日本の形としての「間(ま)」について

日本の芸術は間が重要な要素を持っているとか、日本の表現は間の表現であるとか言われる。間の表現とは如何なることなのであろうか。そのために先ず間とは何かを問うて見たいと思う。広辞苑を開くと「①物と物、または事と事とのあいだ。あい。間隔」と書いてある。しかしこれだけではとても芸術として美的表現を担うとは考えられないと思う。表現となるためにはこの上何等かの意味が付け加えられなければならないと思う。

何時何処で読んだか忘れたが、私達は手の届く範囲に知らない人が来ると不安を感じ、警戒心を持つと書いてあったのを思い出す。そう言われてみるとそのように思う。私達の生存は他者と関り、環境と関るのである。他者や環境は否定的に対するものとして死を持って距たるのである。そこにはおのずから生の姿勢の発現があると思う。手の届く所に来た時に警戒心を持つということは距離と発現に様々の比例関係を持つということであると思う。そこに情緒は無限の陰影を持つのであると思う。西洋舞踏の如く動的なるものを本来とするものはさて置き、動きの一一が完結としての形を持つと言われる日本舞踏に於いては間というのは重要な要素をもつと思う。形の完結とは対立するものがひとつの情緒に統一されることである。手の届くところに知らない人が来た時に警戒心が起きるとは、知る人が来た時には親愛感が起きるということであろう。そしてそれが離れて行く時、前者に対してかすかな安堵感を持ち、後者に対してかすかな淋しさを感ずるのであろう。形の完結というのは警戒心・親愛感・安堵・淋しさをその一点に表して次の動作に転ずるということである。動きが線ではなくして点より点へ転ずるのである。一点一点が内と外との統一としての形を現わしていくのである。そこに間の出現があるのである。感情を軸として間が身体をあらしめ、身体が間をあらしめるものである。以上を表現に於ける空間的な間とすれば、間を持たすというのは時間的な表現であると思う。そしてそれは感情の強度に関ると思う。強烈な情調による密度高い形の成立は、それが観客に十分沁み入ることを要求する。山場とか、見せ場と言われるものである。そこに持続が要求せられる。それが愛とか死の場面であったら容易であろう。それは本性的にもつものである。しかし万感を胸に抱いて一人立っているような時持続は演技力を要すると思う。間抜けという言葉があるが間の持続の途中で力の抜けたことであろうか。

剣道に於いては間というのは決定的な重要性を持つと思う。試合などの本を読むと十分に間合いを取ると言った言葉に出合う。私は剣道について知るところは一つもないが、間合いは相対する人の力量によって定まるのではないかと思う。恐らく当事者の脳裏にはその狭い空間には剣の乱舞があるのであろう。自分の跳躍力、剣の長短が決定するのであろう。舞踏や芝居の間が情動の空間であれば、剣の間の空間は力動の空間であると思う。剣を構えて静止する空間は無限の動を孕んで静止する空間である。一寸の間の取り違えは生死を分つのである。剣を表現の形とするのは無理かも知れない。しかし剣が剣の道となり、剣褌一致となったのは剣が間を介して発展していったところに遠由を有するのではないかと思う。間を置いて自己をはかり、他をはかるところに普遍の道が展かれるのである。形が世界として様々の形が生れるのである。そして目が世界に転じ、活人剣が生れるのである。

墨絵は描かれていない所が描かれているという。それが墨絵の味わいの極致であるというのである。描かれていない所が描かれているとは、描かれているものがその対置に於いて空白の部分を生動あらしめているということでなければならない。しかし描かれているものが描かれていないものを生動あらしめることは出来ない。そのことは逆に描かれているものは相対するものであり、描かれていないものはそれを包んでそれをあらしめるものであり、包んでいるもの、即ち描かれていないものの生動の影として描かれているものが生動をもつのであり、それを返照して描かれていない所が生動をもってくるのであると思う。ここに描かれているものに対して描かれていないところは天地の意味をもってくるのである。私は斯かるものとして描かれていないところは描かれているものの根元といった意味を持っていると思う。描かれているものがそれによってあるものである。それは宇宙とか全存在とでも言うべきものである。私は文人画といったものでも余白を描くものは全て斯かる意味を持つものであると思う。そして間としての表現の至りつくところはそこにあると思う。

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