魅力

 知れば知る程人間ほど不思議なものはないとおもう。この間も本を読んでいると人間の脳細胞は百四十億あり、その情報容量は百四十億の百四十億乗である。それは全宇宙の電子の数に匹敵すると書いてあった。一寸ぴんと来ない話である。兎に角途方もない数字である、一寸考えただけでも私達の身体は六十兆の細胞をもつと言われている、その細胞の一々が数多の電子をもつのである。人類の数は六十億に近いと言われる。その全人類をもってしても日本海を埋めることは出来ないであろう。人類は地球の極一部に過ぎない、その地球は太陽系の一微小物である。銀河系には太陽系のようなものが約一兆個あると言われている。更に宇宙には銀河系のようなものが約一兆系統あるそうである。その恒星が宇宙に占める質量は約10%であり、後の90%は目に見えない星間物質と言われるものだそうである。私の貧弱な頭では唯混絡むばかりであるがその電子量に匹敵するということは、私達の頭脳は宇宙にこれ迄起きたこと、これから起きるであろうことを内容とし得るということである。唯人の生涯にはたらくのはその十数%であるらしい。

 先日井上徳二さんが「以前は歌会に若い人が多数出席していたが今は殆んど見ない」と述懐していた。若い人を見ないということは、若い人を魅きつける力がないということであろう。それでは魅力とは何なのか、私は深大な力を宿す頭脳は世界を自分の内容としようとする要求をもつとおもう。世界を知り、世界を表現しようとするのである。私達は生命としてそれを生死に於て宿すのである。田を耕し、布を織り、家を建てる。それらは全て生きるために環境を適応さす努力である。努力とは環境を変化さすことであり、私達はそこに新しい力を獲得したものとなるのである。このように環境を作り、環境に作られるのが世界である。私達はその力を人類としてもつのである。私達ははたらくものとして自分の世界をもつ、それは人類の世界を分有するものである。分有するものとして絶えず世界に自己を映し、より大なる自己の世界を作ろうとするものである。私は魅力はそこから来るとおもう、自分の展いた世界から全世界を見、全世界に自分の世界を映す、そこに生命の躍動があるのである。生命の躍動は生命の実現である。

 歌が出来ないという嘆きをよく聞く。創作とは現われて消えてゆく日日の営みを、祖先以来の言葉の中に表現するということである。自分の営みを日本人が無限の過去から伝承し、無限の未来へ伝達する言葉の体系の中に入籍するということである。荒野を美田にするということである。努力を必然とするのである。ましてそれが自己の世界の表現を超え世界の表現となるには大なる力能が必要である。併し大なる世界を自己の表現に見出し、世界に自己を映してこそ他人を呼ぶことが出来、他人も応えることが出来るのである。

 生命は危機としてある、危機とは死と背中合せにあるということである。人間は物を作って生きるものとしてそれは常に課題をもつということである。よく新聞などで脱サラという記事を見る。それは自分の生に問題をもったということである。国家も世界も問題をもつことによって新しい形へと転じてゆくのである、それが世界を創るということである。世界を映し、世界に映さるとは危機と克服に於て世界が転じてゆく処に自己も亦転じてゆく処である。私はわれが表現すべきものは、世界と自分がそこから見られるものでなければならないとおもう。

 私は大正生れである。私の作品は大正的ロマンの残像を引摺っているようにおもう。みかしほの中には浪花節的情愛を多く見かける。それが悪いというのではない、唯未来を指呼する若い人を招き得ないだろうとおもうのみである。

長谷川利春「自覚的形成」