母が教えてくれたところによると、前の私の家は曽って江戸時代に大門で盛大を極めた素封家、水木氏の分家が貧乏したのを買って建てたらしい。この度新築するために壊した時は既に買ってから八九十年を閲(けみ)していたのであろう、柱の下部二十糎(cm)位は殆んど継いであり、その継いだ木も亦下部が腐って挫けていた。殊に納屋を改造して鎌の柄付の作業場にした処はひどかった。壁が矢張り下部二十糎程崩れて骨竹が露わになっていた。それを焼板を張ってかくしていたのである。

 或る日作業所の床下から小さな動物の鳴き声が聞えて来た。皆はねずみが子を生んだのであろうと言い、いや猫の子だと話していた。声は日増しに大きくなっていった。四五日経った頃、焼板の大きく裂けた所より犬がのっそりと出て来た。見ると腹を大きくして村の中をうろついていた黒い犬である。私を見るとそれ程恐れる風もなく、やや急ぎ足で裏の田の方へ走り去って行った。うろついていたのは産む場所を探していたのであろう。そして私の家の壁の破れが撰択の場所となったのであろう。

 生れ来たものは仕方がないとして野犬は困る。そうでなくてもその頃野犬が増えて夜歩きなどは危険を感ずることがあった。今の内に禍根を絶たなければと思って保健所に電話した。早速来て下さったが、密閉された床下では何うしようもないとのことであった。それで、可哀想であるが親犬の出入口を塞いで餓死させることにした。私は犬の力ではとても動かすことが出来ないとおもう石を探して来て裂け目に置いた。そして寝る前に一度見に行った。仔犬は前より激しく鳴いているが石はそのままである。私は安心と少しばかりの心の痛みを抱いて寝た。翌朝早く見に行った私は自分の目を疑った。壁の裂目から黒い親犬が出て来て走り去ったのである。見ると石はそのまま置いてあり、その隣の焼板が破られて壁土が落され、壁下地の竹が折られて丁度犬が出入りする位の穴になっている。私は驚いた。焼板壁土は兎も角八九十年経たと言っても壁下地の竹は人間の力でも折るのは容易ではない。それこそ一晩中かかって死物狂いで開けたのであろう。私は何か壮厳なものを見る思いがした。併し多くの人の迷惑を思えばそんな感情に関っていることはできない。私は亦石を置いた。それから犬と私の根較べが続いた。作業場の壁の外側は大部分石が並んだ。床下の仔犬は健かな鳴き声をいよいよ大きくしている。

 そんなことが続いた或る日、親の出入りする穴から仔犬が五匹這い出して来た。天気が好いので日光を浴びに出たのであろうか、丸丸肥って親に似た黒いのが四匹、茶と白の縞になったのが一匹である。私は好機至れりと走り寄って、穴の中へ逃げようともぐり込む最後の一匹を摑えた。そして頼んで保健所へ持って行ってもらった。併し私が捕えたのはそれ一匹のみであった。それ以後警戒心を増し、脚は日毎に速くなって行った。早く捕えなければ成犬になってしまうと会う人毎に語っていると、そんなら捕ってやろうという人が現われた。私は保健所の人でさえ匙を投げたものを何うして捕えるのだろうかと思いながら、獲れなくて元々と思い頼んだ。その人は翌日大きな網をもってきた。そして竿を探して来て犬の出入りの穴より少し離れた処に張った。そして少し時間が経って見に行くと、折柄の好天に誘われたのであろう四匹の仔犬が出て来て網の中で遊んでいるではないか。その人はそれを見るとずかずかと歩み寄った。私はてっきり仔犬等は慌てて穴の方へ逃げるであろうと思っていた。豈図らんや仔犬の逃げたのは網の奥の方であった。それを網でそのまま包み、竿を外して軽トラでそのまま持って帰ってくれた。

 その後やれやれとおもう半面流石に哀れであった。生命を賭けて壁を破った日々、犬は子を奪われたと知ってどのような狂乱の姿を示すのであろうかと寝ながら耳を澄した。併しそれに関る音は聞えなかった。翌日犬が近くに現われた。併し悠然と歩んでいるだけで仔犬に関心があるように見えなかった。私は信じられないものを見るような気がした。あのように悠然とし乍ら急に飛び掛ってくるのではないかという幻想を抱いた。それは杞憂であった。出入の穴も前日と変っていない。それでも四五日は私の家の周辺をうろついていたが、十日もすると姿を見なくなった。

 今思い出し乍ら私はペンを取っている。私はその時その破壊の執念と、取られた後の淡白な行動をつなぐものは何かと考えた。勿論それは愛情と愛情の消滅であろう。併しあの際立った激情と淡白は何によるのであろうか。私はそこに考えられるのは仔犬の鳴き声しかないとおもった。餌を探して外をうろつく親犬と、床下の仔犬をつなぐものは乳を欲る仔犬の鳴き声である。淡白というより無関心になったのはその声が聞えなってからである。斯る声とは一体如何なるものであろうか。

 私はそこに生命形成を見ることが出来るとおもう。現在地球上の諸々の生命の形相は、生命発生以来三十八億年の年月によって形成し来ったものである。無限の生死を介し、無限の生死の総括として現在の生命の形はあるのである。無限の生死を介するとは、生死を超えて、生死を繋ぐものがなければならない。私は断るものを声に求めることが出来るとおもう。声は呼びかけるものである。そこにあるのは我でもなければ汝でもない。我と汝があるのである。呼びかけ応えるところより我と汝が見られるのである。呼び応へるところに我と汝が見られるということが世界が露わとなるということである。われわれが言葉をもつということは、われわれは露わとなった世界の内容としてあるということである。私達がこの我が呼ぶとおもうのは、世界の一つの内容として世界形成的にあるということである。言葉とは世界が呼び交すことによって自己を露わにしてゆくものとして、露わにするものを蓄積し、世界形成の核となるものである。呼び交すことによって世界は自己を形成するものとして、無数の我と汝を内に包み、無数の我と汝を内にもつことによってより大なる中心へと歩みを進めるのである。斯る我と汝の呼び交しが世界が世界を見るものとして、世界が世界を見るということがこの我が我を見るということである。

 私は犬の生命形成も呼び応えるものとして声の形成にあったのではないかとおもう。 仔犬の乳を欲る声は三十八億年の生命形成の声なのである。その声に随うことによって自己の生命を見ることの出来る声なのである。猛烈な壁の破壊は、それに背くことによって己の命も失うものの行動であったとおもう。仔犬の乳を欲る呼び声は、犬の種が太初より形成し来った現れであり、未来に形成してゆく立脚点なのである。個々の生死を超えて種の存続をあらしめるものの現れである。そこに個の生命があるのである。生命は生死するものが、無限の過去と未来を内にもつところにある。個は無限の時を映すことによって個である。呼び交す個は逆に呼び声の中に生命をもつのである。私は斯る無限の形成的時の声が命令として親犬にはたらくのであるとおもう。そこに生きるものとして、親犬の必死の行動があったのであるとおもう。

 生命は生死するものであり、生死することに自己を形成するものである。死生転換として内外相互転換的である。私は声もそこに生れるのであるとおもう。仔犬の声は餓死を生に転ぜんとする叫びである。親犬の応えは種の中に生きてゆく自己の死生転換である。そして叫びには常に応答が予期されている。私は声の円環性とでも言うべきものがあるとおもう。背後に世界の自己形成というものがあるとおもう。円環性をもつとは自身に完結をもつということである。声を発するところを初めとして、応ふるところの終りをもつのである。初めと終りを結ぶのである。或は応えがないかも知れない。亦応えは必ず死を生に転ずるものとは限らないであろう。併しそこは無限の時を包む生命形成の現在としてあるのである。生命がそこにあり、それによってあらしめられるものに生きるのである。一々の呼び交しを一つの完結として、生命形成は完結より完結へと転じてゆくのである。私はカントの無条件命令というものも斯るものに根底を有するのであるとおもう。それは我の声でもなければ汝の声でもない、我と汝は対立し否定し合うものである。そこから完結は生れない。併し我の声、汝の声なくして声一般というのはない。生死をもつものは生一般ではなくして、何処迄も個としてこの我、汝である。完結をもつとは、この我汝の一々の声が形成的生命の無限の時を蔵することである。時の蓄積を担うということである。そこに個は個を超える、我の声、汝の声は世界を表わすものとなるのである。我と汝がそこに見られるものの声となるのである。我と汝の矛盾と対立も世界が世界を見るものとして呼びと応へをもつのである。そこにわれわれは飜えりをもつのである。我の声、汝の声が世界が世界を形成する声となるとき、われわれはそれに随わざるを得ないのである。

 人間は自覚的生命としてわれわれは声を言葉としてもつ、言葉は無限の時を蓄積するものとして、それは最早生得的なものではない、学習し、思惟するものである。生命発生以来の死生転換の総括として技術的構成的である。矛盾に生きて来たものとして、激情、絶望、希望、理想、悔恨、慰謝、救済その他全てを内に包むものである。斯るものとしてわれわれは言葉に表われることにあるものである。われがあるとは言葉に表白することによってあるのである。それによってわれわれは危機に対するのである。死生転換をもつのである。否言葉によって自己を見出したわれわれは、言葉が危機を作り、言葉が危機を救済するのである。そこに言葉は自己の豊饒を実現してゆくのである。言葉が自己の豊饒を実現するとは、何処迄も我と汝が死生転換の対話としてあり、我と汝の対話は言葉に於てあるということである。そこは我があるのでもなければ世界があるのでもない。世界が世界を形成するということがあるのであり、我と言葉は世界の自己形成の内容としてあるということである。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

色彩について

 何処迄も灰白色の砂の拡がった中程に帽子を被った人を乗せた馬が四、五匹立っている。蒙古の写真である。こう世の英雄成吉思汗の墳墓を探索に行った人が撮ったらしい。私は眺め乍らこの涯しないものを疾駆することより生れる大なるエネルギーを思った。それと同時に私が此処に住めることが出来るかとおもった。私は何うしても否と思わざるを得なかった。広漠たる砂の単調な色、それだけで一週間も居れば気が狂いそうである。それに対して私達の周囲は何と豊富な色彩に恵まれていることであろうか。山野は緑に満ち、草花は万色を競うている。空を飛ぶ鳥は各々羽毛の色を異にしている。しかもそれ等は四季の移りと共に無限の変化をもつのである。木の葉の緑一つにしても芽の萌え出る色、若葉の色、葉緑素を蓄えた夏の色、落葉する前の秋の葉の色と移ってゆく。このように変化する中に育ったものが、唯砂より太陽が現われて砂の中に沈んでゆく、その明け昏れに耐えられることが出来るとおもうことが出来ない。私は一つの地球の同じ地表にあり乍ら何うしてこのような差が生れたのであろうかと考えた。そして私達の周辺に豊かな色彩をもたらせてくれるものは有機質であり、単調な色の砂は無機質であることに気が付いた。それでは何うして有機質はこのように多くの色彩を持つことが出来たのであろうか。生命は三十八億年前に出来たと言われる。そして生命は出来た時には単細胞であったと言われる。そのとき果して細胞は多くの色彩をもっていたのであろうか。私はぞうり虫などの単細胞動物から類推するが、海中に極彩色の図絵を繰り拡げたであろうと思うことは出来ない。そうとすると生命は発展途上中に多くの色彩をもったと思わざるを得ない。それは如何に して可能だったのであろうか。私は考え乍らこの夏の経験に思いを馳せていた。

 私は夏になると好古館の東にある公園に行く。公園には多くの楠の木が植えられている。その中に特に大きな一樹がある。その枝葉を拡げた蔭となるところにベンチが置かれていて、そこを通う風が涼しい。私はそこに寝転んで本を読み、瞑想にふけるのである。そうしているとこの木の何処かに巣を作っているのであろうか、大きな目の紋様をもっている蝶が時折り舞降りてくる。私はこの目の紋様は何うして出来たのであろうかと考えたのである。その目は丸く鳥の目に似ていた。それでは何故鳥の目に似たものが翅に現われたのであろうか。私はそこに鳥の目への恐怖があったのではなかろうかと思った。恐らく棲息空間を同じく樹にもつものとして、蝶は鳥に襲われ続け、食われ続けてきたであろう。生存を続けるためにはそれに対して二つの方法がある。一つは逃げることである。一つはより大なる力をもつことである。蝶はその生命細胞の模索に於て、あらゆる逃走への努力をしたであろう。それと同時に強者への模索を続けたとおもう。私はこのより大なる力の形成の方向に目の紋様が現われたとおもうのである。襲われ続け、食はれ続けた目への恐怖をより大なる目をもつことによって克服せんとしたのである。舞い降りてくる蝶は、畠に於て菜の花やたんぽぽに止る蝶の三倍はあろうかという大きさであった。目の大きさはその翅の半ばを領じ、それは翅全体が目であると思わせるものであった。正確に思い出せないが、色彩は青や紫や黄の鮮かなものであり、幾層にも円を描いていた。それは如何なる鳥の目も及ばないであろう大きさをもつものであった。私はこの目の紋様は逆に鳥を威嚇せんとするものではないかとおもった。

 生物の身体は保護色と警戒色をもつというのを曽って読んだことがある。保護色は逃れんとする方向に、警戒色は威嚇する方向に生命が自己を維持せんと見出してきたものであるとおもう。生命を維持せんとして色彩が現れたということは、敵と我、生と死の中より身体の色彩は現われたということである。蜂の黄色と黒色は、太陽と闇の生命に最も強烈に迫ってくるものを求めたのであろう。それは他の生命に最も強烈に迫ってゆくものだからである。そしてそれは体内に他を殺傷する毒をもつという、細胞の力の確信から生れたのであろう。雨蛙は草に居れば鮮かな緑色をもち、樫の木に居れば幹の灰白色の網模様が現われる。それは唯他者の目を逃れることによって生存を保ち得る生命細胞の知慧の現れであろう。私は生物の生態について多くを知らない。故に雀や鷺の一々に論及する力をもたない。併し生態は生存維持としてあるとおもうものである。全ては生死としての自と他、生と死より現われたとおもうものである。私は有機体のもつ色彩の限りない多様は、何千万と言われる生物の種の生と死、他者と自己の織なす縞模様であるとおもう。

 植物も芽生えて枯れるものとして、生命としての同じ形態をもつとおもう。唯植物は 光合成をもつものとして、自己の成長エネルギーを自己がもつ、そこに否定と肯定の関係はない。植物が他者に関るのは花粉の媒介者としての虫である。それは否定してくるものではない。併しそれは種に於て存亡に関るものである。私は蜂や蝶の視覚構造を知らない。併しそれは千紫万紅妍を競うものである。私達は色彩と言うとき繚爛たる花園か、女性の晴着を目に泛べる位である。花の色も生死の中より作り上げられたといって過言ではないであろう。冒頭に書いた砂漠の単調は生死をもたない無機質の必然であり、索漠たる感じは生死を介して見出す生命の形相の稀薄さによるのであろう。

 死は悲しみであり、生は喜びである。生物が生と死の相克の中から色彩を見出したということは、私は色彩の根底には深く喜び悲しみが潜んでいるとおもう。勿論太陽の光線に喜び悲しみがあるというのではない。それをわれわれが見、見ることによって自己の内容とするとき、その視覚の構成に於てよろこび悲しみが潜み、潜むことによってはたらくものとして見るというのである。否定と肯定の、生と死がはたらくというのである。月見れば千々に物こそ悲しけれわが身一つの秋にあらねどと歌った人に差した光りも、「この世をばわが世とおもふ望月の欠けたることもなしとおもへば」と歌った人に差した光りも、物理学的には同じ光りであろう。併しての二人が月を描くときその色彩が異なるのではあるまいか。それは二人の人が月を異った色彩で見ているのである。そして私は色彩はそこにあり、色彩の豊潤はそこより生れるのであるとおもう。動物の身体の色彩、花の色彩の無限の多様はこれと同じ生命の原理がはたらくところより現われたのであるとおもう。

 色彩に暖色、寒色というのがあるというのを読んだことがある。私は以上のような私の考えを踏まえて、逆にそこに色彩の本質があるようにおもう。暖と寒を分つものはこの我の体温である。暖は生の肯定の方向に、寒は否定の方向に見られるのであろう。私は浅学にして何色を以って暖色とし、何色を以って寒色とするかを知らない。 唯漠然と橙色のようなものを以って暖色とし、青色のようなものを以って寒色とするのではないかとおもうのみである。橙色には太陽の光りを一杯に受けているような感じがある。青色には太陽の光りを吸い取って仕舞ったような感じがある。ともあれ私が言いたいのは、われわれのもつ色彩は情緒と表裏一体としてあるのではないかということである。情緒は動的生命としての身体の直接の表れである。それは生死を軸として表われる、喜び悲しみは一瞬一瞬の生死の方向への表れである。色彩の現われが生死を基礎とするとすれば、色彩は身体の皮膚が描く生命の情緒ではないということである。正確には何うしても思い出せないが、曽って何かの本で発情期になると皮膚の色が変る動物、怒った時に鮮明になる動物の記事を読んだことがあるようにおもう。人間でも怒ったときに満面朱をそそぐと言った言葉がある。植物は情緒を持たない。併し花のもつ色彩は内の現れとして、一つの生命の明化として、動物の情緒のあらはれに比すべきものがあるようにおもう。

 われわれが色彩を見るのは現われたものによって見るのである。われわれが最初単細胞動物であったとき、われわれの目に映るものは唯の混沌であったであろう。それが自己と他者として識別すべき色彩をもった、そのとき目は識別するはたらきとしての能力をもったのである。色彩をもつことによって識別する能力をもったのである。目があって色彩があるのでもなければ、色彩があって目があるのでもない。色彩と目に自己を具現する無限な生命の創造の内容として色彩と目があるのである。現われることは見ることであり、見ることは現われることである。色彩を対象として、目を主体とする通常の考えからは、対象的方向に無限の色彩の世界があり、目をそれを開いてゆくと思われる。併し対象と自己というものからは、色彩の世界があるということを如何にして知り得るか、目は如何にしてそれを開くことが出来るかを明らかにすることは出来ない。後者は前者を抽象することによって得られた概念であり、前者を踏まえてのみ説明することが出来るのである。

 色彩と目が創造的生命の内容として顕現するということは、自覚的生命としての人間に於て、必然的に芸術への発展をもつことであるとおもう。自覚とは対象に自己を見ることであり、対象に自己を見るとは物として製作することであり、製作するとは手を加えて見ることである。画家は描くことによって見るのである。それは対象を写すのではない、内なるものを表現するのである。否対象を見るというとき既に内なるものの目をもって見ているのである。自己を形成し来った時間の深さに於て、自己のあるべき姿を見ようとする目がはたらいているのである。表現とは無限の過去をもつものとしての生命が、現在の生死、否定と肯定の転換をもつことである。そこに新たな形が生れるのである。画家はそれを描くことに見出してゆくのである。手は物を作り、物は作る者を超えるものとして世界を形成する。手を加えて見るということは世界が現われることであり、世界が現われるということは、われわれの本来の相が世界としてあり、本来の相を実現したということである。斯くして描いたものを世界として、世界に自己を映し、自己に世界を映すことによって無限の内面的展開をもつのである。新しい色彩を見出してゆくのである。私は自覚的創造的生命としての人間の色彩はそこにあるとおもう。而して世界形成的に色彩が無限の展開をもつということは、色彩が情意の形相的顕現としてあるということである。生死をもつ生命として人間生命は常に危機として存在する。危機の自覚として人間は死そのものに対する、蝶の如く鳥の目によってのみ死に対するのではない。自己としての死の観念に於て死と対するのである。そこに威嚇や逃避と異った色彩を生んでゆく、そこにより大なる憂愁と歓喜をもつ、日常の全てに生と死の翳を宿すのである。日常の微かな変化にも否定と肯定の綾を見るのである。私は画家の表現衝動はそこより生れるとおもうのである。自覚的生命として現在の底は無限の過去と、無限の未来につながる。歴史的形成的生命として日常の一々は永遠を宿すのである。瞬間が永遠を宿すということが生と死の翳を宿すということである。表現とは一々の瞬間に現われる永遠を形に見ることであり、創造とは色彩で言えば多彩となることである。色彩の愈々豊富となることが視覚の創造である。

  描くことによって見るとは、描いたものを外として、それに対することによって愈々深 き自己を表さんとすることである。外としてそれに対するということは、描いたものが自 己を離れて世界の内容となることである。それによって自己を見るとは、自己も世界の一要素として、世界が世界を見るということである。自己が自己の底を見るとは、自己が未だ知らざる自己を見ることである。併し私達は知らざる自己を見ることは出来ない。知らざる自己を見るということがあり得るためには、自己の底にはより大なる自己があるのであり、その大なる自己が自己を開くということがなければならない。その大なる自己が世界であり、生死は開く鍵であり、製作は行為である。

 画家は画布の前に立ったとき、如何なる形が生れるか知らないという。目が手を動かし、手が目をはたらかすのである。色彩が色彩を呼び、線が線を生むのである。無限の喜び、悲しみが自己の露わなることを求めるのである。無限は世界の内容である。画家は知らざる手に導かれるのである。私はそれは限り無い生死の底に、蝶の翅が生んだ鳥の目と紋様と同じ生命がはたらいているとおもう。そして鳥の目にない鮮かな色彩が現われた如く、対象の持たない微妙な色彩を生んでゆくのであるとおもう。世界が世界を運ぶところに画家の目がはたらき手が動くのである。

 自然は芸術を模倣するという言葉がある。描くということは目を作り、手を作ることである。私達が見るとは見出したものを内容として見るのである。見出した色彩が見るものとしてはたらくのである。見出した色彩は現在の情緒の現われとして、現在の生死として次の現在へと移ってゆくのである。見出されたものを足台として、次のより大なる世界へと歩を進めるのである。そこに生命形成の世界があるのである。見出したということは見る目を作ったことである。豊富なる色彩を見たということは、豊富なる色彩を内容とする目をもったということである。見るとはその目によって見るのである。自然は芸術を摸倣するとは、われわれは自然を見るときにこの目をもって見ることであるとおもう。自然の色彩と形は芸術的創造の目によって与えられるのである。人間の内面的発展の目によって自然は形をもつのである。或は自然はわれわれを超えたものである。何うして人間の内面的発展によって自然の形を作るかと言われるかも知れない。併しわれわれは自然に触れることによってのみ自然を知ることが出来るのである。触れることによって自然を知るとは、自然とは体験の露わなものであるということである。自然がわれわれを超えているとは、われわれは自己の底に自己を超えたものをもつということでなければならない。体験が露わになるとは、斯る自己の底に自己を超えたものが露わとなるのである。これを露わにするのが手と目であり、露わとは世界が現われることである。自然は自覚的生命の、世界形成の内容となることによって自然である。われわれがそこより出で、そこに帰るものとして自然である。自然は芸術を模倣するとは、芸術創造によって自然は新たな息吹きをもつものとなることであるとおもう。芸術創造によって自然は新しい色彩をもち、新しい生命をもつものとなるのである。そこに世界が世界を運ぶということがあるのである。十八世紀の自然主義とか、現在の自然観といわれるのは、自然は常に人類の世界創造の内容であるということである。

 感覚は識別作用であると言われる。識別とは視覚に於ては色彩と色彩を分つことである。私は、識別には注意作用が必要であるとおもう。そして注意作用は深く根底に生死の翳を宿すとおもう。生死の翳を宿すことによって生命細胞は、太陽光線による七彩とその中間色を皮膚に現わしたのであるとおもう。画家はその上に立って無限の色を見るのである。私は斯く考えることから注意作用は創造作用であり、識別は創造の内容であるとおもうものである。而して創造作用は見られたものが見るものとして、無限に新たな識別をもつのである。新たな識別をもつとは、新たな情調が生れることであり、新たな情調は更に新たな色彩を生んでゆくのである。それを色彩より見れば色彩が色彩を生んでゆくのである。そこに注意は変化に敏感であると言われる所以があるとおもう。画家は全身が目となると言われる。感覚は創造的生命の身体の尖端して無限に動的発展的であり、そのことは赤色彩が色彩の内面的発展をもつということである。私は斯く創造的であることによって感覚は識別をもつことが出来るのであるとおもう。識別とは新たなものを生むことによってもち得るものであるとおもう。

 純なる目を持って見るとき、見るもの全て美しいと言われる。私は純な目とは創造的生命として、色彩が内面的発展をもつに至った目であるとおもう。芸術的創作の目であるとおもう。生死を宿すものとしての最初の色彩は恐怖すべきもの、勇躍すべきものであったとおもう。そしてそれは発展するに随って快適なるもの、嫌悪すべきものとなったとおもう。それは対象がこの我と否定と肯定に於て対立するものとしての色彩をもつものとしてあるということである。この我としての目で見る限り、対象は否定と肯定に於て対立するものとして好きな色彩と、嫌いな色彩に分れるのである。女性が服装を択ぶとき、識別は尚この段階に止まるとおもう。芸術的創作とは更に深き自覚の上に立つのである。道元禅師は「生死即涅槃と心得て、生死として厭うべくもなく、涅槃として希うべきもなし、このとき生死を離るる分あり」と言っている。画家の創作は斯る生命の視覚的実践である。生命の否定と肯定の底には大なる調和があるのである。色彩はこの調和を実現するものとなるのである。それが色彩が色彩を生むということである。色彩が内面的発展をもつということである。そこに於ては最早現実の生死が色彩を決定するのではない。生と死は映し合って無限の色彩を生むものとなるのである。生と死に於て否定し合う色ではなくして、否定と肯定を陰翳として一を実現する色彩となるのである。生と死の交叉こそが本当の豊かさを実現する色彩となるのである。生死即涅槃として、全身目となり、知らざるものに手が導かれるのである。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

感覚

 生命は形成的であり、形成は内外相互転換的である。内外相互転換とは内と外とが対立的に一であるということである。外は内を否定するものであると共に、それによって内が成立するものであり、内は外を否定するものであると共に、それによって外が成立するものである。動物は斯る外を食物として、内を身体としてもつ、食物は我ならざるものである。而して食物なくしてわれわれは身体を維持し得ざるものである。食物は我ならざるものとして、欲するままに得られるものではない。若しそれが欲するままに得られるものであればそれはわれの内容であって、我ならざるものではないといわなければならない。それは常に乖離をもつものであり、努力なくして得られないものである。死を距てて対するのであり、行動によって獲得するものである。獲得することによって死を生に転ずるのである。食物を摂ることが死を生に転ずることである。動物とは生存を維持するために行動を必要とするものである。食物を獲得する範囲を環境として、ここに死生転換をもつものである。環境は死をもって迫ってくるものとして身体に対するのである。

 斯かる死生転換が生命の形成作用ということである。行動に於て我ならざるものを獲得するには身体が技術的機能的でなければならない。行動とは内発的な力で動くことである。内発的な力で動くには自然の重力を否定する意味がなければならない。身体はそのための組織をもたなければならない。行動には対象を把握する機能をもたなければならない。更に獲得した食物を身体に変化せしめなければならない。無数の機能に配分し転生せしめる化学的機能をもたなければならない。形成とは斯る機能構造を整備することである。

 感覚とは斯る形成作用の内と外との接点に於て、内としての身体に現れる形である。それは内外相互転換として身体に実現したものである。

 感覚に於て内としての身体に対する外としての環境に環界と環囲があるといわれる。環界とは身体が生得的な感官で把握される世界であるのに対し、環囲とは生けとし生けるものが同一場所に生存している限り、同一の世界をもつということらしい。例えば一本の木にぴったりと並んだ二匹の異なる動物、小鳥と刺虫がいたと仮定すると、この二匹の環囲は全く同じである。併しこの二匹はそれぞれ相手には全く閉された自分丈の世界に生きているのであると言われている。鳥が大空の猛鳥に気を配り、樹下の小鼠に注意しているに対し、刺虫は殆んど対象を区別し得ない。刺虫は聾であるが、小鳥はこの大気の中に色々な音が満ちているのを聞く。併し小鳥はこの止っている木が柿の木であろうと樫の木であろうと関係なく同じである。刺虫にとってはその葉が食えるか食えないかは、生死を分つ一大事である。感覚は斯る環界に於て内外相互転換的にはたらくのであり、環囲は斯る環界の発展による操作が加わったものであるとおもう。

 斯かるものとして対象と身体の器官は切り離し得ないものである。対象の多彩は器官の精密化によるのである。内外相互転換とは内が自己否定的に外となり、外が自己否定的に内となることである。感覚に於て内が外を映し外が内を映すことである。内が外を映すとは見出したものを内に映像としてもつということである。目を閉じても心像として再現出来ることである。外が内を映すとは心像として維持する間に映像が感情の陶冶を経て、新たな外界像が成立することである。喜び悲しみによってより多彩な陰翳をもつことである。内外を移し、外が内を映すことによって感覚はより豊潤な世界を作ってゆくのである。豊かな感覚とは喜びかなしみによって新たな対象を見出し得ることである。

 世界は感覚によって捕捉され、感覚は内が外を映し外が内を映すところにあるとは、世界は内によってあるのでもなければ外によってあるのでもないということである。内は外を映すことによって内であり、外は内を映すことによって内であるということであり、それは無限に形成的として世界はあるということである。世界の自己形成として感覚はあるということである。よろこびかなしみによってより多彩な外界像が成立するということは亦、より多彩な外界像は内によろこびかなしみを生むということでなければならない。色彩を見るということは視覚のよろこびであり、音を聞くということは聴覚のよろこびであり、触れるということは触覚のよろこびでなければならない。

 感覚は識別作用であるといわれる。識別とは対象を分岐させてゆくことである。斯る分岐とは如何なるものであろうか。例えば視覚というものを考えるとき、視覚の内容としての色彩は外として我ならざるものである。与えられたものとして感受するものである。色彩はそれ自身の体系をもち色彩自身が無限の分岐をもつのである。併し識別作用は何処迄もこの我がはたらくものとしてあるのでなければならない。外としての色彩が色彩自身を分つことが識別作用としてのこの我がはたらくのである。私はここに感覚があるとおもうものである。世界の自己形成として感覚があるとは、対象と我とが感覚によって実現されてゆくのである。対象と我の統一としての全存在が自己を見てゆくのである。

 私はこれを生命形成に求めたいとおもう。生命は海中に単細胞として発生し、三十八億年の時間を経て現在地上に現われている姿になったという。その最初の内外相互転換は如何なるものであったであろうか。恐らく明らかな内外の別を持たない混沌とでも言うべきものであったであろうとおもう。それがやがて分化し、外の刺激を受取る中心が感官として出来たのであろう。最初に出来た目は何を見たのであろうか、それは鈍い光が宿す敵と餌であったであろう。そしてこの食物連鎖としての敵と餌の、逃走と捕獲が空間を拡大し形相を明らかにしていったのであろう。動物の身体はその形を逃走と捕獲にもち、行動的空間を切り拓いていったのである。視覚とは斯る行動的空間の外に対する内の核である、全身的な外との接受が、外が拡大するにつれて精緻な機能を要し、一点に機構をもったところに目の発生があるのである。

斯るものとして感覚に於ては内が外であり外が内である。行動の拡大は空間の拡大であり、空間の拡大は視覚の精緻化である。外が外となるには内が内となるのである。外が外となるとは外が内面的発展をもつことである。外が物として物自身の発展をもつのである。而して斯かる内面的発展は内を媒介とすることによってもつのである。

 感覚と知覚は明確な境界をもたないといわれる。空間を拡大し、感覚を精緻化するのは知覚のはたらきであるといわなければならない。生命は形成作用であり、形成は合目的的である。この合目的的であるところに知覚はある。内外相互転換は形成作用として合目的的である。而して感覚もここに成立する。視覚がより精緻になるとは合目的的形成作用であるということである。内外相互転換とは生命は内外相互転換的に自己を形成するということである。斯る内外の接点として形は何処迄も感覚に於て見られるのである。知覚の明確化は感覚の発展であり、感覚の明瞭化は知覚の形成的発展である。而して感覚の明瞭化とは環界の拡大ということである。生命形成とは環界の拡大多様化ということであり、身体の機能の精緻化ということである。それは感覚の内容として露わとされるのである。感覚が担うのである。

 感覚が鈍いという言葉がある。そしてこの言葉を担うものとして金銭感覚、事業感覚、 美的感覚などが言われる。斯る感覚はわれわれが普通に感覚とする視覚や聴覚亦は触覚と異なったものである。併し私はそれが同じ感覚という言葉で捉えられるのは全然異質のものではないが故であるとおもう。否私は感覚が知覚の生命形成の内容となったものであるとおもう。内外相互転換として外を内にするとは、例えば食物を身体に変換することである。そこには否定と肯定、断絶と飛躍がなければならない。斯る否定と肯定、断絶と飛躍が人間に於ては自覚的生命として外に物となり、人間は内として製作的生命となるのである。われわれの生命は内外相互転換の接点を物と製作的としてもつのである。物と製作的生命としての内と外との接点は、無限に内が外を映し、外が内を映したものとして無限に外が多様となり、内が研ぎ澄まされたものとなるのである。私は鋭い感覚、繊細な感覚に於て真に感覚は本来のすがたを現したものであるとおもう。

 私達の生命は製作的生命として、私達の目は単に与えられる目ではない。目の前に望遠鏡や顕微鏡をつけて見る目である。私達の少時宇宙には十万の太陽系のような星があると言われた。それが今では一兆個の一兆倍の星があると言われる。亦分子は物質の最小の単位であると言われた。併し現在ではその中にさまざまな物質が発見されている。全てより精密な器具の製作によるのである。器具は外に映した内の発展したものである。望遠鏡、顕微鏡は製作的生命の目であり、自覚的生命の視覚である。私はわれわれはそこに感覚を もつのであるとおもう。われわれの感覚は単に与えられたものを見るのではない。製作を媒介としてあり得べきものを見るのである。内的映像として想像に於て見るのである。豊かな内的映像の創出とその表現が感覚となるのである。鋭い感覚とか豊かな感覚とは斯る内的映像と外とが結びつくことである。結びつくとは表現されることである。

 内外相互転換的に生命が自己を形成するとは、内外相互転換の一々が蓄積されるということである。動物は斯る蓄積を身体にもつ、動物の身体は長い営みの総計である。それに対して人間は蓄積を言葉にもつ、それは記号として一個一個の身体の生死を越えたものである。同じ環境の困難に直面しても動物は一回一回が身体の反射によるのみである。それに対して言葉をもつとは過去の経験、他者の経験のさまざまの対応の中から最善とおもう行為がもてることである。それは身体が身体を超えることであり、身体の延長としての道具をもつことである。道具をもつことは外を作ることであり、道具によって外を作るとは道具は外を利用したものとして外によって外を作ることである。外が内を映し、内が外を映したのである。そこに生命は創造的生命となるのである。感覚は創造的生命の感覚となるのである。作るものとして表現への感覚となるのである。

 表現への感覚は、内外を映すことが外が内を映すものとして、外を作ることが内を作 ることである。われわれの感覚は全宇宙に対するということであり、全宇宙はわれわれの感覚に対するということである。われわれの感官が全宇宙を拓いたのであり、全宇宙はわれわれの感官を構成したのである。感官なくして宇宙があるのではない。宇宙は生命発生以来の人類の生命が感官の精密化によって見出したものであり、感官は宇宙の自己展開として精密化したものである。機器は感官ではない。併しミケランジェロが「私の目はのみの先にある」と言った如く、内外相互転換がそこにはたらくとき感覚は大脳の奥底よりそこにはたらくのである。

 感覚は一人一人がもつ、一人一人がそれ自身に完結し他者に代ることの出来ないものである。このことは一人一人が全宇宙に対応しているということである。而して感覚は宇宙の構成であり、全人類の創造の影である。宇宙も全人類も個を超えたものである。それが一人一人に映されるということは、個を超えたものが個に於て自己を見るということでなければならない。無数の一人一人が宇宙を映すところに宇宙があるということでなければならない。而して無数の一人一人は一人ではない。無数の人が宇宙を映すとき宇宙は無数の人々を統一するものとして一者の意味をもつのでなければならない。パスカルが言った「周辺なくして至る処に中心を有する円」というのは斯かるものであるとおもう。

 一人一人が宇宙を映し乍ら、一人一人が宇宙を映すことが宇宙が一であるとは宇宙は無限に形成的ということでなければならない。一人一人は宇宙を映すものであって宇宙そのものではない。一人一人が宇宙をもつとは、宇宙の一を否定するものである。而してそれが宇宙の一を実現するものであるとは、宇宙は自己の中に自己の否定をもつことによって自己を維持し、自己の形を実現してゆくものでなければならない。否定するとは形が消えてゆくことである。而して形が消えてゆくことが新たに宇宙を映すことによって消えてゆくものとして形の実現である。無数の人が面々相対するとき、消えてゆくものは現われるものであり、現われるものは消えゆくものとして絶対の無が絶対の有であり、絶対の有が絶対の無である。絶対の無とは否定によって消え去ったものであり、再び現われることなきが故に絶対の無である。絶対の有とは事実として現前するが故に絶対の有である。そこに形より形へがあるのである。

 形より形へとは生命がより大なる中心へと歩を進めることである。一人一人が宇宙を映し、面々相対する否定と肯定によって、形より形へと歩を進めるとは、映した宇宙に一人一人の体験を加えることである。一人一人が与えられた宇宙に自分の言葉を加えることによって新たな物を作ってゆくことである。見られたものが見るものとなるのである。見られたものとは、この我が映した宇宙として、無数の一人一人が映した宇宙に於て面々相対するとき、宇宙はこの我に於て見るものはたらくものとなり、無数の一人一人は相対する世界に於て物を製作するのである。見られたものとは山水であり、花鳥であり、山川であり、商品であり、建築物であり、交通機関その他である。見るものとなるとは無数の人間の交叉に於て芸術の内容となり、経済発展の内容となることである。宇宙はここに歴史的世界として自己を実現してゆくのである。そして感覚は表現的世界の感覚として価値感覚となるのである。

 生命が生死するこの我を超えて無限の過去と未来を有し、宇宙が宇宙を見るところに形より形へとしての生命があるということは、無限の時間と無辺の空間は生命が自己自身を見出でたものとして、生命の根底に霊性とでも言うべきものがなければならないとおもう。全てがそれによってあるものである。全てがそれによってある故に形なきものである。形なくして形を生むとは動的ということである。唯一者が多として出現するということである。動的とは一者が内に多を含み、多が相互否定的に対立することであり、相互否定的に形成することである。一即多、多即一である。それは所謂霊能者といわれる如き人々の語る特異の世界ではない。歴史的事実として出現する世界である。形なきものは見るべからざるものである。それは自己の底に直観すべきものである。故にそれは日常の一々の底にあるのである。多としての個は一々の行為に於て、霊性としての一者につながることを感ずることによって生の確信をもつのである。全歴史を包むもの、初めと終りを結ぶものとして自己があることを見ることによって生の確信をもつのである。それは何処迄も一の多の自覚として自己の底に見るべきものである。霊性の自覚は絶対の無に於てつながることの自覚である。感覚は斯る形成の否定的転換の尖端に於て見られるのである。故に形成は感覚の精緻化として具現するのである。感覚は斯る形成を担うものとして事実としての自己の確信をもつのである。勿論それは感覚が見るのではない。感覚は全存在が自己自身を見る内容としてあるということである。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

自覚

 自覚とは自己が自己を見、自己が自己を知ることである。自己が自己を見るとは、自 が見る自己と見られる自己に分れることである。分れるとは、見る自己が見られた自己を包むものとして、見られた自己を自己の表れとして内容とするものである。而して見られたものは見るものの表れとして、見るもの自身であるところに自覚があるのである。見るもの自身として、見られたものが見るものとなるところに自覚があるのである。見られたものが見るものとして、生命は無限に形成的であり、創造的である。

 生命の形成作用は内外相互転換的である。動物は斯る外を食物的環境としてもつ、動物は食物を身体の細胞に転換さすことによって生命を形成してゆくのである。人間は斯る内外相互転換が自覚的である。自覚的とは技術的製作的となることである。技術的製作的となるとは内外相互転換の一瞬一瞬が蓄積されることによって過去と未来を統一するものとなり、過去を参考として現在の危機に対処し得るものとなることである。過去の無限の経験を現在の状況の一点に駆使するということが技術であり、製作するということである。時間が空間の中に集積され、空間に出現するのが製作である。

 内外相互転換としての外が物となるとは、物はその転換に於て身体を映したものであり、身体はその転換に於て物を映したものである。転換に於て映すとは身体と物とは否定的に対立するものであり、否定を否定して肯定に転ずるものでなければならない。物が身体に否定的に対立するということは、物は身体に死をもって迫ることであり、身体は身体の秩序に於て、否定として迫ってくるものに身体を映すことによって生に転換するのが物を製作するということである。物は身体を映すものとして内であると共に、死をもって迫ってくるものとして絶対の外である。内外であり、外が内である。偶然が必然であり、必然が偶然としてわれわれの生命形成はあるのである。

 外を映すことによって内があり、内を映すことによって外があるとは内外共に自性がないということである。物といわれるべきものも無ければ、身体といわれるべきものも無いということである。而してそれは映し合うものとして何処迄も形に現前するものである。物として現前し、この我として現前するものである。

 内外相互転換は形成作用である。映し映されることは形が瞭かとなってゆくことである。私は矛盾が形成作用であるとは、矛盾的に自己を形成してゆくものがなければならないとおもう。それは物や身体に自己を現わしつつ、物と身体を対立さすものとして絶対に物や身体を超えたものである。無限の転換として見ることの出来ないものであると同時に、今の現前として常に露わなものである。

 私は斯かる内外の相互否定的転換を自己形成とするものが真に自覚のはたらきをもつものであるとおもう。それは物と身体が映し合うものとして、物でも我でもない世界であると共に、我と物に現前する世界である。見られたものが見るものであり、見るものが見られたものの世界である。我と物がはたらく世界である。私は物と身体が否定的転換的に形成するところが世界として、世界が世界を見てゆくところに真の自覚があるとおもう。自覚とは世界の自覚であると思う。

 自覚が世界の自覚として、生命と物、主体と客体を内にもつものとして自覚は歴史的創造的であるとおもう。否定が形成であるとは否定されることによって、否定するものを超えるものを生命が創り出すということである。アメリカの古生物学者ローマは、われわれは大古の祖先の敵ウミサソリに感謝しなければならないと述べているそうである。それは ウミサソリに食われる防禦として表皮に甲殻が出来たことに由るようである。その甲殻が骨格の基礎となるものであり、骨格なくして現在の高度な哺乳動物はあり得ないからであるらしい。亦同氏はそれは、哺乳動物として恐竜の意図もしなかった援助に感謝しなければならないと言っているそうである。それはわれわれの祖先が恐竜に食われ続け、それより遁れるためにすぐれた知能と、温度に関係しない活動性を獲得することが出来たによるらしい。生命とは斯く絶対否定に面して、死に面して今迄になかった新しい形相、新しい能力を実現するものである。そこに生命の創造がある。それは連続であると共に、生命の連続は飛躍である。

 新しい形相、新しい能力を実現するとは、より勝れた能動的、受動的感覚をもつことである。例えば恐竜より逃れようとすれば、その行動力、視力に対す的確な把握がなければならない。そして相手の行動に対する綜合的な対応の判断がなければならない。そこにより大なる時間、空間が生れるのである。広い行動範囲と、さまざまな対象の識別が生れるのである。生命の発展とはこの大なる行動と多彩なる表象が生れるということである。

 歴史的創造とは斯る否定的転換の形成が内面的発展をもつということである。内面的発展を推進するものが技術である。斯るものとして技術は個を超えて世界が世界を見るところに成立するのである。私達は書を読み、字を書くのも先輩より習う。先輩はその先輩より習い、その淵源は尋ね能わざるものである。私はよく知人の書道塾に行くのであるが、習うものは空海や王義之の手本を見ながら、幾回も幾回も書いている。幾回も書くということは力を養うことであり、手本を見るということは形を継承することである。形を継承するとは、空海や王義之の業蹟がこのわれの目や手の内のはたらくものとなることである。その上に私達は自分の形の表現を見出すのである。習うということは先人によって否定されることである。習うものは先人の形の中に自己を没してゆくのである。そこから先人ならざるこの我の形が生れるのである。異なった個性として没すること深い程新たな形が生れるのである。故に習うということは否定してくるものを否定することである。そこに多彩なる形があるのである。

 多彩なる形は如何にして生れるのであるか、私はそこに生命の内外相互転換のはたらきを見ざるを得ない。先人の形の中に没してゆくことは亦対象の中に深く入ってゆくことである。否定的転換としての対象は内を映した外である。そこに形が生れる。それを何処迄も相互否定的転換的に深めてゆく事が対象に入ってゆくことである。それが世界が世界を見るということである。先人も対象に深く入ることによって世界を作っていったのである。先人の中に没するとは、単に先人に跪伏するのではなく、世界が世界を作る大なる流れの中に入ることであるが故にわれわれは行為をもつことが出来るのである。世界は無数の形を内にもつ形の形として自己を発展させてゆくのである。形の形とは形成作用である。そこに形は無にして作ると言われる所以があるのである。

 見られたものが見るものであり、見るものが見られたものであるとは、存在の全てがはたらくものであるということである。一塵が世界を映し、世界に映されるものである。草木瓦礫が世界形成的にはたらくものである。一微塵と雖(いえども)世界の中心をなすのである。斯かるものに於てわれわれじは内外相互転換的に否定と肯定をもつことが出来るのである。われわれも亦世界の自己形成の一中心であるのである。食物連鎖も亦斯るところに成立するのである。菜っ葉も魚もけものも世界形成の一中心である。

 道元も此生他生の最善最勝の生であると言う如く、人間は斯る矛盾的形成の頂点に立つのである。頂点に立つものとして人間に対するものは人間である。人間を否定し来るものは人間である。我は汝に対するのである。汝は我を否定するものとして我は汝に対するのである。而して対するとは映すことである。我は汝を映し、汝は我を映すのである。映すとはそこに生きることである。我は汝に生き、汝は我に生きるのである。我があるのでもなければ、汝があるのでもない。我は汝によってあり、汝は我によってあるのである。鏡に映して我を知る如く、相互返照によって我と汝はあるのである。相互返照によって自己があるとは、あるものは我でも汝でもなく、世界が世界を見るところにその構成要素としての我と汝が映し出されることである。

 矛盾的形成の頂点として、我と汝が映し映されるとは如何なることであるか。世界の構成要素として、我と汝が相互返照をもつとは如何なることであるか。頂点とは内外相互転換が究極の相をもったということである。それは既述の如く蓄積されたということであり、表現的技術となったということででる。外としての食物的環境は内外相互転換の蓄積に於て、栽培技術の内容となったということである。栽培技術の内容となったというとき、食物的環境は人間によって征服されたと考え勝である。併し少し考えれば斯る思いの誤ちであるとはすぐに解る筈である。技術はこの我の恣意によって生れるのではない。対象の中に深く自己を消すことによって生れるのである。対象に即することによって、対象となることによって生れるのである。対象に内在する性質に随うことによって生れるのである。征服するのでもなければ、征服されるのでもない、世界が世界を明らかにしてゆくのである。技術に於て主体の方向にこの我が明らかになると共に、対象の方向に物が明らかとなるのである。勿論否定と肯定として、環境の否定に対して技術をもつことによって打克ったと言える。私はその根底にそれによって自己と物が明らかとなるのであり、世界が形成的に自己を見てゆくところに、否定的転換としての主体と客体があるのであり、世界の自己限定があるとおもうのである。世界は相互否定転換的に自己を形成してゆくのであり、この我がはたらくことによって物を明らかにするとは、この我を介して世界が世界を見てゆくことである。ここに人間が世界の自己形成の頂点に立つ意味があるのである。

 生命形成が内外相互転換的として矛盾的自己同一として形成するというとは、世界が世界を形成することである。世界が世界を形成するということは、見るものが見られたものとして、見られたものが見るとして内容の一々が世界の中心としてはたらくことである。はたらくとは自己の中に世界を見ることである。古代の哲学者が言っている如く、世界は至る所に中心を有する周辺なき円である。人間は斯る世界の一点として、一人一人が世界を映し、世界を内容とするのである。世界を内容とするとは、全世界を自己の意志に於てもとうとすることである。それは他者の世界の否定でなければならない。闘争の世界である。全てのものが全てのものに対する闘争である。全てのものが全てのものに対するとは、一々の者が全他者を否定せんとすることである。而してそこにあるのは大なる矛盾である。自己があるとは内外相互転換的にあるのである。外としての他者を失うことは自己の存立の基盤を失うことである。そこに自然の老死と、人心の離反による英雄の末路がある。併しこの闘争は世界が世界を見ることであったのである。それは技術をより深化せしめると共に、より大なる空間の統一をもたらしたのである。更に闘争の悲惨と、英雄の末路は世界の内的なるものへの深い考察を加えさすものであったのである。

 そこに一々の意志が世界に還るべき契機がある。一々は有限なるものであり、相対するものである。而して有限なるものは無限なるものに映して有限であり、相対するものは絶対に映して相対である。それは個が世界に自己を映すということである。そこに飜転があり回心がある。それは有限をあらしめるものであり、相対するものを繋ぐものである。はたらくものをあらしめ、繋ぐものである。それはわれわれをあらしめるものとして絶対である。われわれの目はそこより見、耳はそこより聞くのである。行為はそこより生れるのである。世界は我ならざるものとして回心とは自己の死である。併しそれは肉体の死ではない、意識としての自己の死である。意識としての自己の死とは自己を殺すことである。禅家に八風吹けども動ぜずという言葉のある如く、己の意識を殺すことである。世界に運ばれることである。世界に運ばれるとは、世界の自己形成の内容となって働くことである。己れの時空を超えた働きに参加することである。真に物を作るとき寝食を忘れると言われる如く、技術は斯るものの上にあるのである。

 われわれは世界が如何になりゆくかを知らない。その意味に於て世界は暗黒である。併し世界は単に暗黒なのではない。はかることの出来ない程深大なのである。斯る深大なるものがわれわれを通じて現前しているのがわれわれのはたらきである。このわれがはたらくとは世界の微妙を世界が実現することである。われわれの視覚とは、色彩が色彩の世界を形成してゆくことである。視覚構造の精密化は色彩が内面的発展をもつということである。画布の前に立った画家は如何なる画が出来上るかを知らないという。併し彼の筆が引きゆくものは暗黒ではない。それは存在が存在自身を露わにしてゆく明光である。小説家の創作も亦空に架けられたものではない。血湧き肉躍ると言われる如く、われわれの身体の内面的発展として、肉体の暗部を流れる血や涙を、言葉を介して露わとするものである。全て人間の歴史的形成の内容となるものは世界が世界を見るものとしてあるのである。それは言い換えれば世界が自己を見てゆく形相として人間の歴史があるということである。斯かるものとしてわれわれの一挙手一投足は世界が世界を見てゆくことであり、歴史を作ってゆくことである。

 このわれの一挙手一投足が歴史を作ってゆくこととして、世界が世界を見てゆくという とき、世界はこの我に現われるのでなければならない。われわれの自覚は世界が世界を見てゆく最も深いものであるとおもう。世界は人間の歴史的形成に於て自己を見てゆくのである。斯るものとしてわれわれの存在は絶対の矛盾である。世界は我ではない。我は世界ではない。独我論者の言える如く、我の意識に於て世界はあるのであり、われわれは他者の意識すら知ることは出来ない。併し斯る立場に立つとき、何うしてこの我は世界を意識することが出来るかということを説明することは出来ない。そこに自己は消えてしまわなければならない。而してこの我の意識なくて何処に世界があるのか、誰の世界でもない世界はない。世界は個々の意識に映した世界に於て世界である。そこに我と世界は絶対の否定を距てて対するのである。お互いが死を距てて対するのである。

 斯かるものとしてわれわれが自己を知るとき、自己を無限の不安として知るのである。前に述べた如く、われわれの自己は世界を内にもつことによって自己となるのである。私達はそこに最初の自己をもつ。そしてこの世界をわれわれは努力によって展開させてゆく、それがわれの立場から、われによって世界があると見るのである。併しそれは何処迄も世界を映すものとして、世界が自己の中に自己を見てゆくはたらきの一端として、われわれははたらくのである。不安は世界によってありつつ世界ならざることである。不安とは根無し草の不安である。そこに神の呼声がある、はたらく世界の根底よりの声がある。そこに回心があるのである。世界を内にもつことによって自己となったわれわれは、世界に飜ることによって自己の根底に至りつくのである。本来の面目に至るのである。

 併しそのことは自己の営為が無くなることではない。何処迄も世界はこの我に映すことによってあるのである。この我がはたらくことによってあるのである。飜るとはこのわれがはたらくことが、世界がはたらくことであると知ることである。われが物を作るのではない。万物が万物を運ぶ中の一つとしてわれはあるということである。世界の中にあるわれが、世界を内にもつことによってわれわれはこのわれの自覚をもった。飜るとはこのわれの中に見出でた世界の中に自己があるということである。自己を運ぶことによって見出した世界に運ばれるものとなることである。全てこの我がはたらくと思ったものは見出でたものの返照だったのである。われわれはここに世界の自覚としての自己を見るのである。われわれはここに真個の自覚に達するのである。全存在に触れるものとして安心立命をもつのである。確固たる自己はこの大なる生命を映すものとしてもつのである。われわれは対象限定の究極に無辺の空間と、無限の時間を見る。それは内外相互転換の究極に全存在に面したのである。それは最早全存在の一内容としての我の思量を超えたものである。世界がはたらくものとして、世界の自己明化に導かれるのである。私は曽って物理学者に神の存在を信ずる人の多いのに驚いたことがある。併し物が物自身を展いてゆくことが、この我が我を展いてゆくことであるを知るときそこに神へ至る必然があったとおもう。この我を一塵とする大宇宙が、この我の中に壮大な相を展いてゆくとき、われと宇宙を統べるものに思いが至らざるを得なかったであろう。

 われわれがそれによってあるものとして、世界はわれわれに絶対者の意味をもつものである。それによってあるとは、それに随うことによってあるということである。その呼び声によってあるということである。その呼び声は何処にあるか、私はそれを前に述べた我と汝の呼び交しに求めたいとおもう。世界が世界を見てゆく頂点として人間があり、人間の自己限定の現在として我と汝の声がある。世界形成の頂点としてそれは無限の過去と無限の未来を負うものである。無数の過去の人と未来の人を負うとして世界を映すところに汝の声があり、我の声があるのである。われわれが随わなければならないとは、この過去未来の無限の生死を潜めた声に対するものとしてである。そこにこのわれの生死もあるのである。それに随うことによって生き、それに背くことによって死ぬのである。それは道徳的な良心の声というのみではない。やくざと言われる人々も親分の声に随うことによって生き、背くことによって死ぬのである。呼び交しは世界が世界を形成することである。世界が自己を見ることである。

 呼び交しが、世界が世界を見るものとしてそこに絶対が露わになるとは、この我汝が絶対者となることである。言葉は所与的身体以上の我となるのである。倫言汗の如しとか、武士に二言はないといった言葉はそこより生れるのである。而してこの我が絶対者になるとは何処迄も全存在を映すということである。言葉は我と汝が交すものとして、相対立するものがもつのである。言葉は生死の間に現われるのである。この生死の間に現われるということが生死を超えたということである。ここに世界は世界を見るのである。斯る意味に於て私は、世界は人間の、この我、汝の言葉を通じて最も深い相を露わにするのであるとおもう。そこに世界の、そして人間の、この我の最も深い自覚があるのであるとおもう。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

神について 其の2

乙「先日君が神についての考えを少し進め得たとおもうと言っていたので、娘にも聞かしてやりたいとおもって連れて来たのだが」

甲「うん、進めたというより幾分整理が出来たと言った方が妥当かも知れないがね。前回は混沌とした想念を言葉にするのが精一杯だったんだ。読み返してみて根底になるものが出来ていないのに気が付いたのだ。神を超越的なものに見ながら、この我の自覚の上に立っていたことに気がついたのだ。あれではこの我が成立することが出来ないし、絶対の出で来ったものを明らかにすることが出来ないとおもうんだ。いきおい一つ一つがこま切れのようになったと思うんだ。その根底へ一歩でも進め得たように思うんだ」

乙「一歩を進め得たということは、どんな展開をもち得たということかね」

甲「具体的になったということだろうね」

乙「では一つ解り易くたのむよ」

甲「僕はね、我々の問いは必竟自己とは何かにあるとおもうんだ。数を問い、美を問うのも自己との関りに於て問うのだと思うのだ。神を問うのも、神と自己との関りに於て問うと思うのだ。具体的とは自己は生きるものとして、自己の生の姿に関ってくること だとおもうのだ。対象と自己が近付いてくる程具体的であるということだと思うのだ。そして言葉に於て一体となるということが、完全なる説明であるとおもうんだ」

乙「それで近付いたのかね」

甲「いや近付けてみたいと思ったのだ。何しろこの問題は僕が解ける問題ではなくして、人類が言葉をもってから問い続けられ、恐らく向後も問い続けられるであろう問題だからね。唯僕はこう思うとしか答えられないのではないかとおもうのだ。そしてその言葉が今迄人類が問うて来たものをどれだけ内容としているか、そこに価値の決定があるとおもうんだ。勿論これは一般論で、まだ五里霧中としか言えないね。併しいい機会だから出来るだけ近付けた答を出すように努力をしたいとおもうよ」

乙、娘に「お前から聞いてごらん」

娘「それでは私が疑問に思っていることを御聞きしたいとおもいます。先ずその初めと して神とは何かということを御伺いしたいのですが」

甲「大変難しい問題ですね、これが解れば恐らく神の問題の大半が解決されたということではないでしょうか。それで初めに申上げて置きますが、お答えするのは私の立場から、私はこの様に考えていると申上げるのでありまして、如何なる学説にもこれで対応出来ますというものではありませんので予め御了承下さい。僕が神と考えるのは全てのものがそれによってあり、それによって動いてゆくものなのです。一切の形、一切の力の源泉となるものなのです。それは何かということは話が進んでゆくに随って明らかにしてゆかなければならないとおもいます。」

娘「よく神はあるとか、無いとか言われますが、何うして反対のことが言われるのでしょうか」

甲「それは神が目に見えないものだからだと思います。今申し上げました一切の形、一切の力というのはあり得ないものです。形は全て個々の形としてあるのです。一切の形は観念としてあるものです。神は対立する個々の形の統一として要請されたものです。個々の形は対立するものとして、否定し合うものです。否定し合うところには形はあり得ないものとなります。それがあり得るためには、全ての形を生み、全ての形を自己の影として、それ自身は形を超えて動かないものがなければなりません。神が要請されたものというのはそういうことなのです。神がないと言われるのもそこから考えられるのであるとおもいます。神がないということは、物は神によってあるのではなく、物自身によってあるということなのです。対立や否定は物の形成運動であり、その運動を通じて物は自己完結をもつというものです。自己完結をもつとは、物はその内在するものによって動きを説明することが出来、動きの全体を統一体に於て見ることが出来るということです。その証明が近代の物理学、数学等の見事な体系的把握であるとおもいます。物は物自体によって解かれるものであり、神によって解かれるものではないということです。

娘「それでは神はないということになりますか。」

甲「一応物の所在を説くということからはそうなるとおもいます。併し私はそれはあく 迄一応の問題であって、物の所在は更に深いところにあるのだとおもうのです。例えば物力の問題なんかでも、力学的体系が出来る以前の問題があると思うのです。初めから我々に物は神が作ったか、物自身の自律的なものであったかの問いがあったのではなかったとおもいます。襲いかかるけものに石を投げつけたり、物を動かすのに挺子を用いたりする、ながいながい経過があったとおもうのです。物理学の見事な体系というのはこのようなものの上に、このようなものの発展として成立したのだとおもうのです。色彩についても同じことが言えると思います。画家は無限に豊富な色彩を見ていると言われます。併しこの無限に豊富な色彩とは何なのでしょうか。私はこの瓶に挿した花の紅、そこの松の葉の緑を見た目の発展だとおもうのです。襲いかかってくるけものに石を投げるという行為をあらしめたものは一体なんでしょうか。けものでしょうか、私でしょうか、石でしょうか、私はそこに事実として動いてゆく世界を見るより仕方がないとおもいます。画家の無限の色彩は、抽象的な色彩一般の発展ではなくして、花や松という事実の世界に於ける対面より生れて来たとおもうのです。何故この花は紅く、松は緑なのか、それは思考を超えた世界です。我があり、花がある世界なのです。それが事実の世界なのです。私を超えて私とけものと石の事実として動いてゆく世界、花と私がある世界、私は神を事実として実現するものに見たいのです。

乙、娘に「何うだ解ったか。

娘「解ったような気もしますけど、さて何んなもんだ言ってみよと言われたらちんぷんかんぷんです。」

乙「そうだろうね、お父さんもお前と大して変らないよ。それでは今から私が質問して みよう。事実としてけものも石も我もあらしめるというとき、けものや石はともかくとしてこの我は神を見、神を問うものであるとおもうんだ。神を見問うものが神の内容であるとき、神は見ることも問うことも出来ないものではないのか。」

甲「そうだ、神は見ることも問うことも出来ないものだ。」

乙「そうすると僕達が今神を問うているのは矛盾ではないのか。」

甲「そうだ矛盾だ。事実が動いてゆくとは、事実より事実へとして動いてゆくのだ。そこに我々の思考の入るべき余地はない。併し僕は此処で更に深く考えなければならないとおもうんだ。それは僕達も亦事実より事実へと動いて中に出来たということだ。そして僕達は考えるものとして作られたのだ。僕達が考えるということは、事実より事実へと動いてゆくものの形相であるということだ。神を問うことが矛盾であるのは、われわれが問うことにあるとおもうのだ。われわれも作られたものであるとき、われわれが問うとは事実が事実自身を問うことであるとおもうんだ。更に言えば問うこと自身も実より事実へであるとおもうんだ。我が問うのではなくして神の自己限定として、神が神自身を問うことであると思うんだ。僕はそう考えることによって初めて僕達が問いを持ち得るということも明らかに出来るとおもうんだ。それなくして何うして何故であるかという問いをもつことが出来るだろうか、或は言葉をもつ動物であるからというかも知れない。併し言語中枢を人間がもつには何十億年の経過が必要であったし、問いの依 って来る疑いは対立と相剋としての事実がなければならないとおもうんだ。序に前に娘さんが問われた神があるとないの問題だが、ないというは物の自己完結性に於て正しいとおもうんだ。併しそれは事実という絶対限定によってあるものとして、事実に包摂されるものとして、有るというのも正しいと思うんだ。それは立脚点の相違として把握されると思うんだ。」

乙「併しそれはより大なる立場から包摂するものが真にあるとすべきではないのか。」 甲「そうだ、そうゆう意味で僕は神の存在を認めるものだ。認めるというよりは認める ことなくして僕は思考の立脚点を失なうと言った方が正しいかも知れないがね。僕が双方が正しいと言うのは、無神論をよく知らないので説得することが出来ないだろうという意味なんだ。真実は一つという命題から言えば、詭辨を弄すると言われても仕方がな いがね。」

乙「事実が神とすると、よく言われる神の絶対性と言われるものも事実よりかね。僕等 が見ると相対と矛盾こそ事実と思えるが。」

甲「僕は事実が事実である所以はその絶対性にあると思うんだ。君の言う通り事実は相対と矛盾である。併し僕はここで相対と矛盾とは何かと問わなければならないと思うんだ。僕は相対と矛盾を我々の知見に求めたいと思うのだ。無限と有限、永遠と瞬間、我と汝、物と生命、内と外全ては我々が自己を知らんとするところより来ると思うんだ。知見は自己が自己を見るところより来るんだ。苦しみは見る自己と見られた自己との乖離より来るのだ。永遠を望んだ目に見えるものは死滅ばかりであるところに悩みはあるのだ。斯く見る自己は何処から来るのか。見られた自己は解る。併し見る自己というとき、われわれは鉄壁をもって目前を塞がれざるを得ない。禅家の自己本来の面目は永久に解け得ない謎なのだ。そこに我々は思量を捨てなければならない。禅家は冷暖自知といい、庭前の柏樹子という。氷に手を触れ、火に手をかざすのだ。身体に於て対象と一なるのだ。火と手という思量の分別を持つ以前に、冷えた身体は行為に於て火と一なる結合をもつのだ。火が呼び、身体が招かれるのだ。事実とは生命の生存の世界なのだ。それは生命が己れを運ぶ世界なのだ。それは生命の純な流れなのだ。絶対とはこの純な流れなのだ。」

乙「併し常に君が言うように、絶対は相対によって絶対であり、相対は絶対によって相対ではないのかね。知見といえども知見がある以上ある所以が説明されなければならないとおもうんだ。君の絶対としての事実からどうして相対を導き出すことが出来るのかね。」

甲「問題はそこにあるのだ。僕は今事実は生命の生存の世界であり、生命が己れを運ぶ世界だと言ったね。けものを石で撃つのも、冷暖自知も生命が自己を運ぶところにあるんだ。運ぶとか流れるというのは内外相互転換的ということなのだ。内外相互転換的とは形成的ということだ。形に実現してゆくことなのだ。知見とか認識とかはその極限に見られるのだ。僕は事実が事実を見るということがそこにあるとおもうんだ。」

乙「われわれが自己が自己を見るというのと、事実が事実を見るというのとどう違うの か、事実が事実を見るといっても石や花が自己を見るのではないし、結局われわれが自己を見るということではないのか。」

甲「そうだ見るものは言語中枢をもつものとしてのわれわれが見るのだ。唯僕が言うのはこのわれというとき、石や花はこの我ではないということだ。知るということは言われる如く、自己の中に自己を見ることだ。併し単にこの我であるとき自己の中に如何なる自己を見るのか、私達は目があるから見るという。併し生命が初めて生れたとき如何なる目があったのか、目とは生命が内外相互転換に於て、他との関りをもつべく出来た身体の亀裂なのだ。他者との関りから形が生れてくるのだ。見るということは他者と我とがそこに出会うということだ。花と我が出合うところに色の世界があり、物と我が出合うところに力の世界があり、こうして君達と出合うところに人倫の世界があるんだ。僕達が知るということは、斯る事実の中のわれとして知るのだ。私達が知るとは構成的となることだが、構成とは対象構成ということだ。対象を構成するためには、われと対象を包んだものがなければならないとおもうんだ。その我と対象を包んだものが事実なのだ。」

乙「それがわれわれが知るというのは事実が自己を見るということなのか。

甲「僕はそう思うんだ。

乙「よく解らないがもう少し説明してくれないか。

甲「僕も手探りで答えているのでね。でも出来るだけ考えてみるよ。われは生きているものとして、度々言うとおり事実とは生命の事実なのだ。生命は動的なものとして生命なのだ。動的なものは形作るものだ。自己が自己によって動くとは形作ることだ。そして形が生れるということは動きがそこに止まるということだ。而して止まるということが動くことであるところに、物と異なった生命があるのだ。生命が生きるとは死ぬことによって生きることなのだ。止まるということが動くことであるとは、作られたものが作るものとなるということだ。現在の一瞬一瞬の内外相互転換が、その転換を加えた力 として次の転換にはたらくのだ。そこに生命が無限に創造的である所以があるのだ。形成とは蓄積なのだ、作られた自己が作るものとなる。それが究極に於て知見をもつときわれわれは自己を見るのだ。故に我々の自己は作られたものとしての身体の上に成立するのだ。作られた身体としてはたらくものとしてわれわれの自己はあるのだ。私達は自覚的生命として物を作る。そのときこの作られた身体としての自分が作ったとおもう。例えばこの茄子を作ったのは自分であるとおもう。事実その人が作らなければこの茄子は無いのだから思って当然である。併し既に君も気がついているであろうように、種子も技術も人間の永き歴史がなければならないのだ。その歴史の中の一人として作るのだ。その種子を伝えられ、技術を教えられた、作られた一人として作るのだ。生と死、世界と我の間断なき流れの一人として作るのだ。生死を超えた間断なき流れを事実として、この我は形をもつ身体として、形に世界を写すものとして、身体的に写すとは作るものとして、われわれは事実が事実を見る一要素としてあるのだ。斯るものとして我も世界も全て事実に作られ、事実を形作るものとして、あるとは事実より事実への動きの投射によってあるものとして、事実は絶対の意味を帯びてくるのだ。」

乙「少し解ったような気がするよ。併しそのように考えるときよく言われる神の声とは自分の声に外ならないのではないのか。形あるものとして現前したとき、声を出すものはこの形ある己に外ならないのではないのか。」

甲「そうだわれわれの声が神の声だ。事実より事実への動きによってあるものとして、神が自己の中に自己を写したものの声としてそれは神の声なのだ。併し私達はここで考えなければならないのだ。それは私達が見るとは形によって見るということだ。形によって見るとは、動くとは形より形へということであり、形より形へとは形が形を作ってゆくことなのだ。そこに形として現前したこのわれが作るものとしてある所以があるのだ。作るものとは神を宿すものだ。而して形によって見るわれわれは、形を実在として、背後の大なるものを失うことだ。形として現前するこの我を神とすることだ。宿しているものを忘れて抽象的なこの我を神とすることだ。そこに神の声は失われて小さき我の声とならざるを得ないのだ。形より形へと転じてゆくことは、常に形が形を失なってゆくことだ。我々の身体は生死に於て現前するのだ。この生死する身体より発する声は死の悲鳴のみだ。それは絶対より抽象されたものとして相対的であり、永遠より抽象された瞬間である。形が形を生むものとして、そこに見えるのは相対であり、瞬間である。そこに神の声はない。それが神の声であるためには、形としての身体的生命を捨てなければならないのだ。殺さなければならないのだ。勿論本当に殺すのではない、意識に於て殺すのだ。意識に於て殺すと言えば君は知的遊戯の如く思うかも知れない。それは大きな誤りなのだ。言語中枢は人間のみがもつと言われる如く、意識は生命の究極としてあるのだ。それを殺すとは現在の全生命を殺すことだ。釈迦や空海の苦行はそこにあったのだ。そして殺された自己は殺したもののところに甦るのだ。全身が絶対者の風光を浴びるものとなるのだ。それが回心なのだ。君がこの自己の声が神の声でなければならないと言ったのはこのような世界を言ったのだ。僕達はこの回心に於て、自己の生命を朝露のはかなさとする嘆きより超えるのだ。不滅の自己となることが出来るのだ。或は不滅の生命といえばそれは唯の観念にすぎないというかも知れない。併し朝露のはかなきを見るのも観念なのだ。朝露のはかなさの嘆きは何処から来たのか、それは不滅の生命が自己の相を意識の中にはに出来得ない嘆きなのだ。回心とは観念が自己の奥底へ転ずることだ。自ら動き、自ら転ずるものとして、観念は事実自身なのだ。われわれは自己の奥底へ転ずることによって確固たる自己となるのだ。仏教の言う金剛知とか不動知とか言うのになるのだ。ここにわれわれの声はこのわれの声ではなくして、 事実の自己形成としての世界の声となるのだ。」

乙「それはわれわれが神となったということではないのか。」

甲「神になったということではないのだ、神の内容となったということだ。神の被造物になったということだ。私達が言葉をもつ為には幾多の人を神は創った。君に僕その他無数の他者を作った。僕達はそれによって対話をもつことが出来るようになった。併し 僕は今日君等親子と出会って、このような話をするということを出会う迄知らなかった。これは唯事実自身として自己を限定する神のはたらきとしか言いようがないのではないか、われわれはこの瞬間に於て神に触れるのだ。地球上には六十億近い人が住んでいるといわれる、事実とはその人々の生の営みなのだ。君はその総体を何うして自己の内容とするのだ。それだけではない事実の根底には無限の過去と未来の人々の営みがあるのだ。われわれはその大なるものの一端に触れている。その一端に触れることが全存在に触れることであるのだ。そこに神の恩寵とか言われるものがあるのだ。如何にして一端に触れることが全存在に触れるかではない。それは問いを許されないものだ。われわれはその如くあるのだ。それは事実の直証としてわれわれはもつのだ。

乙「よく神は知によって見ることは出来ない。神を見るものは信であり、信ずることに よってのみ神を見得る信とはその直証のことかね。」

甲「僕はそう思うんだ。僕は信というとき私達が感じる何か盲目的なもの、唯情念の肯 定のようなもの、それは真に信としてわれわれの接するものではないと思うのだ。信は最も明白なものに於て信であるとおもうのだ。一端としてわれわれが全存在に触れるとは、われわれは大なる明白の光りに照らされているということなのだ。信じることによってあるのではないのだ。ひらかれた世界を自分の根源と直観するのが信なのだ。仏教の悟りやキリスト教の啓示として現われるのだ。それによって抽象的自己が自己の根拠 を得るのが信なのだ。だから僕は言われる如き知と信の乖離についても、知の根底として信があるとおもうのだ。知の明白は信の明白に裏付けられてあるとおもうのだ。それを乖離となすのは知が抽象的自己の内容として捉えられているが故に外ならないとおもうのだ」

乙「事実が事実を見、事実が事実を限定するということを更に深く聞きたいのだが、君 は前著で神は死ななければならないと言ったね。今でもそのように思っているのか。」 甲「うんおもっているよ、それは神の存在の根本条件だと思っているんだ。前にも言っ 如く事実とは生命の事実なのだ。事実より事実へということは、生命が形成作用であ るということだ。生命は形作ることによって自己を見てゆくのだ。そうゆう意味に於て 身体が事実の基礎をなすのだ。事実より事実へというのは、一つの形が滅んで次の新しい形が生れるということだ。それが生死というものだ。勿論神は斯るはたらきの全体として、個々によって見ることの出来ないものだ。併し事実は何処迄も身体として形にあらわれることを要求するものだ。即ち見ることによってあるものとして形の実現が要請されるのだ。全体者として身体に現われる形が欲せられるのだ。全体者とは生産によって結合されるその時々の姿なのだ。そこに家族神より氏族神へ、氏族神より国家神へ、国家神より普遍神への発展があるのだ。それはその時時の全体像なのだ。そしてその全体像とは、自己がそこに生かされている世界の具象化なのだ。そのような具象化をもつということは、個々の構成要員がそれによってそこに結合するということなのだ。神の姿を現わすということは、生産としての世界の求心力なのだ。そこに神の形の実現が要請される所以があるのだ。神を祭るということは生産の増大と不可分離的であるのだ。家族神、氏族神、国家神というのは、生産手段の発展に伴う形相の変化なのだ。事実より事実へは、現在より現在として、事実は否定されることによって、新たな事実を生んでゆくんだ。否定されることが死なのだ。神が死ななければならないとは、新しい生産手段による世界の求心力が生れなければならないということなのだ。」

乙「そうとすると神の永遠性と生死は君のよく言う身体の永遠性と瞬間性によって捉えてよいように思うのだが。」

甲「そうだ身体の永遠性と瞬間性は神を写すことによってあるのだ。身体は生命として瞬間は永遠によってあり、永遠は瞬間によってある。瞬間とは内在する否定によって次の形に移ることだ。形より形へと移るものを超越者として内在せしめるもの、それが永遠なのだ。瞬間として形に内在する否定は神のはたらきだ。神があるとははたらくことであり、はたらくことは形にあらわすことだ。僕はわれわれに神があるとは祀られたときにはじまるとおもうんだ。人類が出現したはじめのころ、不意に襲ってきたけものに石を投げつけたとする。そのとき石は偶然そこにあったのだ。追うことによってその石の力を知り、石を祀ってけものの来襲の無きことを祈ったとする。そこに神は生れたのだ。」

乙「君は最初に神は事実より事実へとして、事実が事実を見るところに神があるといったね、そうとすると神を祀るということが事実より事実へということなのかね。僕にと って神を祀るということは、それこそ人間の行為に外ならないように思うのだが。」

甲「その通りだ。人間がそれによってあるものが人間によってある。それは矛盾だ。併 しあるということはそのような矛盾によってあるのだ。それが事実ということなのだ。僕はこの問題を意識とは何かと問うことから入ってゆきたいとおもうのだ。何故ならば 君が問うているのも、僕が答えているのも意識のはたらきとしてあるのだからね。僕は意識はわれわれの生涯の行動を統一するものだと思うんだ。その行為は身体によるものとして、意識は身体の統一としてあるのだ。そしてこの身体は生命が三十八億年の時間に於て形作ってきたものだ。われわれの意識は三十八億年の統一としてあるのだ。而して身体がはたらくとは現在に於てはたらくのだ。意識が今はたらいているのは、三十八億年の綜合としてはたらいているのだ。われわれの今というのは無限の深さがあるのだ。われわれが神を見るというのは、現在の底の無限に触れるということなのだ。意識の現在の奥底を見るということなんだ。僕が事実より事実へというのは僕が見た自己の奥底なのだ。僕達がはたらくというのはこの奥底よりの働きである。而してこの奥底よりのはたらきというのは、現実の当面する矛盾に於てはたらくのだ。矛盾に於てはたらくとは、形あるもの、見られたものとして身体がはたらくことなのだ。身体がはたらくとは死を生に転ずるものとして、一々の転換を蓄積するものとして、我と汝、物と生命の相対するものとしてはたらくのだ。身体の奥底は自己の中に形の推移をもったものとして奥底なのだ。奥底が自己を形に表わすとは、推移が奥底であるということなのだ。一々の時の形が永遠であるということなのだ。祀るとは一々の時の形が永遠であることを露わにすることなのだ。創造的世界に於いて一つの形が表われて一つの形が消える。それが新しい神が生れて、古い神が死ぬということなのだ。事実より事実へとして、事実を負うものとして神は死ななければならないのだ。かまどの神や、氏神さんは我々の意識に於いて忘れ去られた所以がそこにあるとおもうのだ。

乙「最近の生産物は余り神として祀られていないようだね。

甲「うんそれは生産手段の急激な発展ということに原因があるんだろうね。何しろ採取 生活数万年、農耕生活数千年という歴史に対して、余りにも目まぐるしいからね。狩の獲物を神に供えるとか、収穫の米を神に供えるとかした、一つの形に生命のはたらきを見る時間が乏しくなって来たのではないのだろうか。併しそのことは決して近代人に幸福をもたらしたものではないとおもうよ。祀るということが生命と物の統一としてはたらいていたからね。事実の自己形成の具体的なものが失われて、物と生命が乖離したということは、形成する生命の自己喪失ということだからね。」

乙「それなら何故新しい神を祀らないのだ。自己喪失というのは混乱による破滅をもたらすものではないのか。併し現在の世界は歴史上の何時の時代よりも整正としているように見えるが。」

甲「うん世界は形成作用として、現在の瞬間と永遠の結合を見なければならないとおもうのだ。そうゆう意味で現代の神をもたなければならないのだ。最初に言った物自身の自己完結性、制度による社会の整正は曽って祀られた神の如きものを拒否しているということが出来る。僕達が持たなければならない神は過去のイメージを超えた神であるとおもうんだ。キリスト教の隠れた神、仏教の絶対の無が徹底されたものとしてだ。」

乙「隠れた神や、絶対の無は形の拒否ではないのかね。そこに祀るということはあり得ないのではないのか。」

甲「そうだそこに近代に於て神が見失われた理由があるとおもうよ。祀られることによ って見られた神、見られることによってあった神、それが見えない神を真の神とすると き、それは過去よりの目を断絶することだからね。併し生命に於て死ぬとは自己矛盾の中に死んでゆくのだ。神は生命の根底として、死ぬことは生れることでないと神ではないのだ。僕が事実より事実へとして、事実の自己創造に神の相を求めたのも僕なりの解答なのだがね。併し明らかな映像が生れて来ないので僕自身焦っているのだ。」

乙「君はこの前われわれが神を見たのは、死との対面に於て、危機の克服としてであったと言っていたね。今もそう思っているのか。」

甲「そうだ事実より事実へとして、生命の形成作用は死なくしてあり得ないとおもって いるのだ。生命に於て外があるということは、内があるということだ。より豊富な外を 見るということは、より高度な機能をもつということだ。この間読んだ木村賢生氏の『生物進化を考える』という本の中に、アメリカの有名な古生物学者のローマ氏がわれわ れは大古の祖先の敵ウミサソリに感謝せねばならないと述べておられるというのがあったよ。四億年から五億年程前われわれの祖先はミミズのようなものであったらしい。数センチから五〇センチ程のものだったらしいが、ウミサソリという大きなのは二米五〇センチもある動物の餌になっていたらしい。それが何千万年か何億年か喰われている内に蟹の甲羅のようなものが出来たらしい。それが肉の中に入って骨格になったというのだ。そして骨格なしに脊椎動物の進歩はあり得なかったというのだ。そしてその硬骨のお陰でウミサソリは絶えたらしい。それからローマ氏は『われわれは恐竜の意図もしない援助に感謝しなければならない』と言っているそうである。これもわれわれの祖先の哺乳動物は恐竜の餌であったということらしい。何千万年も何とか逃れようとして智能が発達したらしい。目を逃れるために夜に行動することによって温血動物になったらしい。これによって見るかぎり、人間が現在の生命を形作り候たのは、他者による無数の死であったとおもうのだ。否定されることによって生命は新たな形質を獲得するのだ。僕達の小さい頃、よく祖母は山の神さん、水の神さん、便所の神さん、地神さんなどと言ったものだ。お宮さんに行くと木や石に縄を張って神として祀ってあったものだ。それらは全て内外相互転換としての外の意味をもつものだ。内外相互転換の外とは死として迫ってくるものだ。死を距てて対立するところに外はあるのだ。而してそれは内外相互転換として、内に転じてより大なる形質をもたらせてくれるものだ。考えて見給え、万物の生ずる大地、多くのけものを殖やし、焼畑農法による生産力をもつ山、それなくして生命のあり得ない水、火の本となる樹木、最初の道具となった石、それは生命にとって測り得ない力なのだ。そしてその力こそ生命の直接の事実なのだ。生命の内外相互転換に直接するものだ。僕はこの化石とも言うべき素朴なる神に、神の原型を見ることが出来るとおもうのだ。生死はわれわれを超えて何うすることも出来ないから生死だ。生死は唯事実より事実へとしての生命の運びだ。併しその転換の繰り返しの内に、生命はより密度の高い転換をもってゆくのだ。事実より事実へとして事実の示顕があるのだ。僕はウミサソリに喰われてゆくうちに、甲羅が出来たなどというのは事実の示顕とより言いようがないとおもうのだ。斯のようなはたらきが言葉によって捉えられるとき僕は神を見るとおもうのだ。上記の神々は死として迫って来ながら、祈りによって生に転じ得るものなのだ。祈りとは現在の奥底としての未来が現在を限定せんとすることであり、祀るということは言葉によって、事実の示顕を露わにしたということなのだ。常に生命が発展してゆくというのは否定を介しての肯定なのだ。われわれ人間は自覚的生命として、他の動物と截然として分つものだ。自覚的生命とは表現的に自己を見てゆくということだ。外を物として自己を表わしてゆくことだ。表現的に自己を見てゆくとき、或は他者による死はないというかも知れない。併し僕は自覚的としてより深化された形に於て死の媒介をもたなければならないとおもうのだ。それは表現的他者として表現的世界の中に死んでゆくことだ。実業家は物に、芸術家は美に、学者は真理に生命を賭けることが要求されるのだ。全てその世界に入ったものは、その世界の犠牲になることが要求されるのだ。芥川龍之介の『地獄変』は余りにも拡大された露わの故に、読むものをして嫌悪感を催させる。併し私達は深くかえり見るとき、自己の内奥に棲むあのような心を否定することが出来ないのだ。最愛の娘が殺される苦痛の歪み、美神の饗応による恍惚への変化、そこには深い真実があるとおもわざるを得ないのだ。それは人間世界の荘厳はそれらによって実現されたのだということだ。ここに明らかに死は生であるすがたが現われるのだ。現在の人間世界の栄光の実現のために、如何に多くの世界形成の為に生命を賭けた人があったか考えて見給え、そしてその世界の中に死することによって見出でた形相こそ、自覚的生命としての身体なのだ。表現的世界に死ぬとは、表現的に生れることなのだ。表現的世界の事実より事実は創造ということだ。創造は死んで生れることだ。そこに神は世界実現としての事実として自己を露わとするのだ。禅家の言う大死一番も断るところから考えられるとおもうんだ。回心ということも今迄の自己が死んで、新たな自己が生れるという意味がなければならないとおもうんだ。

乙「創造というのは成程人類の荘儼を生んでゆくものであるとおもうよ。併し事実より 事実へというとき、人類は悪の方向、罪の方向にも愈々大となってゆくのではないのかね。例えば言葉をもったが故に詐欺をもち、技術をもったが故に大量の殺人兵器を作ると言った如きも、神の内容とならなければならないのではないかとおもうよ。そしてそれを神が裁かなければならないというとき、一体神とは何かと思わざるを得ないがね。」

甲「そうだ、事実はその内包する矛盾に於て事実より事実へと動いてゆくのだ。肯定の方向が大になることは否定の方向が大になることだ。大なる神を見ることは、反面に大なる悪魔を見ることだ。それは善とか悪ではなしに、社会が大となり複雑となっているということだ。善とか悪、神とか悪魔として捉えられるのはその表裏ということだ。表が大となれば裏も大となるのだ。事実が事実を限定するのを絶対とし、絶対に神を見るとき、この表裏、この矛盾が事実として神の相でなければならないのは当然だ。併し戦争の悲惨、暴力、殺人鬼、強姦魔、これ等を神の相に組み込もうとすれば、神の映像は如何にもつべきであるか、僕が前に神の映像を捉えきれないと言ったのは実にここにあるのだ。ここで僕がもち得る解答は、神ははたらくもので矛盾そのものだということだ。矛盾として動いてゆくことが形成作用であり、初めと終りを結ぶということだ。形成作用とは形の一々が矛盾の救済としてあるのだ。矛盾は苦痛であり、形の実現は救済なのだ。神は自己を極悪となすことによって極悪を救うのだ。救うものは何か、極悪も事実より事実へとして永遠の顕現であることだ。事実は自己の中に悪をもつことによって自己洗浄をしてゆくのだ。僕は言われる懺悔とはそのようなものだとおもうのだ。行為に永遠の照射が浴びせられたということだ。」

乙「それでは懺悔しないものは何うなるのかね。」

甲「仏教にも女と小人は度し難しという言葉があったように思うね。僕はここで解答す

る力がないと告白せざるを得ないのだ。唯僕が手探りで考えると、事実が事実を限定するということは、世界が世界を限定するということなんだ。事実として直接するものはこのわれだ。而してこの我があるとはこうして君と対話することによってあるのだ。君は僕ではない絶対の他者として対話はあるのだ。それが世界だ。対話をもつとは世界が世界自身を実現していることなのだ。救済は事実としての世界の自己救済ではないかと思うんだ。極悪人を殺す、それが世界の自己救済ではないかとおもうんだ。」

乙「殺されたものは何うなるんかね。」

甲「うん事実より事実へとして見られる世界は、そのような人本主義的な神ではないのではないかとおもうんだ。一切の人間的な感傷は拒否されるんだ。唯矛盾の実現が救済なのだ。世界が世界を実現してゆくことが救済なのだ。われわれはそこに帰一するのみなのだ。悪人われが事実としてこの世に生れた。そして矛盾の中に殺される。永遠の運びの中に殺される。われを殺し、運ぶ大なる力の現れとしてわれはある。ここに救済があるのではないのかとおもうのだ。唯尚人間的なものを捨て切れない僕は、その深淵を覗く力はないようだ。僕がそのようにおもうのはエホバの命によって、アブラハムは自分の子を殺したということを聞いている故なのだ。」

甲「僕もそれ以上聞いても唯混乱するだけだとおもうよ。それで問題を変えたいとおも うのだが、この頃よく本なんかに書かれているインカの文明や、マヤの文明にも祭壇の遺跡なんかがあって神を祀ったようだが、今は祭る人もいないし、祈りもないようだ。その神は滅んだのか、それともまだ生きているのか、それとも幻覚のようなものだったのかね。」

乙「うんそれも確に神の本質に関る問題だね。これも僕はこう思うんだという解答しか 出せないがね。前にも言った如く事実として直接するものはこの我なのだ。この我の身体なのだ。民族の神といっても、それが神である以上民族を超えたものなのだ。何によって超えるか、それは一々の身体が生死を超えた永遠を宿すことによってあるということだ。そして祀るということは、その宿された永遠を見るということなのだ。民族の神というのは永遠が民族的に現われたということだ。人間の自覚としての、言葉や技術が民族的に現われたということなのだ。それで何時でも神との交感は個人が担うので、式が担うのではないのだ。それで僕は神は滅んだとか、まだ生きているとか言って見られるべきものではないとおもうのだ。生きていた人々がそこに自己の奥底としての永遠を見ていた。僕は神殿の崩れを見るのではなしに、そこに祈った人々の神を見る目を見ればよいとおもうのだ。そして僕達もこうして自己の奥底として永遠を語り合う。時とところを超えて同じいのちのはたらきがある。永遠の今としてわれわれのいのちのはたらきがあると感ずるべきだとおもうのだ。」

乙「神にはいろいろの神があるね。それも事実の自己形成としての、事実より事実へとして見るべきなんだろうね。」

甲「そうだとおもうよ。内外相互転換として、人類はさまざまの外をもつからね。転換 としての外は環境として、地理的、歴史的に無限の多様だからね。山に生きるもの、海に生きるもの、酷寒に生きるもの、猛暑に生きるもの、砂漠に生きるもの、それ等と闘うことなくして生存のあり得ないのが生命の事実だからね。和辻哲郎が言っている如く、『生命は風土としての環境の綜合として自己を形作ってゆく』からね。山の神、海の神、火の神、木の神、米の神、日本の神、印度の神、農の神、砂漠の神、牧蓄の神、数え切れないよ。何しろ日本だけでも八百万の神と言うからね。僕は多様であるということ、その土地土地の神をもつということが、事実より事実へとして、生命が自己の中に自己を見た結果であるとおもうんだ。その上に神が見られたのだとおもうんだ。」

乙「事実より事実へと言うとき僕は歴史と質を同じくしているように思えるんだがね。歴史的形成を考えるとき、神と歴史は同じものと考えていいのではないのかね。」

甲「そうだ事実より事実へというのは歴史的ということだ。神は歴史的に自己を実現し てゆくのだ。歴史の深淵という言葉があるね。前に言った善と悪、神と悪魔の辨証法的深化は、神の内容であると同時に歴史の内容であるのだ。唯歴史は変遷の推移を叙述するものだ。神を見るということはその変遷を同一に於て捉えることなのだ。一瞬一瞬の還ることなき流れを、初めと終りを結ぶものに於て捉えることなのだ。神は歴史的に自己を実現するとは、歴史は神の内容としてあるということなのだ。神の内容としてあるということは、歴史はそれ自身に成立の根拠をもたないということなのだ。単に過去より未来より流れる時間は、時間ではないということなのだ。時間が過去、現在、未来をもつとは、過去、現在、未来を統一するものがなければならないのだ。それは過去より未来へ流れるものによって見られないものであり、唯それを自己の実現とするものによってのみ見られるのだ。動くものは対立と矛盾によって動いてゆく、その一々の事件の意味といったものも、単なる現象から見ることが出来ないものだ。初めと終りを結ぶものの自己実現として意味は生れてくるのだ。過去から未来へというとき、歴史は唯盲目的だ。勿論対立と矛盾は盲目である。併し形と現われてくる、そこは明光なのだ。われわれは 自覚的生命として外に形に表わす、それは明光を確めたということだ。そしてその明光は初めを終りを結ぶものとしての神からくるのだ。

乙「聖書に『はじめに言葉ありき、言葉は神と偕にありき、言葉は神なりき』と書いて あるね。それについての君の考えを聞きたいのだが。」

甲「はじめとは根源ということだろうね。存在の根底に何があるのか、知恵をもった人間が必然的に負わされた問いだね。それに対してファストは「はじめに意ありき」とし、次いで「はじめに力ありき」とし、最後に「はじめに行為ありき」としたね。一番目の意というものから形が生れるというのは考えにくいからね。問題とすべきは二番目からだろうね。世界が対立的に動いてゆくということから力は非常に重大な要素だとおもうよ。併し力ということから形成ということを導き出すのは無理だとおもうのだ。そこで行為が見出されただろうが、行為は力と言葉が結びついたもののように思うよ。それで僕は矢張り『はじめに言葉ありき』だとおもうよ。僕は全てのあるものは形成的にあるとおもうのだ。はじめに言葉ありきとはどうゆうことなのだろうか、生命は人間が言語中枢をもつことによって初めて言葉をもった。天地創造のときには言葉の使用は存在していなかったと言ってもいいとおもうのだ。併しはじめに言葉ありきという。それは今僕達が使っている言葉ではなくして、言葉のもっている原質的なものとおもうのだ。それは形成作用として、形より形へとして、機能的に発展させてゆくものだとおもうのだ。存在は形成として力を含むのだ。形成として力を含むことが行為だ。言葉のもっている原質的なものとしての必然とか秩序、それなくして存在はあり得ないとおもうのだ。われわれが言葉をもつのも斯る根源的なものが、人間に於て全く現れたと言い得るようにおもうのだ。運動や習字の如く持っている根源的な力は時間を経て現れるように、生命発展の究極に於て言葉が現われたのだ。人間は言葉をもつことによって物を作り、無限に自己を形成してゆく、それは存在が自己自身を完成して行っているとおもうんだ。」

乙「君が存在というのは全存在としての宇宙ということだろうね。」

甲「もちろんそうだよ。併し僕がここで宇宙を語る前に宇宙の定義をしておきたいのだ。例えばみみずの宇宙とは一体如何なるものだろうか。それは運動覚の及ぶ限りのものではないだろうか。道元は魚は以水為命、鳥は以空為命と言っているね。僕は其処に宇宙を見たいのだ。僕達は果て知らない広大な宇宙をもつ、併しそれは目を物に拡大することによって、望遠鏡を自己の視覚とすることによって開いて来たものだ。以水為命というとき、魚はその生命の初まりより無数の生死をもって形作ってきたのだ。われわれの広大な空間は、自覚的生命として物に自己を見る生命が、無限の生死に於て形の中に形を見ることによって見出してきたものだ。宇宙は事実としてわれを超えてあるものだ。併しわれわれにあるとは見ることによってあるのだ。われわれは今仰いで天の星を眺める。而してこの目には無数の過去の人々の目が棲むのだ。それなくしてわれわれは何して無限の深さ、永遠の光りを感ずることが出来ようか。僕はそのような立場から宇宙を生命形成の全体像として定義したいのだ。そして僕は宇宙を宇宙的霊性として捉えたいのだ。霊性とは無限の過去の生命が其の中に宿されているということだ。そういう意味に於て水は魚にとって一つの霊性の意味をもつとおもうのだ。だから僕は昔の人が宇宙を神とし、天に存在を司るものを見たのは或る点で正しいとおもうんだ。勿論天帝とか、天道とか、天子というのは近代科学によって変容されなければならないがね。唯僕には我々の行為の根源としての絶対矛盾と、宇宙とを結びつけることが出来ないのだ。それで神の影であっても真にはたらく神として捉えることは出来ないのだ。」

乙「どうも有難う。結局神のふかさはわれわれの存在のふかさだね。」

甲「そうおもうよ。考えれば考える程人間の深さは底知れないからね。仏家の言う不思量底の上で思量していると思う外ないからね。不思量底を事実として捉えたといっても事実を問うとき事実は不思議窮りなものだからね。思索なんて結局問いを増やして先に送っていくことかも知れないよ。それにしても君に答えている内に、解っていたと思っていたものが、実は解っていないことがたくさんあることに気が付いたのは収穫だったよ。亦来てくれたまえ。」

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

シャーマニズム

 私はシャーマニズムについて特に研究したということはない。偶々バスに乗ろうと思って、オーバーのポケットに突込んだ本が佐々木宏幹氏のシャーマニズムという本であっただけである。そして私の心を捉えたのは、近代科学に照して迷信としか言いようのないようなことが、蜿々として人類の歴史の中にはたらいて来たのは何故であったかということである。

 私はそこに自己を見るということがあるようにおもう。自己を見るとはより大なるものに自己を写すことである。私達は形あるもの、相対するもの、有限なるものとして自己をもつ。形あるものは空間に限定されたものとして、無辺なるものがなければならない。相対するものは相否定するものとして、否定によって自己を見る相対を超えたものがなければならない。有限なるものとは形あるものと等質なるものである。

 シャーマンは霊が憑依するか、霊を呼び寄せるかをする。その霊は身体より独立していて身体を支配し、身体を生命あらしめるものである。霊は通常不死なるものであり、死とは霊が身体を離れることである。シャーマンは離れた霊を尋ねて天上に飛び、海底に潜る。そして霊に病気や死の救済を求めるのである。

 生理学や、病理学の発達した現在、身体を離れて生命をあらしめる霊などと言うものは荒糖無稽なるものであろう。併し私はこの中に幾多の深い洞察があると思わざるを得ない。その第一は霊はこの身体を離れて、我ならざるものとして我をあらしめるものであり、我をあらしめるものとして不死なるものであることである。我をあらしめるものとは、それによって我々は我であるのであり、それが我ならざるものとは矛盾である。それは我の内よりはたらくものが、我の外としてあるということである。

 生命がはたらくとは内を外とし、外を内として形成的にはたらくのである。形が現われるというには、瞬間としての内外相互転換を超えて、内外相互的に自己を現わすものがなければならない。即ち生命の形成作用には永遠なるものがなければならない。瞬間的なるものが永遠なるものであり、永遠なるものが瞬間的なるものであることによって生命の形成作用はあるのである。生命は単細胞より初まったと言われる。そして人間は今六十兆の細胞の構成体であると言われる。そこには一貫せる生命のはた らきがなければならない。生命の創生より三十八億年の、無数の生死を超えた形成作用がなければならない。今持つ身体ははかり知ることの出来ない生死を蔵することによってあるのである。我々の身体も亦生れ来って死にゆくものである。今人生は七十年とか八十年とか言われる。併しその七十年は、三十八億年を包む七十年である。数限り無い生死にはその一々に愛憎と哀歓を伴う。三十八億年を包むとは、我々の哀歓はその限り無い哀歓を包むということである。三十八億年の陰翳を宿すということである。

 斯る陰翳が真に露わとなるためには、生命は言葉をもたなければならなかった。即ち言葉をもつ人間に於てそれが真に露わとなったということである。形成作用とは作られたものが作るものとなることである。作られた形が新たなる死生転換に於て、新たなる形質を獲得することである。過去がはたらくことによって現在があるのである。現在とは形作られたものとしての過去が、当面する内外の矛盾としての、生死の相克の中に転生することである。

 言葉は分別し、統一するはたらきである。分別が統一であり、統一が分別である無限のはたらきである。私はシャーマニズムは分別と統一の、最初の自覚に現われた生命の相であるとおもう。身体のもつ絶えざる営みと、形による営みの統一、瞬間的なるものと永遠なるものが分別されたところに、身体と霊魂の分離があったとおもう。はたらくものは生死を超えた形成作用を本質として、身体は霊魂の容器の思想が生れ来ったとおもう。霊魂の遊離は一切の活動の停止であり、一切の活動の停止は死である。而して活動は何処迄も瞬間的なるものが永遠なるものでなければならない。斯る媒介者がシャーマンである。それは遊離せんとするとき、亦は遊離せるときにのみ媒介者となるのである。媒介者の能力は直接霊に交流する力である。私はそこに形成作用の原型を見ることが出来るように思う。人間が霊能者となり、霊能者が媒介するということは、媒介は自己が自己を媒介することであり、無媒介の媒介ということである。永遠なるものと瞬間的なるものの否定と統一があるということである。形成作用の影であるということが出来る。無媒介の媒介とは初めと終りを結ぶものが自己の中に自己を見てゆくということである。

 作られたものが作るものとして、私は中世の神も斯かるシャーマニズムの自覚的徹底より考えられるとおもう。霊は身体に入ることによって形をもつものであり、それ自身形なきものである。形なきものであるが故に、形作るものとして、はたらくものとなることが出来るのである。形なきものは相対を絶したものである。相対を絶するとは普遍者として、唯一者としてあることでなければならない。シャーマニズムに於ては、精霊は個々の生き人間に対するものであった。個に対するものとして、精霊も亦個としての存在であった。そこには具体的な形成作用はないと言わなければならない。形成作用は個と個が相対することであり、個と個が相対することは世界を形作ることである。個を担うものは形としての身体である。霊は形なきものとして世界を担わなければならない。瞬間的なるものに対する永遠なるものとして、永遠なるものとしてはたらくことによって、瞬間的なるものを成立させるものでなければならない。個が個である限り、個を超えることは出来ない。シャーマンの交通する霊は個として身体を超えつつ、身体の次元に付着し、身体を真に超えて創造する霊ではなく、身体を維持する霊に外ならなかったとおもう。シャーマンは治癒師として、真に創造するものとなり得なかったとおもう。斯る身体と霊の根底に立って普遍なる神、一切の創造主の神を確立したのがキリストであるとおもう。曽って何かの本でキリストが治癒神であったというのを読んだことがある。聖書にも治癒神であった痕跡を多く見ることが出来る。キリストの神は生死を超えて、生死を支配する霊を徹底することによって啓示する神、隠れたる神、永遠なる一の神の自覚に達したのであるとおもう。終末観は斯る自覚の到達すべき必然であるとおもう。

 神は死んだという言葉がある。近代は霊の容器としての身体がはたらくものとして、感覚の捕捉し、展開するものを実在としたということが出来る。身体は行動的として自己形成的である。それは神によって作られるのではなくして、身体が生死の矛盾をもつことによって、矛盾の超克として身体が身体自身を作ってゆくのである。我々の自己があるとは神によってあるのではなくして、経験の統一としての理性の構成によってあるのである。永遠なるものは身体が自己形成的として永遠なのである。無限の世界形成は物と技術的努力の中より生れてくるのである。

 生命は動的なるものであり、動くものは相反する方向に動く、相反するものの相互否定として動くのである。シャーマニズムの特殊として個に即した霊は、その純化徹底に於て普遍なる霊となった。普遍にして唯一なる神は形なきものとして、逆に一々の形として自己を実現する。そこには必然的に個が生れなければならない。生れた個は創造する神の投影としてはたらくのでなければならない。創造点として生産を担うものでなければならない。近代の個性としての人格の成立は、神の否定ではなくして神の更なる純化徹底であるということが出来る。近代科学を自己の純化徹底として把握することのないキリスト教は、シャーマニズムと同じく過去の中に埋没するの外なき運命をもつものとなるであろう。歴史は変遷する。併しその変化は突然に異った形相が実現するのではない。自己に内在するものの発現として変遷するのである。前にも書いた如く生れくる形は否定として、相反する形として生れてくる、そこに私達は断絶を見る。過去を誤りとし、罪とする。併しその誤りとし、罪とするものはそのものの中より生れ来たものである。誤りや罪の中より生れ来ったのである。私はシャーマニズムは深い生命の真実に立っていたとおもう。過去、現在、未来を見、世界を見、自己を見ている。そしてそれを動的一に於て捉えている。初に問題として捉えた、蜿々たる歴史の中のはたらきは、斯る生命の自己の運びの上にあったが故であるとおもう。斯る意味に於てシャーマニズムは今もはたらくのである。形を二転三転してはたらくのである。シャーマンは天に翔び地に潜る。それは時の中に転じて宇宙船となり、潜水艇としてはたらくのである。転ずるとは死して生れるということである。かつてのシャーマニズムのあったところより宇宙船は生れることは出来ない。新たな形が生れるためには、過去の形は死ななければならない。併しそれは新しいものを生むはたらきとして死ぬのである。

 新しい形を生むはたらきとして死ぬと言えば、過去は新しいものを生むためにあったと思われる人があるかも知れない。併しそれは死ぬということと、生れるということを真に考えたことのない人であるといわなければならない。生れくるものはその一々が三十八億年の生命形成を負うものとして生れくるのである。それはホモサンピエスとして生れてくるもの全てが同じである。そして生れ来ったものは生むものとして生れ来ったのである。それは無限の過去と未来をもち、永遠を宿すものとして一つの完結をもつのである。完結とは初めと終りをもつということである。自己の中に初めと終りを結ぶということである。霊、シャーマン、人の三位一体は自覚的生命の一つの完結である。分別と統一をもったということは、自己が自己自身に生きたということである。永遠の形相として生きたということである。生れて死ぬものが担う歴史の変遷は永遠より永遠へである。それは否定されつつ何処迄もはたらくものである。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

「生物の進化を考える」を読んで

 私は自動車の運転免許をもたない。いきおい何処へ行くのにもバスや汽車に頼らざるを得ない。バスや汽車は待ち時間が多い。殊に私の住むような田舎では数十分が普通である。それを天恵として本を読むに決めている。本はなるべく哲学書以外のものにしている。それも一般的な啓蒙書ばかりである。それでもこの頃の科学の進歩は、大部分が私達の解り難いことである。

 この間木村資生氏の「生物進化を考える」という本を買った。御多分にもれず私達弥次馬読者には解るとは思えないものであった。それでも私には私なりに興味をもつものがあった。それはその中にその生物に感謝しなければならないという所が二ヶ所あったことである。一つはウミサソリである。少々長くなるが引用したいとおもう。『今から約五億年前にわれわれの遠い祖先で、最古の真性脊椎動物である無顎類かが現れた。これは下顎のない下等な魚の一種で、口から海底の泥を吸い込み、その中から餌をとって生活していた。つまりミミズに似た生活をしていたと想像される。中略―その化石はシルル紀(約四億四〇〇〇万年前から四億年前)に多く見られ、体はよろい状の甲羅でおおわれていて、甲冑魚類とも呼ばれている。このよろいが発達したのは、その当時優勢であったウミサソリと呼ばれる捕食性の節足動物に対する防御のためであったと考えられている。

 事実シルル期の終りからデボン紀の初(約四億年前)にかけて、化石の出方から当時の動物相を考えると、小型の無顎類と大型のウミサソリが動物の主なものであるような場合がいくらでも見つかっている。当時のウミサソリはどう猛な肉食動物で、中には体長が2.5米に達するものもあった。そして無顎類を餌にして生きていたと想像される。やがて無顎類の子孫に体制の発達した泳ぎの上手な硬骨魚が出現し、それが繁栄するようになるとウミサソリは数が減って古生代の終りには滅亡してしまう。

 このように脊椎動物の骨というものは、まず体表をおおう板として出現し、やがて頭の中へ入りこんで骨が出来、続いて体の心棒となってこれを支持する脊椎に進化していった。振り返ってみると、骨格なしにはさらに進歩した脊椎動物の出現は不可能だったわけで、それはもとをただせば外敵から身を護るための甲冑である。とくにウミサソリのような恐しい敵がいたからこそ、それが生じたわけで、アメリカの有名な古生物学者ローマーは、われわれは太古の祖先の敵、ウミサソリに感謝せねばならないと述べている。』

 今一つはおなじみの恐竜である。『最初の哺乳動物は今から二億年程前に哺乳型爬虫類の子孫として生れた。化石の資料によると、当時の哺乳類は現在のハツカネズミのような小型の夜行性動物で、恐竜の目をのがれて生活していたと想像される。そして、低温の夜の生活の適応として、恒温性や毛皮が発達した。化石の研究によると、二億年前の初期の哺乳類はその祖先の哺乳型爬虫類にくらべ、体の大きさは一〇分の一程度しかないのに、脳の相対的な大きさは四・五倍もあった。暗い夜の生活のために、嗅覚と聴覚が発達する必要があり、脳の増大はそれによってもたらされたと考えられる。

 哺乳動物にとって、中世代はいわば苦難の時であったが、また有意義な時期でもあった。哺乳動物のすぐれた性質、とくに知能と、温度に依存しない活動性は爬虫類の暴虐の下で生きのびるために大きく改良されたからである。古生物学者A・ローマーはこの問題にふれ、「われわれは、哺乳動物として、恐竜の意図もしなかった援助に感謝をせねばならない」と言っている。』

 以上の記述によると、人間の祖先は大変弱くて逃げてばかりしていたようである。常に死の危機に臨み、死の危機の中から見出した生としての身体の機構が今日の我々をあらしめたようである。パスカルは人間は獅子の一打にも耐えられないという。併し今地球上の生物の、生殺与奪を握るものは人間である。一打にも耐えられない人間が一撃にて倒すのである。ウミサソリも恐竜も絶滅した。そして恐怖におののいた人間が生き残っている。私はそこに生命の相があるようにおもう。

 生命は個体的に生死するものとしてある。生死するものとしてあるとは、生死に於て連続をもつことである。生死が連続であるとは死ぬことが生れることであり、生れることが死ぬということである。生れることが死ぬことであり、死ぬことが生れることであるとは内外相互転換的に形成的であることである。内外相互転換とは内が外となり外が内となることであり、内が外を否定し、外が内を否定することである。生命は相互否定的転換であることによって、生死としての連続をもつのである。否定されるものは否定するものである。否定される忍従の裡に、耐性と超克が生れてくるのである。相互否定的であることが連続であるとは、個を超えたものが個をあらしめ、個としてはたらくということである。耐性と超克は斯る個であるものが個を超えたものであるところに生れるのである。否定されるものが否定するものであるところに生命はある。私は人間は斯る生命構造をもったが故に今日があると考えざるを得ない。

 否定されるものは弱きものである。而して生命は斯る否定の底から新しい機能を獲得 てゆくのである。そこに生命が生死する所以があるのである。死を媒介とすることによって否定するものを超えることが出来るのである。否定するものを超えるとは、否定するものを否定することである。強者となることである。強者となるとはウミサソリに対して甲羅をもつことであり、恐竜に対して知恵をもつことである。パスカルは人間は獅子の一打にも耐え得ないものである。併し死を知るが故に殺すものよりも尊いと言っている。尊いとはより大なる生命を孕んでいるということである。知るということの中に、殺すものを超える大なる可能性があるのである。

 私は全て偉大なるものとは否定の底より生れ来ったのではないかとおもう。人生に於て最も大なるものは愛であり、愛は全てを生む原動力であると言われる。愛は惜しみなく与えると言われる如く、愛は自己を無にして、他者に自己を見るところにあるものである。自己を無にするとは、自己を否定してゆくことである。否定することによって他者に於て自己を肯定するのである。他者に於て自己を肯定するとは自他を超えた大なる世界を見ることである。愛とは生命のより大なる中心に向って一歩を進めたものである。斯る一歩は如何にして進め得たのであろうか、私はそこに限りない生のかなしみを見ることが出来るとおもう。

 ゲーテはウイルへルム・マイステルの中のミニョンの詩吟遊詩人に「涙もてパンを食 みしことなく、夜々の臥床を泣き明さざりし人は、知らじいと高き御身のいます」と唄わしめている。私はここに深い真実があるとおもう。私達は傷つくことの痛みから他者の 痛みを知るのである。より高き御身とは痛みによって結びついた世界である。結びつくとは自他一なる世界である。自他一なることによって互に癒し合うところに新しい生命の相を、新しい自己と他者の相を見るのである。いと高きものの相はその底に見えるのである。それは人類を一ならしめるものの相である。

 ドストエフスキーは罪と罰に於て、ラスコリーニコフをして娼婦ソーニャの前に跪ずかしめ、「我は全人類の苦痛の偉大さに跪ずく」と言わしめている。苦痛の偉大さとは何なのであろうか、私はそれを人類が獲得した形質に対する苦痛の役割であるとおもう。ウミサソリの恐怖に逃げ廻り、恐竜の目より逃れて生きついできた祖先の血を承け、それを発展させてきた人類の底深く流れるものであるとおもう。ソーニャが「神がなくしてどうして私達があり得ましょう」と言った背後に、私は死を潜りつつより大なる生命の形相を見出して来た、はるかな人類の生命を見ることが出来るようにおもう。私は人類が今日の繁栄をもち得たのは、他の生物に対してはるかに苦痛に耐え得る力を作ってきたが故であるとおもう。

 物質は空間の歪みであると言われる。そうとすると精神は時間の歪みであるまいか、抑圧された生命がエネルギーを蓄積して、爆発するところに歴史があるのではないか。私は歴史について深くは知らない。併し歴史は変遷である。その変遷をあらしめるものは忍従の裡に培って来た力であるとおもう。否定されていたものが否定して肯定に転じるのである。斯くて盛者は没落し、新しいものが勢いを得てより大なる世界を作る。それは否定せられていたが故に、否定するものを超えた新たな原理によって世界を構成するのである。涙もてパンを食ったものが、涙によって連らなり合う世界を作るのである。それは自他同一のより強固な世界である。歴史的展開の場は人倫顕現の場である。

 甲羅を作り、骨格を作り、知恵を作ることによって現在の人類があるとは、今われわれがあるということは無限の過去を背負っているということである。無限の過去によってあるとは初めがはたらいているということである。初めがはたらくことによって今のわれわれがあるとは、生命は初めと終りを結ぶものとして、永遠なるものがはたらくということである。はたらくとは自己の中に自己を見てゆくことである。自己の中に自己を見るとは自己の中に自己ならざるものをもつことである。自己を否定するものをもつことである。否定するものを否定することが自己の中に自己を見ることである。否定するものを否定することが自己の中に自己を見ることであるとは、真に自己を限定し、自己を見てゆくものは矛盾の同一として対立を超えたものでなければならない。

 甲羅を作り、骨格を作り、知恵を作って来たものは、それ自身の形をもたないものでなければならない。形に於て無なるものでなければならない。それ自身の形をもつものは次の形をもつことは出来ない。次の形をもつものは現在の自己の形を否定するものでなければならない。自己の形を否定するものは、形なくして形に自己を表わすものである。私は自己が自己を見る生命に於ては、初めと終りを結ぶものは無として、世界として形を超越するものであるとおもう。無として世界となることによって形の中に形を見てゆく生命は無限の形成をもつことが出来るのである。無であり世界であるとは、形より形への一瞬一瞬の創造は、無の創造であり、世界の自己形成であるということである。動くものは動かざるものの影であり、生滅するものは不生不滅なるものの影である。自己の中に自己を見るとは初めと終りを結ぶものがはたらくことであり、初めと終りを結ぶものの中に写されることによって我々は自己を見ることが出来るのである。私達は社会の中にはたらき、世界に自己を見るのである。形より形へとして見出でた自己が初めと終りを結ぶものに接するとき、我々はそこに神を見るのである。万物は神の創造であり、我々の行為は神の形相の実現である。神は見ることも聞くことも出来ないものである。唯行為に於て触れるのみである。否定の底の肯定に於て、涙を拭った目に於て感ずることが出来るのみである。

 人間は自覚的生命として言葉をもつ、言葉は個体を超えたものである。我々は言葉によって過去を伝承し、未来へ伝達する。我々が自己を知るというのも言葉によって自己を見出てゆくのである。斯る自己を超えたものによって自己を見てゆく、我々の対面する死は最早天敵というものではない。生命が本来もつものとしての必然としての死である。それは本来的なるが故に何うすることも出来ないものである。それは見える敵に対うが如く勇気を奮い起こすものではない。キエルケゴールは絶望したかと問うている。死を生に転ずる生命の営為はここに鉄壁に面するのである。万物の上に誇った知は、その知の故に己を一塵の微、一滴の朝露とするのである。殺すか殺されるかの死ではない。絶対の死である。抗すべからざる死である。

 併し自覚的生命となることによって絶対の死に面したということは、自覚的生命は絶対の生に転ずべく自覚的生命であったのである。自覚的生命としての言葉は我々の生死を超えてあると言った。われわれが死が見るというのも言葉がはたらくことによってである。死を見るということがすでに、われわれを超えたものとしての言葉の摂取がはじまっているのである。己を一塵の微として見、朝露のはかなさとして見るのは、言葉によってあり、言葉によって見ているということである。斯く言葉によってはたらくものの前に立つときわれわれは無力として絶対の弱者となるのである。絶対の弱者となるとはわれをあらしめるものに依ってのみ生き得ることである。帰依、回心はここに生れる。内外相互転換としての最も深いものはここにあるのである。最も深い自覚はここにあるのである。

 私はウミサソリによる甲羅の出現と、言葉による永遠の出現が如何なる関りをもつかを知らない。併し何れも弱者として、死を媒介とすることによって出現したものである。勿論ウミサソリによる死は肉体の死であり、言葉による死は精神の死である。併しそれは何れも絶対否定をくっての肯定である。輝く形象は苦難を超えなければならないのである。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

製作

 人間は物を作ることによって人間になったと言われる。物を作ることによって人間にな ったとは、物は人間しか作らないということである。併し人間も動物の中の一つである。動物の中の一つでありつつ、人間のみが作るというとき、作るとは如何なることなのであろうか。

 物を作るとは人間が、自己の外に自己を見てゆくことである。外に自己を見るとは、自己ならざるものに自己を形作ってゆくことである。斯る形というのは何処から来るのであろうか。私はその根底に生命の形成作用があるとおもう。生命は身体的に自己を表わすものである。単細胞動物より、多細胞動物へ、多細胞動物より爬虫類、哺乳動物、人間への発達は身体の形の転化である。多様なる機能とその統一に形の転化があるのである。生命は発生以来矛盾と闘争の裡に、無限に多様なる機能を実現し、実現しつつあるのであり、その表われが身体である。

 形成として身体は生命の二重構造をもつのである。矛盾と闘争は生命が裡に相反するもの、対立するものをもつということである。対立するものは否定し合うものである。闘うものとして一瞬より一瞬へ移ってゆくのである。生の否定は死である。死をもつものが生を争うのが闘いであり、死をもつものとしていつかは無の中に消えてゆかなければならないのである。併し闘うもの否定し合うものは未だ真の矛盾ではない。矛盾は否定し合うもの、有限なるものが、永遠なるものであるところにあるのである。

 多様なる機能と構造は、生命が否定の否定として獲得して来たのである。死に面して、 生への転換をもたんとした苦悶が創り出したものである。今全ての生物が有する機能と構造は、死生転換の裡より見出されたものである。而して現在の生命が多様なる機能と構造をもつということは、生命発生以来の死生転換が現在の身体の中に蔵われているということである。一瞬一瞬の営みは現われて消えつつ、初めと終りを結ぶ時間を担うということである。逆に言えば永遠が自己を実現するものとしてあるということである。身体は生命として、永遠なるものが瞬間的なものであり、瞬間的なものが永遠なるものとしてあるのである。そこに身体は無限なはたらきとなるのである。

 瞬間が永遠であり、永遠が瞬間であるとき生命は無限の自己形成であり、無限の自己形成とは、一瞬一瞬の死生転換が経験として蓄積されてゆくことである。機能とは斯る蓄積の痕跡である。一瞬一瞬のはたらきは死を生に転ずるものとして技術的である。対象を変じて自己の生命の秩序に随わしめるものである。それが機能である。斯る一瞬一瞬の死を生に転ずるのが経験であり、機能とは経験の蓄積によるはたらきである。身体とは斯る機能の統一体である。動物も亦行動的統一をもつ生死するものとして、身体は斯る行動をもつのである。

 製作は身体の行為である。私は物を作るということは、斯る死生転換の身体の機能の上に成立すると思う。それなれば何故同じ構造をもつ他の動物がもたずに人間のみがもったのであるか。私はそこに対立にのみ生きている他の動物があるとおもう。対立にのみ生きているとは、一瞬一瞬の死生転換に生きていることである。死生転換とは内外相互転換である。身体の欲求を内として、外に食物と対するのである。斯る行動に於ては、空腹と摂 食は何処迄も瞬間的なるものの繰り返しである。身体の蓄積は捕食行動の蓄積に外ならない。

 それに対して人間は蓄積がはたらくものとなるのであるとおもう。蓄積がはたらくとは 捕食行動の昨日と今日が結びつくことである。昨日の効率的な行動と今日の状況が結びつくことである。例えば昨日偶然に穴に落ちているけものを見つけて容易に捕えたとすると、今日けものがいるのを見て、通りそうなところに穴を掘るといったごときである。瞬間をくり返すのではない、昨日の瞬間を今日の内容とするのである。昨日と今日を統一するものをもつのである。斯る統一が意識をもつことである。無限の瞬間を記憶として保つのである。記憶として保つということは、現在の新たな状況に応じて過去がはたらくということである。過去を包む現在が成立したということである。過去を包むものとして、過去の瞬間を現在に再生せしめることが作ることである。

 人間は手をもつことによって物を作ったと言われる。手をもつことによって物を作ったとは、手の延長として道具をもったということである。道具をもったということは、過去の瞬間を現在に再生せしめたということである。偶然丸太の上に載っていた石が軽く動いたを記憶することによって、次に重い石を移動さすときに丸太に乗せるのが作るということである。手は身体の時の統一の上に成立するのである。記憶をもつ生命としての身体の形相としてあるのである。

 人間のみが言語中枢をもつと言われる。記憶は言葉によって保たれるのである。昔語部によって住吉の事歴が語り継がれたという如く、言葉は身体より出でつつ身体を超えるのである。身体を超えるとは、現身としての生死を超えることである。身体のもつ機構としての蓄積を超えて、新たな蓄積の体系を打樹てることである。蓄積が身体の生死を超えて、言葉を媒介とする無限の発展をもつものとなるのである。

 身体が身体を超えるとは、世界形成的となることである。世界は我々を包み、我々が其の中にはたらくものとして世界である。動物的身体に於て直に一であった瞬間と永遠が分れるのである。瞬間的なものが蓄積の具現として、過去、現在、未来となり、永遠なるものはこの分裂の統一となるのである。世界とははたらくものが我と汝となり、内外相互転換としての外が過去、現在、未来となることである。

 斯かるものとして私は、製作は世界が世界を見るところにあるとおもう。蓄積は世界に於て蓄積されるのである。内外相互転換としての技術は物として結集し、言葉の発展としての文字によって維持されるのである。私達は生れて来て言葉を模倣する、言葉を模倣するとは言葉の海の中に生れて来たことである。生存の第一条件となることである。私達の身体が世界形成的なるものを内にもつとは、形成的世界の内容としてあることである。世界の内容となるとは、身体が身体を失なうことであると同時に、失なうことによって真の身体となることである。製作とは死して生れることである。

 発明家は寝食を忘れると言われる。寝と食は生命の本能の大なるものである。生存の為に自然が形成し来った技術である。発明家は製作せんとしてそれを否定するのである。そこに自己の身体的生命を忘れるのである。そして物に見出た自己に満たされるのである。私はそこに世界の自己実現があるとおもう。物を作るとは自然的身体的自己を否定して、物に自己を見てゆく歴史的形成者となるのである。そして世界とは作った物が自己を超えたものとして、自己を超えたものに自己を表わし自己を見てゆくことである。われわれの身体は動物の延長線上にあるのではなくして、それを否定したところにあるのである。製作は動物的身体を無としたところに成立するのである。

 斯かるものとして私は記憶の如きも、世界が世界を見るものとして、世界の自己限定としてあるとおもう。我と汝、物と我とが関り合うところに維持されるのであるとおもう。母の記憶は母の古着の中にあるのである。犬に物を投げつける記憶は、犬に出合ったときに呼び覚まされるのである。ここに起憶する身体とは、我と汝、物と我の関り合いの内容として、重々無尽の時を背負うものとなるのである。ここに自己と言うべきものはない。少なくとも動物的身体の欲求線上に見られる自己というものはない。併しそれは無くなったのではない、底に徹したのである。世界を内にもつものとして真個の自己となったのである。単にこの我を見るのではなくして、世界が世界を見ることがこの我が我を見るものとなったのである。

 物とは内外相互転換の外が内を映したものである。相互転換としての内と外は絶対の否定をもって距てるのである。死を以って距てるのである。内外相互転換とは死生転換である。それが動物に於ては刹那より刹那へと未分的に動いてゆくのである。それが人間に於ては内外相分れる。前に経験と蓄積に於て過去、現在、未来に分れるといったのは、内外相分れたものが外を内に映すということである。外の方向に死があり、内の方向に生があるのである。物とは内外相互転換の外の方向に、死として生に対立するものである。内はそれを生に転ずべくはたらくものである。それは物の多を一にすることである。物の多を一にするとは、無限に分れた対象を、生命の純一なる流れの中に消化することである。分れたものを一にするとは努力である。聖書にも言える如く、人間は額に汗して働かなければならないのである。斯くして死を生に転ずべく見出されたものが物である。それは生の固定化として、無限に動的なる生に対立するのである。

 内外相互転換は固定化なくして流動はない、否定なくして肯定はない。固定化とは形に見ることである。生命は物に自己を見てゆくのである。斯くして生命は無限なる固定化と、流動化である。固定化と流動化とは、物にはたらくものを映し、はたらくものに物を映すことである。いよいよ深くはたらくものを宿すことによって物はいよいよ物となり、物をいよいよ深く宿すことによって、はたらくものはいよいよはたらくものとなるのである。而してそれは内と外、生命と物がいよいよ対立するものとなることである。それは例え平和産業の発展を期したノーベルの火薬が殺人兵器となり、原子力が人類絶滅の危機を孕み、化学の進歩が環境汚染として生物の死をもたらしている如きである。内が外となるとはいよいよ大なる否定として立ちはだかることであり、外が内となるとはいよいよ大なる肯定として輝かしい生命を見ることである。

 斯るものとして製作は無限なる内面的発展である。内面的発展とは物が物を見、技術が技術を展いてゆくことである。物は否定が肯定に転ぜられるものである。斯る転換は何処迄も物に即して転でられるのである。技術とは物に即し、物そのものとなって転じてゆく方法である。物となって見、物となってはたらくとは、物が内面的発展をもつということである。技術は構成である。それは自分の目的に従って構成してゆくのである。目的的に構成することによって、いよいよ自己の目的が明らかとなり、明らかになることによって目的の秩序に構成するのである。それが技術の内面的発展である。

 対立する物と技術は内外相互転換に於て、内面的発展として結合するのである。内面的発展は相互転換としての時を内包するものとして、永遠の形相をもつものである。そのことは逆に言えば永遠とは無限に動的にして、初めと終りを結ぶものである。製作とは永遠が自己矛盾的に自己の中に自己を見てゆくことである。生命が動的であるとは、自己の中に自己否定をもつことである。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

時間と空間

 子等夫婦と私達は離れて住んでいる。外科医という仕事は手術をしている関係で暇を取ることが大変らしい。それで帰ってくることは年に二、三回である。帰ってくる楽しみは何と言っても孫の成長である。期間が長いので一回一回の変貌が驚きである。この頃は幼稚園に入って、恥しがったり、こましゃくれたことを言ったり、すねたりするようになってきておじいちゃんのところには中々来ない。一番なついてくれたのは走り出したころのようにおもう。「おじいちゃん」と言って指を引っ張っては外に連れ出し、突然走り出しては、自動車が来ないかと心配させたものである。私は弾むように走る幼い姿を見ながら、時間・空間について思いをめぐらしていったものである。

 孫は一日一日よく走るようになっていった。それは行動範囲の拡大であった。それは私に生命の空間形成を思わせるものであった。行動範囲の拡大は空間の拡大である。斯る拡大は走るという行為によって実現してゆくのである。走ると言う行動は時間的である。それは一瞬一瞬の連続に於て成立する。空間は時間によってあるのである。空間が時間によってあるとは、時間は空間形成的にあるということである。空間の中に自己が消えてゆくことによってあるということである。而して時間が空間の中に消えゆくことによってあるとは、空間は亦時間の中に消えゆくことによってあるということである。走るという時間の中に消えてゆくことによって、空間は自己を露わとするのである。走るという行為は一瞬一瞬が消えて現われることである。消えて現われるものによって、走り出したところか行き着いたところ迄、初めと終りを結ぶものが露わとなるのである。

 生命は内外相互転換的に形成的である。その原型的なものが摂食と排泄である。呼気と吸気である。斯る内外相互転換は単に交互の繰り返しではない、そこに生命の形成作用があるのである。生命はそれによって身体的に自己を形造ってゆくのである。それは形に自己を見、自己を実現してゆくことであると共に、絶えざる形の否定である。内外相互転換とは否定が肯定であり、肯定が否定であることである。身体の形成に於て、形ははたらくものであり、はたらくものは形である。斯る生命形成の形の方向に空間が見られ、はたらくものの方向に時が成立するのである。孫が走った一歩一歩の連続は時間であり、範囲は身体の外化として、外的身体として空間である。

 併し走ると言う如き身体に直接するときは未だ真に時間・空間と言うことは出来ない。それは時間・空間の原質とでも言うべきもので真に時間・空間が言われるには物の成立がなければならない。形とはたらくものの対立がなければならない。内外相互転換は形を外とし、はたらくものを内とするものの転換とならなければならない。外を物として、内を精神とするものの否定的転換とならなければならない。斯る相互否定的転換に於て外は形として空間となり、内ははたらくものとして時間となるのである。

 内外相互転換として内と外とは対立する。時間と空間は相互否定的に対立する。併しそれは生命は内外相互転換的に自己自身を形成するものとして、何処迄も純一な流れとしてあるのである。はたらくものは物となることによってはたらくものであり、物ははたらくものとなることによって物である。はたらくとは努力することであり、努力することは物が物を呼ぶことである。物がはたらくものとなるということは、我々がはたらくとは物に呼ばれることによってあるということである。物としての世界より呼ばれるということである。イデアに招かれて製作するということである。物と精神は何処迄も対立する。併しそれは物は精神の中に消えてゆき、精神は物の中に消えてゆくものとして対立するのである。万物流転すると言われる如く物を尋ねてものはなく、精神を尋ねて精神はない。純一なる流れとは、生命は形をもち、形は形造ることによってあるということである。それは無限に動的なるものとして、形の方向に空間が成立し、形造る方向に時間が成立するのである。生命は時間的・空間的、空間的・時間的に自己を形成してゆくのである。

 時間と空間が対立し、相互否定的になってあるとは自覚的ということである。自覚とは自己が自己を見ることである。自己が自己を見るとは自己の中に自己を見てゆくことである。自己の中に自己を見るとは初めがはたらくことである。内外相互転換は一瞬一瞬である。一瞬一瞬の内外相互転換とは、生命が一瞬に否定を肯定に転じ、肯定を否定に転じてゆくことである。外を内とし、内を外とすることである。外を内とし内を外とすることは機能的・構造的である。身体は機能的に自己を形成してゆくのである。機能的なるものが始めがはたらくとは、一瞬一瞬が消え去るものではなくしてはたらくものとなることである。一瞬一瞬の転換を技術として技術の蓄積をもつことである。無限の瞬間が現在にはたらくところに言葉があり道具があるのである。無限の瞬間が現在の内容として固定するところに物があるのであり、機能が蓄積に於て外化するところに道具があるのである。無限の瞬間を現在に固定せしめるものは言葉であり、我々はそこに記憶をもつのである。記憶をもつということは無限の過去が現在に於てあり、現在が道具を介して物を作るということである。故に記憶は現在がはたらくこと、物を作ることによって維持されるのである。斯る現在は新たなる内外相互転換によって破られ、次の現在の内容となり世界に新しい物が生れるのである。斯くして内外相互転換は無限なる創造の世界となり、われわれは否定されて否定するものとして自己を知るものとなるのである。

 創造的生命に於ては外は技術によって作られたものとなる、道具を媒介して変革された外となる。而して外は、内外相互転換として内を否定するものとして、生に対して死として迫ってくるものである。内は外を否定するものとして、死を生に転ずるものとして、新たな技術によってより大なる中心へと歩を進めるのである。ここに空間と時間が分れるのである。分れるとは、内と外として否定し合うものとなり、対立するものとなることである。空間は過去よりとして、形として現前するものとなり、時間は未来よりとして形なくしてはたらくものとなるのである。

 内と外とが相互に否定し合うとは、一つの形が滅して新たな形が生れることである。道具を媒介として製作的に相互転換をもつとは、空間はわれわれに変容さるべきものとして空間であり、時間は変革するものとして時間である。斯る変革は蓄積として、変容はより大なる形相として、形相の密度を高めてゆくことである。それは内が外を否定し、外が内を否定する終りなき展開である。創造的世界は無限の展開である。 人智無限という言葉がある。内外相互転換は形成作用として内が外を否定し、外が内を否定することは内が外を作り、外は内を作るものとして、世界はより大なる形相展開をもつのである。

 自覚的生命として自己の中に自己を見てゆくことが経験としての技術の蓄積であるとは生命形成は初めがはたらくということである。最初にあったものが自己の中に自己を見てゆくということである。時間がはたらくものとして時間であるとは、形が形の中に形を見てゆくことである。見られたものは個として、見るものは世界として、個の限定は世界の現定であり、世界の限定は個の限定として生命は自己を形成するのである。斯る限定の個の方向に時間が成立し、世界の方向に空間が成立するのである。個が世界の限定として個が世界の中に消えてゆくときに空間が成立し、世界が個の限定として世界が個の中へ消えてゆくとき時間があるのである。

 時間は無限の流れである。併し単に流れるものは時間ではない。単なる流れというも のがあるのではない。時間の無限なる流れは前に見た如く創造的時の流れである。形の中に見てゆく形の流れである。生死の流れである。形の中に形を見てゆくものとして、時間の流れは初めと終りを結ぶものがなければならない。過去と未来がそこにあり、そこより見られるものがなければならない。創造的時が形成的時であるとき、形を超えた形としての世界の内を流れるのである。時間は神の胸底を流れるのである。

 空間というとき私達は直に宇宙をおもう。無辺の広大なるものをおもう。この無辺の広 大なるものは如何なるものであるか。私は幼時四辺を囲む山の中の範囲より外に世界があると信ずることが出来なかった。山の向うにおばさんの家があると聞かされても幻の如く、どうしても実在感をもつことが出来なかった。それが実在感をもてだしたのは遠足などによりたびたび外との交通をもってからである。即ち目と足の範囲より出でなかったのである。私は空間とは生命の外延以上に出でないものであるとおもう。長い事人類が信じて疑わなかった天動説も我々の視覚の必然である。近代的宇宙論は目が手を加えた視覚の拡張転換である。望遠鏡なくして近代の宇宙認識はなかったと言って過言ではない。而して更に大なる望遠鏡の出現は如何なる宇宙理論を生むか予測しがたいとおもう。望遠鏡の精緻化は視覚が視覚の中に見出でた視覚の発展である。近代的自覚としての生命空間である。勿論宇宙はわれわれが作ったものではない。それはあったものである。併しそれは人間が自己の中に自己を見てことによって開いていったものである。無辺の空間は無限の時間に裏付けられてあるのである。内が外となり、外が内となる創造の内容としてあるのである。今我等がもつ宇宙とは斯る自覚的生命の無限の内面的発展としてあるのである。問いと答、仮設と実証の上に築かれてあるのである。内面的発展としてあるということは、時間をもつということである。時間が形を超えた形としての、空間を背後にひそめるがごとくにあるのである。

 時間は空間の中に消えてゆくことによってあり、空間は時間の中に消えゆくことによってあるとは、生命は無としてはたらくことによってあるということである。無としてはたらくとは現在が絶対現在の意味をもつということである。空間は現在の空間に於て空間であるということである。空間が現在の空間であるところに、時間が空間の中に消えることによって自己を実現したということがあるのである。ここに物が作られ、物が生れるということがあるのである。斯かるものとして時は絶対現在より絶対現在へと動いてゆくのである。時間的・空間的として初めがはたらくところに形があり、新たな形が生れるところに終りがはたらくのである。初めと終りを結ぶものとして神の内容である。一瞬より一瞬に移るものとして見るべからざる神の姿は、一瞬一瞬に自己を露わとする神である。絶対時間は亦絶対空間である。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

記憶

 私は書店に寄るのが好きである。別に何うゆう本が読みたいとか、何という本が欲しい訳ではない。並んでいる本の表題を見ていると、何となく世界の動き、日本の動きが感じられ、或は諸学の尖端的な動向が感じられるように思うのである。ときどきふいっと手が出るときがある。そしてそれは思いがけない題名の場合が多い。勿論思いがけないと言っても関心がなかったということではない。関心事に対してこういう面からの捉え方もあったのかと思われる本である。こういう本に出会ったとき、私の目は本の方から開かされるのだとおもう。目が開かされたということは、本の内容に我々の明光があり、我々の奥底があるということである。私は記憶をそのようなものを基礎に置いて考えて見た。

 記憶というのは身体に刻みつけられた過去の持続である。記憶をもつということはそれを言葉に於てもつということである。言葉に於てもつとは如何なることであろうか、言葉を作った人はないと言われる。言葉は人ともの、人と人との関り合いの中より生れ来ったのである。世界がより明らかな自己を形作るべく見出した手段である。言葉を作った人はないとは、言葉は個々の人間より生れるべきものではなかったということである。人と物、人と人とが相対立し、相否定するものの統一として世界が世界自身を作るところより生れたものである。記憶が言葉によってあるとは、記憶は人と物、人と人との否定と肯定、対立と同一より生れたということである。思い出は自己と物、自己と他者に関るのである。孤独の思い出であっても、孤独ということが自己と他者の関りとしてあるべきものが他者が欠除しているということである。我々の記憶は世界が自己自身を見、自己自身を維持してゆくものとして歴史の内容としてあるのである。

 言葉によって記憶があるものとして、我々の記憶は単に身体の履歴にかかるもののみではない。昔語部が言葉によって過去の事歴を語り継いだと言われる如く、言葉ははるかな過去の歴史を記憶するのである。作った人が無いところより生れたものとして、全ての人がそれによって自己を見てゆくものとして、個々の人を超えて、個々の人々が関り合うものを言葉は記憶としてもつのである。そこに歴史が成立するということが出来る。われわれが他者に関り、物に関ることによってもつ記憶も断る全人類の記憶の内容として、これを分有することによってあるのであるとおもう。

 記憶を我々は脳朧にもつ、脳朧は感覚をとうして受入れる。語部は口と耳を必要とし、物は目を必要とする。身体をとうすことなくして記憶はあり得ない。記憶は体験の記録である。斯る体験の内容が個々の人間を超えるとは、個々としての人間は自己を超えたところに自己をもつということである。我ともの我と汝が働き合うところに我があるということである。斯る我と他者の交叉が身体の生死を超えて無限の過去に関り、無限の時間に自己を映すところに言葉によって体験を記録するということがあるのである。

 人は物を作ることによって人になったと言われる。物を作るということも経験の蓄積によってあるのである。言葉の中に生死の転換が蓄積されることによってあるのである。無限の過去が現在にはたらくところに製作はあるのである。

 私達は書店に行くとその膨大な本に驚く。汗牛充棟という言葉があったが、現在では一軒の書店に何百頭の汗牛を要するか判らない位である。図書は全て形作られたものとして過去に属する、過去として、記録として記憶の内容である。併しそれは単に過去に属するのではない、来ている人は子供の将来のためにとか、職場で用立てる為とか言って買っている。過去を過去たらしめる為に買っている人はない、自己の未来を形造るために買っている。そのことは過去は未来を孕むものとして過去であるということである。買った人が本を読むということは、本の内容はその人の行為の中に消化され、新たな姿に生れ変るということである。記憶は死して希望に生れ変るということである。

 生命は自己の中に自己を見ることによって形成してゆくものである。否定が肯定として変化が同一とてはたらくものである。初めが終りを孕み、終りが初めを蔵するものである。それは現在より現在へとして動いてゆくものである。記憶は現在にはたらくものとして記億である。大なる記憶をもつものは大なる未来をもつものである。記憶の深さを知るものは全時間の深さを知るものである。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

庭前の柏樹子

 禅家の問答に、祖師西来意という問いに対して、庭前の柏樹子と答えたというのを読んだことがある。祖師というのは古代の中国に禅を持込んだ達磨大師のことらしい。西来意というのは、西方の印度から苦難の道を経て中国へはるばるとやって来た志は何であったかということらしい。それに対して庭前に生えている柏の樹とは、われわれより見れば全く意表を衝かれた答である。一体これで答になっているのかとおもう。併し更に考えて見れば、その中には深い意味が含まれているようにおもう。

 庭前に生えている柏の樹はわれわれの対象としてあるものである。この我が見ることによって、この我の認識の内容となることによってあるものである。この我が見も、触れもしないものであったら何うして柏の樹はわれわれに存在することが出来るであろうか、ここに認識論に於ける独我論の基盤があった。

 併し飜って考えれば、対象なくして何処にこの我があるのであるか、庭前の柏の樹に面する自己なくして、何処に今のこの我があるのか。我によって柏の樹があるとは、柏の樹によって我があるということである。其処に於てあるとは、我でもない、柏の樹でもない、我と柏の木を超えたものによって、この我があるのであり、柏の樹があるのでなければならない。自己と対象が其処より生れるところがあるのでなければならない。斯かるものの内容となることによって、自己に柏の樹を見、柏の樹に自己を見ることが出来るのである。自己があり、柏の樹があるとは、斯るものが自己自身を見るところより生れるのでなければならない。自己は自己を超えたものによって自己を見るのでなければならない。

 デカルトは疑って疑うことの出来ない自己を、疑う自己に見た、そして全てのものの成 立をその基礎の上に見ようとした。私は斯る立場に立つ限りあるものは全て自己の内容とならなければならないとおもう。自己が自己の中に自己を見たものが内容とならなければならないとおもう。庭前の柏樹子は、この我が見たものとして、この我の対象となり、この我の知識の内容となるということは、この我が自己自身を見たものとして、この我の意味を宿すのでなければならないとおもう。

 併し柏樹子はこの我ではない、何処迄も対象としてこの我に対するものである。見るとは我ならざるものを見るのである。而して我ならざるものが見ることによって我の内容となり、内容とすることによって我があるとは、我と柏樹子を統一するものがあり、我と柏樹子はその統一するものの内容として無限に動的なることによって一であるということでなければならない。自己の中に自己を見るとは、無限に動的である。動的に一であるとは、この我が柏樹子を見るということは柏樹子と我の一なるものが自己自身を見ているということである。

 私は真に実在するものを求めるとき、デカルトの如く疑って疑い得ないもの、直接に与えられたものから出発しなければならないとおもう。斯くして自己に直接与えられたものは自己であり、あるものは全て自己が自己の中に自己を見出でたものであると言わざるを得ないとおもう。而して今見た如く、見るものは全て我ならざるもの、他なるものである。それを我々は見ることによって自己の内容とし、自己が自己となるものである。私はここで自己ならざるものであり、自己ならざるものであり乍らそれを内容とすることによってわれわれの自己が自己となり得る他とは何かということを問わなければならないとおもう。

 われわれの内容となるものは全てこの我の恣意を超えたものである。恣意を超えたものとはそれ自身に存在し、それ自身の法則をもつものである。例えば物理学は物自身の存在の法則であって、われわれの認識の法則ではない、われわれがそれを知るのは、われわれの意志によって決定するのではなくして、何処迄も物の動きの中に入ってゆかねばならないのである。如何なる恣意をも捨てて物に自己を消してゆかなければならないのである。そこに物が露わとなるのである。自己を消すとは何処迄も自己が無くならなければならない、何処迄も自己を消して物が露わになるとは物が物を見てゆくということである。物が物自身の内面的発展をもつということである。私は科学体系とは斯る形相として成立するのであるとおもう。

 併し斯く新たな物が生れるということは、新たな自己が生れるということでなければな らない。消すことによって現われるとは、我がそこに転生したということである。矛盾として動的なるものがそこに一つの完結を持ったということである。それは自己の相を見たということである。消すことが見ることであり、はたらくことであるとして、物が物自身を見、内面的発展をもつことが、この我が自己を見、自己を実現することであるとするより大なる生命の中心へ歩を進めたことであるとおもう。この我は自己を消す我として、物の中に入ってゆく我として、物を実現してゆく我となるのである。

 物に自己を消すことは、物を自己に消すことである。物に自己を消すとは物を作ると いうことである。物を作るとは対象に自己を見るということである。そこに消すというこ とがあるのである。自己が物になるということが消すということである。而して物とは自 己が対象の中に消える、対象に自己の形をもつということなくしてあり得ないものである。対象の中に消えるとは、自己が対象の中に形として現われることである。物の中に現れるとは、物が物自身を見ることが、われわれがわれわれ自身を見るということでなければならない。私は生命が無限に動的であるとは、物に自己を見、自己に物を見る無限に形成的なるものであるとおもうものである。物の中に自己が消え、自己の中に物が消えるものとして自覚的創造的である。

 仏教の中に草木瓦礫悉皆成仏という言葉がある。物の中に自己を見、自己の中に物を見ることによって自己があるとき、われわれの真実とは世界にあるもの悉くが自己を見るというところにあるのでなければならない。草が草を見、瓦が瓦を見るのである。色が色を見、力が力を見るのである。勿論草や瓦や、色や力がわれわれの如く意識的存在であるというのではない、意識的存在は何処迄もこの我である。併し前にも書いた如くわれわれの恣意によって見ることにあるのではない、われわれが其の中に入り、その中に消えることによって現われたものとしての自覚である。それはよく言われる大我というものではない、何処迄も自己が消えてゆかなければならないものである。草や瓦や、色や力が無限の内面的発展を有し、その力によってこの我があるものである。

 私は斯る考えからわれわれの自覚を宇宙の自覚として捉えんとするものである。近代科学の教えるところによれば、われわれは海の中より誕生した生物の一分化として発展したようである。そして人間の身体は其の発展線上に形成されたようである。人類の誇る言語中枢も斯る線上に見られるようである。生命は全て内外相互転換的である。内外の絶対矛盾の否定的転換に於て形成してゆくのである。私は内外相互転換とは宇宙が動的形成的であることであるとおもう。生命は斯る動的形成の一つの形態として生れてきたものであるとおもう。 動的形成とは対立するものであり、対立するものは否定し合うものであることである。われわれの身体はウミサソリに食われ、恐竜に食われることによって現在の形を持ったと言われる如く、否定と否定を媒介しての肯定が動的形成的であるということである。

 否定として迫ってくるものは他者である。死をもって迫ってくるものとして、絶対の他者として否定はあるのである。殺されたものとして、殺したものの力を上廻る能力に於て 新しく生れるのが否定の肯定である。生命は常に否定するもの、殺すものをもつものであり、否定するもの、殺すものとの対抗緊張の中より、より大なる生命の形相を形作ってゆくのである。斯く我を否定するもの、我を殺すものは我より出でたものではない。他者があるとは我ならざるもの、この我を絶対に超えたものがあるということである。その他者を媒介することによって我がより大なる我となるとは、他者と我との対抗緊張は超越者が自己を見ることでなければならない。斯る超越者はこの我を超えて、この我がそれによってあるものとして全存在であり、全存在を宇宙と名付けるのである。他者との対抗緊張より新たな我が生れるとは、新たな我の形相は宇宙が見出た宇宙の形相でなければならない。われわれは単なる自己より、より大なる自己に至ることは出来ない。それはわれわれを超えた生命が自己自身を見ることが、この我が否定的転換をもつということでなければならない。

 否定を媒介することによって新たな肯定をもつとは、否定するものを否定することであ り、死として迫ってくるものの力を自己の内容とすることである。私は曽って山中に於て樹上より舞い降りてくる蝶が、大きな目の紋様の翅をもっているのを見かけたことがある。その目の紋様は鮮かな円を描いていた。その形から言って鳥の目であるとおもった。そしてその目は襲ってくる鳥を威嚇する為に出来上ったのであろうと思った。恐らく限り無い年月の間襲われ食われ続けた恐怖がこの紋様を生んだのであろうとおもった。そしてわれわれの生命細胞は、死を媒介することによって他者を自己の内容とし、より大なる力をもつものとしての形相を実現してゆくものであるとおもった。

 人間生命は言語中枢をもつものとして自覚的である。自覚的とは瞬々の内外相互転換を記憶として、言語に於て蓄積するものである。そこに無限の過去の行動の蓄積は習性としてではなくして操作となる。物を製作するものとなるのである、否定即肯定としての一瞬一瞬の内外相互転換が、生命細胞の中に一つの力として潜在するのではなく、言葉として多様に蓄積する記憶の中から自由に撰択し結合するのである。そこに物を見、物を作るということがあるのである。斯る自覚というのは突如として空中に楼閣が現われたのではない、生物的生命の否定即肯定として、継絶と発展として現われたものである。生命の無限に動的な延長線上に見られるものである。生物的生命を基盤として、その上に見出されたのである。

 斯るものとして自覚的生命が製作するということも外を内とすることである。そこは何 処迄も生物的生命の拡大としてあるものである。私は蝶が襲われ食われることによって翅に鳥の目の紋様をもった、それと同じものがわれわれの物を作る底にはたらくのであるとおもう。蝶の紋様は作ろうとして作ったものではなかった。それは生命の運びとして成ったものであった。私は自覚的生命の製作が外を内としてある限り、作るということの根底に成るということがなければならないとおもう。製作と言えば内なるものを外に表わすこととおもう。それではその内とは何かと問うとき、外に否定されることによって見出でたものと答えざるを得ない。そのことは内外相互転換の根底に、内外を超えたものが自己を運ぶということでなければならない。成るとは矛盾としてあるものが、矛盾的に自己を見るということである。その一々の実現した形である。内と外、物と我を対立せしめそれを動因として動いてゆくものは、社会であり、世界である。われわれが物を作り、物を作るものとしてこの我の自覚があるとすれば、われわれの自覚は深く世界が世界を見るということに背負われているのでなければならない。そして私はその根底に蝶の翅に目の紋様を成らしたと同じ生命がはたらくとおもうものである。

 物と我を内にもつものとしての世界が世界を見るところに自覚があるとは、自覚はこの我にあるのではなくして、物と我との否定的転換にあるのでなければならない。自己を否定して物となり、物を否定して自己となるところにあるのでなければならない。即ちわれわれの自覚は働くものとしての自覚である。この我は自己否定を通じて世界を実現することによって自己を見るのである。働くとは世界の内容となり、宇宙の内容となることである。世界の内容となり、世界を実現することは世界を内にもつことである。世界の中にあるものが世界を内にもつということが自己があるということである。

 自己が物となり、物が自己となって世界を形成するとは、物は物の方向に無限の内面的発展をもち、自己は自己の方向に無限の内面的発展をもつということである。われわれが働くとは斯る相反する展開が一つであるということである。相反する展開が一つであることは、更に大なる相反する方向への展開をもつことである。

 斯かるものとして私は、この我があるとは限りない時間に於て宇宙が自己を見て来た形相としてあるのであるとおもう。生命は物質より生れたという、その可否は暫くおくとして単細胞より多細胞へ、両棲類より哺乳類を経て人類へ、それは宇宙の構成要素がそのあるべき相を露わにしたものであるとおもう。宇宙は広大である、それはわれわれを一塵の微小となさしめるものである、併しこの一塵は宇宙を知る一塵である、全宇宙を知る一塵である。

 私達はみみずの宇宙を知らない、併しその動きから見て身体が土に触れる世界を持つのみであろう。特に宇宙と言われるものがあるのではない、行動としての感官が拓いた感覚の対象があるのみである。この行動が宇宙が動的であるとしての行動であり、感覚が宇宙が自己を見るものとしての感覚である。宇宙が自己形成的として、自己矛盾的に形作って来たものである。この我は斯る形成の一中心として一要素たるのである。初めと終りを内にもつものとして宇宙を知るのである。われわれがもつ自己への確信は、宇宙の一微塵として、百年足らずの生死するものとしてもつのではない。宇宙の自己形成として、無辺の空間と、無限の時間を内包する自己信頼としてもつのである。庭前の柏樹子に対するこの我は斯る我として、宇宙の自己形成に於て今此処に出会うのである。祖師達磨は一微塵としてのこの我、生死する我より脱却せしめんとして来たのである。それは今此処の皮相を超えて底に徹することであり、この我と柏樹子の出会に徹見することである。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

再び記憶について

 散歩に出るついでと言って妻に買物を頼まれた。油揚と刻昆布は買ったが後一つが何うしても思い出されない。それでも品物を見たら思い出すだろうと思って店内を一巡したが判らない。帰って出直そうとおもって外に出た。田舎のこととて村中が知人である。歩 いていると「まあ寄らんかい。という声が聞えた。「よう。と言って入ると、奥に向って「おういわしも飲むさかいにコーヒー二杯入れてくれ。といっている。私はそのとき「ああそうだ、頼まれたのは角砂糖だったんだ」と思い出した。私はコーヒーを飲み乍ら記憶について考えた。

 記憶は通常頭の中にあると考えられている。併し頭の中にあるのであれば思い出せない筈はない訳である。それでは物の中にあるのであるか、思い起そうとして店内を一巡したということは、或る意味に於て物が記憶を秘めていることであろう。それなれば物は何処に如何にして記憶をもつのであるか、私達は物が記憶をもつと考えることが出来ない。われわれが記憶をもつとは、脳細胞が記憶をもつことである。脳細胞が記憶をもつとは、物を記憶するということである、私はここに頭が記憶をもつのでもなければ、物が記憶をもつものでもない所以があるとおもう。物事は脳細胞ならざるものであり、脳細胞は物事ならざるものである。而して物事なくして脳のはたらきはなく、脳のはたらきなくして物事はあり得ないものである。私は記憶は、物事は脳のはたらきによってあり、脳のはたらきは物事によってあるところに自己を維持してゆくのであるとおもう。

 生命の世界は記憶の世界であると書いてあるのを読んだことがある。記憶を過去の持続であるとし、過去のはたらきが現在のわれわれを形作ってゆくのである。生命細胞は同じものを無限に生んでゆくと言われる、一日に数千億の細胞が死滅する身体は、転写に於て賦活すると言われる。そこにあるのは生滅しつつ、同じ運動であり、同じ感覚である。私は生命の時の統一は身体の斯る構造の上に成立するとおもう。斯るものの核をなすものが遺伝子であるとおもう。遺伝子は転写に於て死滅を超えるものとして個体を超えるのである。われわれが脳細胞が記憶をもつとおもうのは、脳は身体の統合機関として、身体の動きはここに集り、ここより出でてゆくが故に外ならないとおもう。内に同一を形成しつつ、外の無限の変化に対応するところに記憶があるとおもう。記憶とは形成としての一瞬一瞬の内外相互転換の蓄積である。身体の同一に於て蓄積されるのである。

 私は人間生命を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚的生命とは内外相互転換として、動的に一なる生命が内と外に分れることである。内を自己とし、外を物として対立し、対立が相互否定的に一を成就してゆくことである。相互否定的に一を成就するとは、自己が物となり、物が自己となることである。物の中に自己を消すことによって新たな物が生れ、自己の中に物を消すことによって新たな自己が生れるのである。物を作ることによって、物に作られるのである。斯る自己と物との無限の交叉が社会であり、その全体像が世界である。

 相互否定的に一とは、対抗緊張的に世界が世界を維持してゆくことである。物と我とは世界の対抗緊張による自己形成の内容としてあるのである。私はわれわれの意識はここに成立し、記憶はここに持つことが出来るのであるとおもう。物にあるのでもなければ、我にあるのでもない。記憶は世界が世界を維持するところにあるのである。そこに忘れるということがあると同時に、物事によって思い出すということがあるのである。

 我と物がその中に見られるものとして世界が世界を維持するとは、世界は我と物を超えたものである。我と物が世界の内容であるとは、物が我を宿し、我が物を宿すことによって世界を形作ってゆくことである。そこに記憶があるとは、記憶は我と物を超えて、我と物を内容とするものでなければならない。記憶はこの我の生死を超えた深さに於て成立するものでなければならない。生命が内外相互転換的として、発生の初めに既に世界形成の萌芽をもっていたとすれば、私は記憶の淵源は生命の発生に遡らなければならないとおもう。脱糞摂食も生体の記憶であるとおもう。

 曽って何かの本で「われわれが狩猟に出て興奮するのは縄文時代を血が記憶するのである」と書いてあるのを読んだことがある。血が記憶するとは如何なることであろうか、私はそこに親の血の騒ぎが子に伝わり、代を累ねて行ったとおもわざるを得ない。われわれも亦先人と共に山野を歩くとき、先人と共に足を速め、先人と共に目が動くのである。連綿として世界が維持するのである。一々の生死を超えて、記憶が記憶を維持するのである。記憶が記憶を維持することが、世界が世界を維持することである。

 自覚的生命としてわれわれは記憶を言葉に於てもつ、言葉とは他者との対話に於てあるものである。対話に於てあるとは、自己と他者を超えた世界に於て自己と他者が関るということである。生物的生命に於ては未だ真に自他の区別はない、自己と他者が成立するためには、個の成立がなければならない。我が個性に於て世界を内包し、他者が個性に於て世界を内包するということがなければならない。内包する世界と世界に於て対話があり得るのである。そこに世界はより大なる世界形成をもつのである。

 言葉を記憶に於てもつとは、記憶は最早生物的身体を離れることであるとおもう。勿論言語中枢も身体の中にあり、身体を離れるといっても身体でなくなることではない。これ迄の身体によって見ることの出来なかった身体を展くということである。内と外とが相分れ、相互否定的に世界を形成するとは技術的ということである。物を製作し、製作することによって世界を形成してゆくということである。斯るものとして自覚的生命に於ては、過去がはたらくとは生体的形成として現われるのではなく、社会として実現してゆくのであるとおもう。われわれの身体は社会的として学ぶものとなるのである。言葉は物の生産によって発達したと言われる。そのことは言葉の発達によって物の生産は増大したということである。言葉と物が生産を発展させるということが伝統であり、世界は伝統によって自己を維持してゆくのである。而して伝統は学ぶことによって維持してゆくのである。私はここに自覚的生命の記憶があるとおもう。言葉によって記憶をもつとは、われわれの生命形成が生体的なるものから社会的なるものに転じたということであるとおもう。

 伝統的、生産的ということは歴史的ということである。社会を時間の相に捉えたのが歴史である。時間の相で捉えるとは、現在が過去を負い、未来を孕んでいるということである。過去と未来をもつということは、過去と未来が対立するものとして相互否定的に転換するということである。歴史的現在とは斯る転換点ということである。歴史とは斯る転換点に於ける過去として未来を否定するとともに、未来に否定されることによって未来に転ずるものである。

 例えば私が鋸は確に納屋の棚の上に置いた筈だと記憶を呼び起すのは、樹が茂って車の通行に邪魔になるからである。樹を剪るというのは過去を否定して未来の空間を作るということである。労力を費すということが対抗緊張の否定的転換ということである。斯る否定的転換が歴史的行為ということである。斯る歴史的現在の相互否定が無かったら私達は記憶を呼び起すということが無いであろう。呼び起さない記憶はいつか忘れてしまうものである。呼び起すことによって維持するとは世界がその動転に於て維持することであり、世界が記憶を維持することは、記憶が世界を維持することである。

 自覚的生命とは自己が自己を見る生命である。世界が自覚的生命の自己限定であるとき過去と未来の相互否定的転換ということも世界が自己の中に自己を見てゆくことでなければならない。自己の中に自己を見てゆくことは蓄積することであり、蓄積が記憶である。斯る蓄積はその相互否定に於て限り無く累積してゆく、そこは文字が必要欠くべからざる世界である。歴史は一面何処迄も生死の否定的転換である。未来と過去も生死の翳を宿すところより来る、それと同時に歴史は形成作用として何処迄も蓄積的である。文化的に自己を現わしてゆくのである。記憶は蓄積として文化的方向を指向するものであるとおもう。

 文字とは如何なるものであるか、私は前に言葉は語部によって先祖の事歴が語り継がれた如く、個々の生死を超えて、個々の生死を包むものであると言った。言葉は対話として個々の生命の超える、併し言葉は何処迄も今此処に於けるこの我の発するものである。現在の自他相互転換の内容となるものである。私は文字は今とかこことかこの我という瞬間性を極小として、超越性・永遠性を更に露わにしたものとおもう。 我と汝に関るよりは、更に多数に人間に関るのである。言葉が多く現在に関るのに対して、過去・現在・未来に関るのである。

 印刷術の発明は多くの人の言える如く文化を飛躍的に高めたとおもう。近代の成立は印刷術に負うところ大であるとおもう。そしてそれは人類の記憶の飛躍的な増大である。私達は忘れた文字を、辞書を開くことによって思い出す。辞書はこの私の、そして人類の文字の記憶の貯蔵庫である。全て文字は過去が現在に、現在が未来に語りかけるものである。近代社会はその記憶を文字に於てもつということが出来る。図書館は人類の記憶の集積であり、それは記憶の所在の那辺なるかを示すものであるとおもう。われわれの記憶はこの人類の記憶を分有することによって記憶であるとおもう。勿論記憶は対抗緊張の時に現われるものとして、この我の記憶なくして記憶はあり得ない。唯対抗緊張そのものが世界の自己限定として、この我が世界の自己限定の内容としてあるのである。

 私は記憶を更に明らかにするために記憶としての蓄積とは如何なるものによって成立するかを考えなければならないとおもう。私は記憶が過去が現在にはたらくものであるとき過去と現在の同一がなければならないとおもう。同一とは繰り返すということである。過去と現在が全然異なったものであるとき、私達はそこに過去が現在にはたらく余地を見ることが出来ない。過去と現在は連続に於て過去と現在であり、連続をあらしめるものが意識である。併し亦単なる繰り返しにも過去が現在にはたらくということはない。少なくとも蓄積として、記憶としてはたらくということを見ることは出来ない。単なる繰り返しは反射運動として無意識の中に埋没してゆくものである。変ずるものが不変なるものであり不変なるものが変ずるものであることによって、記憶があるのである。

 私は斯かるものとして内に生命細胞を、外に天地の運行を見ることが出来るとおもう。生命細胞は形成作用をもつものとして変化してゆくものである。単細胞より多細胞へ、両棲類より哺乳類へと変化してゆく、併しそれは何処迄も自己の中に自己を見てゆくものとして変化してゆくのである。無限に内包的なるものの分岐とし変化してゆくのである。形成作用として無限の形を生みつつ、形を生むものとして、形を超えて形を包むものとして、無の統一として不変なるものである。私は斯る不変なるものが自己の中に自己を変ぜしめるものとして、内外相互転換の外に天地の運行があるとおもう。天地の運行は繰り返しである。一日が、一年が繰り返されるのである。一日とは明暗としての昼夜であり、一年とは四季である。その繰り返しが食物連鎖の基盤として植物の消長を決定するのである。生命は内外相互転換的として食物を外とし、食物としての外を、内としての生命細胞に転換せしめるものである。そこにわれわれは運命を植物の消長に托さなければならない所以があるとおもう。

 斯かるものとして人間の生産の初まりは食物としての植物の栽培であった。そして栽培の必要として暦が作られた。暦は天地の運行が植物の消長に関るものである。それは記録に於て過去の記憶を現在にはたらかすものである。天地の運行を不変として、有機質の生命を変ずるものとして、過去が現在を限定してくるのである。運行の反覆が内外相互転換の反覆であり、反覆によって外としての物の形が整って来、内としての行為する身体の動作が定まってくるのである。そこに時の統一があり、記憶が生れるのであるとおもう。

 変ずるものが不変なるとは、変ずるものは不変なるものが自己の中に自己を見てゆくことでなければならない。私は斯く自己の中に自己を見てゆくことが行為の反覆であるとおもう。そして斯る行為の反覆は天地の運行より来るのであり、天地の運行より来るとは、古人の言える如くわれわれは天地の間にあるのであり、天地の形相を実現するところに生命形成をもつのであるとおもう。生命の形は風土的である。そこに天地の形があるのである。記憶は深く宇宙の人間による自己形成の内容であるとおもう。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

陶芸の美

 腕時計の刻む秒針を時折り見乍らバス停への足を速めていると、一台の自動車がすうっと横に止まった。見ると従妹のえみちゃんがにこにこと笑っている。そして間を置かず窓ガラスが下って、「小野へ行っきよりいのん」と言う。「おう暑いのう、今からやがい」と言うと、「私ねえちゃんとこへ行っきょんねん、乗りいか」と言う。勿論渡りに舟「すまんのう」と言って乗り込んだ。

 着くと茶を一杯飲んで行けという、流石旅館だけに何時も茶を接待する準備が調っているのであろう。待つ間もなく菓子が運ばれて来た。私は甘いものは余り好きではない、それで眺めていると、「その焼物素敵でしょう」という。見るともなしに見ていたのを、私が焼物を鑑賞していると思ったらしい。見ると一糎位な厚さの葉の形をして、葉脈のようなものが稚拙な線で刻んであり、沈んだ淡い緑と、僅に濃淡をもった茶色の、少しばかり反りをもった陶片とでも言うべきようなものの上に、白い小さな万頭が載せられている。とりあえず「うん」と肯いてみたものの何のようによいのか判らない。

 魯山人は自分の作った料理を載せるべく、自分で器を焼いたというのを読んだことがある。足立美術館で氏の作品というのを見たことがあるが、私には普通の皿のようにおもえた。折角入場料を払ったんだから、その価値に触れたいと思ったが判らなかった。その後美術年鑑で評価額の高いのに一驚した記憶だけが鮮明である。併し氏が自分の料理を載せるべく作ったということは、料理と器が感覚に於て一つなることへの要求があったということであろう。昔から支那料理は舌で味わい、西洋料理は鼻で味わい、日本料理は目で味わうと言われている。目で味わうとは味覚が視覚の内容となることである。味覚は視覚を加えることによって完成されるのである。視覚の内容となるとは、庭園が借景によって、深い自然の表現となるが如きである。器は料理の借景となるのである。そこにあるのは最早料理を食べるとか、器を見るというものではないであろう。味覚と視覚を通じて日本的心情を見出すという如きものであろう。そしてその見出でた心情によって、味覚と視覚はより深大なものをもつのである。通とか言われる人は、斯る心情的世界の渾然たるものに遊ぶことの出来る人であろう。魯山人は斯る世界よりの呼び声を内深くもった人であろうとおもう。

 全てものの価値というのは、形が内面的発展をもったということである。私が陶片の菓子器が判らないというは、そのもつ内面的発展の体験をもたないによるとおもう。「素敵でしょう」と言った京子、ひとみ姉妹は永い陶芸への研鑽があるらしい。内面的発展とは、作ることによって見、見ることによって作ることである。作ったものを見ると何処かに不満がある。出来たときに満足しても、やがて不満が湧き出てくる。そこで新しい形への努力をする。斯くして人間の生涯は限りない努力である。繰り返すことによっての蓄積が人生である。内面的発展が洗練であり、われわれは全て洗練によって見る目をもつのである。おそらくこの菓子器は二人の洗練の目を超えた形象をもつのであろう。見るものの目を何かの世界に引き込むものをもっているのであろう。私は無雑作に万頭を取ってぱくついただけであるが。

 私は陶芸の美について考えた。美について第一に考えられるのはその造型である。陶磁器は彫刻と異って、形自身が意味を担うものではない。それは器具である。生活の手段としての使用目的をもったものである。それは相対する価値である。魯山人の場合の如く、それは料理との調和に於て価値をもつものであり、奥の間の床に置いて価値をもつものであり、食卓に置いて価値をもつものである。相対する価値とは、調和の価値である。料理と器が一つとなって心情的世界を創出したるが如く、雰囲気を演出するものである。奥の間の森厳を、食卓の団らんを作り出すものである。置かれている他の器具、そこにある人との心情との調和である。併し私はその故に陶磁器は彫刻に対して次元が低いと考えることは出来ないとおもう。一方は局限的場所の調和としてあり、一方は人格内容の表現としての意味をもつ、併し調和は世界形成として、人格がそこにあるべき処として無限の奥行きをもつのである。斯く言えば魯山人の作品は、魯山人の人格の表れであるという人があるかも知れない、私もそうであろうとおもう、唯私はロダンは人格の内面を追求したのに対して、魯山人は料理を盛ることを追求したと言うのである。ロダンが直接語りかけるのに対して、魯山人は自分の料理との調和を通じて語りかけるというのである。ロダンの意識的に対して魯山人は無意識的である。

 私の知人は絵画や彫刻より陶器を愛する人が多い。それは私には陶磁器が日常の用具として身辺にあり、手に触れることによって関りをもつが故であるようにおもわれる。絵画や彫刻がそれ自体の価値をもつものとして、視覚の対象として距離をもって見られるのに対して、身体に直接するところにあるように思われる。その意味に於て陶芸の美には触覚が欠かせない要素をもつようにおもう。触れて直に感じるのは重さであり、冷たさ、温かさであり、手ざわりの粗密である。重さは関節覚、筋肉覚に関るものであり、信頼感や安定感を与えるものである。安定は身体が健かに生きてゆく最も重大なものであり、安らぎや憩いはそこより生れるのである。冷温は情緒に関るものである。冷たい人、温い人というように、そこに感じるのは親疎である。磁器の薄い純白より、陶器をコレクションする人の多いのは、その感じの冷温に関るように思われる。情緒は一つを求め、一つは温さによるのである。手ざわりの粗密は作品との関りである。密なるは招かれたように思われ、粗なるは拒まれたようにおもう。但し粗なるものには力感があるのではないかとおもう。全て感覚は対象を受容すると同時に、対象に自己を表出するのである。人間は個として対立するものである。そして対立することが同一なるものである。そこに冷温、粗密は生れる。故に冷と温は同一の価値であり、粗と密は同一の価値である。その按配が表現の深みを作るようにおもう。併し斯くいう私は作ることも見ることも出来ない。唯人性の必然か斯く言うのみである。

 陶芸展の広告などによく土と炎の芸術という文字を見受ける。土も火も共に人間ならざるものである。それは人間にとって不可知者である。近代美術の製作は純粋視覚の発展の上に成立すると言われる、純粋視覚とは視覚の内面的発展である。今此処に視覚への深入は避けなければならないが簡単に言うと、生命が内外相互転換に於て外を切り拓いて行った痕跡である。鯛は深海にあって人間の五千倍もの明らかさで物を見ることが出来るという、併し見るのは敵と餌だけだそうである。禿鷹は三千米の上空から地上をありありと見ることが出来るそうである、併し見るのは野鼠だけだそうである。内の欲求が外を見るのである。人間は言葉をもつものとして歴史的形成的であり、表出は深い歴史の底流がもつのである。それは単にわれわれの目に映るものと異なったものでなければならない。私は私達が見て怪奇極りないとおもう近代芸術家の表現は、歴史の流れの現時点を直観に於て捕捉したものであるとおもう。

 表現は形より形への無限の内面的発展である。歴史は無限の否定的動転である。そ こに芸術家は鋭敏なる目をもって、新たなる形象へと移らなければならない所以があるのである。新たなる形のために渾身の努力を傾けなければならないのである。ミケランジェ口は「私の目はのみの尖にある」と言ったそうである。そこに形相の実現を求めて一打が一打を呼ぶ必然がある。

 それに対して陶芸が土と炎というとき、断る形の内面的発展というのは截断されなければならない。土を練り、ろくろを廻す間は成程指の先に目があり、ろくろの中に目があると言えるかも知れない。併し窯の中に入れてしまうと最早目も手も届かない世界である。恐らく大体の予測はついているのであろう。併し目と手のはたらかない世界は多くの偶然的要素をもつとおもう。斯る意味に於て陶芸は世界の視覚的尖端を切り拓いてゆく芸術ではないようにおもう。勿論近代人の表現として、歴史的現在の感覚から逸れることは出来ない。併しそれは画家などの驥尾に付くことによって得なければならないのではないかとおもう。私は陶芸の美は別の角度から見たところに求めら ければならないのではないかとおもう。土も火も人ならざるものであるとは、自然であるということである。人間の内面発展の必然を求めるのではなくして、自然と歴史の交叉、偶然と必然の交叉の形の実現に美を見るのではないかとおもう。

 偶然は生命にとって豊饒の海である。偶然とは内外相互転換としての生命の外である。人類がその初期に於て海や山に獲物を求めたとき、魚介に出合い、木の実やけものに出会うのは全く偶然であった。人間は言葉をもつことによって偶然を必然に変えていったのである。経験が蓄積をもつことが技術であり、技術によって内外相互転換をもつことが製作であり、蓄積の増大による発展が必然である。故に必然は内として、何処迄も外としての偶然に対するのである。斯かるものとして偶然は無限の多である。草の緑、すみれの紫、たんぽぽの黄、鶏頭の赤などの偶然の出合いを言葉が統一することによって、色の体系を構成し、必然の内容とするのである。巨大な土木建築も物理学も、挺子やころの偶然の言葉による体系化より生れるのである。私は現在われわれが文明と呼ぶ全ては偶然の必然への転換によると言って過言ではないとおもう。自然とは歴史的必然の目より見て全て偶然である。

 私は窯より取り出す陶器の色は、作者も取り出すことによって初めて知るものであるとおもう。そして取り出す全てがその微妙なる変化に於て、今迄にあり得なかった色であるとおもう。予知を超えた色、初めて接する色、それは無限に豊饒なる色の内容であり、眼前に具現することによって、視覚の体系の中に組込まれるものである。斯る意味に於て私は陶芸の美とは、造型の原質の美であるとおもう。

 陶芸教室に行くと他の教室より熱気があるようにおもう。土を練る者、形作るもの各々 が没頭しているようにおもう。そしてそれは他の教室が不熱心なのではなく、他に較べて技術形成の過程が単純なのであるとおもう。私の認識不足かも知れないが、同じ室にある絵画教室の素描、着色と幾度も書いては消し、塗り直しては眺めているのに較べると、土を練り、ろくろを廻しているのは直線的であり、曲折を持たないように思われる。言わば幼児の砂遊びの延長線上にあるようにおもわれるのである。砂遊びのようなものが直に造型に結びついたようにおもわれるのである。併し私はその故にそれは生の原本に結びつくようにおもうのである。教室の熱気は単純である故の没入であるようにおもう。生に直接するということは素質的要素が少なくても参加出来ることであり、広い共感をもち得ることである。

 以上挙げた諸点から私は陶芸は研ぎ澄まされた形象の創造の方向ではなくして、造型の初めに帰ってゆく芸術のように思われる。全ての創造は進歩が回帰であり、回帰が進歩である。形象の純化は、形象の故に生命を見失い易い。その回帰の方向を担うのである。創作は必然の追求であり、その完成への希求である。併し偶然の拒否は必然の枯死に外ならない。歴史は自然の拒否であるとともに自然の上に立つのである。創造の初めへの回帰として求められるのは素朴の美であり、稚拙の調和である。幼児の目と手に帰ることが求められるのである。併し初めであるということと、初めに帰るということは無限の距離、次元の差をもつのである。初めであるとは現在への到達の出発点となったものである。初めに帰るとは、現在の到達点を出発点とすることである。幼児に帰るとは、歴史的現在の壮大なる形象と意識を幼児の目となることによって再創造することである。勿論私は陶芸がそれを担うとおもうものではない、唯陶芸の現在の盛行は斯る歴史意識の背景の上にあると思うのである。文明への疲労に慰籍を求めるところに、初めへの回帰があるとおもうのである。

 素朴とか稚拙とかいうことは単純化ということである。それだけに変化の余地は乏しいと言わなければならない。印象画家や、前衛彫刻のような変化は求むべくもない。併し近代人の洗練された目は、単なる素朴や稚拙によって充たすべくもないとおもう。色や形は単純でありつつ近代視覚の尖端に立つものでなければならない、墨絵が一色よく万色を蔵するといったごときでなければならない。「素敵でしょう」と言った菓子皿は、私には判らないが斯る要素を充たすものであるとおもう。それは亦大なる才能と潜心が要求されるのであるとおもう。変化の余地の乏しいものとして、それは微妙な差が心の陰翳を表わしたり、消したりするのであろう。そのためには微妙なる神経が要求されるのである。

 私は表現愛の根底には無限に動的なるがあるようにおもう。土と生命が一つとして 動いてゆくのである。人類が最初に土を握った時に造型への呼びかけがあったのであるとおもう。土と一つとは、土に働きかけることは土が呼び声をもつということである。生命が動くとはそのようなものによって動くのである。関りとして世界が動くのである。土と我はその動きの中に見られるのである。我があって土があるのでもなければ、土があって我があるのでもない。もし我があって土があるのであり、土があって我があるのであれば、私達は創作としての造型をもつことが出来ないとおもう。形の中から形が生れて不思 議を見ることが出来ないとおもう。私達は製作によって自分を見る。土によって形を表わすことは自分が現れてくることである。私達は私達の所在を知らない、唯現れることによって知るのである。そして現われて知るとは、無限に動的なる世界が自己実現に働くということである。私達は知らない奥底から衝き動かされて働くのである。創造的世界は不尽根的に形より形へと動いてゆくのである。ゲーテの言える如く「永遠に女性的なるものわれを招く」のである。

 以上陶片の菓子皿から思いつくままに書いてみた。盲の垣覗きにも等しい私が予備知識もないままに書いたものとして、或は見当外れの譏りを免れ難いであろう。唯私が斯るものの美のよって立つところを明らかにしたいと思っていたのはたしかである。書き乍ら陶芸には相反する二つの流れにあるのに気が付いた。一つは色鍋島、九谷といわれる系統であり、一つは立杭、備前と言われる系統である。本文は菓子皿が後者に関るものであったので後者に関るものとなった。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

風流の一考察

 一月二十一日万勝寺で護摩供養が行われるというので行って見た。恥かし乍ら私は護摩を焚くのを見るのは初めてだったのである。時間が少しあったので境内をぶらぶらしていると「よう長谷川」という声がする。声の方に目を向けると「近頃永沢寺へよう行っきょって」と言う、顔に見覚えがない。五十数年の風雪は一人の人間の顔をすっかり刻り変えたのであろうか、これ程親しそうに言うからには大分親しかったに違いないとおもう。それが何うしても記憶の中の顔に繋って来ないのである。私は苗字を呼び返したかったが諦めて「いや長いこと行かずや」と答えた。それから彼は永沢寺の近況を教えてくれた。別れてから若かった当時の出会いの数々を思い出していた。その内に不意に土地の素封家吉田氏の顔が浮んで来て、氏が「風流とは何ういうことですか」と問われたのを思い出した。丁度氏が禅宗の血脈を受けられるとかで、多くの僧が盛装して名僧知識然と並んで居られたところであった。そのとき誰もが「さあ」と言って答えることが出来なかった。私も名差しされたが言うことが出来なかった。風流という言葉は最早博物館の隅に投げ込まれた遺物となったようである。現在の少年少女の半ばはそんな言葉を耳にしたことがないのではないかとおもう。併し少くとも終戦迄は風流を解するとは教養の最たるものであり、人々は風流人と言われることを望んだのである。私は思い出し乍ら風流といった如きものが日本の生命形成の形の根源をなすのではないかと思った、そして風流とは何かと考えた。併し雲を掴むようで一向に進展しない。これは迎も此処で考えられる問題ではない、家に帰って考えようと思った。

 風流とは字の通りに解すれば風が流れるである。併し風流とは人間の日常を超えたものであり、風流人とは和歌、俳諧等に関る人であった、風が流れるといった自然現象ではなくして、人間の表現に関るものである。風流とは風に托した人間の心である。風流の外に風俗とか、風土とか種々のものがある。私は人間に関るものとしての風の字が何のように使われているかを見るべく辞書を開いた。そして私は其の数の多いのに驚いた。曽って魚の鰤には生れてから成長する迄に幾つかの名前がある、それは日本人がその味覚を尊んだからだというのを読んだことがある。私は日本人が風に托した方向に如何に自己を見出だし、掘り下げて行った証でないかと思った。全部挙げることは大変面倒なので重だったものを列挙して見る。先ず生活に関るものとして、風土、風習、風俗、風説、風聞、風評、風紀、風潮等があり、個人に関るものとしては、風格、風采があり、日常を超えたものとしては、風流、風雅、風光、風趣、風韻、風物、風味等がある。読み乍ら私が第一に感じたのは、人間の意志のはたらきが見られないということである。宣長がさかしらといったものがないということである。

 生命は形成作用である、形成することによって生命である。人間は自覚的として形成は意志的である。それが意志が見られないとは何ういうことなのであろうか。私は生命の形成作用に二つの方向があるとおもう。それは時間の形相と歩調を合わして、一つは過去からであり、一つは未来からである。過去からとは、初めにあったものがこれを成じてゆくものである。おのずから成る方向である。未来からとは成ったものが形をもつ物として、物が物を呼ぶ方向である。欲求を底にもつものとして、無限に形が呼ばれるものとして未来がはたらくのである。前者の方向に自然があり、後者の方向に歴史がある。人間は物を作る生命であり、物を作るには意志がはたらかなければならない。併し意志をもつものは身体であり、身体は生れたものとして自然に成るものである われわれ人間は歴史的自然として物を作るのである。私は歴史も亦成るものとして、初めが成じてゆくもの、おのずからなるものが、みずからとしての意志を包む方行に生命形成があるとき、そこに意志が見られないということが成立するのであるとおもう。意志がはたらくということも身体がはたらくことをとうして、自然が自然を見るものとなるのである。そこに意志が括弧されるのである。

 意志は人間がはたらくことである、それに対して自然が成るとは万物が成るのである。人間もその中の一として成るのである。成るとは形を変じてゆくことである。私達はコスモスが繁って無数の花を咲かせているのを見るとき、種子の内に既に斯る形の潜んでいたのを知る。併し種子が一定の形を潜ませていたのではない、更に肥沃な土地に芽生えておれば、更に大なる繁茂をもち得たし、乾燥の土地に芽生えておれば数枚の葉と一輪の花しか持たなかったかも知れないのである。然も双葉の何処を探しても花はない、而して忽然として咲き出ずるのである。それは無にして現われるのである。

 われわれは自己の何処より来り、何処へ去りゆくか知らない、禅家でよく父母未生以前の己の所在を問う、それは無より来り、無に去りゆくと言うより他ないものである。私はそこに風に見出した日本の生命形成があるとおもう。空気も今は物質である、併し昔時に於て虚空は無であった、風は無にして現われるのである。私は風流はそこに基盤をもつとおもうのである。そこに徹せんとするのである。

 ここに無というのは何もないということではない、変化によって自己を見てゆくもので ある。消えることによって現われるものであり、死することによって生れるものである。 全ての形がそこより生れるものであり、その中に死んでゆくものである。全てがそこより現われるものとして全有であり、そこに死んでゆくものとして絶対の無である。われわれは万物の一として、そこに現れ、そこに消えてゆくのである。消えてゆく面より見るとき絶対の無への沈没であり、現われた面より見るとき絶対の有の顕現である。それは生死が一つということである。生死を超えた生命が自己を表わしてゆくということである。今のこの我は生死に自己を運ぶ生命が有の相をもったということである。

 生死一なるとき、生と死を距てて相対立する万物は対立がそのまま大なる調和となる。闘かう生はそのまま照し合う生となるのである。風流はそこより生れたとおもうのである。而して相対立する生をそのまゝ大なる調和とするのは宗教の世界である。風流の世界は身体を相対立する相互否定の世界より離して調和の風光に遊ぶのである。死の断崖に身を絶して絶後に蘇るといった痛切なる体験を経るのではなくして、その余光に浴するのである。死をもって迫ってくるものより身を避けて万物と生を照し合うのである。併しそれは風流の道が安易であったということではない、余光といえども相対の世界を超えることは新たに生れることである。自己の中に自己を見ることである。目は生命の奥底へと繋らざるを得ないものである。風流人と言われた俳人、茶人はそこに心血を絞らなければならないものがあったのである。

 斯かるものとして風流人が見出そうとしたものはおもむきと言われるものであったとおもう。おもむきとは面を向けることであると言われる。そしてそれに対する言葉が背向くであると言われる。おもむくとは生の方向、肯定の方向にあり、そむくとは死の方向、否定の方向に見られるようにおもう。私はそこに同じ生命として出現した万物が、その形に於て照し合う処におもむきがあるようにおもう。同じ生命がさまざまの形をもつ不思議に生命の拡がりを見るのである。それを逆に言えば、さまざまの形の根底に流れる同一の生命を見るのである。そこに驚きがある、驚きとはわれを包む生命の大に接見することである。さまざまの異なるものが大なる一の生命の現われであると知るのが調和である。和の光りに照らしてさまざまの異る形が、大なる生命の陰翳を宿すのを知るのが面白いということである。斯くして風流の道は調和を求めて、一瞬一瞬の変化におもむきを見出す無限の努力となったのであるとおもう。

 よく床の間や、鴨居の上に雪月花という字の掲げられているのを見る、私はそれは風流人の賞すべきものの象徴ではないかとおもう。日本は世界でも四季の移り変りの最も鮮明な国のようである。万物が一の生命の出現であるとすれば、変化の最も鮮明なるものは、調和の最も鮮明なるべきものである。雪は冬を、花は春を、月は秋を象徴するのではないかとおもう。そして移り消えゆくものにもののあわれを、化し現れ来るものに充足のよろこびを見たのであるとおもう。そこにあるのは対立するよろこびとかなしみではない、移るものとして同根のよろこびかなしみである。よろこびかなしみは胸底をしずかに流れる のである。一葉の落ちるのにかなしみ、一草の芽生えるによろこぶのである。 人の生死も 移るものとして同根のよろこびかなしみとなるのである。そこに風流人は日常を超えた 観照者となるのである。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」

明明徳

 禅道と儒道という本をふと開いてみると、盤珪禅師の名が見え、播州網干の生れであると書いてあったので興味を起した。書によると師は十五才の時に「大学」を学び、冒頭の明明徳の一句に大なる疑を起したそうである。「己に明徳である。なぜ之を明にするというのか。明徳とは全体何か」と問うた。いろいろ考えたが、どうしても解決がつかず。後に実地の修業にとりかかっても、矢張りこの大疑団をもっていたそうである。常に屈せず撓まず工夫し、三十才に至る迄刻苦精進したそうである。余りに長く坐って時の経つのを忘れる程であったので、とうとう臀肉が爛れてそこから膿血が流れるようになったが、紙を貼って屈せず坐り、遂に重い病に罹って食欲も進まず、とうとう死は時間の問題となったが、「如何に、如何に」と究明し続けた。そして或日豁然として明徳を徹見した。そして見性の喜びにさしもの病気も一日一日と快方に向ったという。道元禅師の本来仏性の究明と軌を一にするものである。私は全て生命の形は斯る出現の仕方をすると思う。

 私は碁を好むものであるが、碁に定石というのがある。この定石というのは永い打碁の裡におのずから形が定って来たものらしい。形が現われた以上現われる所以のものがなければならない。この形は何処にあったのか、それは十九路面の碁盤と三百八十一個の石が作られた時に、既にその中にあったということが出来る。無ければ現われるということはない。併しそれは長い打碁の末に見出されたのである。見出されることによってあるものとなったのである。

 仏家に「狗子に仏性ありや」と言う問いがある。それは恰も双葉の草に花はあるかと問うようなものである。あると言えばある、無いといえばない。生命は時を孕んだものである。無限の過去と未来を内にもつものである。双葉に今は花がない、併し葉が茂りやがて花をもつのである。狗子に今は仏性はない。併し生と生が相対し相呼ぶとき、そこに仏子の胚種は潜むのである。

 明徳とは何か、徳とは生命が形を得たことである。明とは光りによって照されることで あり、分別をもつことである。意識的生命としての人間に於て光りをもつとは、言葉をもち、言葉に於て分別をもつことである。私は明徳を明らかにするとは、言葉によって生命の形を具現してゆくことであるとおもう。生命の形が言葉によって純化してゆくことであるとおもう。

 言葉は我の言葉であり、汝の言葉でありつつ、我にあるのでもなければ汝にあるのでもない。我と汝が呼び交すところにあるのである。それは世界形成的である。世界を形作るものとして我と汝は呼び交すのである。世界を形作るとは、我と汝の内なるものが現われることである。内なるものが現われるとはもともと我と汝は世界としてあったのである。物を作るということは呼び交す生命によってあるのであり、呼び交すことによって物を作るのである。物を作るということは世界を作るということである。

 言葉によって純化してゆくとは、生命が物と成り、物が生命となり動いて一髪も容れざることである。聖書にある如く全てのものが言葉によって成ることである。全てのものが言葉によってなるとは身体も言葉になることである。明徳を明らかにするとは、本来世界としてあるものが、世界としての己を具現することであるとおもう。

 身体が言葉になるとは、身体が世界実現的にはたらく身体となることである。世界と化する身体となることである。そのためには世界と化さざる身体を殺さなければならない。欲求的として自己中心的身体を殺さなければならない。世界に化するとはこれ迄の身体が死することである。盤珪の苦行は、斯る身体の声に呼ばれた必然であったということが出来る。禅家では大死一番といい、死の断崖に身を絶して絶後に蘇るという。キェルケゴー ルは絶望するのが健康な精神であるという。膿汁の流れる身体となることによって、盤珪の肉体は否定的転換をもったのである。欲望のはたらく身体を殺して、言葉のはたらく身体に生きたのである。

 欲求的生命を殺すとは、欲求的なるものがなくなるのではない。生命は欲求的であり、欲求的なるものがなくなるとは生命がなくなることである。欲望を殺して言葉に生きるとは、欲望が言葉の内容となることである。世界形成の内容となることである。世界は我・ 汝・彼の無数の人々が働くところである。この我とは世界形成的に、世界の中にはたらくことによって、世界を自分の中に見ることによってこの我となるのである。汝・彼と働くとは、汝・彼が世界を内にもつものとなることであり、世界を内にもつものの交叉に於て世界は作られるのである。食欲は相互の慰楽となり、異性は対話にいろどりを添えるのである。永遠より招く微笑となるのである。世界を内に見るということが、言葉がはたらく生命となることである。我と汝はそこより生れ、そこに分たれて世界が世界自身を形成してゆく、私はそこに明徳を明らかにする所以があると思う。我々が自己を明らかにすると ころは、世界が世界自身を明らかにしてゆくところである。世界と我とが作り作られて明らかになるのである。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」