実験小説としての「源氏物語」

テレビの話題が続き申し訳ないのですが、今年NHKで「光る君」という大河ドラマが始まりました。多くの方が見ておられると思いますが、世界で最も古く長い恋愛小説の1つ「源氏物語」を著した紫式部の物語です。

昨年末「やばい源氏物語」という面白い新書が出版されていました。著者は早稲田大学第一文学部(競争率が高いが文系に特化した変人が多いので有名)卒業の大塚ひかりさんで、他に「毒親の日本史」「ブス論」「くそじじいとくそばばあの日本史」などがあります。

 著者によると「源氏物語」は当時としては画期的なものでまさに実験小説であるとしています。例えば、通常は美人を詳細に描写して登場させるのですが「ブス(大塚さんが述べておられるので、私はそれを引用しているだけです)」の扱いがヒドイ。美女の描写は実にあっさりしてますが、「ブス」の描写は異様に詳しく、「ブスの極み」というべき、3大「ブス」に「末摘花(すえつむはな:座高が高く、先が垂れて赤くなっている鼻、額が腫れていて痛々しいほど痩せている)」「空蝉(うつせみ)」「花散里(はなちるさと)」を挙げております。これでもかと言うほど徹底した描写をしておりますので、原文でも現代訳でもその個所を一度読んでみてください。また「霊」についてよく登場させており、それまでの物語では死霊は出てくるが、生霊(いきりょう)を登場させたたのは「源氏物語」が最初であるということです。当時は病気や精神的不調などは人に「物の怪(もののけ)」が憑いているとして、祈祷により生きた人から霊を追い出したりして病気を治していたのです。今のように抗生物質も抗がん剤がない時代ですが、祈祷で治癒する病気というのはストレスなどの精神的な要因が主だったような気がします。物語の中で紫式部は、様々な霊を「生きている人間が良心の呵責によって見られる幻影」であるとし、六条御息所の生霊が光源氏の正妻「葵の上」に乗り移ったのは、光源氏が過去に行った御息所に対するやましいことに起因する幻影であるとしています。その他、愛の確執と嫉妬、不倫は勿論、近親相姦なども描かれ、また天皇家と貴族、右大臣と左大臣、などによる政治的謀略も混じり、当時実際に存在した人々も時に実名で出てくるなど、あらゆる斬新な試みが含まれ、まさに実験小説と言えます。紫式部がテレビや著書では菅原道真公の妾(しょう、つまり愛人)であったとされており、その真に迫る描きぶりは見事ですね。

前月号本誌で小澤征爾氏のことを書きました。先日NHKの教養番組で「終わりのない実験~世界のオザワが追い求めた音楽」というのが放映されており、その中で彼は日本だけでなく世界の音楽界に対して重い責任を持つに至っているが、外国にいても常にはるか日本の音楽界へ思いをはせ、日本人が西洋音楽にどこまで挑戦できるかという壮大な実験を続けていると述べています。さらにベートーベンは当時新しい手段としてピアノが導入されると、様々な新しいリズムや旋律を編み出し、交響曲に初めてトロンボーンや合唱を取り入れ、色んな実験を行っています。その前のモーツアルトもオペラなどに革新的な試みをしています。このように新しいことを実験的に試みた先人たちの業績は歴史を超えて今も息づいております。
エベレスト山に初登頂した登山家ジョージ・マロリーは「何故山に登るか?そこに山があるからです!」という名言を残していますが、実験や新しいことへの挑戦のきっかけは極めて単純なことで「高い山に登ると見える景色が変わり、そこから見える次の山に登りたくなる」のでしょう。
アインシュタインも山中伸弥先生も「実験」を繰り返し努力した結果「相対性理論」「iPS細胞」の発見に至ったわけで、実験をして新しいことにチャレンジすることは、人間の本質である、生きていく原動力になると思います。私は今大学で大学院生の動物実験の指導を行っていますが、誰でもその機会は与えられます。ロスアラモスで原爆実験を行ったオッペンハイマーでなくても、小学生の時理科や生物の実験に目を光らせた思い出、おうちで新しい食材を使って子供たちに新たなメニューをつくる。これも実験の一つです。喜んでくれると嬉しくワクワクしませんか?
生物の自然発生し得ないことを証明するパスツールの実験「新大学生物学の教科書」より(2024.4)

絶対矛盾的自己同一

生体内では神経伝達物質など身体組織、細胞を構成する分子は常に「合成」と「分解」を繰り返しております。西田幾多郎氏の言われるように「ある矛盾をはらんだ姿が人生やこの世の実在である」。「多から一へ」「一から多へ」と部分と全体は常に逆方向に動きつつ常に同時存在的であり、またそれは空間的であるとともに時間的である、「絶対矛盾的自己同一」という西田哲学に通じる現象です。つまり、生命は合成と分解をほぼ同じ空間的、時間的に繰り返しており、このことが生命の本質であるということができます。鴨長明の方丈記冒頭「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」も生命現象の一面を物語っているように思えます。(2022.12)

Chat GPT

 私もいつもの拙い原稿を書く際に取り入れたいものですが、頭の中で浮かび上がるイメージについて自分でいろいろ調べ考えて文章を構成し最初の1文字から最後の文まで、一貫したストーリーを完成させるという人間の持つ「創造することの楽しさ」を、今や非生物であるAIごときに奪われてたまるか、と思う気持ちです。

(2023.6)

唯川恵「テテイスの逆鱗」

 以前のドイツ人や日本人のような勤勉な集団においては、ひとつの方向に向くときは全体に大きな利益を生むことが、今回の日本における「コロナ禍での社会情勢」から勉強、再確認できました。このことは、私にとっては大きな収穫となりました。例えば流行するファッション。洋服やバッグ、髪型など(私はセンスが無いのでついていっていないですが)。雑誌やHPなどで「今年の流行は!!」と出ていたら、興味を持つ方は多いでしょう。デパートの店員さんにはこう言われます。「皆さんこの色を選らばれていますよ」。

唯川恵は小説「テテイスの逆鱗」で、美に対するあくなき欲求を抑えられずに、自分の身体のあらゆる部分を「美容整形する」4人の女性が描かれていますが、このような極端な例ではなくても、医療面においてはサプリメントや薬などを勧める時にこういうと納得される方は多いようです。「皆さんこのサプリを飲んでおられますよ!」「皆さんこの〇〇を飲んで元気になったと喜んでおられますよ!!」

(2023.6)

同調行動

 5月8日から新型コロナ感染症は「2類」から「5類感染症」に法律上変更されました。これは新型コロナウイルスがいなくなったわけでも、感染力が無くなったわけでもなく、例えば担悪性腫瘍患者、免疫抑制状態にある移植後患者など、ウイルスへの易感染者が多い病棟や高齢者収容施設などでは、引き続きマスク着用や手洗いなどが推奨されています。ただ、感染した場合の重症化するリスクがかなり低下し、これまでのように社会生活を犠牲にするほど徹底的な予防は必要でない一般的な病気と同じように扱って良くなったということです。しかしながら、いまだに街中ではかなりの人がマスクをしており、街頭インタビューなどを聞くと「とりあえず今まで通りにして、周りの人の動向を見ながら徐々に外すことを検討します」という意見が多いような気がします。また以前のように「自粛警察」など他人には厳しく攻撃するような人に忠告するとの意図もあり「個人の責任にゆだねる」ようになったと思われます。

 以前、このような「同調行動」は「マーマレーション(周囲の仲間の目印やシグナルを受け取ってまとまった集団行動をすること)」と呼ぶと言いました。これは我々人間を含む動物や細胞や遺伝子など、生命現象を司るものに備わっている原始的な行動形態で「コロナ感染におけるマスク非着用者に対する自粛警察」「SNSで広がる誹謗中傷」さらに「ナチスや軍事政権」など、大きな悲劇につながる可能性があるなどと言及したことで、かなりネガティブな印象を持たれたことと思います。また作田忠司リーデンローズ館長が哲学者「ハンナ・アーレント」のことを述べておられ、私も矢野久美子著の伝記を読みましたが、彼女は何故ドイツでナチスのような全体主義が台頭したかについて、詳しく分析されています。つまり「客観的な敵」を規定することが「全体主義」の本質であるとし「客観的な敵は自然や歴史の法則によって体制側の政策のみによって規定され、これらは効果的に人間の自由を奪う」としています。一旦「客観的な敵」が規定されると「望ましからぬもの」「生きる資格の無いもの」という新しい概念、グループが出来上がり、「客観的な敵」に属さない「大多数の人々」はこれに賛同し、また「同調圧力」が加わり「大虐殺」に至ったとしています。「大多数の人々」がこのような「均一性」を自覚することが最も根源的な問題と思われますが、これを阻止するためには個々人の特性を認め多様性を受け入れれることが重要と思われます。

(2023.6)

 「ブラームスはお好き?」

これはフランソワーズ・サガンの小説の題名ですが、皆さまご存知ですか?多分、読まれたことはなくてもフレーズくらいは聞いたという方は多いと思います。「さよならをもう一度」というイングリッド・バーグマンとイブ・モンタン主演で映画化されており、自立した女性ポール(バーグマン)がお互いを束縛しないという中年男性ロジェ(モンタン)と純粋で一途な青年フィリップ(原作はシモンでアンソニー・パーキンス演)との間で揺れ動く女性が主人公の物語です。私は中学2年生の時に友人と見に行きましたが、内容(特にポールの気持ちなど)は全く理解できませんでした。唯、全体に流れるブラームス交響曲3番の3楽章が様々に変化する甘美なメロディーのみ頭に残っています。

 

ブラームスはベートーヴェンの正統派の後継者として絶対音楽を守ってきた作曲家で、チャラいオペラなどの作品は無いのですが交響曲を4曲書いています。「ベートーヴェンの幻影が背後から行進して来るのを感じる」ためなかなか交響曲を作ることができず、最初の第1番を書くのに約20年かかった話は有名です。先日大阪フェスティバルホールでこの交響曲全曲をそれぞれ関西在籍の交響楽団とその専属指揮者が演奏するという、「関西人らしいどぎつい」企画が催されました。順番は交響曲3番→4番→2番→1番となり、1曲ごとに指揮者は勿論楽団全員が入れ替わるので大変ですが、写真撮影OKでマスク着用要請やブラボー禁止令は無く、かなり客へのサービスが行き届いていました。ただ、トータルの演奏時間は4時間を超え、どの曲も美しいけど重苦しいため、終わった時には「雷に打たれた」ようにどっと疲れが押し寄せしばらく放心状態が続きました。上記の「ブラームスはお好きですか?」というのは、サガンの原作小説では若く一途なシモンがポールとの最初のデートにさりげなく誘う手紙の一文にあります。舞台はパリの「サル・プレイエルホール(パリ管弦楽団などの本拠地)」というお洒落なコンサートホールで正装をしたカップルが美しい曲を聴くのですが、これを大阪フェスティバルホールにあてはめてみると4時間近く重苦しい交響曲を4つというどぎつい関西人の毒気に中てられて、果たして最初のデートがうまく行くのでしょうか。皆さんはどう思われますか? 

(普通 4つの交響曲連ちゃんには誘わないかと!!笑笑)

(2023.5)

ブラームス交響曲第2番を演奏する指揮者飯守泰次郎氏と関西フィルハーモニー管弦楽団

男の恋愛は別名保存、女の恋愛は上書き保存

「カルメン」は男女の異なる恋愛観のため結実しない悲劇、「アイーダ」は時代に翻弄された男女の愛として終わっていますが、恋愛は男と女によって捉え方が違うようです。夏目漱石は小説「明暗」の中で「男の恋愛は別名保存であるが、女の恋愛は上書き保存だ」と言っています。ここで、その違いを生物学的見解から考えてみます。まず受精に際しては何億個もの精子が「戎神社の福男」のように1つの卵子を求めて我れ勝ちに突進しほぼ無尽蔵に作り出される精子をもって「数打ちゃ当たる」的な行動をとるわけです。これに対し卵子から見れば受精できる時期は約1か月に1度の排卵時のみで、しかも一生の間に作られる卵子の数が限られ、年齢も小学高学年から50才くらいまでです。このため卵子は優秀で健康なただ1つの精子のみを待っているわけで、大切な恋愛の時期を守り有効に選択するのです。

このようなことを休み中にぼんやり考えていると、2021年のショパンコンクールで2位と4位を受賞した反田恭平と小林愛美の電撃的結婚が報道されていました。どうやら「できちゃった婚(最近では授かり婚というようです)」のようですが、無責任な憶測はしないようにいたします。

受精に際し、唯1つの卵子に無数の精子が「戎神社の福男」のように突進する。ムーア「人体発生学」より

ドライブ・マイカー

 今年の3月濱口竜介監督「ドライブ・マイカー」がアカデミー賞国際長編映画賞を受賞しました。私は映画をまだ観てないのですが以前原作の村上春樹著「女のいない男たち」短編集の1つで読んだことがあります。その本のまえがきで村上氏は「その作品を仕上げるにあたって、ささやかな個人的なきっかけがあり、『そうだ、こういうものを書こう』というイメージが自分の中に湧きあがり、殆ど即興的に淀みなく書き上げてしまった。何かが起こり、その一瞬の光がまるで照明弾のように普段は目に見えないまわりの風景を、細部までくっきりと浮かび上がらせる。そこにいる生物、そこにある無生物。そしてその鮮やかな焼き付けを素早くスケッチするべく机に向かい、そのまま一息で骨格になる文章を書き上げてしまう。自分の中に本能的な物語の鉱脈がまだ変わらず存在しており、何かがやってきてそれをうまく掘り起こしてくれたと実感できた、そういう根源的な照射の存在を信じられる、このような体験を持てるのは何より嬉しい」と、述べています(村上春樹「女のいない男たち」文春文庫13頁)。私なりに解釈すると、芸術作品などの創作活動には小説に限らず、本能的な欲求が自身の内部にマグマのように出来てくるのが必要であるということだと思います。(2022.5)

医学小説家「久坂部羊」

 私の知り合いで医学小説を書いている久坂部羊という文筆家を紹介します。私の大学の同級生で同じヒツジ年生まれなので、ペンネームを「羊」にしたようですが、1度福山医療センターに講演に来てもらったことがあります。

 「廃用身」で作家デビュー。代表作品には「破裂」「無痛」などがあり、2014年頃からメキメキと頭角を現わし「悪医」で日本医療小説大賞を受賞。2015年には上記の「破裂」がNHK総合土曜ドラマ枠(椎名桔平、仲代達矢出演)、「無痛-診える眼」がフジテレビ水曜10時枠(西島秀俊、石橋杏奈出演)で放映されました(図)。彼には絵や文章を書く才能があり大学生の時から同級生数人と「フレッシュ・メデイシン」や「Shock(個人作)」を制作し、当時ガリ版で刷った小冊子をみんなに配っていました。ある時医学部図書館で「Shock」という循環器系の雑誌を見つけて、「同じ題名や」と吃驚したらしいですが、この時既に教養部から医学部に上がっていた彼はShockという言葉が急性循環不全などでおこる臓器障害を意味することを知らなかったようです。学生時代の冊子の中でよく覚えているのは「スリラーの現実」という企画に載っていた、透明人間になる薬を発明した博士が自分で服用して確かに体が消えたが、薬の効き目が無くなった時のことを考えてパンツだけをはいて町に出た話。包帯を巻いたミイラ男の包帯が動くたびにほどけて困った。半魚人が陸に上がると呼吸困難になる話。「その後のおとぎ話」シリーズでは、一寸法師が鬼の身体の中に入って剣で刺してやっつけるが、打ち出の小槌で大きくなるとたちまち鬼にやられた話。寝ているウサギを起こさずに先にゴールしたカメはスポーツマンシップに欠けると皆からバッシング(今ならSNSで炎上)。夏中働いていたアリは冬になっても働くことを辞められずに(今なら働き方改革をせずに)1年中遊ぶ暇がない。など。当時は「絵や文章が滅茶苦茶上手い奴やなあ」と感心はしていましたが、ユーモアと皮肉に溢れ、既存の概念や体制に反発するヒューマニズムに裏打ちされた、彼の一貫した哲学がこの頃から萌芽していたのだと思います。私以上に勉強をせずShockの意味を知らなかった彼が各賞を受け今やウイキペディアで検索できるような時代の寵児になるとはこの頃は夢にも思いませんでした。

 その久坂部氏は2016年に「老乱」という認知症を扱った小説を出版しています。以前は「痴呆症」と言われていましたが、近年では「認知症」と命名が変わり、比較的初期の1982年有吉佐和子さんが発表された「恍惚の人」が先駆け的な作品でしょう。これは徘徊老人「茂造」に翻弄される家族、特に同居している息子の嫁「昭子」の視点から描かれたものです。一方「老乱」では認知症になって最終的には介護施設に入る「幸造」の話で、構成やその内容が優れているのは負担をかけられた家族の思いと並行して徐々に病気が進行する「幸造」の心の「機微」を表現しているところです。家族が良かれと思ってやってくれる世話に対していちいち反応して起きる怒りや葛藤、諦めなど、時には意図していても正常には対処できないことへの曖昧模糊とした心の内を認知症患者になったつもりで描かれています。「茂造」は徐々に物忘れや異常行動などが出現する「アルツハイマー型認知症」ですが、「幸造」は調子の良い時と悪い時が交互に繰り返して出現して進行する「レビー小体型認知症」です。それぞれ「アミロイドβ」「レビー小体」という異常蛋白質が脳内から排出されずに蓄積され、神経細胞が死滅して正常の活動ができなくなるものです。「アミロイドβ」は高血圧、肥満、糖尿病などの生活習慣病、過度の飲酒、喫煙、運動不足などにより増加しますが、「レビー小体」は加齢による変化とされています。いずれにしても高齢化が進むと広がるもので、総務省の統計によると65才以上の高齢者は「恍惚の人」が発表された1982年では1100万人であったものが、2020年には3600万人と3倍以上に増えています(図)。有吉佐和子さんは「認知症の予防は長生きしないことです」といみじくも述べておられます。65才以上の認知症人口は2020年時点で600万人と推計され、久坂部氏は身内の介護経験が執筆の基礎となったと言っていました。私は以前身内が介護施設に入るときに見学に行った時に、立派なマンションのある階に「徘徊の廊下」といって、外の景色を見ながらぐるぐると回っていると元の場所に戻ってくるという仕掛けがあり、思う存分いつまでも徘徊出来る設備があり対応は完璧であるという、笑えない説明を聞いたことがあります。我々の世代では親の介護が、近い将来には自身の問題が現実化することになります。(2022.4)

日本の高齢者人口の推移(総務省統計トピックスNo.126より)

瀬戸内寂聴さん逝く

 2021年11月女性小説家で天台宗の尼僧であった瀬戸内寂聴が亡くなられました。

 亡くなる直前まで文章を書き続けられたということですが、このような時世であるからこそ、自分のアイデンティティーを貫かれた寂聴さんの生き方は立派であやかりたいものです。個人的には日本の伝統芸術の「能」を大成させた「世阿弥」の波乱の生涯を描いた「秘花」(秘すれば花)が面白かったですが、最も大きな仕事は紫式部の「源氏物語」の口語訳でしょう。「源氏物語」については私もかなりハマっております。

 世界で最も長い小説の1つで、最初は「はいからさんが通る」で有名な漫画家大和和紀の「あさきゆめみし」で全体像を把握し、次に読みやすい田辺聖子訳「新源氏物語上中下、霧深き宇治の恋」に移りました。田辺さんは福山市出身のお父さんをもつ、面白い「大阪のおばちゃん」ですが、原文を簡略化し構成も変えているので物足りなさを感じ、円地文子訳(桐壺から明石まで)、谷崎潤一郎訳(澪標のみ)に挑戦しましたが途中で読む気が無くなり、与謝野晶子訳に至っては最初の1頁で断念しました。

 ところが、瀬戸内寂聴訳は現代風で、歯切れも良く明快な文章で桐壺から夢の浮橋まで全巻2回通読しました。これを機に最終的には原語(古文)で「関弘子」の朗読を聞きながら遂に最後まで読み切りました。

 仕事の合間に少しずつ読むので、原文を読破するのに1年以上はかかったと記憶しています。また寂聴さんは「源氏」を題材にした小説や随筆、講演なども多く、他の古典作品にも造詣が深く時間が出来たらもう一度「寂聴ワールド」にどっぷりと漬かってみたいです。(2022.1)

感染症文学序説

 小説は人生の喜び、愛、欲望、憎しみ、悲しみ、死、戦争、革命、事件などあらゆる事柄をテーマにしておりますが、有吉佐和子の「恍惚の人」のように認知症を扱った医学的な小説もあります。前月号でリーデンローズ館長の作田忠司氏が「音楽小説」のことを書いておられたので医学の中でも感染症に関する面白い本が出たので紹介します。今の流行に因み2021年5月に発行された「感染症文学序説」という本で、著者は国文学者・民俗学者で東京学芸大学教授の「石井正巳」氏です。

 多くの文豪たちが「感染症」を重大なテーマとして書き残していますが、時代とともに作品は埋没し評価も一定ではないとし、石井氏は「それでもやはり、感染症の実態をリアルに伝えるのは公的な統計や記録ではなく、文学ではないかという思いを深くする。

 文学は確かに虚構に過ぎないが、月並みな言い方をすればそこにこそ真実があると言ってみたい。」と序文で述べています。

 私は読んだことのない原著がありますので、本文中からの引用として紹介させていただきます。

 まず1918-20年頃新型コロナ以上に多くの死者を出したスペイン風邪については、島村抱月が無くなり、その恋人の女優松井須磨子が後追い自殺をしましたが(渡辺淳一「女優」)、この時前述の与謝野晶子は感染がかなり拡大してから対策を立てた学校や政府の遅い対応を「日本人の目前主義、便宜主義」と鋭く批判しています(与謝野晶子「感冒の床から」)。

 第1子をスペイン風邪で無くしていた志賀直哉は小説「流行感冒」にて冒頭「最初の児が死んだので私達には妙に憶病が浸み込んだ」から始まり、感染した主人公(志賀直哉自身)は感染経路や症状の描写、家庭内感染に至る様子などを細かく書き、感染症予防に過敏な人と全く気にしない人がいることを強調しています。菊池寛は短編「マスク」で「自分は世間や時候の手前やり兼ねているが、マスクの着用をしている人が勇敢である」など、社会の状況と人間の心理の関係、予防行為の表象であるマスクに対する感受性をリアルに描いています。

 芥川龍之介もスペイン風邪にかかりしかも重症であったようですが、「コレラと漱石の話」で漱石はある日の明け方嘔吐下痢が起こり、コレラに違いないと飛び起きたが、結局はコレラの予防のために豆を食べすぎたことによるものだったそうです。芥川もコレラに感染するのを怖がり予防策として煮たものやレモン水ばかり飲んでいたのですが、「臆病」と揶揄されるのに対し「臆病は文明人のみ持っている美徳である。」と反論しています。

 尾崎紅葉は「青葡萄」でコレラではないかと怯える人間の心理をうまく表現し、弟子が水を嘔吐する音を聞かれ密告されることを危惧し「自分は伝染病を隠蔽するごとき卑怯の男ではないが、吐いただけでコレラというわけではない。」として「コレラの疑いありときっぱり言われるよりは、腸胃加答児(カタル)と曖昧に濁された方が虚妄(うそ)でもうれしい。

 それが人情(ひとごころ)である。」と率直に述べています。この時から存在していた「自粛警察」の恐怖が如実に想像されます。また断定的なことを言うのを避け、他の医師や機関に責任転嫁する医師のことも描かれています。

 文学作品で最も多く取り上げられる感染症は「結核」で、亡くなった文豪は二葉亭四迷、正岡子規、樋口一葉、国木田独歩、石川啄木、宮沢賢治、梶井基次郎、堀辰雄など、枚挙にいとまがありません。細井和喜蔵「女工哀史」で劣悪な労働環境が結核の原因であったこと、死期が迫る苦しみを正岡子規は「病床六尺」で鬼気迫る文章にて遂に「貪欲な知識欲が生きる力になった」と述べ、石川啄木は「一握の砂」で貧困・戦争・暴力とともに結核に対する人間の無力さを淡々と描写しています。

 同じく感染することへの絶望感は内田百聞が「疱瘡神」(天然痘)「虎列刺」(コレラ)にて、感染による生命の恐怖だけでなく世間の噂によるダメージが大きな要因であることを、目がゆき届いた文章で記述されています。

 このように隅々まで行き届いた文学表現は医学書より感染症などの実態の多くを語っているように思われます。(2022.1)

地球温暖化

 2021年10月初旬。寒いはずの山陰でも30度を超える日が続いております。地球温暖化が影響するのかとぼんやりと考えていたら、ノーベル物理学賞を取られた真鍋淑郎教授のニュースが飛び込んできて、何とその仕事は「温暖化対策につながる気候変動のシミュレーションとなる予測モデルを物理学的な手法を用いて行った」というものらしいです。詳しい内容は理解できませんが、当初世界初の汎用コンピュータを用いて気象を予測したというもので、画期的であったことは専門外の私でも容易に想像できます(図)。

2021年ノーベル物理学賞を受賞された真鍋淑郎先生(Wikipediaより)

 地球温暖化とは太陽からの熱エネルギーを地表から逃がさない二酸化炭素などの温室効果ガスが、石油や石炭などの燃料の大量燃焼により増え続け、地表での熱が放出されないで気温が上昇することです。その影響は①海面の上昇、②気象災害の頻発、③健康被害、④生態系の破壊などが挙げられます(図2)。このうち③健康被害について、最も分かりやすい例では「熱中症」があります。脱水症状や付随する腎機能低下、心肺疾患、皮膚がん、アレルギ―、熱帯感染症、精神衛生上の異常、妊娠合併症も増えるとされています。

全国地球温暖化防止活動推進センターHPより

 真鍋先生は愛媛県の医師の家庭に生まれ一旦今の大阪市立大学医学部に入学されたようですが、ご自身の言葉を借りれば「理科の実験で失敗し、緊急時に頭に血が上る性格だから医師には向かない」と判断されたということです。私の周りには「緊急時に頭に血が上る」医師は数え切れない程おりますが(特に外科医に抜きんでて多い)それぞれに立派に活躍されていますので、真鍋先生のこの判断が正しかったかどうか私の口からは何とも言えません。が、純粋な学問である「地球物理学」や「気象学」の方により興味があったのでしょうね。当時の理系精鋭が集まる東京大学理学部大学院で理学博士号を取得されたのですが、日本では進路に恵まれることは少なくアメリカ国立気象局からプリンストン高等研究所(アルバート・アインシュタインやロバート・オッペンハイマーが在籍していた)に招聘されました。この時に呼ばれたのはジョセフ・スマゴリンスキー教授で、アメリカでIBM社製の最新コンピュータを自由に使い潤沢な資金で研究に没頭されました。その後一旦日本に帰国され「地球温暖化予測研究」の主任研究員に就任されましたが、他の研究機関との共同研究が科学技術庁の官僚から難色を示され、日本の縦割り行政が学術研究を阻害していることを不満に思い再度渡米しプリンストン大学に戻られています。当時「頭脳流出」として報じられたようです。この時の年令は何と70才。ノーベル賞を受賞された今年は90才。かつて伊能忠敬は55才で現職を定年退職した後、全国行脚をして亡くなるまでの17年間に「日本地図作製」という偉業を達成されました(図3)。偉人と呼ばれる人はこのあたりの活躍がすごいですね!!

伊能忠敬氏の伝記(講談社文庫表紙)

 真鍋先生は日本に帰らずにアメリカ国籍を取得した理由として、日本人は調和を重んじ周りが何を考えるかを気にして他人に迷惑をかけずにうまく付き合うことが最も重要で「アメリカ人は他人がどう受け止めようが気にせず自分の思う通りのことをやる。私は調和に生きる人間ではない。」とジョークにもとれる口調でマスコミからのインタビューに答えておられました。日本人の1番の弱点は「世間体」であるとよく指摘されます。つまり周囲の目を意識させる言葉や態度をとられるとその目を遠ざけることに意識が向けられます。「我々の県内では絶対にクラスターを発生させないように」など「不必要なまでに規制をかけようとする」のは1つの例です。ただ、アメリカでの自己主張に裏打ちされる競争世界はかなり熾烈であり、「周りが考えてくれる」日本が最も居心地良いと思っている私なんかはやはり「小物」なんでしょうね。それとアメリカでは後進に対する「教育」「指導」意識がしっかりしており、自分らも苦労してきた分後輩には惜しげもなく手を差し伸べる姿は我々日本人も見習うべき点であります。事実真鍋先生のアメリカでの指導者であったスマゴリンスキー教授もソ連のボグロム(大虐殺)を逃れてアメリカにやってきた科学者であったようです。(2021.11)

元始女性は太陽であった

 コロナ感染が収束すればオリンピックを初め色んな行事が始まりますが、女性蔑視と思われる発言は良くないですね。平塚らいてうは「元始女性は太陽であった。しかし今は月である。他の光(男性)に依って輝く青白い顔の月である。」と言って、女性解放運動を開始しました。言語能力など女性が優れている点や大部分の女性は甘い食べ物が好きであるなどは実感するところですが、男性から見てちょっとついていけないことが時々あります。だいぶ前になりますが、藤岡幸夫(関西フィルハーモニック管弦楽団首席指揮者)が主催する番組「エンター・ザ・ミュージック」で、伊福部昭氏(映画ゴジラのテーマ曲の作曲で有名)が作曲した舞踏曲「サロメ」の紹介をしていました。「サロメ」はかつてオスカー・ワイルドが書いた戯曲をリヒャルト・シュトラウスのオペラや三島由紀夫の演劇台本演出など、多くの芸術家に取り上げられている有名な物語です。簡単に紹介すると、古代イスラエル王国において継父ヘロデ王が王女サロメ(血のつながりのない娘に当たる)に無理やりに妖艶な踊りを舞わせたところ、その見返りとしてサロメは囚われている美しい預言者ヨカナーン(サロメが心惹かれている)の首を斬り落とすことを要求したという、王女の無垢で残酷な激情と悲劇的な結末を描いたものです(図1,2)。前夫をヘロデ王に殺されたサロメの母ヘロデイアイスのたくらみであったようですが、いずれにしてもおどろおどろしい話です。私がもっと驚いたのはアシスタントとして出ていた、テレビ東京アナウンサー繁田美貴さんは、小学生の時「何故好きな人の首を欲しがったのかわからなかったが、ドキドキしながら原作を読んだ」そうです(図)。小学生の女子が、ですよ。 毎日チャンバラごっこに明け暮れ遅くまでキャッチボールをしていた小学生の私たち男子と比べ、同世代の女子たちはやはり「太古の昔、太陽であった」と驚愕せざるを得ません。男女では生まれつき精神行動学的原理が違うのでしょうか。(2021.4)

ビアズリーによる挿絵。ヨカナーンの首を手にしている(Wikipediaより)。