茂吉の実相観入について

三浦謹一郎の著書「DNAと遺伝子情報」という本を読んでいると「シャルガフはDNAの規則性に気づいたときの思い出を『この相補的な規則性はまるでボッティチエリの貝殻から生れたヴィーナスのように見事な秩序が姿を現した』と言っている」という一章があった。私はそれを読んで目の眩むような思いがした。そして目を閉じていると、身体の中に光りが満ちてくるように思った。人間には六十兆の細胞があると言われる。その細胞の一々が遺伝子をもつのである。その遺伝子の一々が、天才の創造と等しい感動を呼ぶ整合をもつのである。生命は発生以来三十八億年の時間を経過したと言われる。六十兆の細胞はその時間の上に形成して来たものであり、われわれの身体はその見事な統一である。私は人間の三十八億年の努力はこの細胞のもつ整合の表現への努力ではなかったかと思う。

私の「初めと終りを結ぶもの」と言うのは斯かる生命の整合の自己形成をいうのである。形に自己を表していくのである。表わしていくとは内に感官を創り、外に物を作っていく事である。三十八億年の時間を斯かる形成の内容としてあるのである。私はアウグスチヌスの三位一体や、道元の草木瓦礫悉皆成仏といった深大な世界の姿も斯かるものであると思うのである。唯私は初めと終りを結ぶものをヴィーナスの光輝に於いて捉え得なかったことを告白しなければならない。私の感激はこの光輝より ったのである。併し思えばそれは私の菲才のしかしむるところで、仏教の極楽浄土の如きはそのような姿をもっているのかも知れない。併しその為には浄土は唯あるのではなく、自己実現的に働くものでなければならない。

私は短歌も亦斯かる生命の顕現として日本の風土の上に出現したものと思う。その意味に於いて私は斉藤茂吉の「大却運」に深い共鳴をもつものである。私は彼の「実相観入」もこの大却運の実践にあるのではないかと思う。それは人と物、我と他者、生と死としての現実の対立、矛盾を整合調和としての一つの姿に於いて見んとすることである。詩は歓び哀しみの言葉による把握である。その内容は矛盾・対立である。而してそれを一首の作品とすることは、一つの生命の自己実現として、一つの整合をもつことである。生命は生み、働くものである。生むとは自己でないものを作ることである。働くとは対象と戦うことである。それは矛盾である。併しそれによって生命は持続していくのである。斯かる時の統一として存在することが調和である。生れた子供によって自己があるのが調和である。故に矛盾が大なる程調和が大である。私は実相観入とはこの矛盾を直視することであると思う。その時矛盾は自己の内容として生命は大なる整合をもつのである

2015年1月8日