井上実枝子著 歌集草の雫評

この歌集を読んで第一に感じたことは、より大なる生の相(すがた)を見ようとする作者の純なる魂である。渾身の力をもって、如何に生きるべきかを問い、自己の根底に至ろうとした努力である。氏の作品はみかしほでも特異のスタイルをもっていると思う。それは氏の作品が日常から生れるのではなくして、見出したより大なるものをもって日常を光被しようとするところにあると思う。観念先行と言われるものである。作品に多く思い入れから始まるのはそれによると思う。表現は本来観念の創出である。具象とは日日の営みの中に現われ消えるものである。それを統一するものが観念である。希望、理想、愛、神、永遠等、それの反(はん)としての絶望、不安、悪魔等がそこに見られるのである。それによってわれわれは自己を見、自己を実現するのである。その観念を具象の構成によって表わすのが写生である。観念によって具象を切り取り、直下に表わすのが象徴である。私は作者は深大なるものの直下の啓示を求めて象徴的手法へ傾斜して行ったものと思う。併しそれは観念と具象との結びつきが飛躍し易い、素晴しい作品が生れると共に、言葉が空転したり、意味不明となりやすいと思う。併しそれは亦本書の魅力であるかも知れない。以下いくつか好感のもてる作品を取り上げて短評を加えたいと思う。

嫁菜草野蒜(のびる)も萌えば苦がかりし記憶の中の煮浸しの味

苦がかりし煮浸しの味というとき、当時の生活に読む者の思いを至らしめる

仁清の茶碗の絵の具に触るるときさかしき女を席に振るまう

人は神の前に無である。束間心によぎったさかしらを捉えている。その自省に作者の深さがある。

わが欲りしモヘヤのコート得たる娘の背の柔らにも撫でて足らうも枝の華やぐ

あれか、これか、迷いは近代知性の所産と言われる。枝の華やぐは作者の心象を捉えて遺憾ない。掌は手であろう。

つづまりは吾のペースぞ得体なき鳥を五色に飛ばすチギリ絵

奔放にイメージを飛翔さす作者が見える。ペースは適切でない。更な言葉の選択を

スプレーに落ち来し夜の冬蝿の動かずなりしまでを見定む

動かずなりしまでと間を置いた時間、そこに読者をさまざまの思に誘う。高度な技巧である。

孤独なる胸のうつろに聞きたがえ癒えのうちそと夫の声なし

痛切な追慕の情、私は家族的なものの中に閉息した感情は余り好きではないが矢張り心動かされざるを得ない。一句の孤独なるは捨てたい。

武器にせし竹の謂(いわ)れの藪見えて水戸邸の門朽ちて蔦生ふ

は進む竹である。武門の覚悟も時の移りに朽ちなければならない。唯対象を捉えることは、自己を捉えることに比べて易い。それだけに感動は浅い。

花のレイ健気な頬にやさし過ぎ汝は今日より看護婦となる 

社会への首途を見送る作者の安心がある。

オウム教昂り見せしテレビ消しわれはわが身にひとさしの美酒

私達は世界の中に生きる。併し世界は私ではない。私は私に生きるのである。この人間構造をよく捉えている。余り長くなると岩城さんに叱られそうなので、もう少し取り上げたいがこの辺で打切る。

2015年1月8日