平常底としての短歌

私は十二月号の一首抄で禅家の平常底と短歌を言った。今朝正法眼蔵を読んでいるとそれに適切な例があったので書いてみる。原文は慣れないと読み辛いので私なりの解釈とする。

雪峰の直覚大師の近くに一人の僧が草庵を作って住んでいた。年月が過ぎても髪を剃らず、どのようにして生活しているのか誰も知らなかった。自分で一柄の木杓を作って、渓ほとりに行って水を飲んでいた。

だんだんと日が経つにつれてその人のことが人の口にのぼるようになってきた。ある日僧が来て、庵を結んでいる僧に「いかにあらんかこれ祖師西来意」と尋ねた。祖師西来意とは、達磨大師が苦難を侵して印度から来た志は何であったかということである。庵主はそれに「渓深くして杓柄長し」と答えた。尋ねた僧は意味が解らなくて礼もせずに帰って行った。そして山に登って雪峰に尋ねた。雪峰は「大変に良い。言葉に言い難い迄に良い。それであれば自分が行ってみよう」と言った。それから雪峰が行って道得の深奥を開演するのであるが、本論に関わりがないのでここで打切る。

水を汲むものにとって渓が深ければ柄杓の長いのは当然である。何故に雪峰はそれを激賞したのであろうか。私はそこに生命の大用の現前とでも言うべきものを見ることが出来ると思う。砂地に生えた草木は根を長く伸ばすと言われる。水の保有力の少ない砂地の水のある所に届かんが為である。柄杓の長いのはそれと同じ原理である。日蔭の草は太陽を求めて長く伸びる。私達の働きは斯かる大用の無限の内面的発展の上にあるのである。日日の働きは斯かる大用の現前にあるのである。私達が当然とするのは大用の現前なるが故である。

私は短歌とは斯かる日常の底に流れる代用を言葉に捉えることにあると思う。言葉に捉えることはそれを発展せしめ、豊潤ならしめることである。流した涙を言葉に捉えることは心をより深くあらしめ、交した微笑みを言葉に表わすことは内面をより豊かならしめることである。白菜を漬けた、畑の土に鍬を打ち下ろした等、全て言葉に捉えることは喜び・悲しみをより大きく開いていくことである。呼び交すことによって根底に入っていくのである。

庵主は唯「渓深くして柄杓長し」と言った。私はそこに東洋的把握がると思う。僧は解らず、雪峰は讃えた。境地に至ることによって感応道交するのである。全生命に於いて会得するのである。感応道交は短歌に所謂共感である。私は短歌とは斯かる東洋的把握に於いて日本語がその調べに於いて形をもった表現形式であると思う。判断によって会得するのではなくして体得する世界である。勿論知識を軽視するのではない。知識も亦そこから来るのである。体得の世界は冷暖自知の世界であるつねって痛さを知る世界である。私は短歌も亦そこに系譜をもつと思う。感情とは湧く涙であり、出でくる微笑みであり、躍る血潮である。嬉しいとか悲しいとかはそれを記号で捉えたものである。抒情とは斯かる感情の出で来ったものを生命の営みの中より放り出してより豊かな感情を見出そうとすることである。それは事実として具体である。短歌の表現が何処迄も具体に即さなければならない所以である。嬉しいとか悲しいという言葉は結んでしまう言葉である。観念は感動の生動をそこに断ち切るのである。「渓深うして柄杓長し」である。

付記 本文は正法眼蔵三十三、動得を読んで書いたものである。深大な宗教的体験をもたない私が果して正しい理解をなし得たか疑わしい。唯私は上述の如く解釈し短歌に結びつけたのである。知見の方の御叱正を賜らば幸甚である。

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