作歌に即しての芸術表現の考察

私の所属するみかしほ短歌会では年一回の吟行旅行を行う。日常の中に埋没して鈍磨しがちな感覚を、新しい風物に触れることによって鋭くし、創作力を高めようとすると共に会員相互の親睦を計ろうとするの狙いである。併し目に新しい景色に嘆声を発しながら即詠というのは中々難しいようである。私たち山中に住む者が海辺に出ると果てしない紺碧の広がり、鳥の緑を縫って走る白塗りの船など全てが詩のように思える。誰も同じ思いなのであろう。ノートとペンを持って思い思いに逍遥している。「出来たか」と尋ねると大概の者が「いや一首も出来へん」と答える。それは何時の旅行も大同小異である。それでは吟行旅行は無為な企画かと言うとそうではなくて、翌月のみかしほには皆さんの堂々たる作品が並んでいる。直接に目に触れる時よりも家に帰ってからの方が歌が作れるようである。それは何うゆことなのであろうか。私はこの問題を追及する前に、見るとは何うことかをたずねてみたいと思う。

禿鷹は三千来の高所にあって地上をありありと見ることが出来る。併し見るのは野ねずみのみであると言われる。鯛は深海にあって人間の五千倍の明らかでものを見ることが出来ると言われる。併し見るのは敵と餌となるものだけであるそうである。生物の機能は生存すべくはたらくのである。生命は内外相互転換的である。外を食物的環境として収穫し、喰うことによって身体と化し、生命を形成してゆくのである。環境は収穫によってわれわれが生きる所として我ならざるものである。それをわれとすることによって生きるのである。私は目とは斯かる内と外、我と食物を繋ぐ生命の機能であると思う。内外相互転換としての内の身体が外との関わりを持つべく身体を切り拓いたものであると思う。外はそこより流れ入り、内はそこより流れ出るのである。そこに生命形成のはたらきは生まれるのである。『心そこにあらざれば目前にあるとも見えず』という言葉がある。私たちが見るとは漠然と見るのではない。注意作用に於いて見るのである。注意作用は生命形成の内的欲求より生まれるのである。内的欲求とは身体よりの要求である。動物はそれを個体保存としての食、種族保存としての性に持つ。それに対して人間は丁吏的形成である。技術的である。技術的とは無限の過去の経験が現在に蓄積されていることである。われわれの身体は手を持つ身体であり、言葉を持つ身体である。言葉は記憶として無限の過去を持つところより生まれ来たったのである。手は経験の蓄積として物を製作するところより現れ来たったのである。われわれが見るとは、斯かる身体の要求として見るのである。無限の時間を内に蔵し、制作するものとして見るのである。無限の時間はその一々に表象を有し、製作はその表象より現在の要求に於いて選択し結合することによって新たな現在の表象を樹立するのである。われわれが見るとは単に対象を見るのではない。現在の形相を見るべく注意作用を持つのである。否対象そのものが内外相互転換の内容として、現在の生命形成に参与するものとしてあるのである。

私は短歌の創作も斯かるところにあると思う。見るとは現在の表彰形成として見るのである。現在の表象形成には無限の過去の表象の選択と結合を持つのである。それが短歌に於いては万葉であり、古今であり、新古今近であり、字生であり、象徴である。人麻呂であり、赤人であり、実朝であり、定家、俊成であり、子規、茂吉、白秋、佐太郎であり、更に無数の古今、現在の歌人である。更に縁暈として西洋語であり、漢詩であり、世界各国の詩、哲学、小説、宗教、随筆である。あらゆる文字、思潮、社会形態である。或は私はその中の一つも知らないと言われる方もあるであろう。もちろん誰もその全てを知るものではない。併し世界はその全てを包含するものとして、その動転に於いてわれわれに生存の対決を迫ってくるのである。われわれは世界の中に生き、世界を映すことによってあるものとしてそれに対するのである。われわれの意識は世界意識を映すことによってあるのである。世界の現在の動きを映すことによって現在の行為を決定するのである。見ることも斯かる行為の中の一つとして見るのである。注意作用は行為に於いてあるのである。見るとは自己の現在が世界の現在として、世界の現在が自己の現在として自己形成的に見るのである。製作的生命として社会活動的に見るのである。短歌を作るのも短歌の世界の中の一人として面々早退するところより作るのである。我と汝そして無数の彼の作歌するもの歌の世界を作るのである。そしてそれは現在の世界を作り丁史的現在を現すということである。

私は吟行旅行に於いて様々なものを見ながら歌が作れないと言うは本当に見ていないのであると思う。本当に見ていないとは自己形成としての目がはたらいていないということである。家に帰って暫くすると歌が出来るというのは真に見るということが熟成されたのであると思う。対象を離れて一人となることによって、無限の表象が対象に集合し、取捨選択されて結像を持ったのであるとおもう。もちろんそれは直観的である複雑な過程を経るのではなくてイメージとして現前するのである。イメージとはこの我に現れた世界像である。それは世界像としてこの我ではない。而してこの我によってのみ現れるものとしてこの我である。それは無限の過去の蓄積を持つものが現在の内外相互転換の一時点に於いて出現した世界像である。私はそこに見るということの完成があると思う。短歌は文字によって表現されるが故に選択は言葉によってされ、文字によって結実するのであると思う。歌人は作歌に於いて見ることを完成するのである。作品は凝固せるイメージである。一人居るときに作品が出来るというのは、素材に面している時は素材に目が奪われて無限の過去の表象を有する自己の生に表象の結集として選択が出来ないのである。素材を離れて一人になった時自己の生による素材の展望をもつのである。展望をもつとあh、過去の無数の歌人のイメージの結像としての作品、過去の自己の作品が表象として結集し選択されて素材と自己の唯一結像が実現するのである。斯かる実現が作品である。故にわれわれが歌を作るとはこの我が作るのであると共に、無数の過去の家人への応答として作るのである。イメージは無数の表象の呼び文として生まれるのである。斯かる応答は一人となることによって持つのである。素材としての外に向かっていた目は、一人となることによって内に向くのである。内に向くとは過去の無数の表象の統一体としての自己に向くことである。そこに内と外が一つになるのである。イメージが生まれるのである。作品としては現在の内外相互転換を素材として一体としての自己に摂取したということである。それは飯を食って身体を作ると軌を一にするものである。

私は斯かるイメージは内面的発展をもつものであると思う。イメジには内外相互転換の結像としてあるものであり、転換は一つの完結体でなければならない。そのことはイメージもまた完結体でなければならないことである。それに対して発展は次のものへの連続をもつことである。斯かる発展は如何なるものであるか、私はそこに呼ばれるということがあると思う。多くの人々は同一の環境、風土の中にあって集団生活を営むものである。技術は集団の中より出で来たったのである。技術は環境を人間の生存に合わせて変革するものである。環境の変華はまた人間の間柄の変革を伴う。情緒は身振りとして身体の行動に相即するものである。内外相互転換の身体の現われが情緒である。間柄の変革は新たな情緒が生まれることである。それが人間の生存に合わせて変革するとき、その行動を多様にあわせてより大なる情緒をもつのである。変革を担うものは前にも述べた如く言葉であり手である。より大なる情緒が言葉に現れた時に詩が生まれるのである。それは一人の天才に形成的生命がおのずから具現するのである。世界の底から湧き出てくるものが一人の天才を衝き動かすのである。呼ばれるとは同じ風土、環境にあるものとして、その詩を聞くことによって自己の内深きものの目覚めをもち、自己の情緒による世界表象をもつのである。自己のイメージを持つのである。情緒に於いてより大なる生命に参加せんとするのである。動物に於いては一匹がよく全種を代弁する。併し技術的形成としての人間に於いては一々がその端末を有するのみである。而してイメージは一端末が世界に繋がるところより出てくるのである。呼ばれるとは他社の異なった自己が同じ世界の形成者であるところより来るのである。私はそこにイメージの内面的発展があると思うのである。短歌は日本的風土に生まれたイメージの発展である。古今は万葉の連続ではない。変革された社会の世界感情によるイメージの出現である。古今的イメージを万葉的イメージより喚起されるのである。斯かるものとしてイメージの内面的発展は植物の成長の如き形をとるものではない。多様の統一の形をとるのである。

ホモサピエンスとして現在の人類は全て六十兆の細胞と百四十億の脳細胞を持つと言われる。人類は幾万年に亘って同一の構造をもつ生体である。風土としての自然も長年月に亘ってほぼ同一の構造を持つのである。われわれの営みは斯かる構造をもつものの日々の繰り返しである。われわれの営みの根底には大なる同一があるのである。技術をもつとは斯かる繰り返しが蓄積として変革を持つということである。繰り返しが変革を持つとは、営みが営みの中により大なる営みを持つということである。斯かるより大いなる営みにイメージが生まれるのである。私たちは日本人的特質と、日本風土に営みをもち、はたらくことによってより住み良い世界を作るところにイメージがあるのである。内に新たな映像を作ることが出来るのである。同一なる主体と環境が否定と肯定によって新たな自己像をもつそれがイメージである。故にイメージの根底にはより大なる世界への歩みというものがなければならない。そこには常に同一なる主体と環境が、主体と環境の対立に於いて新たな相に転じてゆくということがなければならない。斯く転じてゆくものが経験の蓄積としての技術的製作である。世界が自己の中に自己を見て行くのである。そこに内面的発展があるのである。

私は作歌ということも斯かるものであると思う。明石の浦の歌は柿本人麻呂がもったイメージを言表したものである。私達ははその歌を読んで明石の海に対したとき、海は単に眺めた時より深い情緒の内容となる。航く船、霞む島に対して様々の感慨が生まれる。言葉を加えた目となるのである。併しそれは人麿の持ったイメージと同じではない。距てた時間の持つ変容に於いて生まれたイメージである。喚起されることによってわれわれは現在に生きるイメージを持つのである。否イメージとして現在の自己が顕現するのである。もちろん喚起されるということはそれによって内なるものが覚まされるということである。そこには人麿のイメージの再生ということがなければならない。作品の言葉が宿すイメージの追体験ということがなければならない。併し距た時間はわれわれの目を人麿の目とならしめることは不可能であると思う。もし人麿と同じ目を持つことが出来るとしてもそれは唯、形成的生命の無駄に過ぎない。私は過去のイメージによって新たなイメージが喚起され、喚起されたイメージが更に次のイメージを喚起するのをイメージの内面的発展というのである。

イメージが内面的発展をもつには現れるものが全て異なったものでありつつ一なるものがなければならない。呼び呼ばれるのは一つの共通の世界にあることによってのみ可能である。一つの世界を作るところにわれわれは呼び交わすのである。私は斯かる同一が前に書いた根底的同一であると思う。根底的同一の上にあるとは、根底的同一の現れであるということである。呼び交わすとは根底的同一が自己の中に自己を見てゆくのであり、内面的発展とは根底的同一の自己形成である。われわれは斯かる根底的同一を日本的特殊として持つのである。呼び交わしは世界がするのではなくして我と汝がする。それは形成として空間を持つ。それが日本的風土に生きるわれわれの形成である。同一の風土、同一の生体のもつ営みは無限の繰り返しである。日々、年々の繰り返しである。蓄積は斯かる繰り返しの上にもち得るのである。イメージは繰り返しのもつ蓄積の映像である。呼び呼ばれる形成の声は斯かるイメージより出てくるのである。それは変化に於いて根底的同一が自己が自己を見る現われである。時間、空間は根底的同一が自己を見る内容である。一々のイメージは根底的同一の顕現として時間、空間を超えるのである。超えるとは内に持つことである。そこに永遠があるのである。イメージがイメージを喚起するとき、そこには時間、空間を超えた同一があるのである。縄文土器がわれわれのイメージを喚起する時、縄文土器は永遠の現在として生命の息吹を持つものとなるのである。

イメージがイメージを呼ぶとは、一つの形を決定することである。風土と人間が内外相互転換的にあるということは形を持つということである。風土と人間と言うことすら自己が見出た自己の形としてあるのである。風土と人間が内外相互転換的に形成するということは、風土と人間が映し合うことである。風土が環境として、人が環境を映し、環境が人を映すということがものの形が生まれるということである。製作的生命として獲る、争うといったことに古来より幾多の形が生まれたであろう。その中から最も合理的なもの、簡単にして効果的なるものが選択されてきたのであろう。斯かる形は二つの方向をもつということが出来ると思う。一つは環境的方向としての物の形成である。一つは人の方向として主体の形成である。人は環境を映し、環境は人を映すものとして、物の製作は新たな主体の組織を要求するのである。新たな組織に生きる者は新たな行動を持つものとして新たな感情が生まれてくるのである。そこに新たなイメージが生まれてくるのである。斯かる組織が無限に内と外を映し合うものとして発展を持つとき、そこにおのずから言表の衝動が生まれてくるのである。斯かる言表が主体の形である。形は固定されたイメージとして新たなイメージを呼ぶものとなるのである。

最古の残された文字は詩であると言うのを読んだことがある。昔宮廷詩人というものがあった。宮廷詩人とは、帝王の徳を作るために詩ったと言われる。詩うことそのままが帝王の徳になったと言われる。帝王とは新しい生産体制の統率者である。帝王を詩うことは生産社会の主体を見出すことである。詩はれた様々の徳は生産の発展が主体に要求するものである。そこに沸き出でてくる無限のイメージがある。生産の増大は帝王の威徳の増大である。もちろんこの場合、帝王とは一個人としての人間ではない。生産の主体面を象徴するものである。見出された形は生産の増大と共にイメージを生み、イメージは形へと転化されて更にイメージを生むのである。私は二本の短歌も斯かる展開を持つのであると思う。帝王の徳は更に拡大されて自然も亦其の徳を帯びることとなり、人間全てが愛を持つものとなったのである。私は斯かる生命を育てるものが日本に於いては和歌であったと思う。それは初め誰かが作った。そしてその型式は日本の風土に生きるものの情感を最も表しやすいものだったのである。最も豊かにイメージを生み、育む型式だったのであると思う。イメージより生まれた形は逆にイメージを生むのである。斯かるものとしてわれわれは歌を作り、歌はわれわれの心を作るのである。形は根底的同一が自己自身を見るのである。

イメージは内的表象であって物ではない。それは内外相互転換としての内の方向の展開である。具体的生命形成が内が外を映し、外が内を映すものであるとき、何処までも外を映す内としてあるものである。内が外を映し、外が内を映すのが、無限に蓄積的であるとき、内の無限の発展が外となり、外の無限の発展が内となるのである。外が内の無限の発展をもつとき物が生まれ、内が無限の発展を持つときイメージが生まれるのである。世界形成は外によってあるのでもなければ内によってあるものでもない。何処までも内外相互転換としてあるのである。相互転換とはお互いが自己自身の発展をもちつつ、自己自身の発展がお互いの発展となるのである。物が物を作り、イメージがイメージを生むのである。而して物が物を作ることがイメージが生まれる基盤となり、イメージがイメージを生むことが物が物を作る基盤となるのである。イメージは歴史的形成の根底的同一が変化を映す方向に、物は変化が根底的同一を宿す方向に成立するのである。

故に歴史はその本質に於いて、物の形成にあり、変化、変遷にあるのである。過去の中に葬られてゆくのである。それに対してイメージは呼び合い、語りかけるものとして時を超えるのである。物が朽ちてゆくのに対し、イメージは生に連なるものとして、生まれ来るものと呼び合うのである。何万年か前にネアンデルタール人が墓前に初めて花を捧げたときより人間は人間になったというのを読んだことがある。涙に於いて、微笑みに於いて、われわれは時を超えた直接のイメージを交わすのである。呼び交わすことによってわれわれはより明らか、より深いイメージを持つ。他者の涙、他者の微笑みを見ることによって。涙や微笑が自他を超えた全人類の深さより来るのを知るのである。そこに自己の内より情感は溢れるのである。それが表現であり芸術である。私は芸術は歴史の変遷に対して朽ちざるものとして、時の変化を永遠より裏打ちするものとして物と共に歴史的形成を担うものであると思う。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください