定型と自由

コップの中に水を入れて塩を加えていき、一定の濃度を越えてくると結晶を作り始めるそうである。そしてそれは塩の形以外の何物でもないそうである。私は現れ来ったものは全て斯かる結晶作用によると思う。人間の創作の如きも斯かる形の自覚として、斯かるものの上に築かれたものであると思う。

私は短歌の五七五七七の三十一文字による定型も斯かる結晶作用に於いて捉えたいと思うものである。それは叫びと言葉の境も定かでなかった太古より環境と対峙し、恐怖と安堵、喜びと悲しみの中に熟成・発展して行った声であると思う。戦争やら耕作、集団と個の分化による感情の飛躍の中からおのずから構成され、調ってきた言葉であると思う。結晶作用とは斯かる経緯を介して一つの形を成就していくことである。環境と対峙するものとしてそれは風土的形成である。私達を取り巻く山河風水の中に生きるものとして、最も緊密なる姿を作り上げていくことである。私達の身体は日本の風土を衣食住の環境として、最も緊密なる身体を作り上げているのである。外遊したら日本の食事を恋うと言われる所以である。私は前に生命の静的なるものが身体であり、動的なるものが情緒であると言った。私は日本の生命の無限なる活動を短歌の定型に捉えたいと思う。私はそこに日本の感情を飛翔し、沈澱するのであると思う。

昔小野十三郎という詩人がいて「定型は奴隷の韻律である」と言っていた。しかし私はそう思うことは出来ないと思う。私達はホモサピエンスとして同一の身体を共有する。私は人類の普遍の根 をそこに求めるものである。人類的普遍を有するものとして、自由とは自己の内面を最もよく表現することが出来るところにあると思う。私は国際化の進むところ、特殊なるものの深奥が照らし合うところに世界詩が成立すると思う。日本も、アメリカも、中国も、ドイツも特殊である。

 

短歌や俳句を作るとはどういうことか、私の考えを申し上げたいと思います。私達は生れてきたものです。生れてきたとは生きるべく現れたということです。生きるとは死をもったものが死と戦って自分を現わすことです。営みとは死に打克つ努力です。私達はそこに死の方向に悲しみをもち、生きる方向に喜びをもちます。この喜び悲しみを言葉に表わすのが短歌や俳句であり詩であると思います。それではこの言葉に表わすとはどういうことであるのか。例をとって申し上げますと「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」という短歌があります。私達はこの歌を読みますと故郷を眺めて流した仲麻呂の涙が私達の目に湧いて来ます。千年の時間を越えて涙が直につながるのです。私は人類が一つのものであり、その現われであると思います。そしてこの人類の一つの命に於いて私達があることだと思います。仲麻呂の涙が私達の目に湧いたように、私の涙が私でない人の目に湧くのです。流れ合う涙があり、交し合う微笑みがあるのです。そこに私達はあるのです。ゲーテは「永遠に女性的なるものわれを導きてあらしむ」と言っています。私はこのわれをあらしむものを人類一つの命に見たいと思います。流れ合う涙、交し合う微笑みに見たいと思います。そしてそれは言葉に表わすことによってあるのです。お互いに明日からも作りたいと思います。

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