木も亦意識をもつとおもうことは出来ない、意識なき処に自己が自己を見ることが出来るとおもうことは出来ない。而してそこには見られたものが見るものであるわれわれの自覚は成立することが出来ないと言わなければならない。見られたものが見るものであるとは如何にして成立するのであるか、草木瓦礫が自己を見るとは如何なることであるか。私はその為に深く自己の根源に還ってみなければならないとおもう。

生命は幾つかの元素の結合によって出来たと言われる。斯る元素は宇宙の爆発により、 最初素粒子が出来、素粒子から原子、原子から分子が出来たと言われるその分子であり、 その分子が集合して宇宙を構成すると言われるものである。 それによって宇宙が出来たとすれば、われわれの淵源も亦遠く此処に存すると言わなければならない。われわれも亦宇宙の一塵として、宇宙生成の一要素として、その内容としてあるのでなければない。即ち宇宙生成の中に人間生命の出現の胚種があったと言わなければならない。最初に全てが素粒子であったときに、素粒子は生命を胚胎すべきものをもっていたと言わなければならない。斯る素粒子が分子化の過程に於て気体となり液体となり、固体となり、岩石とな り、金属となり、空気となり、水となったのである。 それで生命も斯る中に生れたのである。斯る中に生れたとは宇宙生成の力動的関係の中に生れたということである。力動的関係の中に生れたとは、力として他者と相対立することである。他者と相対立するということは、他者によって否定されると共に、他者を否定せんとすることである。他者によっ て否定されるとは自己の消滅を意味すると共に、他者を否定するとは、自己が宇宙の全存在たらんとすることである。而して他者の否定として自己の肯定があるとき、全ての他者の消滅は否定すべきものの消滅として自己の消滅でなければならない。他者の消滅が自己の消滅であるとは、他者も亦消滅と全存在を両極としてもつものでなければならない。対立するとは消滅と全存在を両極にもつことによって対立し、そこに力動的関係が生れる のである。そして宇宙は自己の形を見出でてゆくのである。力動的関係とは宇宙の自己形成なるが故に、宇宙の一要素としてあるものは、否定の対象を失なうことは亦自己を失なうこととなるのである。力動的関係とは宇宙の生成運動である。生命は斯る宇宙生成の中より生れたものとして、常に対立が統一であり、統一が対立である。対立の方向に個の形成があり、統一の方向に宇宙の形成があるのである。

三菱化成生命化学研究所の柳川弘志氏は「生命は入れ物をもち、自己複製、自己増殖が出来、自己維持機能をもち、進化する能力をもつものである。すなわち細胞膜をもち、外界から自己を維持するのに必要な素材やエネルギーを取り込み、DNAの遺伝情報にしたがってタンパク質を合成し、その触媒作用によって種々の構成成分を合成、分解することの出来る進化する分子機械であるといえる」と言っておられる。入れ物をもつとは個体として成立するということであろう。細胞膜は必要とするものはどんどん取り入れ、いらなくなったものを外に排出するといわれる。それは外としての他者と対立するということであろう。取り入れるとは自己ならざるものでなければならない。他者を否定して自己となすことでなければならない。そしてそれは亦他者によって作られるものとして、他者によって作られるものである。自己複製が出来、自己増殖が出来るとは生命は形相実現的であるということであろう。形を高密度化することによって自己を見出してゆくということであろう。自己維持機能をもつとは生命が何等かの意味で不滅なるものを持つことであろう。維持機能をもつと言われるには、生命は滅するものであり、滅することを克服して生を保つものでなければならない。その根底には全体者が時間を超えて自己自身を見てゆくものがなければならないとおもう。進化するとは機能のより高い実現を目指しているということであろう。

生命の単位は細胞であるといわれる。無数にある細胞の一々が斯る生命の条件を具備するのである。細胞が無数にあってその各々が生存せんとすることは一々の細胞が他の無数の細胞に対するということである。恰も素粒子が他の素粒子に対する如きものである。それが細胞に於てはその特性に於て持続的形成的となり、はたらくものとその対象として主体と環境となるのである。生命の否定とは死である。対するとは相互否定的なることであり、相互否定的とは死をもって相対することである。環境とは生命にとって死をもって囲繞するものとして環境である。それは単に細胞が細胞に対するのみではない。細胞は細胞が出来った生命以前をも背負うのである。宇宙の力動的関係をも背負うのである。否細胞も亦力動的関係の宇宙の生成運動の中より出で来ったものとして、宇宙の生成の内容としてあるのである。斯るものとして私は環境の二重構造を見ることが出来るとおもう。一つは素粒子より生命出現迄の根元的な力である。一つは其の中より出で来った生命として生命が他の生命に対するものである。そして私は後者が環境としてより深大なるものをもつのであるとおもう。われわれは生命創造の尖端に立つのであり、単細胞動物より多細胞動物へ、水棲動物より両棲動物、更に爬虫類、哺乳類、霊長類、人類へと進化して来たものである。高度化したものは高度化したものに対するのである。 そして私は最も高度化したものとして人が人に対すところに最も高度なものがあるとおもう。環境として最も深大なるものは人間環境であり、社会環境であるとおもう。

生命が生命の環境となるとは、生命が食物連鎖としてあることであるとおもう。植物は 光合成に於て自己の必要とする物質やエネルギーを獲得する。併し動物に於ては植物が形成した細胞を獲得し、更にその動物を獲得することによって必要な物質やエネルギーを補給するのである。その世界は殺し合いの世界であり、弱肉強食の世界であり、自然陶汰の世界である。併し対立は形成であるところに世界形成はあるのである。対手を食べようとし、或は逃れようとするところより生命は様々の機能を創出するのである。桑原万寿太郎氏はその著「動物の本能」に於て驚異とも言うべき動物の本能の生態を紹介し、「本能行動の先生は自然陶汰であったようである」と言っておられる。以前にも書いたことがあるが、我々人間の祖先がまだ無顎類動物であった頃、同じ無顎類の巨大で獰猛なウミサソリに食われ続け、遂に背中に甲羅が出来てウミサソリが食うことが出来なくなって絶滅し、やがてその甲羅が身体の中に入って骨格となり、現在のわれわれの形体の基礎となってアメリカの著名な生物学者が「われわれはウミサソリに感謝しなければならない」と言ったというのを読んだことがある。同書には亦一億五千万年程前から六千五百万年程前の恐竜の時代に住んでいたわれわれの祖先が恐竜に食われ続け、それより逃れんが為に夜行性動物となり、脳量が他の動物と体積比四、五倍となり、同学者は「われわれは恐竜に感謝しなければならない」と言ったと書かれていた。食われることによって新たな機能と身体をもったのである。万の生命は食物連鎖であることによってより大なる能力を獲得したのである。生命はそこに自己創造をもつのである。人間は斯る自然陶の克服の上にあるのである。祖先の限りない闘争と死の上に今日のわれわれの生命をもつのである。

自然陶汰の世界は適者生存の世界である。適者生存とは環境を映し、環境に映されることである。環境を作り、環境に作られるのである。蟹は甲羅に似せて穴を掘ると言われる。併しその甲羅は生棲の条件によって作られたのである。映し映されるものとして生命の形は常に環境の総和の意味をもつのである。水中に棲む魚が鱗をもち、泥中に棲む魚がぬめりをもつ如く、棲むために気温、地形に適応した身体とならなければならない。斯る形態に於て他者との生存競争をもつのである。生死に於て新たな形態を獲得するとは、より大きく環境を映し、環境に映されるものとして、身体の環境の総和の意をより明めるものである。生命は死をもつことによってより大なる自己を見出でてゆくのである。内に否定をもち否定を媒介することによってより明らかな自己を見出でてゆくのである。それは全生命としての宇宙的生命とでも言うべきものである。生命と生命が生死をもって対立するものを内にもつものとして自己を見てゆくものは生死するものではない。それはより大なる生命でなければならない。それは形に見てゆく形なき生命として全生命というより他なき生命である。

数万年前ネアンデルタール人が墳墓を作り、花を供えた時より人間は人間になったというのを何かで読んだことがある。私はその事に深い共感をもつものである。墳墓を作ったとは死者と我とをつなぐのをもったということである。過去によって現在があるということである。生命の営みは一瞬一瞬の内外相互転換である。外を内とし、内を外とする止まることなき流れである。死者とわれをつなぐものをもったということは一瞬一瞬を超えるものをもったということである。内外相互転換を内に包むものとなったということである。花を供えたということは、過去と現在をつなぐいのちが死者によって喪われということであり、喪われたものを死者とわれが共に愛したものによってつなぐということである。

人間のみにあって他の動物にないものは言語中枢であると言われる。人間は言葉をもつことによって人間になったと言われる。言葉とは何か、言葉を作った人はないと言われる。作った人がないとは、誰のものでもなくて誰のものでもあることである。呼び交すところにあり、応答の内容であることである。限りない人々が呼び交すところより生れ来たったのである。誰のものでもなくて誰のものでもあるとは全ての人を包むということである。昔わが国に語部というのが有って民族の伝承を語り継いだと言われる。語り継ぐとは過去を未来へ伝達することである。それは過去と未来が呼び交すことであると同時に、言葉が過去と未来を包むということである。また人間は手をもつことによって人間になったと言われる。手とは物を製作的にはものである、製作するとは技術をもつことである。かかる技術は天より来たのでもなければ地から湧いたのでもない。環境と身体の闘いから出で来たったものである。而して単なる闘いから技術は出て来ない。そこに経験の蓄積がなければならない、無数の人々の無限の経験が行為的現在の一点に結合する時、新たな環境と身体の形が現われるのである。それが外の方向に物の製作であり、内の方向に技術である。技術の発展と言葉の発展は軌を一にすると言われる。私はそこに共に瞬間的な生命限定を超えてそれを包んだより大なる生命の自己限定が見られなければならないとおもう。私は人間が人間になったとはこの超越としてのより大なる生命の現れをもったことにあるとおもう。墳墓を作ることも、言葉をもつことも、技術をもつことも共に対立するものを超えたところに見られるものである。それは逆に言えばより大なる生命がそこに自己を露わにしたということである。より大なる生命とは何か、それは素粒子の対立を内容として宇宙が自己形成をもつ如き一者の成立である。勿論それは突然現われたのではない、初めからあったのである。それが対立の底に露わとなったのである。形成作用としての生命の底に翻ったのである。底から対立を写すもの、見るものとなったのである。私はそこにわれわれの自覚を見ることが出来るとおもう。自覚とは自己が自己を見ることである。この我が我を知るのが自覚である。併しての我から自己が何処より来たったかを知ることは出来ない。唯斯る自己があるというだけである。それは真に我の知的要求を満たす自己ではない、われわれの自己は自己を全人類に写し、全生命に写し、宇宙に写すことによってあるのである。無限の時間の中に高々百年未満で生死する生命はうたかた以外の何ものでもない。自分を馬鹿だと思っているものはないと言われる。斯る確信は自己を永遠に映すところよりくるのである。勿論永遠の自覚をもつというのではない。言葉をもち、技術的にはたらくとき、言葉や技術のもつ超時間性が意識下に生れるのである。真の自覚はこの意識下に現われたものが言葉に現われることである。旧約聖書の創世紀のはじめに神の霊水があったというのがある。太初に胚胎していた生命と物質に分れるべきものが、素粒子の中に分子を生み、分子の中に生命を生み、単細胞動物より多細胞動物、そして遂に言葉をもつ生命に達した時の深さがわれわれの確信を生むのである。道元は「此生、他生の最善最勝の生なり」という。宇宙形成の中核の感情より確信は生れるのである。

宇宙一なる生命がはたらくといっても、宇宙一なる生命があるのではない。あるのはこの我であり汝である。我と汝は個体として対い合うものである。それは動物の自然陶汰の流れを汲むものである。対立は相互否定であり、闘争である。われわれも亦相互否定と対立を失うものではない。動物の中より出で来ったものとして何処迄も闘争をもつのである。唯その闘争の意味が変質するのである。それは個体保存にのみ生きるのではない、われわれの身体が宇宙を写したものとして、写し返すものとなるのである。身体は宇宙が形成し 来った最後のものとして、身体より逆に宇宙を作るものとなるのである。そこに真に宇宙が宇宙を見るものとなろうとするのである、身体は創造的身体となるのである。技術をもっと斯る生命となることである。外に世界を作るということは、身体が内に世界をもつということである。身は外に物を作ることによって内に世界をもつものとなるのである。ここに生命は世界形成的となり、自己保存、種族保存本能は郷土愛となり、愛国心となり、人類愛となるのである。闘争は世界形成的自己の闘争となるのである。個体は世界を内にもつものとして個性となり、世界を内にもつものとして、己れの内なる世界を外に実現せんとするのである。人々はこれが世界の中心たらんとして争うのである。而して世界形成的に争うことは、世界が益々自己の形を露わにすることである。

かかる形成は何処迄も否定的形成である。世界を内にもつとは自己が世界になるということである。世界の中に消えてゆくことである。世界の中に死することによって世界を実現してゆくことである。そして斯る実現が世界を作ることである。而して世界を作ることは世界が我の中に消えることである。自己が世界を否定して自己が世界となることである。我が世界となることは世界が我となることであり、世界が我となることが我が世界となることである。この我が自己の中に見る世界を他にして世界があるのではない。併しての我は世界ではない。世界の中の一個物である。個物として個物と対立するものである。ということは無数の個物が自己の中に世界をもつものとして対立するということでなければならない。この我は無数の汝と対立するのである。斯る世界と世界が対立するところより言葉は生れるのである。而して対立は関り合うものとして一である。斯るより高次なる一が生れるのも我や汝の中である。我と汝が対立と統一の中から生れた新たな言葉をもち、対話するというのがより高い世界が出現したということである。われわれは人類として 無数の汝に対するのである。対するとは対話するのである。それは言葉に生きるものとし無限の過去と未来を結ぶものである。われわれが死ぬとは斯る中に死ぬのである。われは無数の中の一として、無数の人々の言葉の中に言葉をもつものとして、その言葉によってあらしめられるものとして、無数の他者によってあるものとして自己を殺すのである。自己を殺すとは無数の他者の言葉を自己の内容とすることである。自己によってあるのではなく、無数の他者によってあらしめられることである。而して無数の人々によってあり、その言葉を内にもつものとして、われわれは生死を超えて確固たる自己となるのである。

生死の問題は複雑である。それは我々が死を知るところより来るのである。死を知るとは死を自己の中にもつことである。死ぬ自己としてわれわれは死をもつと共に、死ぬ自己を知るものとして死を超えたものである。而して死ぬとは生死する自己が死んで死を知る自己が残るというものではない。死を知る自己が死ぬから死である。死を知る者にとって、死を知らないものの死は真の死ではない、死を知るものの死は絶対の死である。死を知るものはそれを生れたときよりもつ避くべからざる運命として知るのである、そこに不安と恐怖、死の限りなき悲しみがある。而してこの絶対の死こそが絶対の生へ転ぜしむるものなのである。限りない悲しみが己が存在の根源へと回帰せしめるのである。不安、恐怖、限りない悲しみは死を知るものの現在である。そこに言葉をもついのちに転ずるのである。転ずるとは言葉によってあらわれ、言葉によって生かされるわれとなるのである。無限の他者との対話が一なる中にあらわれ、そしてそれは無限の他者を自己の中にもつわれとして生きるものとなるのである。それは以前の生命が死して新たに生れることである。併しそれは生死がなくなったのではない、新たに生れたものとは以前の中より生れつつ以前のものを包むものとして新たなのである。死は依然として深いかなしみである。これを包むとは死へのかなしみをより大なる生へ転ずる契機と見ることである。生死のよろこび、かなしみを底深く湛えたものとなるのである。言葉は生死の中より生れたのである、それが逆に生死を包むものとなったのである。ここに宇宙的生命の開顕があるのである。宇宙的生命という特別のものがあるのではなくして、この我に即して開顕してゆくのである。対立が一として開顕してゆくのである。われわれの自己はそれによってあり、それによって生きるものとなるのである。自己がそれによってあり、それによって生きるのが客観的事実の世界である。われわれの自覚は客観的事実の形成としての自覚である。客観的事実とは宇宙の自己開顕である。

客観的世界は歴史的形成的である、その中に於てわれわれは対象を作り、対象に作られるものとなるのである。対象を作るとは、世界の中に作られたものが作るものとして世界に対し、世界を再構築せんとすることである。対象に作られるとは、われがあるとはどこも世界を写すことによってあるのであり、作った世界はわれの影を宿すものであり乍ら、世界としてわれわれはその中に生きるのであり、他者として外として対立し、否定し来るものとしてそれを自己の内容としてのみ生存をもち得るものとなることである。自己の内容とすることが写すことであり、作られることである。何処迄も写し写されるものとして形造ってゆくのである。作られた世界は写されて写すものとして更に密度の高い世界となるのである。作るものとしてのこの我は密度の高い世界を写すものとしてより大なる能力をもつものとなるのである。化学者ノーベルは対象の中から火薬という大なる力を人類の為にとり出した。併しその力はより大なる殺傷をもつものとして外として対立するものとなった。ものを作るとは自己の生存を対象に映すのであり、対象はより密度高い外としてより大なる危機として迫ってくるのである。縄文時代に入って大なる戦乱が多発したと言われるのも道具の発明に関るものとおもう。更に写し映され、作り作られるものとして、われわれは原子力機器を作り、化学製品を作り、電子機器を作った。それは飛躍的な生活の向上と共に、戦争として、環境破壊として人類滅亡の危機を孕むものである。私は歴史は常に危機と危機の救済としてあるとおもう。歴史的発展とは斯る危機の増大とその救済としての克服の無限の過程であるとおもう。生命は危機と救済として自己を形成してゆくのである。歴史とは斯る生命形成である。

作られたものが作るものになるとは、世界の中にあるものが世界に対立するものとなることである。対立するとは逆に世界を内にもつことによって、内の世界と外の世界が対立するのである。生命がその自己保存としての営為の経験を蓄積することである。自然の生命の流れを堰き止めて時の統一者として、自然の営為を自己の目的に構築することである。斯る蓄積を言葉によってもつのである。言葉とは語り合うものであり、それは無数の人々の間より出で来ったものである、即ち経験の蓄積は無数の人々によってあり、無数の人々によって担われるものである。実言葉は生産の発展、道具の増大と共に複雑化したと言われる。そのことは言葉によって道具の発展、生産の増大があったということである。経験の蓄積として歴史があり、無数の人々が対話するものとして蓄積を担うとは、対話をもつ無数の人々が歴史的主体となるということである。斯る歴史的主体が対象を作り、対象に作られるものとして危機を担うものである。危機は物と生命、主体と客体、我と汝の対立の中に必然的に潜むものであり、斯る対立を通じて世界が自己を形成するとは、世界は危機を媒介として自己を形成するものであり、危機は救済をもつということでなければ ならない。

世界が形成的世界として、対象がより大なる力を見出したということは物がより大なる言葉を孕んだということである。内と外に言葉の均衡が破れようとすることである。この救済は歴史的主体が新たな言葉を孕むことでなければならない。そしてそれはより大なる物の力の中より聞えてくるのである。われわれは危機としての呼び交しの中からその言葉 を聞き出すのである。それに従うものは生き、それに背くものは死ぬのである。そこに神の声がある。その声を聞くときわれわれは真個の自己となるのである。それは危機の世界よりの声を聞いたものとして大なる力であると共に、世界によってあるものとして絶対に無力である。世界が世界を運ぶ影として無なると共に、運ぶ世界を担うものとして絶対の有である。善も美もここより生れるのである。われわれは力の究極に神を置く、併し神とは外より大なる力がはたらくのではない、単に外にはたらく力は知りようがない。それはわれわれの根底としての我ならざるのである。無数の声の一が神の声であった如く、無数の力の一として、力の究極はあるのである。われも亦声をもつもの、力をもつものとして、われと汝の関りは深く神の大いなるものにつながるのである。神の中にあるわれは逆に自己の深奥に神をもつのである。超越的なるものは内在的なるものとなるのである。われわれはそこに大いなる言葉、大いなる力を得ると共に世界に運ばれるものとして、言葉が言葉を運び、力が力を運ぶものとして、それによってあるものとして絶対の無知無力となるのである。宇宙は言葉に満ち、力に満ちたものとなるのであり、われわれはそれによってあるものとして、それを返照するものとなるのである。

知るということもここからくるのである。田辺元博士はその著哲学通論に於て「肯定的 判断主観は自己に対立する否定者を予想し、自己の内に否定者としての汝を含む社会的な我としてのみ成立する。即ち直接なる肯定者としての個人的我に対し否定者としての汝を媒介として超個人的なる我に高められたる社会我が判断の主観となり、其内に於て個人的なる我と汝が相対立すると言っていい。而して我は汝に対してのみ我があるから、直接なる概念の統一に対応する主観は我として具体化せられた主観ということは出来ない。判断に至って始めて我というものが現れる。」と言っておられる。個人的我に対して否定者としての汝を媒介として超個人的なる我に高められるとは如何なることであろうか。低次なるものから高次に至る道はない、われわれは自己によって対立するものをもつことは出来ない、我と汝が対立するとは我と汝を包んだものの内容として対立するのでなければならない。即ち超個人的なるものに高められるとは、我と汝が対立することが我と汝を包んだ超個人的なるものが自己を露わにすることでなければならない。超個人的なるものに照されてわれわれは高められるのである。判断は超個人的なるものが自己を露わにしてゆく内容であり、判断に至って始めて我というものが現れるとは、超個人的なるものに照されて我は真の我となるのでなければならない。その我は判断の中より生れたものとして判断する我でなければならない。超個人的なるものが自己を露わにするとは、我と汝の対立が超個人的なるものに照らされたものとして照り返すことである。我をあらしめるものによって出で来る言葉に、我をあらしめるものを映し出すことである。そこに思惟があるのである。自覚として自己が自己を知るということもここより来るのである。」と書いておられる。博士も推論によって社会我が自覚せられると言っておられる。われわれが考えるとは世界が世界を運ぶ形としてわれわれにはたらくのである。われわれは考えることによって常にわれより出でて世界の中に入ってゆくのである。それは世界が世界を見る内容として世界が実現してゆくことである。

世界が自己の中に自己を見るとき見られたものは世界が実現したということでなければならない。そして実現した世界が更に自己の中に自己を見るところに世界がはたらくということがあるのでなければならない。私は歴史的形成というものも斯るはたらきとしてあるのであるとおもう。われわれの自己も亦歴史的世界に於て真にはたらく自己となるのである。以下私は歴史の様相を見ることによって自己を尋ねてみたいとおもう。前にも書いた如く歴史を成立せしめるものは主体と環境の相互転換を構成的ならしめる主体の技術の獲得であり、技術の具現としての道具の使用である。道具の使用によって内に転換すべき外としての物を飛躍的に増大せしめたのである。而してそのことは環境と主体の対立、我と汝の対立を解消せしめたのではない、否逆に飛躍的に増大せしめたのである。食糧の増産は人口の増大を招いた、人口の増大は生産の増大をもたらすと共に、凶作に於ける飢餓の増大をもたらすものである。生産が大となるに随って自然の暴威は大となるのである。治山治水に大なる労力を要求するのである。我と汝は生産物、生産手段の争奪をなすものとなるのである。伝えられる卑弥呼の項の天下大乱は斯る現れの第一段階であるとおもう。そこに強大なる力が要求される、その力は人間の結束であり、集団である。そしてその統率者は矛盾対立の増大につれて力を増してくるものとなるのであり、大王が出現するのである。大王の出現は亦奴隷の出現である。戦に敗れたものは単なる生産力として勝者に隷属 し、勝者の生活に奉仕するものとなるのである。戦乱は曽って経験しなかった酸鼻をもたらし、奴隷は勝者のあらゆる苦痛を押し付けられる悲惨の生涯をもつものとなったのである。集団のより大なる力への進展は組織が要求され、組織の進展はその頂点に立つ統率者を益々大ならしめて、遂には全ての力を統率者の所有とするのである。勿論統率者は個人として所有するのではない、全体表象として、集団の威厳として所有するのである。組織は組織の論理の要請をもつ、それは多数のものを一ならしめるものである。そこから新しい行為の基準が求められ倫理としての道徳が生れる。その内容は全体表象の状況によって決定されるのである。大王の統率の下に於ては統率者の仁慈と服従者の忠誠が要求されるのである。多数が一としての大なる力はその力の表象をもとうとする、それが表われるのは先ず衣食住である。衣は位階を表わすものとなるのであり、食は典礼の基礎となるのである。住は統率者の生涯を托するものなるが故に威厳を表わすものとなるのである。そこからは自己保存、種族保存を超えた形が要求せられる。斯る要求の中から生れた様々の形が芸術へと発展してゆくものである。併し衣食住は尚全体を表象するものではない、全体を表象するものは個々の生滅を超えたものでなければならない。先祖と現存する者と未来に生きるものを一ならしめるものでなければならない。それは例えば農耕生活に於て田や道具が祖先を負い、子孫を予測するものとしての必然である。そこに全てがそれによってあるものとしての超越者が要請される。それは最早感覚の対象としての形に於て見る べきものではない。言葉によって見るべきものである。併しそれには言葉を宣べる所が必要である。そこに神殿、仏閣、教堂の作られる所以があったとおもう。而してそれが形として現われた以上権威の表象とならなければならない必然をもつ、それは過去現在未来 を包む表象を要求するものとなるのである。そこに人類の栄光は打ち樹てられる。併し私がここで言いたいのは大なる栄光は常に大なる悲惨をまとうことによってあったということである。エヂプトのピラミッドは十万の奴隷が何十年かかかって作ったと言われる。私はその作業の間に牛馬以上に加えられた箸の数を思うものである。恐らく骨と皮に細った背に血を噴き乍ら石を運ぶ綱を引いたのであろう。我国の大仏殿も仏教に国家理念を見出した天皇が象徴として建立したと言われる。而してその失費は巨額を要し、ために苛斂誅求に苦しんだ民衆の路上に餓死するもの数知れず、強盗がはびこり、怨嗟の声国中に満ちたというのを読んだことがある。

歴史が対立が統一として矛盾的に動いてゆくとは対立が統一の中に解消することではない。対立即統一として矛盾が顕在化してゆくことである。対立が愈々対立することが統一がより大なる統一をもつことである。技術による生産の拡大と蓄積は人類の力の増大であると同時に、消費と安逸をもたらすものとして力を削減するものである。人は物の争奪に於て対立を尖鋭化し、消費に於て頽廃の淵に沈んでゆくのである。大なる文化の輝く都市はその裏面に悪徳の渦巻く都市である。われわれはホモ・サンピエスとして六十兆の細胞と百四十億の脳細胞をもつ有機体と言われる。この生命が生れては死に生れては死に乍ら環境を写し環境を形成してゆくのが歴史である。 生れてくるものは環境を映すものとして白紙として生れてくるのである。環境を映したものが生きてゆく事が環境を作るということである。争ひに生れたものは争ひを 育て、和に生れたものは和を育てるのである。光明に生れたものは光明を育て、闇に生れたものは闇を育てるのである。生れ来ったものは善を求め、或は悪を求めて生きるのではない、自己の生存を求めて生きるのである。生存は外を内とし、内を外とするものとして環境の中に生れ、環境を作るものとして生を営むのである。環境と生の相互限定として、悪にまれ、善にまれ一度生れた形は自己を肥大化させてゆくのである。斯くして世界は無数の個の対立としてある限り栄光と悲惨、善と悪の紋様を織りなして動転してゆくのである。われわれの自覚が歴史的形成的であるとは斯る構図の上に自己を見出してゆくことに外ならない。否定と肯定、対立の緊張の上に自覚はあるのである。

われわれは歴史を知るものである。歴史を知るとは、歴史の中にあるものが逆に歴史を内にもつことである。時の中にあるものが時を内にもつことである。無限の時間はこの我の中を流れるものとなるのである。而して時の中にあるものが時を内にもつとは矛盾である、そこに於て歴史を知るものとは生死に自己を露わにする永遠なるものでなければならない、ここに於て歴史を知るとは単に無限の経過去の知識をもつことではない。絶対の矛盾を絶対の同一として生死を永遠に包摂することである。併しそれは風呂敷が物を包む如 く包摂するのではない。生死するもの、対立するものが飜るのでなければならない。一々が世界の内容でありつつ、世界を構成するものとして対立するものが一なるものへと飜転するのである。私は断るものとして全ての人間が自覚の可能性を孕みつつ真の自覚をもつものは世界の底に宇宙的生命の声を聞いたもののみのであるとおもう。生死するものと永遠なるものの矛盾の葛藤に生きたわれわれはここに真の在処に参見するのである。歴史は常に危機と救済として動転する、而して救済は常にここより来るのである。

自覚者は宇宙的生命の実現者として、生死の淵に苦しむものの救済者として自覚者である。故にそれは善悪の審判者の世界ではない、全ては宇宙的生命の実現として「誰か罪なきものこの者を石もて打て」の世界である。「善人尚もて救わる、況んや悪人をや」の世界である、それ等の人の為にこそ涙を流すべき世界である。そこに善悪の価値判断が入るとき対立の世界へ堕するのである。それは我と汝の対立世界の判断であって真に自己の中に世界を見る所以であることは出来ない。

われわれは宇宙的生命の内容として、宇宙的生命の如何なるものかを知ることは出来ない、唯現れとしてあるのみである。それが対立の苦としてあり、一者の救済としてあるとき神の恩寵の世界、仏の大慈大悲の世界となるのである。われわれはその前に絶対の無となるのである。併しそれは世界がなくなることではない、否世界はそこより生れるのである。対立が統一として自己自身を見ゆく神は力の神であり、無限に創造する神である。われわれは無となることによって世界に現われるのである。無に生きるとは自己を捨てて世界に生きんとする無限の努力である。

長谷川利春「自覚的形成」

 

 

 

宇宙

 先日の新聞にローマ法皇がガリレオ・ガリレイの罪を赦免して、彼の肖像入りの切手を発行するという記事が載っていた。何を今更とおもう。多くの人は宗教のもつ体質に幻滅を感じたのではなかろうか、併し考えて見ればそれ迄の人類は天動説を不抜の真理と信じていたのである。斯る信は何処から来たのであろうか、亦最近の天体物理学によれば、宇宙は約二百億年前に爆発し、そのエネルギーは無限大であり、そのエネルギーによって膨張を続けていると言われる。それは果して誤りなき真実なのであろうか、仮説によって構成されたものとして、次の仮説によって修正されてゆくものなのであろうか、そうとすれば信ずべき宇宙というのはないのであろうか、信ずべき宇宙がないとすればわれわれは何故に宇宙への探求に駆り立てられるのであろうか、宇宙とは一体如何なるものであり、われわれは何を尋ねるのであろうか。広辞苑によれば「宇宙、(淮南子の斉俗訓によれば、「宇」は天地四方、「宙」は古往今来の意。一説に「宇」は天の覆ふ所、「宙」は地の由る所。すなわち天地の意) ①世界または天地間。万物を包容する空間。 風流志道軒伝「論語は第一の書②〔哲〕時間・空間内に存在する事物の全体。また、それら全体を包む ひろがり。 ③〔理〕すべての時間と空間およびそこに含まれている物質とエネルギー。〔天〕すべての天体を含む空間。特に、地球の気圏の外。以下略」と記されている。通常私達が言う宇宙とは天文学的宇宙であり、宇宙とはそれ等を一分野として包む全存在であるということらしい。それでは宇宙とは如何なるものであろうか。

 宇宙が時間・空間内に存在する事物の全体というとき、事物は時間・空間の内容であると共に、時間・空間は事物の形式であるということでなければならない。すなわち時間・空間としての全存在は事物の存在の様相でなければならない。空間とは形をもつものであり、時間とは形が変じてゆくものである。時間は過去、現在、未来をもつ、過去は現在ならざるものであり、未来は現在ならざるものである。時は一瞬の過去にも還り得ないと言われる如く、無限に変じてゆくものでなければならない。併し変じてゆくとは過去、現在、未来として変じてゆくのである。過去なくして現在はなく、現在なくして未来はない、そこに於て変化するものは一なるものでなければならない。変化を超えて不変なるものがなければならない。空間が形をもつとは形と形が対するということである。一つの形というのは何ものでもない、形というのは他と区別することによってあるのである。他と区別するものは対立するものである。対立するものとは否定し合うものである。否定し合うとは対立するものを変ぜんとすることである。相互否定の中から新しい形が生れる。前の形は否定された形として、新しい形は現在の形として形より形へ空間は自己を維持してゆくのである。時間が変化を超えた不変なるものがなければならないとは、時間は空間の中に消えてゆくのであり、空間の形が対立するものとして変化によって自己を維持してゆくとは 空間は時間の中に消えてゆくことである。そのことは時間・空間を超えて時間・空間的に 自己を限定してゆく一者があるということでなければならない。宇宙が時間・空間内に存在する事物の全体というとき、宇宙は時間的・空間的に自己を限定してゆくということでなければならない。変ずるものが不変なるものであり、不変なるものが変ずものであるとは宇宙は時間・空間的に自己を形成してゆくということでなければならない。宇宙とは自己形成的であり、時間・空間は形成の両極としてあるのである。全てあるものは時間・空間的にあるのであり、あるものとは宇宙が自己の中に見出でた自己である、そこに宇宙とは時間・空間的に存在する事物の全体ということが出来るのである。われわれ人間も亦時空間的にある、即ち宇宙の内容として、宇宙が自己の中に自己を見たものとしてあるということである。私はそこに宇宙の現われとして、この我の中に深く入ることが宇宙と は何かを明らかにする所以であるとおもう。

 宇宙は無限大のエネルギーの爆発に初まり、初めは素粒子のみがあったと言われる。一斯かる素粒子がヘリウムと水素を作り、更にヘリウムと水素から種々の分子が出来、分子から生命が生れたと言われる。最初素粒子のみがあったとき、素粒子と宇宙の関りは如何なるものであったであろうか、私はそこに一々の素粒子が宇宙の本質を担うものであったということが出来るとおもう。本質を担うとは、一つの素粒子を知ることは全宇宙を知ることが出来ることである。素粒子が原子を作り、原子が分子を作ったということは、原子・分子の一々が宇宙を宿し宇宙を構成するものであるとおもう。一々が宇宙の構成要素であることが自己の中に世界を持つことである。生命はその中に生れた新しい形として更にそれを鮮明たらしめたものであるとおもう。生命は宇宙の更に鮮明な形としてあるのである。宇宙は生命として自己を明らかにするのである。

 生命は内外相互転換的である。外を内とし、内を外とすることによって形作ってゆくものである。摂取と排出によって形相を転換してゆくのである。斯る転換が形成作用である。植物の光合成作用を基幹として、それが動物に於て食物連鎖となるのである。食物連鎖の世界は動物に於て自然陶汰の世界である。動物にとってそれは死との対面の世界である。食われるものは勿論死である、食うものもそれが獲得出来ないときは死である。そこに 生死をかけた闘争がある、而して動物はそこによりすぐれた新しい機能をもつ生命となるのである。如何にして遁れとし、如何にして捉えんとする所より、より大なる能力が生れるのである。生存として獲得したより大なる能力は遺伝にまれ、学習にまれ個体を超えて種族の内容として維持してゆくのである。より大なる能力を獲得するとは、より大なる時間と空間を自己の内容とすることである。より広く、より永く行動し得る身体となることである。宇宙が生命に於て自己を明らかにするとは身体に於て明らかにするのである。一々の身体はその内包に於て宇宙に対応するのである。この我の身体を除いてこの我の宇宙があるのではない、この我の宇宙なくして宇宙一般があるのではない。若しみみずに意識があると仮定してその宇宙像は如何なるものであろうか、みみずはそのもつ行動能力に従って宇宙像を描く以外にないであろう、それはわれわれと著しく異ったものと思わざるを得ない。ふくろうは目が殆んど見えず、遠近をわれわれよりはるかに優れた聴覚に於てもつと言われる、斯る感覚によって構成される宇宙像もわれわれより異っていると思わざるを得ない。併し私達は、宇宙が自己の身体に即するといっても私達の恣意によって宇宙があるとおもうことは出来ない。任意に作れるものは宇宙ではない、普遍妥当性として万人が肯わなければ宇宙ではない、われわれは宇宙の中に存在するものである。斯る宇宙は 如何にして考えられるのであろうか。

 私はそこに人間生命の自覚があるとおもう。生命は身体的形成として摂取と消耗の絶えざる転換である、一瞬一瞬の絶えざる動きである、自覚とは斯る転換が蓄積的となることである。動物として行動によって食物を求め、獲得することは技術的である。蓄積的であるとは斯る技術に於て以前と現在が結合することである。例えば昨日獲物が穴に落ちて動けなくなっているのを捉えたとする。すると今回は穴を作ってそこに追い込み動けなくして捕えるというごときである、昨日と今日が捕獲に於て結びつくのである。内外相互転換としての技術はここに製作的技術となるのである。前肢は手として外を変革するものとなるのである。作られたものとし生れ来った身体は作るものとなるのである。われわれは記憶によって過去をもつ、言葉によって蓄積し、手によって製作するのである。製作とは新しい形を生み出すことである。新しい形とは与えられた本能的なものによってはあり得ない形である。経験の蓄積によって死を生に転ずところより生れる形である、勿論本能的なものが無くなったのではない、それが構成的となったのである。無限の時点が現在の生死に於て新たな形として結びつくものとなったのである。

 製作はわれわれの身体の延長である。身体は宇宙の自己形成の内容として作られたものであった。宇宙の内容として作られたものが宇宙の形相として、逆に宇宙の形相を実現するのが製作である、そこに形を内にもつものとなるのである。斯る製作によって見出される形に空間はあるのであり、製作の力の表出に時間はあるのである。われわれは宇宙の一微塵として生れた、併し製作するものとして宇宙を内にもつものとなるのである。ここにわれわれは自己の自覚をもつのである。製作によって時間・空間があることは、時間・空間の中に存在する事物の全体とは、技術によって製作された事物でなければならない。作ることによって見られたものの外延と内包が宇宙でなければならない。内外相互転換の蓄積によって描かれてゆく世界が宇宙でなければならない。

 技術的・製作的世界は歴史的形成の世界である。人間が技術保持者として、歴史は何処迄も人間の生命形成である、手と言葉を有する製作的身体の表現として製作はあるのであり、人間は製作的身体として歴史的に自己を形成してゆくのである。併しその製作的身体は何処から来たか、如何なるものであることによって言葉をもち、手をもつことが出来たか、私達はここに私達を超えた生命を見ざるを得ない、知るべからざる深さの底に、われわれがそれによってあるものに触れざるを得ない。この我の現前を直証としてこの我に表われるものによらざるを得ない、私は製作もその根源をここに有するとおもうのである。経験の蓄積ということも断るものによってあることが出来るのである。蓄積が過去・現在・未来をもつということは無限の時をもつということである、存在の初めと終りを結ぶものをもつということである。初まる時を知らず終る時を知らないものが現在に現われているということである。私達は作ることによって見、見ることによって作るのである。その底には大なる生命の自己実現のはたらきがあるのである。人類が感覚に捉え得るものは全て斯る生命の表れである。私達が時間・空間の内に存在する事物の全体というとき、存在する事物は斯る生命の表れであるとおもう、私達はここに宇宙を見るのである。人間が歴史的形成的に自己を見でてゆくすがたは、宇宙が自己を見出てゆくすがたである。

 宇宙というとき私達は直に天体を含む無辺の空間に想到する、私は斯る空間とは上記の宇宙より空間的方向に抽象されたものであるとおもう。斯る空間も歴史的形成の内容としてあるのであるとおもう。先日の新聞にローマ法王廟ではガリレオ・ガリレイの罪を赦免した記念として切手を発行するということが報ぜられていた。これを読んだ多くの人は 恐らく失笑したことであろう、何を今更とおもう、併し古代に於て多くの人は太陽が地球をめぐると信じて疑わなかったのである。私も学ばなければ天動説を信じているであろう、そこに観測技術の進歩があったのである。内に数理論の発達があり、外に観測器具の発達があったのである。更に思いを及ぼせば人間が未だ猿の如く樹上生活を行っていた頃には、天体とは一体如何なるものであったであろうか。星座は放牧の民によって見出されたという、彼等はそこに自分の位置を知り、時刻を知り、行くべき方向を知ると同時に美しく統一された天の運行を知ったのである。 天体も、人間の生存の自覚的行為としての牧畜の中に見出されたのである。恐らく生存の自覚的行為としての技術をもたなかった樹上生活当時にとって天体は如何なるものでもなかったのであろう。天体としての宇宙の像は日進月歩とでも言うべき激しさで変化しているようである。私達の幼少時、天には十万個の恒性があると教えられた、それが今では一兆個の一兆倍と書かれている。宇宙は数多くの星が規則正しく運行する所と教えられた、それが今では発生と死滅を繰り返す、爆発に初まり、膨脹を続ける体系と書かれている。それらは全て観測器具と統一理論の技術発展のもつ展開である、斯る技術の発展は単に天体物理学の単独の発展にもつものではない、 歴史的形成の発展を分有するのである。望遠鏡の精度の向上には素材の発展から始まるのである。更に科学は仮説と実証によって成立すると言われる。私は仮説には人間の夢とでも言うべきものがなければならないとおもう。この我の内に、与えられた空間・時間より更に大なる時間・空間を構成する可能性と、意志をもつのでなければならないとおもう。この我が見ることが宇宙が宇宙を見ることであり、この我が見ることは宇宙が宇宙を超えて更に深大なるものを露わにしてゆくということである。私がわれわれが通常もつ宇宙の概念は宇宙の空間的方向に抽象されたものであるというのは斯る立場からであり、その根底に歴史的形成があり、宇宙の真の相をその根底に見んと欲するのである。

 私は宇宙的生命というのは何処迄も見るべからざる深さであるとおもう。自己の中に対立を含み、自己の中に自己を見るということは何処迄も見るべからざるものをもつということである。自己の中に自己を見るということは根底に還ってゆくことである、現在われわれに現前する世界の事物は人類が無限に自己の根底に還った表れである。斯る事物が見られたものとして、更に自己の根底に還ってゆくのが自覚的生命がはたらくということである。見るものが見られたものとして、見られたものが見るものとして、自己の中に自己を見てゆくのである。それは無限の形の現前である。私はそれを宇宙の現前とするのである。天体物理学に於ける仮説の如きも、それが仮説として真と言うべきものに非ざるものながら、宇宙が自己の中に見出でた自己として、現在の自己現前として真なるものでなければならない、自己の底に見出でた自覚的生命の実現としての実在性をもつのである。自己の中に自己を見てゆく無限の線の一点として、歴史的現在を構築するものとしての真である。天動説も、宇宙が宇宙を形成してゆく時の一点としての真実をもつのである。一点は自覚的形成の一点として無限の過去を担い、無限の未来を孕む一点である。太古牧童が天を仰いだ時より、未来に見出されるであろう天体像を内蔵する一点である。宇宙はわれわれの内にあるのでもなければ外にあるのでもない、宇宙が宇宙を見てゆくところにあるのである。自己の中に自己を見てゆくとき如何なる時点も抽象された時点としては誤謬である、移りゆく一点として否定さるべき一点である、現在は否まれるべくあるのである。自己の中に自己を見るということが既に否むべく見るということである。併しそれは形成的全体を蔵するものとして真である。形成的全体は初めと終りを結ぶものである。一々の点は自己の中に自己を見るものとして初めと終りを蔵するのである。そこに於ては立 所皆真である、嘘言も真である。

 ホモ・ サピエンスとして現代の人類は全て六十兆の細胞と、百二十億の脳細胞をもつと言われる。私は全ての人が等しい構造をもつということは、一人一人の人が社会構成の特殊点を担うということではなくして、一人一人が世界を映すということであるとおもう。機械の部品の如きではなくして、必要に応じて部署に着くのである。一人一人が形成的に世界を映すものとして特殊点に立つのである。鍛冶工も、清掃婦も世界を形成するものとして工場の隅、病院の廊下にはたらくのである。それははたらく世界の一員であることを知るものである。世界を映すものとして一事に従事するのである。一に従事することは世界を形成することである。証上に万法をあらしめて出路に一如を行ずるのである。斯かる世界形成が、宇宙が自己の中に自己を見ることなのである。宇宙が自己の中に自己を見ることによってある人間が、自己形成的に自己の中に自己を見てゆくことがはたらくことである。われわれのはたらきの一々は宇宙的生命のはたらきとして宇宙に即するのである。形成作用として初めと終りを結ぶものに対応するのである。対応するとは映し合うことである。そこにわれわれは小宇宙となるのである。小宇宙となるとは形成的に参加することによって、われが宇宙を映し宇宙が我を映すことである。内としてもつ表象と外としても表象は常に等しいのである。そこに形成作用はあるのである、外として見る世界は脳細胞の中に宿されているのである、それは宇宙の自己形成として宿されているのである。対応するとは、対面する全宇宙を小宇宙として内的表象としてもつということである。形成ということは絶えず形を生み出してゆくことである、形を生み出すとは現在の形を破ってゆくことである。現在の形を破るということが新しい形が生れることである。現在の形を破ってゆくものはこの我であり、汝である。それは全宇宙を内にもつ小宇宙がはたらくことに よってあり得るのである。一々の小宇宙が、内が外を映し、外が内を映すというは内が外を破り、外が内を破る形成作用ということである。斯る形成作用を除いて宇宙というものがあるのではない、而して小宇宙として宇宙の形を破ってゆくとは宇宙の形成要素として破ってゆくことである。宇宙は自己の内容の一々が自己を超え、自己を包む要素として自己を形成してゆくということである。十億の人が居れば十億の内的宇宙像があるのである。宇宙像に於て人々は宇宙に即し、宇宙に対応するのである、人々は斯る宇宙像が過去の無数の人々の作り上げた宇宙像を受け、それを映し、それを破ると知るのである、即ち 無数の人々が作り破って行った宇宙像が現在として一の像をもち、斯る像を映し破ることがわれわれが宇宙に対応することと知るのである。われわれが内的表象として宇宙像をもつのも、斯る無限の時間の上に構築された宇宙像に依ると知るのである。人類はその人間的同一を以って同一像を見、個人的差異をもって差異像をもつのである、そして個人の生死に於て人類の同一像に牧斂されてゆくのである。

 私は歴史的形成と宇宙的形成を分つものはその時間的差異にあるとおもう。歴史とは人間が人間として物の製作を始めたときからであり、所有の葛藤の限りない変遷にあるようにおもう。それに対し宇宙的形成をいうとき、宇宙創世よりの問いであり、人類が出で来ったものを包まなければならないとおもう。歴史は対立するものの否定と肯定である。果てしない治乱興亡である。併し歴史が成立するには治乱興亡を俯瞰するものがなければならない。古代と現代を一つに於て見るものがなければならない。併しそれは既に歴史を逸脱するものである。私はそこに歴史的形成は宇宙的形成を背景にもたなければならないとおもう。時の統一が成立するには自己の中に自己を見るということがなければならない。存在が自己自身を見るということがなければならない。それは相対的軋轢としての歴史より見ることの出来ないものである。勿論歴史もそれが形成である限り自己の中に自己を見ることによって成立するものである。一つに於て見るものがなければならないとは、斯かるものによって成立するということである。そこに私は歴史は宇宙的形成の上に成り立つとおもうのである。歴史的身体として製作するわれわれは製作に於て絶対に触れる、この触れる絶対は初めと終りを結ぶものとしての宇宙的形成にあるのである。宇宙的生命を根底として、歴史的形成はそれ自身の完結をもつのである。

 禅家に「父母末生以前の己を問え」というのがあるそうである。この我の来所が問われているのである。われわれは父母によって生れた。併し考えて見ればこの我が生れたというも実に偶然である。父と母が結婚したというのも偶然である。若し母が妊娠の日に父が旅にでも出ておればこの我はなく、他日異った者が出生したとおもう。まして父母未生以前といえば無というの他なき我の所在である。斯く問うときこの我の所在は濃霧の中の如きものである。併しての我は出現したのである。六十兆の細胞と百四十億の脳細胞の見事な統一として、世界を映し、世界を形成するものとして現前したのである。更に世界形成的に無限の過去と未来を結ぶものを内にもつものとして、小宇宙として宇宙と映し合うものとして、はたらくものとして現前したのである。私は私の来所をここに求めたいとおもう。この我は宇宙が宇宙の形相を更に深く実現すべく、宇宙的意志とでも言うべきものによって生れたのである。われわれは自覚的として自己自身を知る生命である。併し斯る自己を知るということも生得である。言語中枢はこの我が作ったのではない、もって生れたのである。もって生れたということはこのわれを作ったものが自覚的であるということである。私は宇宙が自覚的であり、われわれは宇宙の自覚の体現として自覚的であるとおもう。宇宙は物質でも精神でもないのである、無限に自己の中に自己を見てゆくものなのである。自己の中に自己を見てゆくものとして生命があり、自覚があるのである。言語中枢は斯る限定の果に宇宙が見出した自己のすがたである。そうゆうことは宇宙は自己を知ることによって自己を形成してゆくものであるということである。言語中枢に自己を見出したものとして、われわれの意識に現われたものが宇宙の相である。知らざる我の来所は宇宙の形成はこの我の出現の如く形成するということである。於世出現としてわれわれの一々は宇 宙と対応するのである。われわれは宇宙の形成的要素として、其の中に生死するものとして宇宙は量り得ざるものである。併しそれに対応するものとしてわれわれの自己は量り知るべからざるものをもつのである。

長谷川利春 

宇宙論と現代短歌

 最近の宇宙論は面白い。宇宙は創生直後は千分の一ミリ径程であったという。現在の宇宙には百億以上の太陽系のようなものがあるらしい。中には角砂糖位の大きさで十屯車十万台で運ばなければならないような重さをもつ径十キロ米位な星が無数にあるらしい。涯がないと思われる宇宙の総質量が千分の一ミリ径の中にあったとは想像を絶する。想像も出来ないものがあったとは楽しい。併し今ここで私が結びつけようとする短歌との関連はそのような内容に関してではない。宇宙理論の発展と対比しようとするのである。

 結論から言えば物質や光りの正体や、新しい物質は理論から見出されているということである。普通は物があって、物の動きを秩序づけ、法則として捉える。併し天体には見えるものによって捉えることの出来ない様々の動きがあるらしい。それには見える物が従来の計測値によって捉えることの出来ない動きをもつものとして現われる。それを捕捉するために或る質量をもった見えない物質を仮定する。それが後に発見されるのである。理論は勿論物質ではない、宇宙の一塵とでも言うべき地球の、その又一塵とでも言うべき机上の理論が億光年向うの物質であるべき筈がない。併し億光年向うの物質は机上の理論値の如くあるのである。それによって我々は宇宙の真実に迫るのである。

 私はこの物質と理論は短歌の具体と観念にその質を等しくするようにおもう。私達は物を見るのに注意作用をもつ、その注意作用は生命の形成としての欲求より起るのである。私達歌人は斯る形成的欲求を言葉の構成に於てもつ。言葉の形成は私達の祖先が長い生活の中に築いてきたものである。物を見て言葉を発し、言葉を出すことによって物を見出て来たことである。私達は小さいときから親や先輩に、美しい花だ、優しい小父さんだと言って教えられて情感を養ってきた。言葉をもって見るということは単に今言葉を出しているということではない。無限の祖先等の経験の目をもって見ているということである。私達が感じるということは常に限り無い時間がはたらいているのである。美しい、優しいというのは、花や小父さんから受取った私達のこころの動きの言表である。観念とはこのようなこころの動きの言表であり、具体とは花や小父さんに即した言表である。

 表現とは今の自己の相を明らかにすることである。私達は自己を明らかにするためにこの観念と具体が必要である。花も小父さんも今私達が目の前にし、或は触れているものである。具体とは何等かの意味で今此処にあるものである。それに対して美しいも優しいも限り無い時間に於て人類が見出してきたものである。観念は価値として永遠の相をもつものである。

 歓び悲しみは来るところを知らず、去るところを知らないものである。今泣いていた子 が笑っとると言われる如く、それは一瞬より一瞬へと移ってゆくものである。短歌は抒情詩として斯る感情が言葉に形をもつものである。一瞬一瞬にあるものは個物としての具体である。ここに短歌表現の具体に即さなければならない所以がある。それでは個物を見るものは何か、それは注意作用に見た如く観念である。永遠に映すことによって、我々は無限の過去、無限の未来を孕む自己に接するのである。

 一瞬一瞬を永遠に映すとは、形として現れるものは一瞬より一瞬へと移りゆく個物である。併しはたらくものは映されたものではなくして映すものである。永遠がはたらくものとして自己自身を見てゆくところにはたらきがあるのである。具体は観念の表出としてのみわれわれは創作をもつのである。注意作用の根底にあるものが観念であり、観念が映すということは、具体は観念の翳を帯びることによって表現があるということである。例を上げれば

 月見れば千々にものこそかなしけれ我が身一つの秋にあらねど

 この世をばわが世とおもふ望月の欠けたることもなしとおもへば

 同じく月に面しながら、ここに表わされた月は異なった相をもっている。前者は冷たく冴えて光量というものを感じさせないのに対して、後者は光り輝く月を感じさせる。ここには未だ明確な固定観念というものはない。併し作者が抱いている観念は主観の内容として観念である。私達がこの歌を読んで本当にそうだと共感するとき、この歌の内容が月を見る時に私達の目となってはたらくのである。そして作歌者の目と自己の目を結ぶものを知性は哀愁とか充実として捉える。そこに固定観念が生れるのである。

 私達は唯漫然と月を見るより、哀愁の思いや充実の思いを投げかけて見る方がよりよく月を見ることが出来るのである。強い注意作用が凝視を生み、中の微細な陰翳を見ることが出来るのである。月の兎の話や、かぐや姫の物語も、暗黒を照らする光りへの長い間の憧憬の中より生れたということが出来る。そして斯る物語りをもつことによって、月はますます光り輝く存在となるのである。ますます光り輝くとは、新しい光りをもつものとなることである。

 明治は、新しい時代精神が写生の観念を生むことによって作歌としての対象の世界を一変した。自然の受用より、物の生産の世界へ目が移ったのである。その時代精神に於て、実相観入は生活詠への転移を必然的に内在せしめていたということが出来る。そこからさまざまな新しい物が生れた。新しい物が生れたとは、意識が新しい陰翳に於て捉えたということである。同じもの同じ行為に時代精神の陰翳を加えたということである。

 前にもいった如く作歌は何処迄も具体としての表現である。而してその具体は観念に於て具体となるのである。密度高い作品構成は観念の深まりに於て成り立つのである。そのことは亦具象がより具象として精緻な姿で捉えられることである。私は創造するものは常により大なる観念を持たなければならないとおもう。

 宇宙理論に於ては、理論値に合わない物質の動きから新しい物質が発見され、新しい物質の発見から新しい理論が生み出されているようである。表現も亦生産手段と生産物の発展は、従来の観念によって捕捉することの出来ないものとなってくるのである。そこから新しい観念が生れる。明治維新より戦前迄は西洋的生産手段の招来と共に、人格・自由・個性・平等等の観念を尊重した、それは生産手段と腹背をなして日本の歴史的発展の基礎となった。個性の自由なる発想より新しい物は生れたのである。短歌も亦個性的であることが要請されたのは耳新しい。

 短歌表現は具体的でなければならないものであり、具体は観念によってより明らかになるとは、観念は具体の中に消化されることによって自己を露わとするということである。 瞬間的なるものは永遠なるものに自己を映すことによって自己を見ると共に、永遠なるものは瞬間的なるものに自己を映すことによって自己を露わとするということである。来るところを知らず、去りゆくところを知らない一瞬一瞬のよろこびかなしみに永遠なるものが形を成してくるのが抒情詩である。物の真に迫ることが、永遠なるものが自己を明らかにすることであり、永遠なるものを明らかにすることが具体をいよいよ具体ならしめるのである。具象に捉えられる短歌の本質は観念の深化である。併しその現われるのはどこ迄も具体である。

 詩人は地球の自転の音を聞かなければならないと言った人がいる。観念の生れるのは歴史的時の動きである。私達は深く時代の動きに耳を澄まさなければならないとおもう。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

子午線より

 舌うちしてポケットベルを止めたりし男いっきに珂琲を飲む 野瀬昭二

 子午線を流し読みしていた私の目はこの一首に止まった。行動的な男性像が不意に浮んだのである。私は歌を読み返し乍ら映像を鮮明にして行った。ポケットベルが鳴ったということは何か急用が出来たのであろう。舌うちは束の間の偸安を奪われたことに対するものであろう。併しここで狼狽することなく、舌うちしたというのは一つ余裕である。余裕とは向後に対する確信である。即ち事態に対応出来る練達者であることである。いっきに珈琲を飲むとは行動を開始したということである。その間断なき動作には、如何にもきびきびとした動きが感ぜられる。前に行動的な男性像と言ったのは、壮年に差しかからんとする筋肉質な男の姿である。眼前の一つの動きを捉えて鮮かな人間像を表現し得た手腕は高く評価したい。

 この一首に触発されて短歌欄を最初から読み返してみた。嬉しかったのは竹内ひさゑさんの健詠であった。あの年老いた細い軀で自転車を漕ぎ、歌会にいつも遅れて、いつも出席していた氏を見なくなってから久しい。病気と聞いたことがあるので、床に呻吟しておられるのかと思っていたら驚いた。出詠されている三首共皆巧い。簡潔でありつつ、ふくらみがありみずみずしい。殊に末首

 土少し双葉に残し傾きて大豆みどりに皆揃ひ立つ

 は克明な写生に作る者の喜びが溢れている。末句、きそひ立つとか、こぞり立つとかの言葉を入れたいような気持がするが、作品の方が落ち着きがあって味わい深い。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

生命は本能的であり、本能は衝動的である。生命が衝動的であるとは如何なることであろうか、広辞苑によれば衝動とは人の心や感覚をつき動かすこと。反省や抑制なしに行動すること。また、その際の心の動き。と書いてある。生命は無限に動的である。私は生命が動的であるとは断るつき動かすものを内にもつことであるとおもう。つき動かすものはつき動かされるものを超えたものでなければならない。超えたものとは動かされるものは動かすものによってあるということである。生命は形作るものである、形作るとは生長としての変化をもつことである。変化をもつとは自己の中に否定を含んだものである、否定するものはより大なるものでなければならない。変化を超えて変化を自己の現れとするものでなければならない。即ちつき動かすものは、つき動かされるものを自己の現れとして生長と死滅に於て形作るものでなければならない。つき動かすものは生命を生長と死滅に於て形作るものとしてつきうごかすのである。

私達は個体として人類の如きが断るものを担うのではないかとおもう。併し人類も生命形成の中より現われたものである。生命形成の三十八億年の中の近々数百万年以前に現はれたものである。変化の中に現われたものであって変化を現わすものではない。私は更に深く根底に還らなければならないとおもう。宇宙は爆発によって初まったと言われ、最初は素粒子のみであったと言われる。それからヘリウムと水素が生じ、やがて分子が出来、分子から生命が発生したと言われる。斯る新たな形が次々と生れたということは宇宙は形成作用としてあるということであるとおもう。形成作用とは、素粒子は分子となるべきものをもち、それを実現していったということである。更に生命となるべきものを胚胎していたということである。それらは全て可能性としてあったものが実現したということである。内に見出したということである。自己の中に自己を見出したということである。

斯る自己の中に自己を見るということが新たな形が生れるとは如何なることであろうか、私はそこに対立と統一の矛盾関係を見ることが出来るとおもう。先に言った如くわれわれは個体としてある。個体としてあるとは個体と個体が対立するものとしてあるということ である。対立するとは相互否定的としてあるということである、相互否定的とは対立するものを変革するものである、そこは常に新たな形の生れるところである。併し個体は対立するものとして、対者によって変革されるものとして自己の中に自己を見るものではない、自己の中に自己を見るものは対立を包んで対立を自己とするものでなければならない。私は斯るものを宇宙的生命に求めたいとおもう。創成のときより自己の中に自己を見ることによって今日のこの我をあらしめたものに求めたいとおもう。私は衝動というものも斯る所にあるとおもう、宇宙の始めより宇宙の動き来った力がつき動かすのである。本能は斯る形成力としてわれの知らざるところよりわれを動かすのである。

私は人間生命を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚的生命とは突然異質なる生命が出現することではない、衝動的、本能的に生を営む生命が自己を見、自己を知る生命となることである。自己が自己を見るとは見る自己と見られる自己に自己が分れることである。そこに私は経験の蓄積があるとおもう。生命は生死としてある、生死とは内外相互転換的に形成することである、外を食物としてこれを身体に転換することである。生命は食物的環境と身体の綜合としてあるのである。綜合として生れるとは、食物的環境の中に生れるのである。食物的環境を外としてこれを内に転換するとは労することである。斯かる労力を少なくせんとするのが経験の蓄積である、少くするとは同じ労力をもって多くのものを獲得することである。獲得は時空を異にするものとして一回一回手段を異にする。蓄積するとはそれを前回獲った手段を今回に応用することである。例えば川があった為に獲物が逃げられず捕えたとする、すると次回は川の方へ獲物を追い立てる如きである。木の枝で打ったら獲物が仆れたので次は棒をもって行く如きである。

それは時間を超えて時間を包むものとなることである、衝動は一瞬一瞬の内外相互転換としてはたらくのである。本能は現在の身体の欠乏と充足に於てはたらくのである。時間は一瞬より一瞬へと転じてゆく、時間を超えて時間を包むとは斯る一瞬を内容として統一するものとなることである。一瞬一瞬は衝動として、本能として生命形成的である。斯かる生命形成を外にして単なる時間があるのではない。統一するとは外を内によって変革し、内外によって変革することによってより密度高い内と外とすることである。棒をもつとは棒を手の延長とすることである、延長とすることによって身体の機能をより大ならしめることである。それと同時に木を身体の内容とすることは外を変革したことである。それは更に外を身体の延長として利用せんとすることであり、環境を身体化せんとすることである。ここに私は見る我と見られる我の生れるところがあるとおもう。時を統一するものが見るものとなり、一瞬一瞬の形成が見られるものとなるのである。私は人間の身体を斯るものに於て見たいと思う。人間は言語中枢と手をもつことによって人間になったと言われる。言語中枢をもつことによって一瞬一瞬の経過を蓄積し、過去として記憶をもち、未来として理想をもつのである。手によってそれを実現するのである。身体は個体として対立するものである。併しそれは形成するものである。私は言語中枢をもち手をもつということは本能衝動の個体保存的身体より世界形成的身体に転じたものであるとおもう。自他の対立が形成的統一に向う身体となったのである。それは否定が奥底にもっていた統一が自己を現わさんとすることである。否定と闘争を内に見るものとして世界形成的となることである。私はわれわれの自覚はそこより来るとおもう。世界形成的として世界を映し、世界に映されるところより来るとおもう。人間が自覚的生命として、私は愛も亦生命が自己自身を見るところにあるとおもう。対立的に相互否定し合う生より、統一に自己を現わさんとする生命になったということが愛をもつ生命になったのである。言葉をもち、手をもったということが愛する生命となったということである。身体が世界形成的に転じたということは、対立する我と汝が世界を内にもつものとして相対するということである。そして斯る対立が世界であるということである。我と汝は世界の中にあるものとして世界を自己の中にもつのである。それは我と汝が世界を内にもつものとして対立することが世界が世界を形成してゆくということである。世界を内にもつものとして我と汝が対立し、世界実現的に争うことが世界が形成をもつということである。世界が形成されるということは世界を内にもつものとして自己を形成してゆくことである。我と汝が対立し、汝によって我が否定されることが我が生かされるということなのである。その逆も真である、そこは他者の中に自己を見、自己の中に他者を見るところである。そこに愛があるのである。

情緒とは身体が形成的に衝動的であることである。斯る衝動は先にも書いた如く世界の自己形成より来るのである。身体は個体として出現する、そこに於て情緒は世界に対する個体保存的である。斯る身体はその形成に於て世界関連へと成熟してゆくのである。根源的なるものが現われてくるのである。言葉と手をもつ身体となるのである。形成の根源的なるものの内容となるのである。そこに自覚がある。愛とは世界へと転じた身体の根源的情緒である。身体的形成の根源としての世界形成の情緒である。それは根源的情緒として原始的情緒に新たな陰翳を与えるものである。喜怒哀楽の如く特有の表出があるのではなくして、それに世界形成の陰翳を与えるのである。身体の衝動的形成の深化として愛は更に深く衝動的である。愛せんとして愛するのではない、愛せざるを得ないものとして愛するのである。知らざる声に呼ばれるのである。それはわれわれがそれによってあるものの深さより聞こえてくるのである。愛は惜しみなく与えるという言葉がある。それは自己保存の欲求的自己より見れば百八十度の転換をもつものである。喜怒哀楽はそこより来る喜怒哀楽となるのである。喜びは与うる喜びであり、怒りは与えざりし自己への怒りである。哀しみは与うるものなき哀しみであり、楽しさは与え切ったものの楽しさである。そこに世界に生きる姿があるのである。そこに世界が現われるのである。惜しみなく与えるとは自己を滅して対象の中に生きることである。他者を明らかにすることである。他者と我との世界として、他者を明らかにすることは世界を明らかにすることであり、世界を明らかにすることは我を明らかにすることである。 愛は世界実現的である。

私は斯るものとして愛は人格的でなければならないとおもう。人格とは世界の中にあるものが逆に世界を内にもつことである。世界が自己の内容として自己を形成することは逆に内容が世界を現わすことである。われわれは世界形成の内容として世界を表現するのである。斯る人格は個性的でなければならない、全てのものが同一なるところに世界はない。異なったものが世界をもつものとして、自己の世界を実現せんとするところに対立があり、それが対話に於て一なるところに世界形成があるのである。対立が一であるとはわれわれは社会生活を営むものとして、社会の無限の分化によって生きているということである。衣を作るもの、食を作るものを作るものと特化し、それが更に無数に特化し、それによってこのわれは生を保っているということである。無数の人々との関連によって一人一人が生きているということである。個性とは斯る世界連関の中に自己の最も良く生き得る所をもつことである。われわれは職業をもつことによって人格となるのである。世界を内にもつとは製作物が流通連鎖によって世界に関ることである。製作するものとしてわれわれは世界を内にもつのである。前にも言った如く世界を内にもつとは世界がこのわれによって実現しているということである。われわれが職をもち、物を作るということは無限の過去と未来が現在に於て実現したということである。素粒子よりはじまり、無限の未来へ転じてゆく宇宙的生命の現在点としてわれわれは物を作るのである。永遠の実現として、無限の時間を内にもつものとして人格はあり、人格の尊厳はあるのである。禅家に平常底という言葉がある。平常とは日日の営みである、服を着け、飯を食うことである。伝票に記入することであり、野菜に肥料を与えることである。底とは、その根底に至ることである。日日のはたらきをあらしめるものを把握することである。言葉によって表現し、体現に於て行動することである。

世界とは人類の表現的空間である。世界を作るものは無数の我と汝である、斯るものとして私は愛が最も深く表われるは我と汝に於てであるとおもう。我と汝というのがそもそも一つの世界に於て見られるのである。形成的世界に於て対立が一として我と汝があるのである。斯る世界の自己実現として互に相対するものの個性を認め、互の世界を育て合うのが愛の実現である。私達は自己の生れ来った所以を知らない。斯く生れんとして生れたのでもなければ、親は斯の産まんとして産んだのでもない、言われる如く神の授りものと して生れたのである。それが斯る個性を以って生れたのである。そのことは神が自己の姿を顕わすものとして生れたのである。個性をもつとはその性格的方向に世界を表すべく行動するものということである。世界は個性に於て自己を露わにしてゆくのである。個性的に世界は自己を実現してゆくのである。

対立が統一の内容となるといっても対立が無くなるのではない、否統一を内にもつ対立 として、愈々大なる対立となるのである。 受験競争、開発競争、企業間競争は世界を内にもつもの、言葉を内にもつものとしての対立である、対立は質的転換をもつのである。そ れは絶えざる競争である。形成はどこ迄も対立の統一である。世界を内にもつということ は力である。単に本能に生きるより、自己を世界の中に消して新たな形を見出すことはよ 大なる力を必要とするのである。私はそこに祖母の孫に対する愛、亦は肉親愛と言わる るものの真の愛でない所以があるとおもう。男女、母子、祖母と孫の愛は完結的であり、閉鎖的である、それは外へ出でることを拒否するものである。独占を要求するものであるそれは言葉のもつ世界性と相反するものである。それは本能の残滓を濃くもつものである。勿論本能も宇宙的生命の自己形成の内容として出現したものである。併し自覚的生命はその上に自己を見出したものである。自己完結的なるものは欲求と充足としてある、そこにあるのは繰り返しである。言葉は創造的形成である。自覚的として言葉をもつ生命はその成長に伴って自己完結的世界に耐えられるものではない、ここに私は転換が要請されるとおもう。対抗と緊張によって形成する世界へと転ぜなければならないのである。世界形成は力であり、個性を打ち樹てるとは力の所有者となることである、世界を内にもつとは努力である。私はここよりわれわれの愛の形は来るとおもう。世界の自己形成の内容としての我と汝として、我は汝に、汝は我に何処迄も深く自己の中に世界を見ることを要請しなければならないのである。本能的欲求的残滓を捨てて内に獲得した世界を以って対話することを求めるのである。既成の安易を捨てて新たな展望への努力を求めるのである。「可愛い子には旅をさせ」という言葉があった。昔旅をさすということは他者の中に放り出 ことであった。庇護なき所に生きてゆくことであった、そこに生きることは世の中の体得であった。そしてそれを子を愛する真の道と教えたのである。私はここに自覚的生命の自己形成があるとおもう。旅に出すとは豺狼の中に入れるようなものであった。それは肉親の情として忍び難いものである。併しそれを超えて出すべく世界が要求するのである。一個の人間が世界の形成要素として、世界がより大なる自己の形相を見ようとするところより要求するのである、そしてそれに応えるのがその人の成長である。そこに愛は自己の深層を具現するのである。

私は前に愛せんとして愛するのではない、愛せざるを得ないものとして愛するのであると言った。そのことは愛せんとすることが空虚であるということではない、愛せんとするものの根底に愛せざるを得ないものがあるということである。世界を内にもつものとなるとは意志をもつものとなることである。意志をもつものとなるとは内にもつ世界を実現せんとするものとなることである、そこに自己がある、われわれは行為するものとなり意志決定者となるのである。そこに於て愛せざるを得ないものは愛するものとなるのである。宇宙的自覚がこの我に於て実現するとき、愛せざるを得ない衝動は愛することによって実現するのである。世界形成としての我と汝は何迄も対立するものである、対立するものは否定し合うものである。それは何処迄も憎しみである。愛は生命の自覚的出現として純一である、併しそれを実現する身体は形成的として過去を背負うものである。われわれが母の胎内に於て最初に現れるのは水棲動物の形態の残痕であると言われる。それから両棲類の形をもち、哺乳類の形となり、生れたときは類人猿に似ると言われる。生命発生より人類が辿ってきた発展の系譜を全部体現すると言われる。身体が斯る系譜を内蔵するとき、情動は無限の過去の熔炉としてあると言わなければならない。愛が自覚的形成の情緒であるとは、斯る混沌の光被として出現したということである。それは過去を内容として形相を転換することである。本能は理性に照して混沌である。本能を新たな光りに照し出すことなくして愛の内容はない、内容のないものは何ものでもない、実現する愛とは対立するもの、憎しみ合うものの形を転ずるものである。

生命は一々が完結的である、完結とは外と内とが対立しつつであるということであ る。蛙の形は内外相互転換的に見出して来た時空を包む形である。道元は魚を以水為命と言い、鳥を以空為命という。そこは生きるものの自らなし来ったものである、内外相互転換の生命の表出が情緒である、情緒は身体の営みの表れである、犬の情緒は犬の生の表れである。その表れをなくしたとき、犬は死せるものとして犬ではなくなっているのである。乳幼児が類人猿に似た形をもつということは乳幼児は尚類人猿に似た情緒に生きるということである、本能的ということである。乳幼児の生命の完結は肉親との関りということである、肉親の情緒に生きるのである人間のみがもつと言われる言語中枢は遺伝であろう、併し言語は遺伝ではない、学習である。成長するとは学ぶことである、学ぶとは個として生死するこの我を超えた形相を我の内容とすることである、理性的となることである、秩序を学ぶのである、技術的構成的となるのである。ここに自覚的形成が本能に対して光被となる所以があるのである、自覚的となるとは本能的なるものが秩序的構成的となることである、本能的行動をより大なる生命形相に組織するのが自覚的形成である。

学ぶことが技術的構成的であることは最早遺伝的伝達を超えたということである。学ぶ者に対して教えるものがあるということである。本能の本に築かれたものとして、言葉そのものが生の形態として最初それは肉親が担う、併しそれはやがて生産体系としての技術に長じた者が師とし教えるものとなるのである。そこに肉親を超えた社会人としての我の確立を見るのである。そこに師弟愛が生れる、それは技術に生きるものとして世界を内にもつものとしての意志実現であり、世界を介して結ぶ愛である。技術は世界の自己形成として無限に深い、それを学ぶことは努力であり、苦痛である。師の愛は習得せしめんが為に叱る愛となり、鞭打つ愛となるのである。学ぶものの愛は師の中に潜められた世界の深さへの尊敬の情となるのである。世界を内にもつものとして、人格として、意志として愛するものとなるのである。私はここにより大なる生命としての愛の発現があるとおもう、愛するものとしての愛の深化があるとおもう。人格愛に於て愛は本来の相を現わすのであ る。肉親の愛も人格愛となることによって愛を完成するのである。それは親の子、子の親 でありつつ世界を内にもつものとして世界形成的な対話をもつものとなるのである。

神は万物を愛によって創ったと言われる。愛によって創ったとは如何なることであろう か、私はそこに万物の一々が宇宙を映すことによってあるということが言えるとおもう。全てあるものは対立するものとしてあるのであり、対立するものは否定し合うものとしてあるのである、否定し合うとは対手の形を変革するものである。変革するとは新たな形が生れることである。新たな形が生れることが宇宙の形成作用である、対立するものが変革し合うことは、対立するものが互に相手を映し合うことである。互に他を自己の内容とすることによって密度高い形が生れるのである。密度高いとは秩序をもつということである。生命の世界に於ては生存競争による新たな機能の獲得をもつ、新たな機能をもつとはより大なる行動力をもつことである、そこにより大なる時間・空間が生れる。それが宇宙が自己の中に自己を見ることであり、宇宙の創造である。われわれは機能をもつもの、行動するものとして常に内と外はこの我に消え、この我より出ずるのである。そこに我は宇宙を映し、宇宙は我を映すのである。一瞬一瞬は我をあらしめるものと一体である。斯る生命がわれわれに於て自覚的である。それは宇宙的生命の自覚が我の自覚であり、我の自覚が宇宙的生命の自覚である、われわれはそこに宇宙の無限の時間に生きる自己を知るのである、そこに大きなる愛に抱かれた感情をもつのである。斯る感情は何処迄も我と汝の対立として作られたものとして、我は汝に感じ、汝は我に感じるのである。更に我と汝をあらしめたものとして全人類に感じ、人類をあらしめたものとして全生命に感じ、生命をあらしめたものとして全宇宙に感じるのである。

みみずの宇宙はその行動の及ぶところの、感覚の受容する範囲である。その感覚の受け取ったものが宇宙の様相である、それはわれわれ人間の多様より言えば言うに足りないも のである。併しそれによって他を変じ、自己を変じてゆくのは宇宙の自己形成としてあるのである。みみずの形態は宇宙の自己形成の一つの完結としてあるのである。それはわれわれの身体が宇宙の一つの完結であるのと同じである。みみずは勿論その解剖的結果から 押して愛の感情を持たないであろう、併しわれわれ人間は自己の中に大なる時間・空間の 完結に感じる神の愛より押して、みみずの持つ宇宙の完結に神の愛を見るのである。西洋の人は天なる星と、内なる道徳律という、天の整正と、我の整正、そこに万物を作った神の愛を知るのである。

我と汝の対立が一として宇宙的生命の自覚的形成があるとは、この我、汝の一々が宇宙に対応するということでなければならない。対応するとは全宇宙が自己に現れるということである。宇宙の自覚はこの我の自覚にあるということである、ここに自愛が生れる、われわれは宇宙的生命の表れとして自己を尊敬するのである。断る表れは対立するものとして、汝を我に映し、我を汝に映すことによってあるものとして、同時に汝を我の成立の根底として愛するということでなければならない。それは何処迄も宇宙が宇宙自身を見るものとして同時である、併し対立するものとしてこの我より見るとき、汝によって我を見るものとして汝への愛がより根底となるのでなければならない。道元は利他を先とすべしという。この我の生命の成立は宇宙が自己を見るところにあり、この我は宇宙的生命の内容として他者を根底にもつところに利他を先とすべしという命題は現れるのであるとおもう。利他を先にすべしとはこの我の利益が失われることではない。汝はこの我の利益を先とするのである、愛に於て相互が自己を捨てて自己の根底に還るのである、そこに世界が実現するのである、世界が世界を見るのである。宇宙的生命は人類に於て世界として実現するのである。われわれはそこに神の愛を知るのである。

長谷川利春 「自覚的形成」