九月号一首抄
一首抄をとの電話があって、改めて句々に目を通した。目に止まった作品は石井文子さん二首目、小寺き志江さん七首目、小紫博子さん二首目、田尻みや子さん三首目、前田清子さん一首目、藤木千恵子さん五首目等であった。他に意欲作として中北明子さん二首目、藤井みどりさん六首目は論評したい衝動に駆られる作品であった。 それぞれの持味があるがこの内石井文子さんを取り上げたいとおもう。
花火殻踏み消すさへも踊るがにをさなの遊ぶ戦争(いくさ)よあるな
この間半どんという兵庫県の文芸誌を読んでいると、上野晴夫氏が、作者が意図したものより深い内容を、読まれた方が見出して下さるのは大変嬉しいといったような事を書いておられた。私は文字という普遍的なものによる表現は、作者の見たもの感じたものの底に無限の延展をもつと思う。例えば鎌倉仏の中に鎌倉時代の心を見るが如きである。私はよい作品とは大なる延展を潜めた作品であると思う。よく歌会などで作者に聞いてみようなどと言われるのは全く無意味であると思う。
この作品は戦争ごっこをして楽しんでいるをさなの心の昂揚の中に、作者は人間の危さを感じているのである。生命が多くの個物としてあるということは、争うものとしてあるということである。ヘラクレイトスが戦いは万物の父であり、美しいものは全て争いより生れたという如く、全てあるものは競争の中より生れたのであり、闘いは生物の本性である。全て英雄譚は戦争の強者である。テレビでも視聴率の高いのは闘争ものである。平和を愛するイギリス人も、アルゼンチンとの戦勝に於て、全国民が陶酔の表情を示したものであった。クエートを占領したイラク国民が、歓呼の声を挙げたのはテレビに新しい。
近代は新しい精神の創出に於て、平和への建設に努力している。平和は世界の合言葉となっている。併し私達は前述の如く地下にマグマをもつのである。私は三句の「踊るがに」に斯る潜在への延展を見ることが出来るとおもう。五句の祈りはそこから生れきたものとおもう。
尚一首目も内容ある作品であった。
長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」