私は八月号で岸田さんより指摘されたしんしんの釈明をした。そのときに感じたのであるが、重ね詞というのは永嘆ではないかと思う。ますますとか、いよいよとかいうのは心情に関わる主観的なものであるが、あかあかとか、あをあをというのも単なる字生ではないように思う。重ね言葉は非常に強い言葉であるといはれる。例えば青いと青青は何の違うのであろうか。強いとは何うゆうんとなのであろうか。私は青いは単に対象の視覚的映像であるに対して、青青は映像の青が青自身を深めてゆくものがあるように思う。ゲーテがバラの花を見ていると花びらの中から花びらが生まれたというように、青の中に青を生んで視野を青で溢れさすような力があると思う。私は永嘆というのはそのようなものではないかと思う。ソレは例えば青い草の命の力であると共に、作者の言葉として作者の命の表れである。そこに対象のより明らかなるものを見ると共に作者はより深い自分に至るのである。私は短歌が永嘆であると言はれるとき、永嘆とはそのようなものでなければ鳴らないと思う。製作に於いて対象と作者は唯一生命を見出してゆくのである。対象を見ることが自己を見ることであり、自己を見ることが対象を見ることである。対象をより明らかに、より深く見ることである。対象をより明らかに、より深く見ることが、作者がより明らかに、より深くなってゆくことである。それは無限のはたらきである。それは対象を見ることが自己を見ることであり、自己を見ることが対象を見るものとして自己の想意によるのではない。世界が世界を見るのである。はたらくとは世界がはたらくのである。そこからの永遠の呼び声が永嘆であると思う。永嘆というものがあるのではない。創作の底に現れてくるのである。そして底に現れたるものとして底より我を呼ぶ声となるのである。
勿論、重ね詞が永嘆を表すといっても、重ね詞を使えば直ちに永嘆としての短歌が出来るものではない。強い言葉を使うにはそれだけ対象への目の透徹が必要であるかと思う。見るということは視覚の構成である。私達は同じものを見ても表現を異にする。一つのリンゴを描く十人の画は異なり、作る歌は異なる。それは一人一人が視覚を構成するかこの丁吏を異にするからである。重ね詞が永嘆であるとき、目は個個のものを超えた個個のものを見るものとならなっければならないと思う。人類の目として、全生命の目として見るものでなければならないと思う。全生命のよろこびかなしみの目とならなければないと思う。一匹の蟻の生命もそこより見るのである。流るる水もそこより見るのである。私は重ね詞は強い詩的表現の手段であると思う。唯それが適切なる場合に於いてである。そのとき重ね詞は内より口を衝いて出てくるであろう。