記憶

 私は書店に寄るのが好きである。別に何うゆう本が読みたいとか、何という本が欲しい訳ではない。並んでいる本の表題を見ていると、何となく世界の動き、日本の動きが感じられ、或は諸学の尖端的な動向が感じられるように思うのである。ときどきふいっと手が出るときがある。そしてそれは思いがけない題名の場合が多い。勿論思いがけないと言っても関心がなかったということではない。関心事に対してこういう面からの捉え方もあったのかと思われる本である。こういう本に出会ったとき、私の目は本の方から開かされるのだとおもう。目が開かされたということは、本の内容に我々の明光があり、我々の奥底があるということである。私は記憶をそのようなものを基礎に置いて考えて見た。

 記憶というのは身体に刻みつけられた過去の持続である。記憶をもつということはそれを言葉に於てもつということである。言葉に於てもつとは如何なることであろうか、言葉を作った人はないと言われる。言葉は人ともの、人と人との関り合いの中より生れ来ったのである。世界がより明らかな自己を形作るべく見出した手段である。言葉を作った人はないとは、言葉は個々の人間より生れるべきものではなかったということである。人と物、人と人とが相対立し、相否定するものの統一として世界が世界自身を作るところより生れたものである。記憶が言葉によってあるとは、記憶は人と物、人と人との否定と肯定、対立と同一より生れたということである。思い出は自己と物、自己と他者に関るのである。孤独の思い出であっても、孤独ということが自己と他者の関りとしてあるべきものが他者が欠除しているということである。我々の記憶は世界が自己自身を見、自己自身を維持してゆくものとして歴史の内容としてあるのである。

 言葉によって記憶があるものとして、我々の記憶は単に身体の履歴にかかるもののみではない。昔語部が言葉によって過去の事歴を語り継いだと言われる如く、言葉ははるかな過去の歴史を記憶するのである。作った人が無いところより生れたものとして、全ての人がそれによって自己を見てゆくものとして、個々の人を超えて、個々の人々が関り合うものを言葉は記憶としてもつのである。そこに歴史が成立するということが出来る。われわれが他者に関り、物に関ることによってもつ記憶も断る全人類の記憶の内容として、これを分有することによってあるのであるとおもう。

 記憶を我々は脳朧にもつ、脳朧は感覚をとうして受入れる。語部は口と耳を必要とし、物は目を必要とする。身体をとうすことなくして記憶はあり得ない。記憶は体験の記録である。斯る体験の内容が個々の人間を超えるとは、個々としての人間は自己を超えたところに自己をもつということである。我ともの我と汝が働き合うところに我があるということである。斯る我と他者の交叉が身体の生死を超えて無限の過去に関り、無限の時間に自己を映すところに言葉によって体験を記録するということがあるのである。

 人は物を作ることによって人になったと言われる。物を作るということも経験の蓄積によってあるのである。言葉の中に生死の転換が蓄積されることによってあるのである。無限の過去が現在にはたらくところに製作はあるのである。

 私達は書店に行くとその膨大な本に驚く。汗牛充棟という言葉があったが、現在では一軒の書店に何百頭の汗牛を要するか判らない位である。図書は全て形作られたものとして過去に属する、過去として、記録として記憶の内容である。併しそれは単に過去に属するのではない、来ている人は子供の将来のためにとか、職場で用立てる為とか言って買っている。過去を過去たらしめる為に買っている人はない、自己の未来を形造るために買っている。そのことは過去は未来を孕むものとして過去であるということである。買った人が本を読むということは、本の内容はその人の行為の中に消化され、新たな姿に生れ変るということである。記憶は死して希望に生れ変るということである。

 生命は自己の中に自己を見ることによって形成してゆくものである。否定が肯定として変化が同一とてはたらくものである。初めが終りを孕み、終りが初めを蔵するものである。それは現在より現在へとして動いてゆくものである。記憶は現在にはたらくものとして記億である。大なる記憶をもつものは大なる未来をもつものである。記憶の深さを知るものは全時間の深さを知るものである。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」