随筆集

父は、独学で哲学や短歌を勉強していました。父の短歌を作る情熱は、内部からの要求(内部急迫)に従って起っていたようです。

なぜ短歌を作るのか「 私達は何故作るのであるか、その根底には大なる呼声があるようです。斎藤茂吉は内部急迫と言っています。 短歌も俳句も抒情詩として喜び、悲しみを言葉にします。
喜びは生きる影を宿し、悲しみは死の影を宿すものです。生命は生きるものが死を持つものです。そして生きるということは死を越えようとする努力です。言葉というのはその努力が生み出した形です。私達は言葉によって死んでいった祖先の声を聞き、生れて来る者に声を伝えようとします。そこに私は大なる呼声があると思うのです。見出した形に於いて呼び交すのです。
過去と未来を一つとする呼び交しを持つのです。私はそこに私達を呼ぶ声があると思います。そしてそれはそれによってのみ私達が真の自己となる道だと思います。歌が出来ないとよく言われます。しかしそれはこの大 なるものに生れようとする努力であると思います。明日からも頑張りたいと思います。」

【 「満七十才記念 随想・小論集」「初めと終わりを結ぶもの」「自覚的形成」「自己の中に」】

随筆

作歌に即しての芸術表現の考察

私の所属するみかしほ短歌会では年一回の吟行旅行を行う。日常の中に埋没して鈍磨しがちな感覚を、新しい風物に触れることによって鋭くし、創作力を高めようとすると共に会員相互の親睦を計ろうとするの狙いである。併し目に新しい景色に嘆声を発しながら即詠というのは中々難しいようである。私たち山中に住む者が海辺に出ると果てしない紺碧の広がり、鳥の緑を縫って走る白塗りの船など全てが詩のように思える。誰も同じ思いなのであろう。ノートとペンを持って思い思いに逍遥している。「出来たか」と尋ねると大概の者が「いや一首も出来へん」と答える。それは何時の旅行も大同小異である。それでは吟行旅行は無為な企画かと言うとそうではなくて、翌月のみかしほには皆さんの堂々たる作品が並んでいる。直接に目に触れる時よりも家に帰ってからの方が歌が作れるようである。それは何うゆことなのであろうか。私はこの問題を追及する前に、見るとは何うことかをたずねてみたいと思う。

禿鷹は三千来の高所にあって地上をありありと見ることが出来る。併し見るのは野ねずみのみであると言われる。鯛は深海にあって人間の五千倍の明らかでものを見ることが出来ると言われる。併し見るのは敵と餌となるものだけであるそうである。生物の機能は生存すべくはたらくのである。生命は内外相互転換的である。外を食物的環境として収穫し、喰うことによって身体と化し、生命を形成してゆくのである。環境は収穫によってわれわれが生きる所として我ならざるものである。それをわれとすることによって生きるのである。私は目とは斯かる内と外、我と食物を繋ぐ生命の機能であると思う。内外相互転換としての内の身体が外との関わりを持つべく身体を切り拓いたものであると思う。外はそこより流れ入り、内はそこより流れ出るのである。そこに生命形成のはたらきは生まれるのである。『心そこにあらざれば目前にあるとも見えず』という言葉がある。私たちが見るとは漠然と見るのではない。注意作用に於いて見るのである。注意作用は生命形成の内的欲求より生まれるのである。内的欲求とは身体よりの要求である。動物はそれを個体保存としての食、種族保存としての性に持つ。それに対して人間は丁吏的形成である。技術的である。技術的とは無限の過去の経験が現在に蓄積されていることである。われわれの身体は手を持つ身体であり、言葉を持つ身体である。言葉は記憶として無限の過去を持つところより生まれ来たったのである。手は経験の蓄積として物を製作するところより現れ来たったのである。われわれが見るとは、斯かる身体の要求として見るのである。無限の時間を内に蔵し、制作するものとして見るのである。無限の時間はその一々に表象を有し、製作はその表象より現在の要求に於いて選択し結合することによって新たな現在の表象を樹立するのである。われわれが見るとは単に対象を見るのではない。現在の形相を見るべく注意作用を持つのである。否対象そのものが内外相互転換の内容として、現在の生命形成に参与するものとしてあるのである。

私は短歌の創作も斯かるところにあると思う。見るとは現在の表彰形成として見るのである。現在の表象形成には無限の過去の表象の選択と結合を持つのである。それが短歌に於いては万葉であり、古今であり、新古今近であり、字生であり、象徴である。人麻呂であり、赤人であり、実朝であり、定家、俊成であり、子規、茂吉、白秋、佐太郎であり、更に無数の古今、現在の歌人である。更に縁暈として西洋語であり、漢詩であり、世界各国の詩、哲学、小説、宗教、随筆である。あらゆる文字、思潮、社会形態である。或は私はその中の一つも知らないと言われる方もあるであろう。もちろん誰もその全てを知るものではない。併し世界はその全てを包含するものとして、その動転に於いてわれわれに生存の対決を迫ってくるのである。われわれは世界の中に生き、世界を映すことによってあるものとしてそれに対するのである。われわれの意識は世界意識を映すことによってあるのである。世界の現在の動きを映すことによって現在の行為を決定するのである。見ることも斯かる行為の中の一つとして見るのである。注意作用は行為に於いてあるのである。見るとは自己の現在が世界の現在として、世界の現在が自己の現在として自己形成的に見るのである。製作的生命として社会活動的に見るのである。短歌を作るのも短歌の世界の中の一人として面々早退するところより作るのである。我と汝そして無数の彼の作歌するもの歌の世界を作るのである。そしてそれは現在の世界を作り丁史的現在を現すということである。

私は吟行旅行に於いて様々なものを見ながら歌が作れないと言うは本当に見ていないのであると思う。本当に見ていないとは自己形成としての目がはたらいていないということである。家に帰って暫くすると歌が出来るというのは真に見るということが熟成されたのであると思う。対象を離れて一人となることによって、無限の表象が対象に集合し、取捨選択されて結像を持ったのであるとおもう。もちろんそれは直観的である複雑な過程を経るのではなくてイメージとして現前するのである。イメージとはこの我に現れた世界像である。それは世界像としてこの我ではない。而してこの我によってのみ現れるものとしてこの我である。それは無限の過去の蓄積を持つものが現在の内外相互転換の一時点に於いて出現した世界像である。私はそこに見るということの完成があると思う。短歌は文字によって表現されるが故に選択は言葉によってされ、文字によって結実するのであると思う。歌人は作歌に於いて見ることを完成するのである。作品は凝固せるイメージである。一人居るときに作品が出来るというのは、素材に面している時は素材に目が奪われて無限の過去の表象を有する自己の生に表象の結集として選択が出来ないのである。素材を離れて一人になった時自己の生による素材の展望をもつのである。展望をもつとあh、過去の無数の歌人のイメージの結像としての作品、過去の自己の作品が表象として結集し選択されて素材と自己の唯一結像が実現するのである。斯かる実現が作品である。故にわれわれが歌を作るとはこの我が作るのであると共に、無数の過去の家人への応答として作るのである。イメージは無数の表象の呼び文として生まれるのである。斯かる応答は一人となることによって持つのである。素材としての外に向かっていた目は、一人となることによって内に向くのである。内に向くとは過去の無数の表象の統一体としての自己に向くことである。そこに内と外が一つになるのである。イメージが生まれるのである。作品としては現在の内外相互転換を素材として一体としての自己に摂取したということである。それは飯を食って身体を作ると軌を一にするものである。

私は斯かるイメージは内面的発展をもつものであると思う。イメジには内外相互転換の結像としてあるものであり、転換は一つの完結体でなければならない。そのことはイメージもまた完結体でなければならないことである。それに対して発展は次のものへの連続をもつことである。斯かる発展は如何なるものであるか、私はそこに呼ばれるということがあると思う。多くの人々は同一の環境、風土の中にあって集団生活を営むものである。技術は集団の中より出で来たったのである。技術は環境を人間の生存に合わせて変革するものである。環境の変華はまた人間の間柄の変革を伴う。情緒は身振りとして身体の行動に相即するものである。内外相互転換の身体の現われが情緒である。間柄の変革は新たな情緒が生まれることである。それが人間の生存に合わせて変革するとき、その行動を多様にあわせてより大なる情緒をもつのである。変革を担うものは前にも述べた如く言葉であり手である。より大なる情緒が言葉に現れた時に詩が生まれるのである。それは一人の天才に形成的生命がおのずから具現するのである。世界の底から湧き出てくるものが一人の天才を衝き動かすのである。呼ばれるとは同じ風土、環境にあるものとして、その詩を聞くことによって自己の内深きものの目覚めをもち、自己の情緒による世界表象をもつのである。自己のイメージを持つのである。情緒に於いてより大なる生命に参加せんとするのである。動物に於いては一匹がよく全種を代弁する。併し技術的形成としての人間に於いては一々がその端末を有するのみである。而してイメージは一端末が世界に繋がるところより出てくるのである。呼ばれるとは他社の異なった自己が同じ世界の形成者であるところより来るのである。私はそこにイメージの内面的発展があると思うのである。短歌は日本的風土に生まれたイメージの発展である。古今は万葉の連続ではない。変革された社会の世界感情によるイメージの出現である。古今的イメージを万葉的イメージより喚起されるのである。斯かるものとしてイメージの内面的発展は植物の成長の如き形をとるものではない。多様の統一の形をとるのである。

ホモサピエンスとして現在の人類は全て六十兆の細胞と百四十億の脳細胞を持つと言われる。人類は幾万年に亘って同一の構造をもつ生体である。風土としての自然も長年月に亘ってほぼ同一の構造を持つのである。われわれの営みは斯かる構造をもつものの日々の繰り返しである。われわれの営みの根底には大なる同一があるのである。技術をもつとは斯かる繰り返しが蓄積として変革を持つということである。繰り返しが変革を持つとは、営みが営みの中により大なる営みを持つということである。斯かるより大いなる営みにイメージが生まれるのである。私たちは日本人的特質と、日本風土に営みをもち、はたらくことによってより住み良い世界を作るところにイメージがあるのである。内に新たな映像を作ることが出来るのである。同一なる主体と環境が否定と肯定によって新たな自己像をもつそれがイメージである。故にイメージの根底にはより大なる世界への歩みというものがなければならない。そこには常に同一なる主体と環境が、主体と環境の対立に於いて新たな相に転じてゆくということがなければならない。斯く転じてゆくものが経験の蓄積としての技術的製作である。世界が自己の中に自己を見て行くのである。そこに内面的発展があるのである。

私は作歌ということも斯かるものであると思う。明石の浦の歌は柿本人麻呂がもったイメージを言表したものである。私達ははその歌を読んで明石の海に対したとき、海は単に眺めた時より深い情緒の内容となる。航く船、霞む島に対して様々の感慨が生まれる。言葉を加えた目となるのである。併しそれは人麿の持ったイメージと同じではない。距てた時間の持つ変容に於いて生まれたイメージである。喚起されることによってわれわれは現在に生きるイメージを持つのである。否イメージとして現在の自己が顕現するのである。もちろん喚起されるということはそれによって内なるものが覚まされるということである。そこには人麿のイメージの再生ということがなければならない。作品の言葉が宿すイメージの追体験ということがなければならない。併し距た時間はわれわれの目を人麿の目とならしめることは不可能であると思う。もし人麿と同じ目を持つことが出来るとしてもそれは唯、形成的生命の無駄に過ぎない。私は過去のイメージによって新たなイメージが喚起され、喚起されたイメージが更に次のイメージを喚起するのをイメージの内面的発展というのである。

イメージが内面的発展をもつには現れるものが全て異なったものでありつつ一なるものがなければならない。呼び呼ばれるのは一つの共通の世界にあることによってのみ可能である。一つの世界を作るところにわれわれは呼び交わすのである。私は斯かる同一が前に書いた根底的同一であると思う。根底的同一の上にあるとは、根底的同一の現れであるということである。呼び交わすとは根底的同一が自己の中に自己を見てゆくのであり、内面的発展とは根底的同一の自己形成である。われわれは斯かる根底的同一を日本的特殊として持つのである。呼び交わしは世界がするのではなくして我と汝がする。それは形成として空間を持つ。それが日本的風土に生きるわれわれの形成である。同一の風土、同一の生体のもつ営みは無限の繰り返しである。日々、年々の繰り返しである。蓄積は斯かる繰り返しの上にもち得るのである。イメージは繰り返しのもつ蓄積の映像である。呼び呼ばれる形成の声は斯かるイメージより出てくるのである。それは変化に於いて根底的同一が自己が自己を見る現われである。時間、空間は根底的同一が自己を見る内容である。一々のイメージは根底的同一の顕現として時間、空間を超えるのである。超えるとは内に持つことである。そこに永遠があるのである。イメージがイメージを喚起するとき、そこには時間、空間を超えた同一があるのである。縄文土器がわれわれのイメージを喚起する時、縄文土器は永遠の現在として生命の息吹を持つものとなるのである。

イメージがイメージを呼ぶとは、一つの形を決定することである。風土と人間が内外相互転換的にあるということは形を持つということである。風土と人間と言うことすら自己が見出た自己の形としてあるのである。風土と人間が内外相互転換的に形成するということは、風土と人間が映し合うことである。風土が環境として、人が環境を映し、環境が人を映すということがものの形が生まれるということである。製作的生命として獲る、争うといったことに古来より幾多の形が生まれたであろう。その中から最も合理的なもの、簡単にして効果的なるものが選択されてきたのであろう。斯かる形は二つの方向をもつということが出来ると思う。一つは環境的方向としての物の形成である。一つは人の方向として主体の形成である。人は環境を映し、環境は人を映すものとして、物の製作は新たな主体の組織を要求するのである。新たな組織に生きる者は新たな行動を持つものとして新たな感情が生まれてくるのである。そこに新たなイメージが生まれてくるのである。斯かる組織が無限に内と外を映し合うものとして発展を持つとき、そこにおのずから言表の衝動が生まれてくるのである。斯かる言表が主体の形である。形は固定されたイメージとして新たなイメージを呼ぶものとなるのである。

最古の残された文字は詩であると言うのを読んだことがある。昔宮廷詩人というものがあった。宮廷詩人とは、帝王の徳を作るために詩ったと言われる。詩うことそのままが帝王の徳になったと言われる。帝王とは新しい生産体制の統率者である。帝王を詩うことは生産社会の主体を見出すことである。詩はれた様々の徳は生産の発展が主体に要求するものである。そこに沸き出でてくる無限のイメージがある。生産の増大は帝王の威徳の増大である。もちろんこの場合、帝王とは一個人としての人間ではない。生産の主体面を象徴するものである。見出された形は生産の増大と共にイメージを生み、イメージは形へと転化されて更にイメージを生むのである。私は二本の短歌も斯かる展開を持つのであると思う。帝王の徳は更に拡大されて自然も亦其の徳を帯びることとなり、人間全てが愛を持つものとなったのである。私は斯かる生命を育てるものが日本に於いては和歌であったと思う。それは初め誰かが作った。そしてその型式は日本の風土に生きるものの情感を最も表しやすいものだったのである。最も豊かにイメージを生み、育む型式だったのであると思う。イメージより生まれた形は逆にイメージを生むのである。斯かるものとしてわれわれは歌を作り、歌はわれわれの心を作るのである。形は根底的同一が自己自身を見るのである。

イメージは内的表象であって物ではない。それは内外相互転換としての内の方向の展開である。具体的生命形成が内が外を映し、外が内を映すものであるとき、何処までも外を映す内としてあるものである。内が外を映し、外が内を映すのが、無限に蓄積的であるとき、内の無限の発展が外となり、外の無限の発展が内となるのである。外が内の無限の発展をもつとき物が生まれ、内が無限の発展を持つときイメージが生まれるのである。世界形成は外によってあるのでもなければ内によってあるものでもない。何処までも内外相互転換としてあるのである。相互転換とはお互いが自己自身の発展をもちつつ、自己自身の発展がお互いの発展となるのである。物が物を作り、イメージがイメージを生むのである。而して物が物を作ることがイメージが生まれる基盤となり、イメージがイメージを生むことが物が物を作る基盤となるのである。イメージは歴史的形成の根底的同一が変化を映す方向に、物は変化が根底的同一を宿す方向に成立するのである。

故に歴史はその本質に於いて、物の形成にあり、変化、変遷にあるのである。過去の中に葬られてゆくのである。それに対してイメージは呼び合い、語りかけるものとして時を超えるのである。物が朽ちてゆくのに対し、イメージは生に連なるものとして、生まれ来るものと呼び合うのである。何万年か前にネアンデルタール人が墓前に初めて花を捧げたときより人間は人間になったというのを読んだことがある。涙に於いて、微笑みに於いて、われわれは時を超えた直接のイメージを交わすのである。呼び交わすことによってわれわれはより明らか、より深いイメージを持つ。他者の涙、他者の微笑みを見ることによって。涙や微笑が自他を超えた全人類の深さより来るのを知るのである。そこに自己の内より情感は溢れるのである。それが表現であり芸術である。私は芸術は歴史の変遷に対して朽ちざるものとして、時の変化を永遠より裏打ちするものとして物と共に歴史的形成を担うものであると思う。

 

創作の価値の基礎について

よく「好きな歌がよい歌である」と言う人がある。その論旨の不可なることは少し考えれば判ることである。甲の人がこの歌は好きであると言い、乙の人が同じその歌は嫌いであると言った場合、我々はその歌の評価に対する何等の基準を持たないことになる。何等の評価も持ち得ないということは惚けた老人の独語と変らないということである。そこには創作ということもあり得ないことになる。言葉は対話として世界を表象するものである。我と汝がそこにある世界の形象を見出すものである。評価とは如何に世界に参与し、如何に世界を形作ったかを定めるものであり、次の世界を拓く踏み台となるものである。そこに創作があるのである。

しかし「それならお前のよい歌というのはお前の好きな歌ではないのか」と反問されたら答えに窮する。広辞苑に好きとは「気に入って心がそれに向うこと」と書いてある。撰歌を依頼されたときもざっと目を通して気に入ったものに印を付けていく。更に印を付けたものに精密な考察を加える。撰ぶのは好きな歌である。注意するということが既に気に入ったということである。作歌するのもそうである。心の向うことなくして作歌はあり得ない。参考となるのは常に心気を高揚させてくれる歌である。即ち好きな歌である。そしてそれがよい歌であると言わざるを得ない。私達はそこに好きな歌がよい歌である、しかし好きな歌がよい歌の基準になることは出来ないという難問に当面せざるを得ない。私はこの問題のよって来るところは感情は個人に関り、価値は世界に関るところにあるように思う。個人は世界ではない。世界は個人ではない。而して世界は個人によってあり、個人は世界によってあるのである。個人と世界は相反するものであると同時に直に一つのものである。私はそこにこの問題を解くべきものが潜んでいると思う。

生命は内外相互転換的に形成的である。外を内とし、内を外として自己の形を作っていくのである。外を食物的環境として、食物を摂ることによって内としての身体を形作っていくのである。私は斯かる生命の自覚として人間があると思う。自覚とは相互転換としての形成が内面的発展を持つことである。形成としての生命が内と外としての、身体と環境により大なる形相を見出していくことである。生命は働きと形、時間と空間の統一としてある。生命は生存としてより大なる形相とは、より長く生き、より大なる場所を持たんとすることである。斯かるより大なる形相を内と外とを見ることによって形作っていくのが内面的発展である。私は斯かる内面的発展を経験の蓄積に見ることが出来ると思う。経験の蓄積とは一瞬一瞬の内外相互転換を時間の持続に於いて見ることである。一瞬一瞬の内外相互転換が、一瞬に消えて一瞬に生れるのではなく、前の一瞬の働きが今の一瞬の働きの力となることである。前に現われた形が今の形を生む力となることである。例えば野菜を植えているところにごみを捨てたとする。そしてそれによって成長が早められたとする。すると次に野菜にごみを施すごときである。そこに時間と空間が現われるのである。野菜畑にごみを捨てたら野菜が早く大きくなったのが過去であり、ごみを肥料として施しているのが現在であり、野菜の成長と収穫を予測するのが未来である。そして野菜の栽培の場所が空間である。時間・空間は製作によって出現するのである。

技術的製作的になるとは形が無限に生れることである。外とは我ならざるものである。内外相互転換とは内としてのこの我が外としての我ならざるものに出合うことである。相互転換とは外としての我ならざるものを身体としての内に転換することである。それを蓄積するということは、我ならざるものを我とする手段を持つことである。そこに必然が成立するのである。我ならざるものとして出合の偶然であった野菜は栽培に於いて必ず出合えるものとして必然となるのである。その必然の体系が技術である。生命の必然の体系に組込まれた野菜は、何処迄も外として、身体ならざるものとして、身体の欲求に従ってより美味に、より多量にとして形相の大を求めるのである。そこから様々の形の分化が見られるのである。斯くして偶然と必然の交叉の中から創造として無限の形が生れてくるのである。

内外相互転換は生命の基本である。基本として生命発生以来の全ての生命が持って来たものである。内外相互転換が生命形成であるとは、全ての生命が転換を持ち、転換に於いて生命と生命が食物の所有を争い、そこより形が生れたということである。有機体に於いて外とは敵である。内外相互転換とは闘いである。闘いは個体が死を超えようとする努力である。そこから個体としての形が生れて来るのである。動物の世界は闘争の世界であり、自然淘汰の世界である。私は人類の製作に於いて自他を統一する大なる世界の展望を持つことが出来たのであると思う。製作は前にも書いた如く偶然としての外を必然としての内に組み込むことである。斯かる外は私一人の環境としてあるのではない。この我も亦生れ来ったものとして、無数の人々が生まれ、育ち、死んでいくところとして環境である。生まれ死んでいくところとして環境は大なる力である。製作は変革することであり、環境の変革はよく一人の力のなし得るところではない。それは全人類の無限の努力の上に成り立つのである。経験の蓄積というのも全人類の内容としてあるのである。蓄積を記憶として持つ。我々が記憶を持つのも全人類の内容として、全人類の形相を宿すということである。人類が形成してきた世界の一点として記憶を持つのである。

製作は形の無限の発展である。私はそこに芸術の萌芽があると思う。無限の発展とは見られたものが見るものとなることである。作られたものが作るものとなることである。蓄積としての獲得した力が働くものとなるのである。作られたものが我と対し、我に対するものを外として更に大なる内面的必然の体系の中に組み込んでいくのである。即ち更に合目的的な物を製作していくのである。製作として物は人を映し、技術として人は物を映すのである。内と外とは相互否定的に一として発展していくのである。形より形へである。製作は身体の形成として、身体の用のために始まった。而して形より形へは身体の用の中に消えゆくのではなくして物自身の発展を持つものである。勿論基本としての身体の用が消えるのではない。人類の内容として個体の用を超えた形を持つのである。社会の内容として商品となるのである。勿論商品は芸術ではない。商品は尚個体の欲求に即するのである。私はそれが芸術となるのは個体の用としての欲求的内容より転じて、人類が自己の形相を見るということであると思う。形より形へとしての製作は前にも書いた如く、瞬間としての内外相互転換を超えて過去・現在・未来を内に持つことである。過去は帰り尽くせないものとして無限であり、未来は到り尽せないものとして無限である。それは全人類の持つ無限である。それは個を超えたものとして個を内容とするものである。私はここに現われる形は世界の形相であると思う。私はこの個を超えて過去・現在・未来を統一する生命として、世界が世界を見ることによって生れる形が芸術であると思う。そこは形が形を生む根源として純なる形である。

生命は生きるものが死を持つものであり、死にゆくものが新しい生命を生んでいくものである。営みは一瞬一瞬の内外相互転換であり、内外相互転換は形成作用として過去・現在・未来を統一するものである。永遠が瞬間であり、瞬間が永遠なるものとして営みを持つのである。製作も亦生命の自己表現として瞬間即永遠・永遠即瞬間として形を実現するのでなければならない。私は作られた形の全ては日常の用としての瞬間的な方向と形の実現として永遠の方向を有すると思う。そして日常の用の方向に物としての器具が見られ、時を包む形の方向に美としての芸術品が見られるのであると思う。茶碗の破片も時を包むものとして美の内容であり、飾り皿も果物を載せれば器物である。勿論碗の破片が美術品であるというのではない。最初に人類が物を作った時に用の方向と形の方向があったと思うのである。縄文土器につけられた紋様は神の形象であると言われる。天地を写すのである。そこから種々の形が生れるのである。しかしそれはまだ芸術品ということが出来ないと思う。それが芸術品となるには用から離れなければならないと思う。用から離れて世界の形を表わすものとなるのである。最初の形は用として現われるのである。永遠なるものが初めに形を持つのは瞬間的なるものとしてである。瞬間的なるものとして身体に即して現われるのである。身体の行動的直感として現われたものが次の形を生むとき、そこに時の統一が現われ世界が世界を見る形となるのである。私は芸術とは形が斯かる方向に内面的発展を持つことであると思う。この問題を解くために更に形とは何かについて踏込んでみたいと思う。

私は前にも書いた如く、死をもつ生命は生きんとするものであり、死の克服として現われた生命の相が形であると思うものである。初めに形が現われてそれが死を持つのではない。生れることが死ぬること、死ぬることが生れることとして形が現われてきたのである。形が現われることによって生と死が否定的に対立するものとなったのである。私は生命は生死の統一として初めて具体的な存在であると思う。具体的な存在とは形を持つことである。斯く生死を持つということが内外相互転換的であるということである。外を死とし、内を生とするのである。外は環境として死を以って迫ってくるものとなり、内は身体として努力によって環境を身体に転じて生を維持し発展させるものとなるのである。そこに外は世界として形を持ち、内は身体として形を持ってくるのである。斯かるものとして形は相互限定的である。身体は環境を映し、環境は身体によって変革されるのである。形の成立は環境に作られ、環境を作るということである。斯くして生命の営為は環境と主体が映し映される無限の形成の働きとなるのである。村里と山家・大河と小川・温暖地と寒冷地等々一木一草に至る迄、我々はそこに生き、それによって生きるものとして形を作っていくのである。生きるものとしての形を作っていくとは感情・意志・知識を作っていくことである。そこに生きるものは生れ変り、死に変り一つの形に生き、形を発展させていくのである。斯くして生きるとは先人の形を学び発展させていくこととなるのである。ここに於いて私達は形に生き、形によって生きるのである。経験の蓄積はここに成立するのである。経験の蓄積は外が身体の用を離れて形が形を生み、生命形成の内奥を露わにすることである。身体を超えた形として世界が現われることである。

用を離れ、身体を超えると言っても進退がなくなることではない。内外相互限定としての内の身体を失うことは形がなくなることである。唯用としての内外相互転換は身体が重心を持つのに対して、形としての内外相互転換は世界が主となるのである。前者に於いては世界は感官的欲求の内容となるのに対して、後者に於いては身体は世界の内容として、世界の形を現わすものとなるのである。身体はもともと無限の奥行を持つものである。但しそれは内外相互転換的に外を映し、外を映したものを自己とすることによってである。無限の創造的発展を潜めるものとしてである。身体が奥行を持つとは外を映すことに無限の形を持つことである。そしてそのことは亦内外相互転換として外に無限の形をあらしめることである。ここに我々はこの我をあらしめ、物をあらしめるものに逢着するのである。この我をあらしめ、物をあらしめるものは我でも物でもなくして我と物を超えたものでなければならない。超えたものとして物に移して我をあらしめ、我に映して物をあらしめるものでなければならない。而して我と物をあらしめるものとして見出された形は超越者の姿でなければならない。超越者が自己自身を見るものとして形成があるということでなければならない。そのことは我が物を作り、物に我を見るということは超越者の自己創造ということである。私は形が実用を超えるというのはそこにあると思う。そこに物は身体の用を超えて超越者が自己自身を見るものとなるのである。我々が物を作るのは本来超越者が自己自身を見ることであり、身体の用はその手段となり、その陰翳となるのである。斯くして超越者の内容としてのこの我が超越者を宿すのが価値としての表現であり、芸術も亦そこに生れるのであると思う。短歌も亦芸術として日本的特殊に於いて超越者を表わすところにあり、評価の生れるところもここにあると思う。

日本的特殊とは日本の風土である。そこに生れて働き死んでいく自然である。生きて死んでいくということは内外相互転換的に環境と主体が映し映されて形作ってきたということである。そこに我々は自分の形を作ると共に日本の形を作ってきたのである。自分の形を作ることが日本の形を作るものとして生きてきたのである。私は斯かる形成作用の日本の形を作る方向のひとつとして短歌が見られると思う。それは身体の用としての物の方向ではなくして、対立の統一としての言葉の方向である。物が身体の生死を映すものとして現われて消えていくのに対し、それを超えてそれをあらしめる言葉の方向である。それは対象を映し、対象に映されて自己を明らかにしていく創造的一者の形成作用である。私は短歌は斯かるものとして、日本の風土に生きる生命が風土と生命の相互否定的転換に於いて世界を形成し、世界を明らかにしていく一つの手段であると思う。それは無限の転換である。外を映したということは外をイメージとして自己の形を作ったということである。内を外に映すということは、外を獲得した新たな力によって更に大なる世界を作ることである。更に大なる世界を作るとは超越者が自己自身を現わし切ろうとすることである。而してそれは無限者として無限の働きである。無限なるが故に超越者なのである。私達は斯かる世界の内容として、働くということは無限の姿を見るということである。実現するということである。私は斯かるものとして良い歌とはどれ程世界を映し、我を実現したかにあると思う。映し映されることによって世界を形作り、形作ることによって見ていくのである。それは映し映されたものとして無限の過去を内に見るものであり、無限の未来への呼びかけを持つものである。良い歌とはより明らかにより大なる世界を開いたものとして、この己により明らかなより大なる内容を持たしてくれるものであると思う。そしてそれは映し映される、無限の努力の中より生れてくるのである。努力するとはより明らかなより大なる世界を求めていることである。求めているものが与えられた時、より大なる光りを与えられた目の如く知るのである。そこに形成的生命の自己直観があるのであり、生命は直観的に自己を形成していくのである。目から鱗が落ちたという言葉がある。より大なる世界に接して、より大なる形を見、形を作る目となったということである。私はそこに芸術の世界が成立し、客観性はそこに求められると思う。日本の自然と人間が映し映されるときに和歌という形に結晶したのである。作品を介して主体と対象、我と世界は明らかな形を持ってくるのである。映し合う主体と対象は作品によって自己を明かにしていくのである。恰もそれは鏡の如きものである。鏡に映して自己の姿を知ると共に、ありたき姿とある姿の乖離を埋めんとしてより美しいより大なる自己の姿を作っていくのである。乖離をもたらすのは世界としての他者の目である。斯くして自己をより美しくより大ならしめるものは重々無尽の世界である。勿論作品は鏡ではない。単に写されたものではなくして実現したものである。逆に世界を作るものである。作られた世界として次の創造を呼ぶものである。私達の無限の努力はここより生れるのである。我々の働くことが呼ばれるものであることによって限りなき努力をするのである。

私は良い作品とは我と対象としての世界をより明らかにし、その明らかにしたものに於いて創作を呼び続けるものであると思う。創作を呼ぶということは好きということである。そこに好きな歌が良い歌であるということのよってくる所以がある。しかし好きというのは自己に関るものである。自己に関るとは他者に関らないということである。そこに世界形成はない。世界形成のないところに自己は消失しなければならない。好きということの上に立って自己を見るとき、自己とは唯世界形成より他者を捨象して見られた抽象物に過ぎない。自己に世界を映すのみにて、世界に自己を映すという意味が失われたところにあるものとなるのである。そこから新しい形としての自己を生むことが出来ないと思う。勿論内外相互転換としての現実にはこのような一方的なものはない。好きは他者に関るのである。唯好きという時他者の中に自己を消していく真の形成はないと思うのである。呼ぶというのは内外一としてこの我を超えた形としての世界より我をあらしめる声である。好きというのも我をあらしめる世界の中により真実の我を見出した感情である。世界が自己を運ぶところに生れるのである。それを評価に於いて逆に我よりとするところに誤謬が生れるのである。

形は何処迄も内と外とが作品を介し自己を明らかにするところより生れるのである。現われた形が世界である。この現われた形以外に世界があるのではない。そしてそれをあらしめるのが内と外として無限に映し合う主体としての人間と対象としての物である。この世界の内容として現われたこの我々と物以外に物や我があるのではない。この我や物が評価を持つということは、映し映された世界の明らかさをどれ程深く大きく担っているかということになければならない。映し映されることによって明らかになるとは自己の中に自己を見ることである。自己の中に自己を見るとは初めと終りを結ぶものが自覚的ということである。初めに終りがあるのである。初めに単細胞として地球の一点に生れた生命は無限に自己を複製し、内外相互転換として形の中に形を見出していくのであったのである。そこに新しく生れることは初めに帰ることである所以があるのである。最初の生命が内外相互転換として新しい形に転じていくのである。しかしそれが単に転じていくのは形成ではない。過去を包むものとして、蓄積するものとして転じていくのである。そこに新しいものを見るとは初めを見ることであり、発展することは根元に帰ることである所以があるのである。創造は宇宙唯一生命が自己を見るところに成立するのである。宇宙唯一生命は初めと終りを結ぶものとして自己の中に自己を見る生命でなければならない。学ぶとは真似ぶであると言われる。大なる過去に還ることが大なる未来に至ることである。私は斯かる創造的世界が自己がその中にあり、自己がその中に見られるものとして自己に対するとき客観的世界が生れるのであると思う。作品の評価はどれ程深く大きく世界を明らかになし得たかにあると思う。それは内と外が深く大きく映し合ったものとして、どれ程深いところ、高いところから読者に呼びかけ、読者の目を開いたかにあると思う。そこに作品の価値は世界の真実となるのである。好き嫌いは個人意識、時代意識に左右されることが大である。勿論個人意識、時代意識なくして意識はない。唯私はその根底に世界意識とか、宇宙意識とかがあり、個人意識や時代意識はその上に成り立つと思うのである。そしてその根底に還ることによって個人意識や時代意識はより明らかな形を持っていくと思う。呼びかけ目を開かしめるものはここより働くのである。それは個人意識や時代意識にも働きかけるのである。意識がより明化を求める限り働きかけるものであり、意識は明化を求めるものである。個として意識は無限の深化を求めるのである。そしてより深い世界の呼び声を持つのである。そしてより深い世界に立った時、前の良い歌が詰まらん歌になり、新しく良い歌が見えてくるのである。新しく良い歌と言っても何か素材が新しいのではない。新しい素材を求めるとき逆に自己の中に自己を見るという意味が失われなければならない。旅行詠なんかに案外良い歌が出来ないのはそこに原因を持つと思う。私達の営みは日々の繰り返しである。而して繰り返しであるが故に形が生れて来るのである。経験の上に経験を重ねていけるのである。経験の上に経験を重ねるのが世界形成であり、その形成を呼ぶのが世界意識であり、宇宙意識である。私は短歌の評価もそこにあると思う。創作したものが如何に深く世界から呼ばれ、如何に明らかに自己を表わしたかにあると思う。身体に映し、対象に映すことによって無限に働くものを如何に露わにしたかにあると思う。

無題

生命は他者を食うことによって自己を形作るものである。それは絶対に自己ならざるものである。食うとは他者の生命を奪って自己を形成することである。他者を殺すことによって、その肉によって自己をあらしめることである。生きるとは弱肉強食であり、自然淘汰の世界である。而して全ての生命の形はそこより生れてくるのである。鯛は深海にあって人間の五千倍の明らかさで物を見ることが出来ると言われる。しかし見るのは餌と敵だけであると言われる。禿鷹は三千メートルの上空からありありと地上を見ることが出来ると言われる。しかし見るのは野鼠だけだそうである。全て生命の持つ機能は、自然淘汰の中に於いて自己の生存のために生れたのである。目は敵や餌を早く発見するために生れたのである。遅いことは死である。生死の中から視覚は発展していったのである。かつて読んだ本に、動物に頭が出来たのは、生存闘争により、敵や餌に対して先端に機能が集った結果であるというのがあった。全て生命は食物連鎖を環境として自己の形を持つのである。食物連鎖に於いて全ての生命は、全ての生命に対するのである。その激烈な競争の中から大なる能力が生れて来るのである。目は愈々明らかに遠くを見、肢は愈々速く走るものとなるのである。而してそれは愈々大なる地獄絵図を見ることである。苛烈なる闘争を持つことである。しかし私は神の創造をそこに見ることが出来るのであると思う。生命は出現した形を何処迄も維持し、発展させようとする。生命の出現は個体的である。個体としての生命は死としての個体の消滅に至る迄同一の形相を持つことによって個体である。生命は摂食によって形相を完成させる。しかし二人の人間が同じものを食っても同じ人間になることはない。それぞれ自分の形を成長させていくのである。自分ならざるものを食って自分を形成させていくのである。自分ならざるものを食って自分を形成しようとするとは如何なることであろうか。私はそこに自己の出で来った根源を自己に於いて実現しようとする生命の意志を見ることが出来ると思う。他者を食って自己を形成するとき、他者がある限り際限なきものである。全ての生命は自己の根源に向って際限なき形成力を持つということが出来る。個物は自己が世界たらんとすることによって個物であるということが出来る。闘争は個物が世界たらんとするより来るのである。而してそれは亦他者を食って自己を形成すべき生命の宿命とでも言うべきものである。

斯かる生命に対して人間は物を製作する生命である。物を製作するとは如何なることであろうか。物は生命の対象となるべきものである。物以前に於いて生命の対象となるべきものは直に殺して食うべきものが、食われるべきを避けて逃げるべきものであった。作るとは殺す前に育てることである。育てるとは如何なることであろうか。他者を我となすべく食うべきものは絶対に我ならざるものである。それがたとえ育ったものであっても、食うときには絶対我ならざるものである。しかし育てるというとき何等かの意味に於いて他者が我となるということが無ければ育てるということはあり得ないと思う。私はそこに主体としての生命の飛躍がなければならないと思う。そして私はその飛躍を生命の未分以前の根源への回帰に求めたいと思う。根源への回帰とは、我が絶対の他となり、絶対の他が我となることである。それは論理的にあり得べからざるものである。それは無よりの出現である。斯かる飛躍は如何にして成立するのであるか、我々は絶対の他者を食うことによって自己を形成するのである。絶対の他者は我々の成立の基底にあるものである。我々は斯かる基底の出現としてあるものである。絶対の他者とは、斯かる基底の上に死を持って対立するものである。対立の根底に深大なる統一があるのである。死は生を絶対に無ならしめるものである。そこに絶対の他者ならしめるのである。殺すものとして対立する生命の絶対の対立的他である。絶対の他が我となり、我が絶対の他となるとは斯かる生の基底が我々の自己限定として出現するということである。それは新たな生命の誕生である。対立が一となるとはより大なる生命の誕生である。死として対立していたものが一つの生を実現するものとなるのである。勿論そこに対立が消滅するのではない。対立が統一となり、統一が対立となって無限の生の形相が生れるのである。死が生に転じ、生が死に転じて無限の形成となるのである。例えば野生の稲を見つけたとする。一度獲って食ってしまえば終りである。それを栽培すれば大量に収穫し、亦次への蓄積も出来る。食糧をより多く収穫すれば、より多大の生命を養い得る道理である。そこにより大なる生を見得ると共に、天変地異等により収穫が絶えた時には凄絶な争いと、多数の悲惨なる死を見なければならないのである。そしてそこより大なる収穫が図られるのである。より大なる収穫はより大なる生である。そこに死が生に転じ、生が死に転ずる所以であるのである。より大なる立場と言っても絶対の他、絶対の死が無くなるのではない。それを包む生命が出現するのである。斯かる生命の内容が技術である。技術とは他を作ることである。斯かる技術は何処から来るのであろうか。そこに私は物に死んで他に化すということがなければならないと思う。勿論この我が死んでは何もない。我が死ぬとこの世に出現する我の力を他者の出現に代えることである。他者を我の基底として、他者を作ることが自己をつくることとならしめることである。本来我も亦他の中より出現したものであった。それを再出現せしめることである。斯かる出現が死して生きることである。米を作ることは己が生きる力を費やして用地を作り、水路を作らなければならないのである。米となって雑草を除き、虫を除かなければならないのである。斯く我の力を否定して他者となって生れるのが技術である。自らを殺して達する外は至り得ざる深さである。それは我を殺しているが故に見ることを得ざるものである。それは死して生れたものとしての出現である。斯かる技術は内外相互転換的である。我を殺すことは生かすことであり、生かすことは食うものとして殺すことである。対象がより大なる生産としての技術を要求し、主体は自己の生きる力を傾注するのである。大なる生産は大なる力を産み、大なる力は大なる生産を生むのである。生産が力を生み、力が生産を生むとは技術は現在より現在へということである。生産物は生産された力を内包することによって物である。技術の成果を内包することによって、生産物として実現したものである。それは主体の無限の努力を宿すものである。無限の努力とは努力の繰り返しであり、経験の蓄積である。斯かる経験の蓄積に於いて、自己を他者の中に殺し、他者となって蘇ったものが自己の身体を他者として、手足を物として操作するとき、手足は道具の原型となり、他者の中に死して新たに生きる身体の機構となるのである。斯かる機構がより大なる生産を求めるとき、手足の延長を見出したのが道具である。道具は他者の中に死して生くべき生命の当然の機構である。他者の中に死ぬとは自己を物として見ることである。そこに死を越えた無限の生命が成立するのである。製作的生命とは斯かる方向に無限の自己となることである。無限の形成は形成の蓄積力である。それは外を作ることが内を作ることであり、内を作ることが外を作ることである。内を外に宿し、外を内に宿すのである。外を宿す内とはより大なるものとなった内である、その内を外は宿すことによってより大なる外となるのである。外は愈々質量の高い物となり、内は愈々複雑な技術を持つものとなるのである。

斯く外が愈々大なるものとして内の形成を迫るとき外は神となるのである。内は外を映すことによってのみあり、内が外を映してより大なるものとなったとき、外は亦その内を映して更に大なるものとして内の前に立つのである。神の無限はそこにあり、人の努力はそこにあるのである。映し映されることは愈々密接となると共に、愈々距離の大となることである。神と人とは一体となると共に、無限の距離をもつこととなるのである。外と内の無限の相互転換に於いて、人は製作を自己の行為とするのである。世界を我の自覚に於いて捉えんとするのである。そこに無神論が生れてくるのである。しかし我は我によって生きるを得ざるものである。何処迄も他者を食うことによって自己の形成をもつことによってのみ生きるものである。その他者とは自己に死を以って迫るものである。内を宿して大となった外である。斯くして愈々大なる生の創造は愈々大なる死の創造である。我々の生命は愈々大なる悪魔を持つことによってのみ、愈々大なる神の国を建設し得るのである。教会の隣に魔窟を持つことによって世界はより大なる展開を持つのである。神と悪魔が対立を持つことは闘争としてあることであり、神の国は努力によってのみ打ち樹てられるのである。文明は常に退廃によって滅び行くのである。

日本の形としての「間(ま)」について

日本の芸術は間が重要な要素を持っているとか、日本の表現は間の表現であるとか言われる。間の表現とは如何なることなのであろうか。そのために先ず間とは何かを問うて見たいと思う。広辞苑を開くと「①物と物、または事と事とのあいだ。あい。間隔」と書いてある。しかしこれだけではとても芸術として美的表現を担うとは考えられないと思う。表現となるためにはこの上何等かの意味が付け加えられなければならないと思う。

何時何処で読んだか忘れたが、私達は手の届く範囲に知らない人が来ると不安を感じ、警戒心を持つと書いてあったのを思い出す。そう言われてみるとそのように思う。私達の生存は他者と関り、環境と関るのである。他者や環境は否定的に対するものとして死を持って距たるのである。そこにはおのずから生の姿勢の発現があると思う。手の届く所に来た時に警戒心を持つということは距離と発現に様々の比例関係を持つということであると思う。そこに情緒は無限の陰影を持つのであると思う。西洋舞踏の如く動的なるものを本来とするものはさて置き、動きの一一が完結としての形を持つと言われる日本舞踏に於いては間というのは重要な要素をもつと思う。形の完結とは対立するものがひとつの情緒に統一されることである。手の届くところに知らない人が来た時に警戒心が起きるとは、知る人が来た時には親愛感が起きるということであろう。そしてそれが離れて行く時、前者に対してかすかな安堵感を持ち、後者に対してかすかな淋しさを感ずるのであろう。形の完結というのは警戒心・親愛感・安堵・淋しさをその一点に表して次の動作に転ずるということである。動きが線ではなくして点より点へ転ずるのである。一点一点が内と外との統一としての形を現わしていくのである。そこに間の出現があるのである。感情を軸として間が身体をあらしめ、身体が間をあらしめるものである。以上を表現に於ける空間的な間とすれば、間を持たすというのは時間的な表現であると思う。そしてそれは感情の強度に関ると思う。強烈な情調による密度高い形の成立は、それが観客に十分沁み入ることを要求する。山場とか、見せ場と言われるものである。そこに持続が要求せられる。それが愛とか死の場面であったら容易であろう。それは本性的にもつものである。しかし万感を胸に抱いて一人立っているような時持続は演技力を要すると思う。間抜けという言葉があるが間の持続の途中で力の抜けたことであろうか。

剣道に於いては間というのは決定的な重要性を持つと思う。試合などの本を読むと十分に間合いを取ると言った言葉に出合う。私は剣道について知るところは一つもないが、間合いは相対する人の力量によって定まるのではないかと思う。恐らく当事者の脳裏にはその狭い空間には剣の乱舞があるのであろう。自分の跳躍力、剣の長短が決定するのであろう。舞踏や芝居の間が情動の空間であれば、剣の間の空間は力動の空間であると思う。剣を構えて静止する空間は無限の動を孕んで静止する空間である。一寸の間の取り違えは生死を分つのである。剣を表現の形とするのは無理かも知れない。しかし剣が剣の道となり、剣褌一致となったのは剣が間を介して発展していったところに遠由を有するのではないかと思う。間を置いて自己をはかり、他をはかるところに普遍の道が展かれるのである。形が世界として様々の形が生れるのである。そして目が世界に転じ、活人剣が生れるのである。

墨絵は描かれていない所が描かれているという。それが墨絵の味わいの極致であるというのである。描かれていない所が描かれているとは、描かれているものがその対置に於いて空白の部分を生動あらしめているということでなければならない。しかし描かれているものが描かれていないものを生動あらしめることは出来ない。そのことは逆に描かれているものは相対するものであり、描かれていないものはそれを包んでそれをあらしめるものであり、包んでいるもの、即ち描かれていないものの生動の影として描かれているものが生動をもつのであり、それを返照して描かれていない所が生動をもってくるのであると思う。ここに描かれているものに対して描かれていないところは天地の意味をもってくるのである。私は斯かるものとして描かれていないところは描かれているものの根元といった意味を持っていると思う。描かれているものがそれによってあるものである。それは宇宙とか全存在とでも言うべきものである。私は文人画といったものでも余白を描くものは全て斯かる意味を持つものであると思う。そして間としての表現の至りつくところはそこにあると思う。

全能について

神は万物存在の根源であり、全てあるものは神によって創られ、全ては神の内容であると言われる。神は創造主として、自己に摸して世界を作ったと言われる。神の第一義は全能であると言われる所以であると思う。斯かる全能の意識は何処から生れたのであろうか。神が全て創造者であるとき、それは神の自己省察からというに他ならないであろう。しかし意識は既に形として出現したものであり、神の自己創造という場合にも、それが出現すべき所以のものがなければならない。無よりの創造と言っても出現した形が無かったのであり、それに転じ、出現すべきものがあったのでなければならない。新たな内包と外延を有する形に転ずるものがなければならないと思う。

生物の本を読んでいると細胞の全能性というところがあり、「細胞が成体を形成するすべての組織や器官に分化できる能力で、分化全能性ともいう、動物では、受精卵は全能性を持つが、発生が進み、細胞が分化するに伴い全能性が失われる。以下省略」と書かれていた。即ち細胞において全能性とは、細胞がその属する生命形態の組織や器官の何にでも成れる能力であり、その能力を分化以前に於いて所有するということらしい。未分化の状態に於いては、その全体が一つの生体の完結を持ち、各細胞はその何れにでも成れるということらしい。各細胞がその何れにでも成れるということは、各細胞が成体像を持つということである。各細胞が成体像を持つということが全体が完結像を持つということである。斯かる成体像を持つものが、その有する成体像への発現を見るときに、一々の各細胞は成体像を失うのである。手は手、足は足の細胞に特化して、手の細胞は足の細胞にならないというのである。

私は神の全能と言われるものも、斯かる生命細胞の上に成り立つものではないかと思う。私達は全てを世界として持つ。全てを創ったとは、神は世界を創ったということである。世界創造の神話は殆どがその原初を混沌に置く。それは暗い液状のようなものの中から生命が形として生れたということである。混沌とは何か。単なる液体は混沌ではない。亦既に形を成すものも混沌ではない。私はそれは生命質とでも言うべきものであると思う。卵の細胞が成体の何にでも成れる素質を潜めつつ、まだ器官の如何なる形をも持たないと言うが如きが混沌であると思う。それは単なる漂いではない。その中に生と死を潜めた漂いである。混沌というのは既に、その中に生と死の暗闇を持つものであると思う。それが分化によって全能性が失われるとは、分化による特殊化に於いて、特化されたる器官の発展の方向に可能性の無限が転移したものであると思う。全能性が器官の発展に転化したのである。それは生命の全能性の消失である。しかし私はそれは全能性の消失ではなく真の神の全能性になったのであると思う。生命に於いて全能性はそこに死ぬことによって新たな全能性として生れ代わるのである。成体は形の完成によって衰えて死んでいく。而して全能性を捨てて成体化した生命は新たなる生命を生んでいくのである。新たなる生命は全能性を持つものとして生れるのである。

生命は環境に作られ、環境を作るものとして自己を形成していく。生れるものは先人の作った環境の中に生れるのである。環境は死を以って迫るものであり、絶えず変化するものである。環境を作るとはそれを生に適合させることである。食料を栽培し、衣服を織ることである。環境の変革は技術である。環境の変化に対応する技術は、作られた環境の中に生れた全能性が成体となることによって形成していくのである。創造は常に混沌への回帰と形相の発展と死によってもたらされるのである。生れるとは混沌からの出現として形相的に零からの出発である。それが常に生れた世界の形相を受けて新たなものをつくり、新たな世界を創っていくのである。全能性の無限は消えて新たな世界形成力として働くのである。世界は無数の生命の出現に於いて世界である。斯かる無数の生命の形成力として、全能性と形成力は矛盾しつつ相即するものとして世界は形成されるのである。私はここに神の創造があると思う。全能とは世界の自己創造ということである。

私は斯かるものとして、人間は人間の自己形成力、蜂は蜂の自己形成力に神の全能を見たいと思う。環境を変革して主体化し、身体の延長として環境をあらしめることは、環境を身体に於いて見ることである。身体に於いて環境を統一することである。環境を身体に於いて見る時に、環境は整正たる統一体として我々の前に示現するのである。それが主体化であり、そこに環境は世界となるのである。人間が環境を主体化するのは製作的である。環境を物として、物に自己を見ることによって主体化していくのである。物に自己を見ることが整正たる統一体となることである。而して環境を統一体ならしめることによって主体も亦自己の統一を確立するのである。斯かる究極にあるものは、身体の統一が世界の統一と相即し、身体即宇宙となるのである。創造は全能性と形成力の矛盾的一として動転し、全存在の根源となるのである。