風土としての霧と表現

 この頃朝々を霧がこめる日が多い。私はこの霧の中をゆるやかに歩むのが好きであ る。霧が動き始めると、ものの象が一つ一つと現われる。家の近くに芋を植えた畑がある。その大きな葉の一つが現われると私は暫く立ち止まってものの形の前に立つ。 私の前にあるのは食物としての芋の葉ではないのだ。育ち枯れてゆく葉でもないのだ。生命が限りない時間によって造って来た形なのだ。無限の時間を含んだ動かすべからざる形なのだ。

 時と共に霧は動きを速めていく。日輪は霧を払うが如く光を増して来、稲田、裏山 へと相を現わしていき、やがてはるかな高い山々が現われてくる。霧は多くを隠しつつ流れて峯が現われ或は山腹が現われる。私はそのとき霧と日本的表現の深い関わり合いを思わずにいられないのである。

 和辻哲郎はギリシャの真昼の明るい光がギリシャ的表現を作ったとして次のように書いている。「希臘彫刻の最も著しい特徴は、その表面が内に何者かを包める面としてでなく、内なるものを悉く露わせるものとして、作られていることである。従って面は横に拡がったものではなくして看者の方へ縦に凹凸をなすものと言うことが出来る。面のどの部分どの点も内なる生命の露出の尖端として活発に看者に向かって来る。だから我々は、ただ表面を見るだけであるに抱らず単に表面だけを見たとは感じない。我々は外面に於いて内面を見つくすのである。」

 私はものの形とは生命の、風土としての環境の総合であると思う。ロダンは道を行く少女を指差し乍ら「そこにフランスがある」と言ったという。我々の団子鼻は日本の湿度に適応した身体の形であると読んだことがある。フランスの少女はフランスの風土の総合であり、我々は日本の風土の総合として身体の形をもつのであると思う。表現とは外が内となったものを再び外を見ることによって内を露わにすることであると思う。ギリシャ彫刻とはギリシャ的生命形成を外に露わにしたものと思う。

 私は短歌を作るものであるが、短歌は余情の文学であると言われる。余情とは本当 に言い度いことをかくして読者に感ぜしめることである。短歌はその本質に於いて抒 情史である。生の哀歓を表白するものである。それを嬉しい悲しいと言わないで感ぜ しめるのである。例えば孫が初月給の贈物をしてくれて嬉しいとする。その場合言い たいのは「私は嬉しい」である。而し短歌で表現すべきは孫が初月給で贈物をしてくれただけでよいのである。嬉しいのは言ってはいけないのである。読者は作品を読んだ時にああ貰って嬉しかったのであろうと感じるのである。嬉しいと書くと感じるのではなく「そうか」となってしまうのである。共感の世界である。かくすことによってより露わとするのである。

 私は霧によって半ばかくれた山を見乍ら、このかくすことによってより露わとする発想は斯る中より生まれたのではないかと思ったのである。霧が山腹を流れ、嶺が空を描く時、私達は崇高な感じを抱く。その感じは地よりそびえているものと異質のものである。霧が地との接続を断つが故に我々にはそこに超越者に参見するのである。霧がだんだんはれて来て近くのものが明らかとなり、遠くのものが模糊としてやがて視界が消える時、私達はそこに無限なるものに接する思いがする。私は霧に対する時自分の深い内なるものに対するように思う。かくされたが故に我々の目は内に向き、内を露はとするのである。勿論斯るものが短歌や俳句の余情文学を生んだとするのは余りにも短絡的である。而し私は日本人の抑制する事によって読者の感覚を掘り起こし、訴求力を大きくしようとする表現は底深く斯る体験が働いていると思われて仕方がない。

 私は前に霧の中より先ず一枚の芋の葉が現れたといった。そこに無限の時間の象があると言った。私は霧の中の大きな一枚の芋葉を見ると文人画を思わずにいられない。私はここで一つのものの形というものを考えて見たいと思う。

 個物は個物に対する事によって個物であると言われる。全てのものは相対的にあるのである。芋の葉は多くの芋の葉の一つとして萌し成長し枯れてゆくのである。それ が一つであるとは芋或は多くの植物の葉が捨象されたという事である。私はそこに形 あるものから、ものの形へと意味の転換があると思う。形あるものは壊れる。ものの 形は栄枯を超えて、長い時間の中に作り上げたものである。芋の葉は枯れる、而し芋 の葉の形は芋が長い時間をかけて作り上げたものである。前者は時間の中にあり、後者は時間を中にもつのである。一つというのは相対するものが相対するものを捨てた処に成立すると思う。私は文人画は斯るものを本来とするのではないかと思う。そして私はそれを霧の中より現れたものに見るのである。

 生命は永遠なるものが瞬間的なるもの、瞬間的なるものが永遠なるものとしてある。永遠なるものを瞬間的なるものに見る処に生滅としての物の形があり、瞬間的なるも のを永遠に見る処に芸術としての形がある。而してそれは生命の動転の表裏として一つのものである。それは自然の自覚として、生命と風土の総合として形成するのである。

 私は霧によって動かされた心を、日本人の長い間の風土的形成の現われではないか と思って一文を草して見た。これ丈多い霧の月日が私達の視覚を形成しなかった筈はないと思う。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」