全能について

神は万物存在の根源であり、全てあるものは神によって創られ、全ては神の内容であると言われる。神は創造主として、自己に摸して世界を作ったと言われる。神の第一義は全能であると言われる所以であると思う。斯かる全能の意識は何処から生れたのであろうか。神が全て創造者であるとき、それは神の自己省察からというに他ならないであろう。しかし意識は既に形として出現したものであり、神の自己創造という場合にも、それが出現すべき所以のものがなければならない。無よりの創造と言っても出現した形が無かったのであり、それに転じ、出現すべきものがあったのでなければならない。新たな内包と外延を有する形に転ずるものがなければならないと思う。

生物の本を読んでいると細胞の全能性というところがあり、「細胞が成体を形成するすべての組織や器官に分化できる能力で、分化全能性ともいう、動物では、受精卵は全能性を持つが、発生が進み、細胞が分化するに伴い全能性が失われる。以下省略」と書かれていた。即ち細胞において全能性とは、細胞がその属する生命形態の組織や器官の何にでも成れる能力であり、その能力を分化以前に於いて所有するということらしい。未分化の状態に於いては、その全体が一つの生体の完結を持ち、各細胞はその何れにでも成れるということらしい。各細胞がその何れにでも成れるということは、各細胞が成体像を持つということである。各細胞が成体像を持つということが全体が完結像を持つということである。斯かる成体像を持つものが、その有する成体像への発現を見るときに、一々の各細胞は成体像を失うのである。手は手、足は足の細胞に特化して、手の細胞は足の細胞にならないというのである。

私は神の全能と言われるものも、斯かる生命細胞の上に成り立つものではないかと思う。私達は全てを世界として持つ。全てを創ったとは、神は世界を創ったということである。世界創造の神話は殆どがその原初を混沌に置く。それは暗い液状のようなものの中から生命が形として生れたということである。混沌とは何か。単なる液体は混沌ではない。亦既に形を成すものも混沌ではない。私はそれは生命質とでも言うべきものであると思う。卵の細胞が成体の何にでも成れる素質を潜めつつ、まだ器官の如何なる形をも持たないと言うが如きが混沌であると思う。それは単なる漂いではない。その中に生と死を潜めた漂いである。混沌というのは既に、その中に生と死の暗闇を持つものであると思う。それが分化によって全能性が失われるとは、分化による特殊化に於いて、特化されたる器官の発展の方向に可能性の無限が転移したものであると思う。全能性が器官の発展に転化したのである。それは生命の全能性の消失である。しかし私はそれは全能性の消失ではなく真の神の全能性になったのであると思う。生命に於いて全能性はそこに死ぬことによって新たな全能性として生れ代わるのである。成体は形の完成によって衰えて死んでいく。而して全能性を捨てて成体化した生命は新たなる生命を生んでいくのである。新たなる生命は全能性を持つものとして生れるのである。

生命は環境に作られ、環境を作るものとして自己を形成していく。生れるものは先人の作った環境の中に生れるのである。環境は死を以って迫るものであり、絶えず変化するものである。環境を作るとはそれを生に適合させることである。食料を栽培し、衣服を織ることである。環境の変革は技術である。環境の変化に対応する技術は、作られた環境の中に生れた全能性が成体となることによって形成していくのである。創造は常に混沌への回帰と形相の発展と死によってもたらされるのである。生れるとは混沌からの出現として形相的に零からの出発である。それが常に生れた世界の形相を受けて新たなものをつくり、新たな世界を創っていくのである。全能性の無限は消えて新たな世界形成力として働くのである。世界は無数の生命の出現に於いて世界である。斯かる無数の生命の形成力として、全能性と形成力は矛盾しつつ相即するものとして世界は形成されるのである。私はここに神の創造があると思う。全能とは世界の自己創造ということである。

私は斯かるものとして、人間は人間の自己形成力、蜂は蜂の自己形成力に神の全能を見たいと思う。環境を変革して主体化し、身体の延長として環境をあらしめることは、環境を身体に於いて見ることである。身体に於いて環境を統一することである。環境を身体に於いて見る時に、環境は整正たる統一体として我々の前に示現するのである。それが主体化であり、そこに環境は世界となるのである。人間が環境を主体化するのは製作的である。環境を物として、物に自己を見ることによって主体化していくのである。物に自己を見ることが整正たる統一体となることである。而して環境を統一体ならしめることによって主体も亦自己の統一を確立するのである。斯かる究極にあるものは、身体の統一が世界の統一と相即し、身体即宇宙となるのである。創造は全能性と形成力の矛盾的一として動転し、全存在の根源となるのである。

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