無題(10)

七百年過ぎにし時は石にさびはだらに落す冬陽の淡し
吠ゆること忘れし犬と差し来る冬の陽光を分ちてゐたり
熱りもつ吾子の寝息のやや高く灯り消したる闇に聞ゆる
行き違う列車待ちゐる窓に見え遠き灯りが一つ消えたり
威勢よく魚取出す行商の寒風にひびの入りし指もつ
夜の道に縄一匹の蛇と見えさびしや常に死の翳を負う
平らかな水に写れる裸木のこの簡潔に老ひてゆくべし
草原にあまねく降りゐる日の光り蝶々は黄の翅をひろげぬ
一むらの枯草に光りしずもりて開墾田の土くれ粗し
石曝れし開墾田に風すさび冬の野径は人影を見ず
鮮かな黄色と思うごみ箱にみかんの皮を捨てんと持ちて

野を行けば緑の炎君の脚夏の光りに直ぐく立ちたり
湯槽より溢れ出る湯をおごりとし大つごもりの体浸しぬ
迷はざるものの逞し草の上に寝たる土工の胸盛り上る
呼び声を止めし売り人歩み去り駅舎は午前三時の黒さ
一匹の蛙に見たる偶然死吾が影誰の影にもあらぬ
鋸の粗き切口に樹液出で惨もたざれば人生きられぬ
吸ひさしの煙草を土にたたきつけ土工は始業のつるはしをとる
我が影の伸びゆき闇につながるを踏みて昨夜の道かへりゆく

軒先に干魚吊されありしかば背後の闇に瞳移しぬ
脱ぐ服に白き埃のつくが見え宿の灯りは一人を照らす
草の道下りし所に家ありて冬の陽差しに大根つるす
凱々の雪の景色の一ところ家にて屋根の雪かきおろす
水害の跡の礫に陽の返り昨年はここに家建ちゐたり
向岸にとどきし波紋見とどけて再び一人の歩みもちたり
ひらめきてライト過ぎたる夜深く再び窓はしっ黒の闇
葉先迄登し虫は暫し経て頭回らし降りはじめたり
売らるべく篭に入れられし鶏の荒くなりたる呼吸が聞ゆ

投げし石すでに底ひに沈みゐて面は波紋が呼びゐる波紋
一すじのひびの入りたるコップあり透きたる冬の光りを立たす
いくすじの枯れたる草が残りゐてかすかな風にふれ合ひて鳴る
霜置ける凍てし土にて芍薬の萌えて出ずべき芽をひそませる
発芽弱き種子を選り分け落し捨つ血潮循れる掌の上
白きうなじひくつき泣ける傍に男は遠き瞳を落す
生きてゐる限りは持てる影にして壁の歪みに歪みて過ぎぬ
くず買の篭にヒルライの本が見ゆ淋しき人は何処にありし
歪みつつダイヤガラスの千の翳窓に一人の通りすぎたり

灯に狂ひ舞ひて止まざる虫なりき朝の机に小さく死にぬ
眠りゐるひまもいちじく熟れゐたりその確さに大地は生くる
吹く風に放れゆきたるたんぽぽのわたは落ちずに池を越えたり
昏れてゆく夕闇の中吾が姿見えずなる迄立ちておりたり
読みおへて暫しを夜の壁による窓を出でゆく蚊の羽音あり
灯をしたひガラスに動かぬ白き蛾の負ひゐる闇の深さがありぬ
差し来る朝の光りに葡萄房一つ一つの紫透きぬ

小蛙を喰へし蛙が泳ぎおり水平かな池の面に
去年より吊りておりたる風鈴をぬくくなりたる風に聞きおり
誰も皆死にてゆかんを慰めとなして我等の英雄ならず
幼なるをしばし英雄となさしめて掌の中鮒のおだしき
口堅く閉して直ぐく鮎並ぶ美しき死を我は見しかな
帰る人の車の傍に寄り立ちてながく笑まふは女房に任す
洪水に打ち伏したりし草群の一夜過ぎたる げありたり
宿の灯に一人食みゐるお茶漬の沢庵漬ははりはりと鳴る

何の部屋も団体客にて声高し早々蒲団を被りて寝る
手洗ひの小さき灯り点る故吾背のまとふ厚き闇あり
走りゆく列車の一人と坐るとき天涯澄みて夏柑甘し
どぶ川の泥に生きゐる赤き虫夜半醒めたるときに思へり
一様に風に伏しゆくすすき原風にむかへば繁るまみあり
雨止みし雫間遠となりゆくを聞きおり夜を一人覚めゐる
部屋の中に落葉が一つ転び来て一つといふは自己を問はしむ
バス停に出ずるに近き畑の畦草の低きは吾も踏みたり
山黒き彼方に一つの灯り消え寝るべき今宵の本を閉しぬ

貝殻の七色の内部夕光に乗りし栄光の使者馳せ来る
敗れたるものは即ち裁かるる捕虜連なりて頭垂れおり
パックして笑ひ堪えゐる女あり汝と何の関りあらんや
開きゆく吾が口腔の暗ければ人にこびたる言葉の出でぬ
いつはりの優しき言葉に罪犯す女となりてつながれてゆく
幾万の飢餓を強ひ来て一人の帝が作せし仏像仰げ
干されたる菜はにちにちに水気失せ老ひし手首の如く並びぬ
平凡に生きゐることを幸せとなさむと永く勤め来りぬ
妥結せむ一線すでに定まるを机たたくは弁明のため

バイブルと利殖の本を傍に置き男変型の靴をはきたり
枯れし葉の不意に散り来て忽ちに風は宿屋のガラス戸鳴らす
そばを売る笛の細まり消えゆきて聖者の文字に瞳を返す
夜の窓を幾つか音の過ぎゆけり机に白磁の簡潔ありて
これだけと出されし金は予定よりはるかに少なく黙し肯ずく
まとまらぬ思考となりてペンを置き壁に向ひて影を動かす
覆ひ来る闇に埋まる我あれば背すじを直ぐく伸ばし立ちたり
ひき寄せる思ひに待ちしこの会ひも会へは語らん事のすくなし
ふかぶかと頭を下げる銀行員の押されたるを不意に疎みぬ

ふと投げし石に生れつぐ百千の波紋しばらく離れ難かり
ふと投げし石が砕きししずけさに百の波紋は生れて相打つ
ふと投げし石に生れつぐ百の波紋一つ一つが岸に向へり
消えてゆくものの悲しさ見むとして水澄む池に石をほうりぬ
ほうりたる石はゆらめき水深き青にそまりて消えてゆきたり
砕きたる水に光り散乱す冬の路上の絢爛として
下りたるつらの先の雫して冬の光りをふくらませゆく
成るときの人の寄る辺は忘却か窓の柱に目を閉ぢてゆく
競ひ合ひ争ひ合へる家々の屋根見下せる山の澄みたり

枯れし葉と淡き光りの囁ける冬野の声を聞きて帰りぬ
生涯をかけて記すと告げて来し君も悩める一人にあらむ
執念の悲しき文字を君の書く今玲瓏と語り合へるに
憎しみし君への思ひも淋しかり見違ふ迄に写真に老ひる
犬小屋の前に密度を増せる闇我を見る目を犬は閉せり
ゆるゆると肩迄風呂に沈めおえ瞼を閉ぢて一日をおはる
頬にかかる細き氷雨のいくすじに我あり首をすくめて歩む
ストーブに寄りてかかぐる掌の温もりし後の思ひはもたず
松尾さんの車があると思ひしが左程の用もなくて過ぎゆく

藤原つよし老を養ふ屋のさび姿見えぬは見返りて過ぐ
母逝きて二た冬を経ぬアネモネの草に紛れて萌し小さし
あはただしく看護婦数人駆けて過ぎ待合室は話を継がず
唐突にサイレン響きあごに手を当てゐるのみの我がありたり
幼な日に此処にどんこをとりたりき跳ねる感触今も手のもつ
ようやくに葉を開きたる五つ六つ林に降れる光り染めたり
遠山に光りのさしてさし交す梢けぶるは若芽萌え出ず
ひしめきておたまじゃくしの游ぎおり裡幾匹が蛙に育つ
豌豆の莢実となりし浅みどり一夜を経たるふくらみをもつ
20
よべの雨をつゆに置きたる鈴蘭の一夜のみどろ増せる葉をなす
ずりさがりたくなるズボンにのろのろとガラス戸の中我歩み来る
しぎ二羽が庭に啄ばみ歩めるを押へておりし咳の出でたり
信号が赤となり来て停車する死に関るは素直なりいて
足音に蛙幾匹逃げゆきぬひしめきおりしおたまじゃくしは
呼び交す工事する声今朝のなく太き電線空に架かりぬ
ぴったりと皮膚に付きたる吸盤に我が心臓の計られている
幾つかの吸盤体に付けられて計られて知る心臓をもつ
グラフ紙にあらはとなりし鼓動にて読み得ぬものを吾は見ており
正常です医師に言はれて異状なしこのあやふさに出でて来りぬ
      

2015年1月10日