観念と具体、並びに批評について

前三月号に於いて私は観念は具体を根源に持ち、具体は観念を根源に持つと言った。根源に持つとは、それによってあるということである。今一度別の角度から観念と具体を考えてみたいと思う。そしてその立場から批評ということを考えてみたいと思う。

過日二、三の友人と画の展覧会を見に行った。帰りに誰かが「久し振りに目の正月をした」と言っていた。目の正月をしたとは、見ることによって楽しみを味わったということであろう。見ることは視覚がさまざまの内容を加えることであり、それが見るものの命のよろこびである。展覧会に於いて華麗を感じ、豪壮を感じて、我々は内面に更に大なるものを加えたと感じたのである。併し画家は華麗を描き、幽玄を描き、豪壮を描いたのではない。花を描き、山を描き、滝を描いたのである。対象の筆意を動かすものを色彩と線に追い求めたのである。私はここに観念と具体の真実を見ることが出来ると思う。製作の方向に具体があり、鑑賞の方向に観念があるのである。それは亦表現の動的方向と静的方向であると言い得ると思う。具体と観念が相互根源的であるとは、具体と観念は根源を表現的生命に持ち、表現的生命は具体と観念の動と静に自己を実現することである。

私はここに批評の成立があると思う。静とは写すものである。理性の永遠の鏡に写すところに鑑賞があり、批評があるのである。製作は観念に写して、具体は愈々精緻となっていくのである。表現は歴史的創造的に深化していくのである。観念はその主体的深さを担うのである。相互限定的として作品の価値は観念の深さを宿すところにあるのである。斯かるものとして私は批評とは表現の具体的面が宿した観念を、その観念の深さに於いて露わとすることであると思う。表現的生命は無限の過去を背負うと共に無限の未来への芽を持つ。その全てを露わにすることは恐らく不可能であろう。併しそれに何処迄も入っていくのが批評家の仕事であると思う。それは製作が具体の未知の世界に入った如く、主体の未知の世界に入っていくことであると思う。オスカー・ワイルドの「批評も亦創造である」という言葉に私は深い共感を持つものである。

よく短歌で「それは読者の領域である」と言われる。それは作品の中に主観的側面として観念語の使われている時である。作品の具体による表現が失われた時である。それは観念を内に潜めるものとして具体は具体の発展を持つのであり、それが観念が表に出ることによって理性の世界に転落したということであろう。製作と批評は懸絶を持ちつつ表現的世界を構築するのである。

2015年1月7日