言葉が整うということ

短歌を始めた頃、私はよく天神へ行ったものである。当時東条には藤原優、藤原彊、湖内隆次、松本才逸、西中藤冶、芝田すみれ等の諸氏が居られ、歌会に研究会に動きが活発であった。それぞれ一家としての識見を持っておられ、語り合って飽きないものであった。殊に湖内さんは行き勝手がよく、酒量も同じ程であったので一升瓶を携げて行っては夜の一時、二時迄語り且飲んだものである。その時私は作歌の第一条件として変遷の激しい時代に生きるものとして、現在を如何に表現するかに置かなければならないと言った。それに対して湖内さんは言葉が整うと言うことを第一義とされた。よく「言葉がちゃんとしておればよろしいやないか」と言われた。それだけに氏の作品は言葉の構成に隙がなく、何を歌っても高い抒情の質を示すものであった。氏が病まれてから久しい。自分の思索にみ急な私は訪ねることも稀となってしまった。今氏を思い出すに連れて言葉が整うとは如何なることであるかを考えてみたいと思う。

言語中枢は人間のみが持つといわれる。そして人間は万物の霊長であるといわれる。言葉を持つことによって霊長になったとは、言葉は現在の生命の最も深大なるものであるということである。生命は時間に於いて複雑なる機能とその統一をもつきたのである。生死を介してより大なる生命を形成してきたのである。言語中枢が出来たということは今までの生命が言葉を持ったということではない。言葉がはたらき、言葉によって成る新しい生命が出現したということである。私たちは言葉によって記憶を持つ。記憶は時間の統一として経験の蓄積である。経験の蓄積とは過去によって現在があるということである。それは言葉がはたらくことであると同時に、言葉は経験の蓄積の表出であるということである。経験の蓄積が言葉であるということである。

経験の蓄積は過去に現在にはたらくことであることは、それによって生命の新しい形成が生まれることである。過去の形が現在を創るものとして、現在の形に転じてゆくものである。それは新しい経験の獲得として新しい形が生まれることである。蓄積された経験が新しい経験を獲得によって新しい形が生まれるとは、形が形の中に形を見てゆくことである。そこに生命形成があり。その内的方向に言葉が生まれ、その外的方向に物が出現するのである。私たちはその内外対立の内的方向として言葉を捉えるが故に、言葉によって見るとか、言葉によって作ると言えば奇異に感ずるのであるが、言葉と物は生命形成の内と外として、内が外を映し、外が映すところにその具体を持つのである。色彩が色彩の中に色彩を見、力が力の中に力を見る、それが言葉としての生命がはたらくということである。そこに絵画が生まれ、物理学が生まれるのである。新しい色彩と新しい言葉が生まれ、新しい力と、新しい言葉が生まれるのである。生命が言葉を持つとは、生命が自己の中に自己を見る生命となったということである。私たちが力を知るのは天地の運行によってで身なければ、物体の落下によってでもない。大地を掘り、木を伐り倒すことによってである。更に列車を操り、クレーンを使うことによってである。それは言葉と物が映し合うことによって新たな物と新たな言葉が出現したのである。色彩にしてもそうである。飾ることによって、描くことによって、新しい色彩と言葉が生まれてくるのである。

私は言葉が整うこともここにあると思う。新しい形の出現によって生まれた言葉を明らかにすることであると思う。新しい物が現れ、新しい言葉が生まれたということは、新しい世界が出現したということである。そこにわれわれは自己を見るのである。形成的生命として世界出現的に自己を見るのである。ものが現れることは言葉が現れることであり、言葉が現れることは物が現れることでありそこに自己がある。斯る自己を言葉の方向に於いて捉えるのが言葉が整うことであると思う。それは言葉が現れることは者が現れることであるとしてどこまでも物に即してゆくのである。言葉は単なる既成の観念である。それをどこまでも新たに現れた物に即せしめるのである。物は亦、言葉によって見出されたものとして、既成の観念を新たなものの秩序に組換えるのである。それが言葉が新しいということである。

万物は流れると言われる。一つとして同じものの出現はないと言われる。日々の生活の一々は新たな言葉の出現を要求するのである。私は表現と斯かる要求を現実のものとするところにあると思う。それは世界史の動向であるかも知れない。自然であるかも知れない。汝としての愛憎の対象であるかも知れない。私たちは斯かるものを既成の観念の中より生まれ来たったものとして、既成の言葉を組換えることによって新しい形象を出現せしめんとするのである。対象尾を言葉において捉えんとする時、対象は無限の緑暈をもつ繁雑である。そこから現在の我と物の形成体を把握するのが言葉が整うということであると思う。例えは春の野に咲き満ちた花に生命の躍動を覚えたとする。躍動は原全体にあると共にそれを担うものは一木一草である。原全体というのは捉えきれるものではないと共に、真に自己の生命感に対するものではない。一草のもつ息吹に原全体を表されるのである。生命は一木一草が持つのである。一草は全ての春を担うものである。そしてそれは生命の躍動に於いて我と繋がるのである。私はそこに言葉が整うということがあるのであると思う。整わないとは他の草が入ったり必要で無い陽光が入って来て、そこにこの我の把握を散漫ならしめ、或いは拒否するところにあると思う。内と外が相即し、内が明らかになることが、外が明らかになるとは、生命が自己の世界を出現させたことである。言葉が整うとは生命がそこに自己を実現させたことであると思う。外に空間を拓き、内に時間を包むものとして現在に宇宙の完結を持つものとなったのである。言葉が整うとは、表現的に自己を見てゆく生命が、表現するのもと表現されるものの一を見出したものであると思う。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください