鑑賞、批評

 黄熟した柿の実が澄みとおった晩秋の光に輝いている。それを見ると時間は単に過ぎ去るものではなく、一日一日の一年一年のみのりをもつものであるとおもう。みかしほ一年の歌誌を積上げると分厚い。それは私達会員の哀歓と精進の蓄積である。一月余をもって平成三年を終る。私はこの充足の中から山本礼子氏の作品を取り上げて、本年の収穫の一つとしてふり返りたいとおもう。

 北斗星射たむばかりに夜の樹々の秀に水を打つ男孫生れたり

 高揚した心気を密度高く表現された作品、北斗星と個有名詞を出されたからには、北斗星の含むものを勿論意識されているのであろう。古来北斗星は天の中央にあり、宇宙の運行を司どるものとして星の中でも最も尊崇されたものである。作者は今男孫が生れた喜びを抱いて庭樹に水をやっている。併し作者の目は庭樹を越えて遥かに天に輝く北斗星に向いている。はるかなものに目を向けさせたものはよろこびによる心の高まりである。外は内にあり、内は外にある。この生命の真実を捉えて表現に過不足がない。生命は動的なるものである。動的とは内が外となり、外が内となることである。二句うまいとおもう。

 いねがたき宵を車の通り過ぐる音の変りて雨となるらし

 私達は環境を作るとともに、環境によって作られる。感覚が鋭いとは作り作られる営為がより微細となることである。より細かく見得るということは、より深い立場に立っているということである。作者は今車と雨の音に時の移りを見ている。それは車と雨に見出でた天地の移りである。そこに大きな静けさがある。作者の真質の遺憾なく表れた作品であるとおもう。

 野ぼたんが明日咲く色覗かせる娘よゆっくり大人におなり

 おのずからなるものへの信頼と、娘への愛情を渾然としてうたい上げた作品、人間も亦生れ来ったものである。草木が華麗な花を潜ませるように、無限の可能性を潜ませるものである。ゆっくり大人におなりには、生れもった豊かさを残らず表わしなさい。それにはあわててはいけませんという親心がある。ともあれ上句と下旬の自然と人間を結合させた力は非凡である。

 裸木に百舌の鋭く啼き声奈落の如き空に涯てたり 井上徳二

 心象詠。奈落は地獄であり、出でることのない地の底である。作者はそれを百舌の啼く 声によって空に見たのである。鋭きが故に絶望の声を聞いたのである。生きる者が必ずもつ死、真摯である程人間は底に奈落をもつ。作者はふと深淵の翳に怯えたのであろう。五句涯てたりは果てたりか?

 伽耶院を長く守護せし仁王尊露はなる木目に痩せておはしぬ 岡田みさゑ

 憤怒像なるが故に、木目が浮き出て痩せた姿は力の喪失を感じるのであろう。移りたりゆくものの寂穆が感じられる。作者は老いの共感をもったのであろうか。

 ガードルに腰しめつけぬもう楽にしてやったっていいのぢゃないの 片山 洋子

 一連を読み乍ら私は情念の解放ということを感じた。それは五常五倫によってがんじ搦めにされた封建的情念よりの脱出である。氏の韻律は軽快である。俵万智と一脈相通ずるようである。一首目、五首目、後にのこるものがないが読んでたのしい。この一首まだ腰をしめつけている自分を嘲けっていると共に、その嘲けりを楽しんでいる。こういうような自分を対象化出来るのは余程頭が良いのであろう。

 雲間より時折洩れくる冬の陽を裸木分け合ふひそやけくして 岸本艶子

 四句の把握を評価したい。五句息が切れているのが惜しい。

 深々と吸ひたる息がすぼめたる唇出づる時細く鳴りたり 小紫博子

 呼気の間に出た生命の証し。このかすかなものに自己の生存を捉えた目は深い。禅家に生命は呼吸の間にありというのがある。日常の哀歓はこの上を浮遊するのである。

 霧晴るる中すたすたと歩む人見えて冬野の午近きなり 服部かずゑ

 万物枯れて荒穆とした冬の日々、二、三句そこに見出でた健かな歩みは作者の、そして冬の救いである。五句一首を冗漫にしたのは惜しい。

 不注意をさとせば素直にあやまりて厨の孫は亦コップ割る 服部 徳子

 五句普通なら怒るところを作者はほゝえんでいる。哀歓を超えて枯淡の境に入った透明感がある。

 おだてあい男は酒をくみかはす互に傷を舐め合ふごとく 藤井みどり

 おだて合うことによって互の生の確認している。併し作者はおだて合わなければ見ることの出来ない生の基盤をふんでいるのである。言葉を止めれば崩れ去るようなもろさを見ているのである。

 「水をもうかへられないから切り花は要らない」と言ひて友の今日泣く 松本君代

 力の萎えた友の嘆きが切々として迫ってくる。五句の今日泣くを泣き伏すとでもしたいが、それでは類型的となるのでこれでもよいのであろうか。

 カラカラと音する豆木引きゆきぬ今年は大豆やや多めなり 藤井早苗子

 作るもののすこやかな歓びがある。大地への感謝の感じられる作品。下句転結の妙。末筆多年なじんで来た二部会員の方々の精進を祈って筆を擱きたい。

 病める今は妻が頼りと読み返し夫のはがきをポストに落す 岩城 和子

 頼られている自分、恐らく夫は頑固な人であったのであろう。それが今病に気が折れている。作者の複雑な心の動きがよく表われている。そして徹底した写生はそれを超えて作者の心は静である。岩城さんの病の歌、徳恵さんの牛飼の歌、一つのテーマを追求して透明度を増して来たようにおもう。透明を増したとは感覚の多彩な展開をもったということである。

 隅植ゑや箱洗ひ終え湯上りを孫に軟膏を貼りて貰ひぬ 岸本艶子

 ここに日々の暮しがある、それは取立ていう喜びや悲しみではない。併しここに人は作られてゆくのである。私は斯る充足感を捉えた目は深いとおもう。

 草のしきりに飛ばす風ありてひかる五月の野となりにけり 小紫 博子

 光りと草と風が展開する五月の風光は作者の感情の生動である。ここに詩がある。これを二首目「この顔が見たくて内職する吾と孫の笑顔にこづかひ渡す」と比較すると、後者の方が完成度も高いし、喜びの振幅も大きかったとおもう。併しそこに見出した自己というものがない、一般的な祖母像しか見ることが出来ない。そこに作品の質の差があるとおもう。尚五句窮屈である、「原となりたり」か。

 働ける人等帰りて工事場の足場の奥に闇が生れる 高橋史江

 闇を見る目は光りを見る目である。作者の目は深奥に向いている。簡潔な表現は手練である。

 カンボジアの浮浪児は軒に重なりて眠りゐるなり雨降り止まず 富田久子

 五句適切、限りない哀憐の心を誘う。

 風圧のかかりて重きドア押せば否応なしにあの記憶もどる 中北 明子

 情念の世界は混沌の世界である。それは終局なき動転の世界である。併し生命はそれによって自己を形作ってゆくのである。臆せず見つめるところに作者の高貴な精神がある。

 不順なる寒さ漸く過ぎ去りて家族の絆纏並び干されぬ 服部美千代

 繰り返しの中に惰性となり無意識の中に埋没した日常を堀起すには犀利な目が必要である。併しそこに目を置くことによって真に自己を作ってゆくものを見得るのである。この一首上旬と下句置き換えた方がよいのではないかとおもう。

 跳びそこね腹をかへせし雨蛙姿勢なおしてソロリと歩く 藤井早苗子

 生物の本能のもつ撰択、面白い。

 反抗期終えたるか子は命令を聞かざる犬に反抗期かと言う

 特異な素材、一挙手一投足にも子を見守る親の心が覗かれる。

 お土産と嫁の呉れたる鯛焼の掌に温かく文化祭終る 小紫博子

 四句迄嫁との交情の一首である。受取った鯛焼の温さは嫁の温さである、満たされた一瞬の幸せである。併し私はこの一首がそれだけで終っているならば平凡な詰らない作品であるとおもう。それが五句によって救われているとおもう。文化祭終るによって、鯛焼を呉れた嫁と、その温さを意識する自分も亦過ぎゆく時間の一駒となるのである。勿論それによって交情がうすれるのではない、深まりゆくのである、限り無い時間のひと時の故に縁の不思議の前に立つのである。有名な中宮寺の思惟像はよろこびなきよろこび、かなしみなきかなしみの姿をもつと言われる。

 私は以前に氏の作品を批評し乍ら、尼僧のようなしずけさがあると言ったことがある。 作品を読んで感じることは小主観と言われる思い入れのないことである。宗教家の言葉を借れば己れのはからいの少ないことである。これがはからいを捨てたときにあるのは我を包んだ大なる生命の流れである。私は氏のしずかさはこの流れに目を置くところにあるとおもう。掲出の歌のよろこびもしずかである。

 私は表現とは個体としてのこの我が世界の姿を表わしてゆくことであるとおもう。以前 に書いた如くわれわれの生命は瞬間的なるもの永遠なるものであり、永遠なるものが瞬間的なるものである。生死としてのよろこびかなしみの陰翳が永遠なるものに映されるときに芸術はあるとおもうものである。しずけさは永遠の影としてあるのであり、氏の歌の魅力は斯るものを宿すところにあるとおもう。

 勿論私は歌は斯るもののみとおもうものではない。瞬間を映す永遠が静なれば、永遠を映す瞬間は動である。近代は個性の発見にあると言われる。それは小紫さんの方向と逆の方向である、世界の中にあるのではない、世界を内にもつのである。個は対立としてある、対立するものは闘うものである。他者を否み己れを否むものである。そこに地獄を見、悪魔をもたなければならない。私はわれわれは歴史的現在に生きるものとして、現代短歌はその方向に生面を拓かなければならないと思うものである。併しそれは亦瞬間を映す永遠に即するものとして大なる静けさに至るのでなければならないとおもう。創造は常に否定を介しての肯定であり、死を介しての生である。

 尚この他に藤井早苗子さんの

 雨の降る休日は居場所なしといひ畑が一人一人来る

を取り上げたかった。下句の一人一人の言葉のふくらみがよい。それによる情感の奥

きを味わいたい。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」