無題

生命は他者を食うことによって自己を形作るものである。それは絶対に自己ならざるものである。食うとは他者の生命を奪って自己を形成することである。他者を殺すことによって、その肉によって自己をあらしめることである。生きるとは弱肉強食であり、自然淘汰の世界である。而して全ての生命の形はそこより生れてくるのである。鯛は深海にあって人間の五千倍の明らかさで物を見ることが出来ると言われる。しかし見るのは餌と敵だけであると言われる。禿鷹は三千メートルの上空からありありと地上を見ることが出来ると言われる。しかし見るのは野鼠だけだそうである。全て生命の持つ機能は、自然淘汰の中に於いて自己の生存のために生れたのである。目は敵や餌を早く発見するために生れたのである。遅いことは死である。生死の中から視覚は発展していったのである。かつて読んだ本に、動物に頭が出来たのは、生存闘争により、敵や餌に対して先端に機能が集った結果であるというのがあった。全て生命は食物連鎖を環境として自己の形を持つのである。食物連鎖に於いて全ての生命は、全ての生命に対するのである。その激烈な競争の中から大なる能力が生れて来るのである。目は愈々明らかに遠くを見、肢は愈々速く走るものとなるのである。而してそれは愈々大なる地獄絵図を見ることである。苛烈なる闘争を持つことである。しかし私は神の創造をそこに見ることが出来るのであると思う。生命は出現した形を何処迄も維持し、発展させようとする。生命の出現は個体的である。個体としての生命は死としての個体の消滅に至る迄同一の形相を持つことによって個体である。生命は摂食によって形相を完成させる。しかし二人の人間が同じものを食っても同じ人間になることはない。それぞれ自分の形を成長させていくのである。自分ならざるものを食って自分を形成させていくのである。自分ならざるものを食って自分を形成しようとするとは如何なることであろうか。私はそこに自己の出で来った根源を自己に於いて実現しようとする生命の意志を見ることが出来ると思う。他者を食って自己を形成するとき、他者がある限り際限なきものである。全ての生命は自己の根源に向って際限なき形成力を持つということが出来る。個物は自己が世界たらんとすることによって個物であるということが出来る。闘争は個物が世界たらんとするより来るのである。而してそれは亦他者を食って自己を形成すべき生命の宿命とでも言うべきものである。

斯かる生命に対して人間は物を製作する生命である。物を製作するとは如何なることであろうか。物は生命の対象となるべきものである。物以前に於いて生命の対象となるべきものは直に殺して食うべきものが、食われるべきを避けて逃げるべきものであった。作るとは殺す前に育てることである。育てるとは如何なることであろうか。他者を我となすべく食うべきものは絶対に我ならざるものである。それがたとえ育ったものであっても、食うときには絶対我ならざるものである。しかし育てるというとき何等かの意味に於いて他者が我となるということが無ければ育てるということはあり得ないと思う。私はそこに主体としての生命の飛躍がなければならないと思う。そして私はその飛躍を生命の未分以前の根源への回帰に求めたいと思う。根源への回帰とは、我が絶対の他となり、絶対の他が我となることである。それは論理的にあり得べからざるものである。それは無よりの出現である。斯かる飛躍は如何にして成立するのであるか、我々は絶対の他者を食うことによって自己を形成するのである。絶対の他者は我々の成立の基底にあるものである。我々は斯かる基底の出現としてあるものである。絶対の他者とは、斯かる基底の上に死を持って対立するものである。対立の根底に深大なる統一があるのである。死は生を絶対に無ならしめるものである。そこに絶対の他者ならしめるのである。殺すものとして対立する生命の絶対の対立的他である。絶対の他が我となり、我が絶対の他となるとは斯かる生の基底が我々の自己限定として出現するということである。それは新たな生命の誕生である。対立が一となるとはより大なる生命の誕生である。死として対立していたものが一つの生を実現するものとなるのである。勿論そこに対立が消滅するのではない。対立が統一となり、統一が対立となって無限の生の形相が生れるのである。死が生に転じ、生が死に転じて無限の形成となるのである。例えば野生の稲を見つけたとする。一度獲って食ってしまえば終りである。それを栽培すれば大量に収穫し、亦次への蓄積も出来る。食糧をより多く収穫すれば、より多大の生命を養い得る道理である。そこにより大なる生を見得ると共に、天変地異等により収穫が絶えた時には凄絶な争いと、多数の悲惨なる死を見なければならないのである。そしてそこより大なる収穫が図られるのである。より大なる収穫はより大なる生である。そこに死が生に転じ、生が死に転ずる所以であるのである。より大なる立場と言っても絶対の他、絶対の死が無くなるのではない。それを包む生命が出現するのである。斯かる生命の内容が技術である。技術とは他を作ることである。斯かる技術は何処から来るのであろうか。そこに私は物に死んで他に化すということがなければならないと思う。勿論この我が死んでは何もない。我が死ぬとこの世に出現する我の力を他者の出現に代えることである。他者を我の基底として、他者を作ることが自己をつくることとならしめることである。本来我も亦他の中より出現したものであった。それを再出現せしめることである。斯かる出現が死して生きることである。米を作ることは己が生きる力を費やして用地を作り、水路を作らなければならないのである。米となって雑草を除き、虫を除かなければならないのである。斯く我の力を否定して他者となって生れるのが技術である。自らを殺して達する外は至り得ざる深さである。それは我を殺しているが故に見ることを得ざるものである。それは死して生れたものとしての出現である。斯かる技術は内外相互転換的である。我を殺すことは生かすことであり、生かすことは食うものとして殺すことである。対象がより大なる生産としての技術を要求し、主体は自己の生きる力を傾注するのである。大なる生産は大なる力を産み、大なる力は大なる生産を生むのである。生産が力を生み、力が生産を生むとは技術は現在より現在へということである。生産物は生産された力を内包することによって物である。技術の成果を内包することによって、生産物として実現したものである。それは主体の無限の努力を宿すものである。無限の努力とは努力の繰り返しであり、経験の蓄積である。斯かる経験の蓄積に於いて、自己を他者の中に殺し、他者となって蘇ったものが自己の身体を他者として、手足を物として操作するとき、手足は道具の原型となり、他者の中に死して新たに生きる身体の機構となるのである。斯かる機構がより大なる生産を求めるとき、手足の延長を見出したのが道具である。道具は他者の中に死して生くべき生命の当然の機構である。他者の中に死ぬとは自己を物として見ることである。そこに死を越えた無限の生命が成立するのである。製作的生命とは斯かる方向に無限の自己となることである。無限の形成は形成の蓄積力である。それは外を作ることが内を作ることであり、内を作ることが外を作ることである。内を外に宿し、外を内に宿すのである。外を宿す内とはより大なるものとなった内である、その内を外は宿すことによってより大なる外となるのである。外は愈々質量の高い物となり、内は愈々複雑な技術を持つものとなるのである。

斯く外が愈々大なるものとして内の形成を迫るとき外は神となるのである。内は外を映すことによってのみあり、内が外を映してより大なるものとなったとき、外は亦その内を映して更に大なるものとして内の前に立つのである。神の無限はそこにあり、人の努力はそこにあるのである。映し映されることは愈々密接となると共に、愈々距離の大となることである。神と人とは一体となると共に、無限の距離をもつこととなるのである。外と内の無限の相互転換に於いて、人は製作を自己の行為とするのである。世界を我の自覚に於いて捉えんとするのである。そこに無神論が生れてくるのである。しかし我は我によって生きるを得ざるものである。何処迄も他者を食うことによって自己の形成をもつことによってのみ生きるものである。その他者とは自己に死を以って迫るものである。内を宿して大となった外である。斯くして愈々大なる生の創造は愈々大なる死の創造である。我々の生命は愈々大なる悪魔を持つことによってのみ、愈々大なる神の国を建設し得るのである。教会の隣に魔窟を持つことによって世界はより大なる展開を持つのである。神と悪魔が対立を持つことは闘争としてあることであり、神の国は努力によってのみ打ち樹てられるのである。文明は常に退廃によって滅び行くのである。

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