無題(9)

枯れて伏す株の間より土もたげ新芽は確かな青さに出ずる
道に影ひかざる事も旅なればさびしき瞳となりておりたり
風塵を捲ける車の過ぎて去り再びもとの歩ゆとなりぬ
葉の間にしべの枯れいて櫻立つ風に老ひたる瞳研がれつ
一人の嘆きといふは如何程のものかと肩並む雑踏の中

原中に一人の男見えおりて鍬急がぬは年の経りたり
尖りたる鉄柵囲ふ家見えて廃れし家を見るよりさびし
離りゐる小野の柳も芽ぐめると伝へて耳吹く風やはらかし
売店の女も本を読み初め単線の駅停車のながし
はりつきしさまに曇れる空の下葡萄一粒舌につぶせり
赤き杭区画をなして打たれいる如何なる工事初まらんとして
流れたる血量思へ戦史には死者三千と半行記す
註文のあらずといはれて出で来しが頭を直ぐく保ちて歩む
きびきびと田植なせるを見ておれば減反拒む思ひも知りぬ

落苗を植えゐし老女顔を上げ腰を伸ばして胸を反らしぬ
足音に蛙つぎつぎ水に消え池の堤の陽炎ゆるる
伸ばしたる腰をたたける二つ三つ老女は再び落苗植える
並行して走る車の幼な児は手を振りており目の合えば吾に
伸びて来し茎にバラの葉五つ六つ幼なき刺は指にふれみる
血圧の薬をしまふ宿の室一人を照す灯りありたり
差し交す若葉に光り透きとうりかすかな緑道にありたり
さわに花咲かせし街路この国の平和を我は歩みゆきおり
八重櫻咲ききはまりて散りゆけり今の平和のあやふさはある

てっせんの蔓先ふるひ朝凪の庭に生れ初む風のあるらし
寸ばかり揃ひ萌せるあさみどり杉草未だ雑草ならず
ながながと工場の壁のつづく道いつより頭垂れておりたり
報ひらる日のあらむかと思ひしが今を生きゐる鞄を提げる
血圧の薬とり出す宿の灯に我あり開くる口腔くらし
隣室のおらぶ宴の聞えいて一人と言へるすがしさに寝る
何ものも過ぎ去りゆけば煌々と夜汽車の窓に我の目のあり
宿帳の兵庫県を探せるに松尾鹿次の名前に出合ふ
宿帳を再び見つつ松尾鹿次数日前に此処を過ぎにし

注ぎ交す酒にいつしか花を見ず光りつつ席に落つるいくひら
枯れ初めて黄に移りゆく秋草の降りゐる雨に濡れて明るし
註文の今年も減りし店を出ず廃業の方途めぐらしゐつつ
職人の暮しを思ひ廃業を考へ決断つかざるがまま
夢に見し母の言葉の明るくて覚めたる吾の慙愧と並ぶ
年々に売れなくなると言ひゐつつ見えたしるしと註文くれぬ
切味は良いが何しろ使はぬと言ふを肯ずき金を受取る
在庫の残調べに行きしが註文は後程電話で報せると言ふ
貧しくて生きるすがしさ言ひたるを一言にして斥けられる

緑濃くかさなる木曽の山見えて百草丸の看板掲ぐ
掲げたる乗って残そう飯田線重なる山に雲の流れつ
小便をなしゐる間にタクシーの無くなり灼けし舗道をあゆむ
高遠は雲湧く彼方仰ぎつつ幾たび過ぎき今日も過ぎゆく
従業員募集の看板掲げしまま閉ざす扉のノブの錆びたり
かにかくに今日いち日の過ぎたりと酒はのみどを熱して下る
玄関を出でて頬吹く寒き風一夜の宿を見返りて去る
この宿で風邪ひかれてはならざると羽織をもちて走り寄り来る
盆栽に鋏を入れる老ひのゐて激しき爆音振り向かぬまま

きはまりて赤く柘榴の輝けばかへらぬ月日我のもちたり
去りゆきし月日をもてばきはまりて赤く輝く柘榴にむかふ
渾身の思ひに生きし事のなき我にむかひて幸せと言ふ
道端の草といえども身を渾て咲かせ来りし花と思ひぬ
我がさがを露はにすべく生きゆくと定まる運は異なる如し
とる人のなきうれ柿を惜しめるは大正八年に生れ出でたり
郊外に新たな駅の出来ており無人となりし駅過ぎ来る
電飾の循る光りに囲まれて吾は田舎に住めるものなり
足音に散ばりゆける金魚あり立たせる波に緋色歪みつ

むかれたる裂目に歪みごみ箱にみかんの皮の捨てられており
いちにちのセールス終へて登りゆく宿の階段歩みに軋む
英辞典読める少女と並びおりかぼそき首をのぼる血をもつ
庭隅に小さき蟻の穴のあり夕べ昏れ来て出入りをもたず
文字を離れしばらく蝿の遊ぶさま見ており午後の室のひととき
乾きたる高き台地に生え来り水を吸ふ根の何処迄伸ばす
鳴りゐるは我にあるかな夜の底ひ眼つむりて渡る風聞く
おぼおぼと歩める我がもつ鎖背をしなはせて犬の歩めり
どぶ泥に赤き虫棲み流れくる水に頭を振りていとなむ

しろがねの光り乱るる映る月水にむかひて虫とびゆけり
つながれし船べり打てる波の音かすかに高く夜となりゆく
今日ひと日足りるとなして床に入る百合は孤りのために咲たり
オルゴール電話の中に聞え来てもちゐしみじめな言葉を匿す
照らす灯のわずかに分つ古宿の階段ぎしぎし鳴らして登る
夕闇に死魚の眼として立てるガラスに我の顔写りおり
見上げては何に生きゐるいち日のゆるゆる空を鳶わたりゆく
平凡の言葉を拒む口もてば会欠席を○にて囲む
みずからを煽る言葉も逞しき脚もつよりとこのごろにして

ともしびに手影さけつつ書き入れる数字は今日の無能を曝らす
雲行けば雲を映して庭前の溜りし雨の水の澄みたり
ガラス戸に並ぶ水滴寄り合ひて成し重さに動き初めたり
各池の草なき面平らにて流る雲と吾をうつせり
狂ひたる夕べの虫の死にて落ち動かぬものにしじまの深し
夜の闇を裂きて気笛の音流れ吾は一日の頭垂れおり
そそり立つ岩に注連張り小さなる魚船を浜に並べておりぬ
山蘭の真白き花の挿してあり旅の一夜の血を眠らしむ
空に向くカンナの花を剣とせん明日の可能に夕日燃え立つ

草の種子落ちてひそまる冬原の凍てたる工に浅き日の差す
地の中に数限りなき虫卵のひそみて冬の原平らなり
食卓にあるは食え得ぬものとして犬は揃へし足に待ちおり
うたげなす声の乱れの聞えいて宿屋の窓の夕闇ふかし
マルロオは従軍志願をなしたりき祖国を己が全てとなして
すみとうる心あらんと来し宿の闇の深さに閉されてゐる
一軒の湯宿のみある山峡の泊りし窓に茜がきえゆく
苔の秀の青ほつほつとはぐくみて岩の襞より水したたりぬ
月光は死者のごと差し幼な子は規則正しき寝息を立つる

嵐めく夕の窓の鳴り止まず商ふ明日の手帳を開く
サンプルを返し見てゐる商店主のつらつらなるは買くるるらし
草原に春の光りの満ち亘り山羊は異性を呼びて えたり
干く潮にもまれて躍りゐし砂が干泥となりてしずまりありぬ
草青く分けゆく春の風ありて山羊は生きゐる声を挙げたり
掴み合ふ議会のさまを亦写す選びし人の代表として
戦争をはげしく憎む声聞ゆこのはげしさが戦いたりき
あかあかと野火の燃ゆれば戦に友を焼きたる若き日のあり
殻を脱ぎ這ひゆく蝉は濡れており目にほのぼのと飛びてゆく空

色未だ透ける幼きかまきりの吹き来る風に斧をかまえぬ
トランプを並べて一人占へる女かすかな笑ひもちたり
無精卵産むといえども鶏の頭を高く挙げて鳴きたり
みずからが作りし巣より出で得ざる蜘蛛あり深く雲閉す下
山際にともし火ひとつ点きしより我を囲める闇となりたり
揆けざりし草の実夾の黒く枯れ其処より冬の夕は昏るる
野に亘る陽は早春を伝えいて転ばす種子に花の眠れり
まな板に割かるる鯉の静にて刃金の光り室を走れり
ひっそりと吾が横歩む乙女子の頬よ月光の標的となる

2015年1月10日