生甲斐 (巨勢教室)

巨勢誌も発刊以来早 号になるらしい。先日次回発行の原稿を書けと言われて、改めて幾冊かをぱらぱらとめくってみた。目に止まったのは、各号とも巨勢教室に学ぶよろこびを綴り、それを生涯の生甲斐としたいということが散見されることであった。私は読み乍ら生甲斐とは如何なるものであろうかと考えた。

生甲斐をもつとは充実感をもつことであろう。生涯の生甲斐とは、それによって死ぬ迄日々に張りをもたせたいということであろう。斯かる充実感は何処から来るのであろうか。私はそこにわれわれがそれによってあるものに触れるということがなければならないと思う。われわれがそれによってあるものとは何か、人間のみによって他の動物にないものは言語中枢であると言われる。言葉をもつことによって人間は人間になったのである。言葉は一々の行為を超えて、一々の行為を蓄積する。言葉は一々の行為のみではなく、この現身の生死を超えて人間の行為を蓄積する。私達は電燈を点すとき、見たこともないエヂソンの居たことを確信する。更に私達は化石の系譜を辿ることによって、人類が嘗て単細胞動物であったことを知る。これ等は全て言葉をもつことに由るのである。言葉をもつことによってわれわれが一々の生死を超えた大なる生命の存在を知ることは、これを逆に言えば大なる生命が言葉によって本来の相を露わにすることである。私は斯かる大なる生命がわれわれをあらしめるものであり、われわれは斯かる大なる生命の一端を担うことによって生の充実感をもつのであると思う。

生命は内外相互転換的である。外の酸素を吸って打ちの炭酸ガスを吐き、外より食物を摂って、内の老廃物を排泄するのであり、それによって生命を維持し、形作ってゆくのである。行為を蓄積するとは、死を生に転換することである。食物の欠乏は死を意味する。それを以前の経験を参考として、より大なる取得を持とうとすることである。斯かる経験の蓄積が技術である。私達は社会生活を営む。社会とは斯かる蓄積によって構成された技術の一大体系である。政治も生産も芸術も技術的であり、会話も社交も技術なくしてはあり得ないものである。

生命が内外相互転換的であり、技術が内外相互転換の上に立つとすれば、私達の今持っている技術は、生命発生以来の生命の進化によると言わなければならない。更にそれが言語中枢をもつことによって経験の蓄積をもち、技術的生産的になったとすれば、技術は歴史的創造的であると言わなければならない。歴史的創造的とは作られたものが作るものとなることである。

藤幸雄先生の所に行くと、よく多くの児童が毛筆の墨字を習っている。そして一枚書くと先生の許に持って来て「此処の力は弱い」とか「此処はもっと力を入れて」とか言って朱筆を入れておられる。亦書いて持って来ると「うん此処はよくなったが此処がまだ駄目だ」と言って別な所に朱筆を入れておられる。児童はこの まぬ一筆一筆によって上達していくようである。一筆一筆によって上達するとは、今引いた新しい線が次の線を呼ぶ力となることである。今獲得した力が新しいものを生む力となるのである。読書にしてもそうである。今読んで得た感動が次の書物を理解する力となるのである。そこに創造がある。創造とは今迄無かったものが突然現れるのではなくして、無限の過去を背負うものが一度この我の中に消え、この我の中から新しい形として生れることである。作られたものより作られたものになるとは、われわれは生れ、学ぶことによってあると共にそれが今のこの我のはたらきの中より世界の形として現れることである。そこに真の自己をもつ。この真の自己をもつことがわれわれのよろこびである。世界が技術の一大体系であり、創造の世界であるとはこのような自己によって構成されていることである。そうであるならば何故われわれは生甲斐を見出さなければならないのであろうか。

私達の日々の営みは無数の雑事の処理である。次々と現れては消えていく仕事に忙殺される毎日である。その一々が歴史的形成としての技術内容を有するといっても、それに深い査察を加えるどころではない。一日が終って心身共に疲れ、湯上りのビールに安堵の思いをするのがやっとである。われわれが充実感をもつのは、自己を形作っているものとしての世界の根源に触れることであった。その日その日の明け暮れに追われるというのは、世界が一大技術体系であるだけに却って自己喪失感を持たざるを得ないものである。喪失感とは気力を失うことである。

私はそこに生甲斐を見出さなければならない所以があると思う。そして其処に巨勢教室の意味があると思う。現代の複雑な社会に於いて世界の根源に触れるには日常の雑事から離れて、一つの技術体系に取り組むということがなければならない。内藤先生はその場所と技術を提供して下さっているのである。作られたものより作るものへとは、作られたものとして世界の中にあるものが、逆に世界を内にもつことである。毛筆が一線を引くことは、過去の世界を内容として、一つの新たな世界を作ったことである。

世界の変化とは価値観の変化であり、近代社会の急激な変化は世界と個人の離反を来らしめたようである。そこに現代の精神の荒廃を呼ばしめるものがあると思う。しかし変化は過去の消滅ではない。過去なくして現在はない。過去の上に立ってより大なる世界を作るのが変化である。変化は現在に於ける過去と未来の矛盾の上に生れるのである。そのためには失われた自己を回復するためにはより深く過去に沈潜するのでなければならない。私は近代社会に無用と思われるような書道や短歌がブームとでもいうべき状況を呈しているのは、深く斯かる要請をもつが故であろうと思う。一人一人の充実感が世界の充足をもつのである。新しい世界は常に荒廃の救済としてあるのである。そしてそれは一人一人が担うのである。

新聞によると欧米諸国の人心の荒廃はひどいものらしい。荒廃とは刹那的なものに落ち入ったということである。其の点私はわれわれの祖先が書道や短歌を作ってくれたのを感謝したいと思う。私は西洋文化が理念の顕現と言われるのに対し、日本文化は日常の洗練であると思う。私が所属している短歌部門にしても表現の目指す所は特別の詩世界を作ることではない。日々のよろこびかなしみを深めていくことである。ふかめていくとは言葉によってより細微なものを見ていくことである。洗練とは反復することによって永遠に映し、永遠の姿を帯びてくる事である。我と汝を、過去と未来を包む形を見出でていくことである。そこに私達は真個の自己に接し、充実感をもつことが出来るのであると思う。私は思いを此処に置くとき、めまぐるしい変化の中に起きるべき精神の荒廃を救うこと如何に大なるかを感ぜざるを得ない。

巨勢教室の如きは世界に於いて一微塵にも比すべきものであろう。併しそれはキリストの言う地の塩である。世の中に美しい味わいをつけてくれるものである。内藤先生の労を多としたいと思う。

 

 

2015年1月8日