陶芸の美

 腕時計の刻む秒針を時折り見乍らバス停への足を速めていると、一台の自動車がすうっと横に止まった。見ると従妹のえみちゃんがにこにこと笑っている。そして間を置かず窓ガラスが下って、「小野へ行っきよりいのん」と言う。「おう暑いのう、今からやがい」と言うと、「私ねえちゃんとこへ行っきょんねん、乗りいか」と言う。勿論渡りに舟「すまんのう」と言って乗り込んだ。

 着くと茶を一杯飲んで行けという、流石旅館だけに何時も茶を接待する準備が調っているのであろう。待つ間もなく菓子が運ばれて来た。私は甘いものは余り好きではない、それで眺めていると、「その焼物素敵でしょう」という。見るともなしに見ていたのを、私が焼物を鑑賞していると思ったらしい。見ると一糎位な厚さの葉の形をして、葉脈のようなものが稚拙な線で刻んであり、沈んだ淡い緑と、僅に濃淡をもった茶色の、少しばかり反りをもった陶片とでも言うべきようなものの上に、白い小さな万頭が載せられている。とりあえず「うん」と肯いてみたものの何のようによいのか判らない。

 魯山人は自分の作った料理を載せるべく、自分で器を焼いたというのを読んだことがある。足立美術館で氏の作品というのを見たことがあるが、私には普通の皿のようにおもえた。折角入場料を払ったんだから、その価値に触れたいと思ったが判らなかった。その後美術年鑑で評価額の高いのに一驚した記憶だけが鮮明である。併し氏が自分の料理を載せるべく作ったということは、料理と器が感覚に於て一つなることへの要求があったということであろう。昔から支那料理は舌で味わい、西洋料理は鼻で味わい、日本料理は目で味わうと言われている。目で味わうとは味覚が視覚の内容となることである。味覚は視覚を加えることによって完成されるのである。視覚の内容となるとは、庭園が借景によって、深い自然の表現となるが如きである。器は料理の借景となるのである。そこにあるのは最早料理を食べるとか、器を見るというものではないであろう。味覚と視覚を通じて日本的心情を見出すという如きものであろう。そしてその見出でた心情によって、味覚と視覚はより深大なものをもつのである。通とか言われる人は、斯る心情的世界の渾然たるものに遊ぶことの出来る人であろう。魯山人は斯る世界よりの呼び声を内深くもった人であろうとおもう。

 全てものの価値というのは、形が内面的発展をもったということである。私が陶片の菓子器が判らないというは、そのもつ内面的発展の体験をもたないによるとおもう。「素敵でしょう」と言った京子、ひとみ姉妹は永い陶芸への研鑽があるらしい。内面的発展とは、作ることによって見、見ることによって作ることである。作ったものを見ると何処かに不満がある。出来たときに満足しても、やがて不満が湧き出てくる。そこで新しい形への努力をする。斯くして人間の生涯は限りない努力である。繰り返すことによっての蓄積が人生である。内面的発展が洗練であり、われわれは全て洗練によって見る目をもつのである。おそらくこの菓子器は二人の洗練の目を超えた形象をもつのであろう。見るものの目を何かの世界に引き込むものをもっているのであろう。私は無雑作に万頭を取ってぱくついただけであるが。

 私は陶芸の美について考えた。美について第一に考えられるのはその造型である。陶磁器は彫刻と異って、形自身が意味を担うものではない。それは器具である。生活の手段としての使用目的をもったものである。それは相対する価値である。魯山人の場合の如く、それは料理との調和に於て価値をもつものであり、奥の間の床に置いて価値をもつものであり、食卓に置いて価値をもつものである。相対する価値とは、調和の価値である。料理と器が一つとなって心情的世界を創出したるが如く、雰囲気を演出するものである。奥の間の森厳を、食卓の団らんを作り出すものである。置かれている他の器具、そこにある人との心情との調和である。併し私はその故に陶磁器は彫刻に対して次元が低いと考えることは出来ないとおもう。一方は局限的場所の調和としてあり、一方は人格内容の表現としての意味をもつ、併し調和は世界形成として、人格がそこにあるべき処として無限の奥行きをもつのである。斯く言えば魯山人の作品は、魯山人の人格の表れであるという人があるかも知れない、私もそうであろうとおもう、唯私はロダンは人格の内面を追求したのに対して、魯山人は料理を盛ることを追求したと言うのである。ロダンが直接語りかけるのに対して、魯山人は自分の料理との調和を通じて語りかけるというのである。ロダンの意識的に対して魯山人は無意識的である。

 私の知人は絵画や彫刻より陶器を愛する人が多い。それは私には陶磁器が日常の用具として身辺にあり、手に触れることによって関りをもつが故であるようにおもわれる。絵画や彫刻がそれ自体の価値をもつものとして、視覚の対象として距離をもって見られるのに対して、身体に直接するところにあるように思われる。その意味に於て陶芸の美には触覚が欠かせない要素をもつようにおもう。触れて直に感じるのは重さであり、冷たさ、温かさであり、手ざわりの粗密である。重さは関節覚、筋肉覚に関るものであり、信頼感や安定感を与えるものである。安定は身体が健かに生きてゆく最も重大なものであり、安らぎや憩いはそこより生れるのである。冷温は情緒に関るものである。冷たい人、温い人というように、そこに感じるのは親疎である。磁器の薄い純白より、陶器をコレクションする人の多いのは、その感じの冷温に関るように思われる。情緒は一つを求め、一つは温さによるのである。手ざわりの粗密は作品との関りである。密なるは招かれたように思われ、粗なるは拒まれたようにおもう。但し粗なるものには力感があるのではないかとおもう。全て感覚は対象を受容すると同時に、対象に自己を表出するのである。人間は個として対立するものである。そして対立することが同一なるものである。そこに冷温、粗密は生れる。故に冷と温は同一の価値であり、粗と密は同一の価値である。その按配が表現の深みを作るようにおもう。併し斯くいう私は作ることも見ることも出来ない。唯人性の必然か斯く言うのみである。

 陶芸展の広告などによく土と炎の芸術という文字を見受ける。土も火も共に人間ならざるものである。それは人間にとって不可知者である。近代美術の製作は純粋視覚の発展の上に成立すると言われる、純粋視覚とは視覚の内面的発展である。今此処に視覚への深入は避けなければならないが簡単に言うと、生命が内外相互転換に於て外を切り拓いて行った痕跡である。鯛は深海にあって人間の五千倍もの明らかさで物を見ることが出来るという、併し見るのは敵と餌だけだそうである。禿鷹は三千米の上空から地上をありありと見ることが出来るそうである、併し見るのは野鼠だけだそうである。内の欲求が外を見るのである。人間は言葉をもつものとして歴史的形成的であり、表出は深い歴史の底流がもつのである。それは単にわれわれの目に映るものと異なったものでなければならない。私は私達が見て怪奇極りないとおもう近代芸術家の表現は、歴史の流れの現時点を直観に於て捕捉したものであるとおもう。

 表現は形より形への無限の内面的発展である。歴史は無限の否定的動転である。そ こに芸術家は鋭敏なる目をもって、新たなる形象へと移らなければならない所以があるのである。新たなる形のために渾身の努力を傾けなければならないのである。ミケランジェ口は「私の目はのみの尖にある」と言ったそうである。そこに形相の実現を求めて一打が一打を呼ぶ必然がある。

 それに対して陶芸が土と炎というとき、断る形の内面的発展というのは截断されなければならない。土を練り、ろくろを廻す間は成程指の先に目があり、ろくろの中に目があると言えるかも知れない。併し窯の中に入れてしまうと最早目も手も届かない世界である。恐らく大体の予測はついているのであろう。併し目と手のはたらかない世界は多くの偶然的要素をもつとおもう。斯る意味に於て陶芸は世界の視覚的尖端を切り拓いてゆく芸術ではないようにおもう。勿論近代人の表現として、歴史的現在の感覚から逸れることは出来ない。併しそれは画家などの驥尾に付くことによって得なければならないのではないかとおもう。私は陶芸の美は別の角度から見たところに求めら ければならないのではないかとおもう。土も火も人ならざるものであるとは、自然であるということである。人間の内面発展の必然を求めるのではなくして、自然と歴史の交叉、偶然と必然の交叉の形の実現に美を見るのではないかとおもう。

 偶然は生命にとって豊饒の海である。偶然とは内外相互転換としての生命の外である。人類がその初期に於て海や山に獲物を求めたとき、魚介に出合い、木の実やけものに出会うのは全く偶然であった。人間は言葉をもつことによって偶然を必然に変えていったのである。経験が蓄積をもつことが技術であり、技術によって内外相互転換をもつことが製作であり、蓄積の増大による発展が必然である。故に必然は内として、何処迄も外としての偶然に対するのである。斯かるものとして偶然は無限の多である。草の緑、すみれの紫、たんぽぽの黄、鶏頭の赤などの偶然の出合いを言葉が統一することによって、色の体系を構成し、必然の内容とするのである。巨大な土木建築も物理学も、挺子やころの偶然の言葉による体系化より生れるのである。私は現在われわれが文明と呼ぶ全ては偶然の必然への転換によると言って過言ではないとおもう。自然とは歴史的必然の目より見て全て偶然である。

 私は窯より取り出す陶器の色は、作者も取り出すことによって初めて知るものであるとおもう。そして取り出す全てがその微妙なる変化に於て、今迄にあり得なかった色であるとおもう。予知を超えた色、初めて接する色、それは無限に豊饒なる色の内容であり、眼前に具現することによって、視覚の体系の中に組込まれるものである。斯る意味に於て私は陶芸の美とは、造型の原質の美であるとおもう。

 陶芸教室に行くと他の教室より熱気があるようにおもう。土を練る者、形作るもの各々 が没頭しているようにおもう。そしてそれは他の教室が不熱心なのではなく、他に較べて技術形成の過程が単純なのであるとおもう。私の認識不足かも知れないが、同じ室にある絵画教室の素描、着色と幾度も書いては消し、塗り直しては眺めているのに較べると、土を練り、ろくろを廻しているのは直線的であり、曲折を持たないように思われる。言わば幼児の砂遊びの延長線上にあるようにおもわれるのである。砂遊びのようなものが直に造型に結びついたようにおもわれるのである。併し私はその故にそれは生の原本に結びつくようにおもうのである。教室の熱気は単純である故の没入であるようにおもう。生に直接するということは素質的要素が少なくても参加出来ることであり、広い共感をもち得ることである。

 以上挙げた諸点から私は陶芸は研ぎ澄まされた形象の創造の方向ではなくして、造型の初めに帰ってゆく芸術のように思われる。全ての創造は進歩が回帰であり、回帰が進歩である。形象の純化は、形象の故に生命を見失い易い。その回帰の方向を担うのである。創作は必然の追求であり、その完成への希求である。併し偶然の拒否は必然の枯死に外ならない。歴史は自然の拒否であるとともに自然の上に立つのである。創造の初めへの回帰として求められるのは素朴の美であり、稚拙の調和である。幼児の目と手に帰ることが求められるのである。併し初めであるということと、初めに帰るということは無限の距離、次元の差をもつのである。初めであるとは現在への到達の出発点となったものである。初めに帰るとは、現在の到達点を出発点とすることである。幼児に帰るとは、歴史的現在の壮大なる形象と意識を幼児の目となることによって再創造することである。勿論私は陶芸がそれを担うとおもうものではない、唯陶芸の現在の盛行は斯る歴史意識の背景の上にあると思うのである。文明への疲労に慰籍を求めるところに、初めへの回帰があるとおもうのである。

 素朴とか稚拙とかいうことは単純化ということである。それだけに変化の余地は乏しいと言わなければならない。印象画家や、前衛彫刻のような変化は求むべくもない。併し近代人の洗練された目は、単なる素朴や稚拙によって充たすべくもないとおもう。色や形は単純でありつつ近代視覚の尖端に立つものでなければならない、墨絵が一色よく万色を蔵するといったごときでなければならない。「素敵でしょう」と言った菓子皿は、私には判らないが斯る要素を充たすものであるとおもう。それは亦大なる才能と潜心が要求されるのであるとおもう。変化の余地の乏しいものとして、それは微妙な差が心の陰翳を表わしたり、消したりするのであろう。そのためには微妙なる神経が要求されるのである。

 私は表現愛の根底には無限に動的なるがあるようにおもう。土と生命が一つとして 動いてゆくのである。人類が最初に土を握った時に造型への呼びかけがあったのであるとおもう。土と一つとは、土に働きかけることは土が呼び声をもつということである。生命が動くとはそのようなものによって動くのである。関りとして世界が動くのである。土と我はその動きの中に見られるのである。我があって土があるのでもなければ、土があって我があるのでもない。もし我があって土があるのであり、土があって我があるのであれば、私達は創作としての造型をもつことが出来ないとおもう。形の中から形が生れて不思 議を見ることが出来ないとおもう。私達は製作によって自分を見る。土によって形を表わすことは自分が現れてくることである。私達は私達の所在を知らない、唯現れることによって知るのである。そして現われて知るとは、無限に動的なる世界が自己実現に働くということである。私達は知らない奥底から衝き動かされて働くのである。創造的世界は不尽根的に形より形へと動いてゆくのである。ゲーテの言える如く「永遠に女性的なるものわれを招く」のである。

 以上陶片の菓子皿から思いつくままに書いてみた。盲の垣覗きにも等しい私が予備知識もないままに書いたものとして、或は見当外れの譏りを免れ難いであろう。唯私が斯るものの美のよって立つところを明らかにしたいと思っていたのはたしかである。書き乍ら陶芸には相反する二つの流れにあるのに気が付いた。一つは色鍋島、九谷といわれる系統であり、一つは立杭、備前と言われる系統である。本文は菓子皿が後者に関るものであったので後者に関るものとなった。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」