作歌について

先般岡野弘彦氏が来られた。私は耳が遠いので邪魔になると思って行かなかったのであるが、その後松尾さんが紹介された記事の中に私と見解を異にすると思われるものがあったので少し書いてみたいと思う。

氏は短歌は訴えるものと言われたという。私はそこに疑義を抱くのである。私は全て形を表現として捉えんとするものである。表現とは内なるものを外に形において見ることである。内なるものとは何か。私は内を外と別にあるのではないと思う。私達は生命として、食物を摂ることによって身体を形作っていくものである。斯かる形作る働きにおいて食物を外とし、身体を内とするのである。形成作用において外と内があるのである。内と外とをもつものとして、内としての身体を形作るために外としての食物を獲得するのは努力である。外を内とする機構を身体はもつのである。そこに生命の発展があるのである。外を内とし、内を外とする機構の形成が生命の発展である。身体と食物として対立しつつ、内と外は一として形を見出していくのである。生命形成は内外相即としてあるのである。

私は人間生命を自覚的生命として見んとするものである。自覚的生命とは内と外とが対立を超えて、世界として一つの発展をもつことである。身体が技術的身体となり、物が製作物となることである。私は芸術も斯かる自覚的形成の一環として捉えんと思うものである。そして発展の方向を身体がもつ情緒の表出が、身体のもつ欲求を超えて純なる情緒の発展を見たところにあると思うのである。色が、音が、涙が、ほほえみが身体の隷属を放たれてそれ自身のよろこびかなしみの形相を展開するのである。

生命の形成は内と外の一として風土的である。私は日本の芸術は日本の風土に生命を映し、生命に風土を映した無限の形成であると思う。短歌も亦斯かる形をもつものとして成立するのであると思う。稲を植え酒を造り、領ち食べ、乏しきを嘆いた喜び悲しみが個個の事象を超えて言葉につなぎ、消えゆくものを内にもつ大きな生命を共有したところに成立したのであると思う。

私は斯かる共有は全ての人間が生命の完結をもつところにあり得ると思う。私達はホモサピエンスとしての百四十億の脳細胞と六十兆の細胞をもつと言われる。全ての人が同一の人体の構造をもつのである。斯かる同一の上に遺伝子の文字の差異をもつのである。それは一つの世界の個性としてあるということである。全ての人が生命の完結をもつということは、全ての人が自己完成をもつということが世界が自己完成をもつということである。私は全ての人が世界を映すところに短歌の発展があると思う。訴えるのではなくして共感し、相照らすのである。単に人に対すのではない。我の根底に還ることによって人に対するのである。

2015年1月8日