心眼

みかしほ九月号に片山洋子さんが「心の眼を開けば、歌の材料は目の前にいくらでもある。『目に入るものを何でも歌にしてやろう』という程の意欲をもちたいと思う。」と書いている。この何でも歌に出来る魔法の杖とでも言うべき心の眼とは如何なるものであろうか。肉体とは別に心といいうものがあって、それが眼をもつのであろうか。併し目に入るものは何でもというとき、この肉眼に見えるものということでなければならない。この目が心の眼となることでなければならない。心の眼となるとは如何なることであろうか。私はその為に見るとは如何なることかを問わなければならないと思う。

生命は内外相互転換としてある。食物を摂って身体に化していくのが生命である。食物を外として身体を内として形成していくのである。それが生命形成である。禿鷹は三千米の上空から地上をありありと見ることが出来るそうである。併し見るのは野鼠だけであると言われる。鯛は深海に於いて人間の五百倍の視力をもつと言われる。併し見るのは餌と敵だけであるそうである。目は身体としての生命形成に於いて外を内とせんとする機能である。

人間に於いては内外相互転換として形成が技術的である。技術的とは一瞬一瞬の内外の転換が経験として蓄積をもつことである。例えば狩猟に行った時に鹿が穴に落ちて容易に捉えられたとする。すると鹿を捉える為に穴を掘って仕掛を作るのが技術である。昨日の経験によって現在の行為があり、明日を期待するのである。そこに過去現在未来が生れ、人間は時間をもつものとなるのである。時間をもつとは無限の形を生むものとなることである。

人間が時間をもつものとして技術的であるとは製作するものとなることである。製作に於いて動物に於いて一であった内と外とは対立するものとなるのである。製作するとは外を変 することである。変 することは作った物が外となりそれが内に対するものとなるのである。作られた物と作るものが対立し、そこに主体と客体が成立するのである。私達が生活を営むものとして外とするのは全て何らかの意味で作られたものである。変革するとは形が変ることである。単に形があるのではない。形は機能の現れである。生命の働きの具現である。斯くして生命は形に死して形に生れるのである。常に新たなものが求められる所以である。

物と作ることによって主体と客体、物とこの我が見られるちいうことは、物も我もこの我やこの物を超えた大なるものの内容としてあるということである。製作というものを問うとき、私達は遥かな祖先を尋ねざるを得ない。祖先の淵源を尋ねるとき全生命に至らざるを得ない。この我があるとは全生命の現在の発現としてあるのである。我々が見るとは斯かる生命の自己形成として自己を見るのである。私は心眼とは自己の眼が斯かる大なる生命の目となることであると思う。

作ることによってこの我と物が現れ、それが大なる生命の現れであるとき心の眼を開く方法はひたすら作ることでなければならない。無限に形が現れて来るときにそこに真の自由を見、大なる生命の働くのを知るのである。そこは身体的欲求を超えた形が形を生む世界である、そこに真善美としての価値が生れるのである。

2015年1月8日