製作

 人間は物を作ることによって人間になったと言われる。物を作ることによって人間にな ったとは、物は人間しか作らないということである。併し人間も動物の中の一つである。動物の中の一つでありつつ、人間のみが作るというとき、作るとは如何なることなのであろうか。

 物を作るとは人間が、自己の外に自己を見てゆくことである。外に自己を見るとは、自己ならざるものに自己を形作ってゆくことである。斯る形というのは何処から来るのであろうか。私はその根底に生命の形成作用があるとおもう。生命は身体的に自己を表わすものである。単細胞動物より、多細胞動物へ、多細胞動物より爬虫類、哺乳動物、人間への発達は身体の形の転化である。多様なる機能とその統一に形の転化があるのである。生命は発生以来矛盾と闘争の裡に、無限に多様なる機能を実現し、実現しつつあるのであり、その表われが身体である。

 形成として身体は生命の二重構造をもつのである。矛盾と闘争は生命が裡に相反するもの、対立するものをもつということである。対立するものは否定し合うものである。闘うものとして一瞬より一瞬へ移ってゆくのである。生の否定は死である。死をもつものが生を争うのが闘いであり、死をもつものとしていつかは無の中に消えてゆかなければならないのである。併し闘うもの否定し合うものは未だ真の矛盾ではない。矛盾は否定し合うもの、有限なるものが、永遠なるものであるところにあるのである。

 多様なる機能と構造は、生命が否定の否定として獲得して来たのである。死に面して、 生への転換をもたんとした苦悶が創り出したものである。今全ての生物が有する機能と構造は、死生転換の裡より見出されたものである。而して現在の生命が多様なる機能と構造をもつということは、生命発生以来の死生転換が現在の身体の中に蔵われているということである。一瞬一瞬の営みは現われて消えつつ、初めと終りを結ぶ時間を担うということである。逆に言えば永遠が自己を実現するものとしてあるということである。身体は生命として、永遠なるものが瞬間的なものであり、瞬間的なものが永遠なるものとしてあるのである。そこに身体は無限なはたらきとなるのである。

 瞬間が永遠であり、永遠が瞬間であるとき生命は無限の自己形成であり、無限の自己形成とは、一瞬一瞬の死生転換が経験として蓄積されてゆくことである。機能とは斯る蓄積の痕跡である。一瞬一瞬のはたらきは死を生に転ずるものとして技術的である。対象を変じて自己の生命の秩序に随わしめるものである。それが機能である。斯る一瞬一瞬の死を生に転ずるのが経験であり、機能とは経験の蓄積によるはたらきである。身体とは斯る機能の統一体である。動物も亦行動的統一をもつ生死するものとして、身体は斯る行動をもつのである。

 製作は身体の行為である。私は物を作るということは、斯る死生転換の身体の機能の上に成立すると思う。それなれば何故同じ構造をもつ他の動物がもたずに人間のみがもったのであるか。私はそこに対立にのみ生きている他の動物があるとおもう。対立にのみ生きているとは、一瞬一瞬の死生転換に生きていることである。死生転換とは内外相互転換である。身体の欲求を内として、外に食物と対するのである。斯る行動に於ては、空腹と摂 食は何処迄も瞬間的なるものの繰り返しである。身体の蓄積は捕食行動の蓄積に外ならない。

 それに対して人間は蓄積がはたらくものとなるのであるとおもう。蓄積がはたらくとは 捕食行動の昨日と今日が結びつくことである。昨日の効率的な行動と今日の状況が結びつくことである。例えば昨日偶然に穴に落ちているけものを見つけて容易に捕えたとすると、今日けものがいるのを見て、通りそうなところに穴を掘るといったごときである。瞬間をくり返すのではない、昨日の瞬間を今日の内容とするのである。昨日と今日を統一するものをもつのである。斯る統一が意識をもつことである。無限の瞬間を記憶として保つのである。記憶として保つということは、現在の新たな状況に応じて過去がはたらくということである。過去を包む現在が成立したということである。過去を包むものとして、過去の瞬間を現在に再生せしめることが作ることである。

 人間は手をもつことによって物を作ったと言われる。手をもつことによって物を作ったとは、手の延長として道具をもったということである。道具をもったということは、過去の瞬間を現在に再生せしめたということである。偶然丸太の上に載っていた石が軽く動いたを記憶することによって、次に重い石を移動さすときに丸太に乗せるのが作るということである。手は身体の時の統一の上に成立するのである。記憶をもつ生命としての身体の形相としてあるのである。

 人間のみが言語中枢をもつと言われる。記憶は言葉によって保たれるのである。昔語部によって住吉の事歴が語り継がれたという如く、言葉は身体より出でつつ身体を超えるのである。身体を超えるとは、現身としての生死を超えることである。身体のもつ機構としての蓄積を超えて、新たな蓄積の体系を打樹てることである。蓄積が身体の生死を超えて、言葉を媒介とする無限の発展をもつものとなるのである。

 身体が身体を超えるとは、世界形成的となることである。世界は我々を包み、我々が其の中にはたらくものとして世界である。動物的身体に於て直に一であった瞬間と永遠が分れるのである。瞬間的なものが蓄積の具現として、過去、現在、未来となり、永遠なるものはこの分裂の統一となるのである。世界とははたらくものが我と汝となり、内外相互転換としての外が過去、現在、未来となることである。

 斯かるものとして私は、製作は世界が世界を見るところにあるとおもう。蓄積は世界に於て蓄積されるのである。内外相互転換としての技術は物として結集し、言葉の発展としての文字によって維持されるのである。私達は生れて来て言葉を模倣する、言葉を模倣するとは言葉の海の中に生れて来たことである。生存の第一条件となることである。私達の身体が世界形成的なるものを内にもつとは、形成的世界の内容としてあることである。世界の内容となるとは、身体が身体を失なうことであると同時に、失なうことによって真の身体となることである。製作とは死して生れることである。

 発明家は寝食を忘れると言われる。寝と食は生命の本能の大なるものである。生存の為に自然が形成し来った技術である。発明家は製作せんとしてそれを否定するのである。そこに自己の身体的生命を忘れるのである。そして物に見出た自己に満たされるのである。私はそこに世界の自己実現があるとおもう。物を作るとは自然的身体的自己を否定して、物に自己を見てゆく歴史的形成者となるのである。そして世界とは作った物が自己を超えたものとして、自己を超えたものに自己を表わし自己を見てゆくことである。われわれの身体は動物の延長線上にあるのではなくして、それを否定したところにあるのである。製作は動物的身体を無としたところに成立するのである。

 斯かるものとして私は記憶の如きも、世界が世界を見るものとして、世界の自己限定としてあるとおもう。我と汝、物と我とが関り合うところに維持されるのであるとおもう。母の記憶は母の古着の中にあるのである。犬に物を投げつける記憶は、犬に出合ったときに呼び覚まされるのである。ここに起憶する身体とは、我と汝、物と我の関り合いの内容として、重々無尽の時を背負うものとなるのである。ここに自己と言うべきものはない。少なくとも動物的身体の欲求線上に見られる自己というものはない。併しそれは無くなったのではない、底に徹したのである。世界を内にもつものとして真個の自己となったのである。単にこの我を見るのではなくして、世界が世界を見ることがこの我が我を見るものとなったのである。

 物とは内外相互転換の外が内を映したものである。相互転換としての内と外は絶対の否定をもって距てるのである。死を以って距てるのである。内外相互転換とは死生転換である。それが動物に於ては刹那より刹那へと未分的に動いてゆくのである。それが人間に於ては内外相分れる。前に経験と蓄積に於て過去、現在、未来に分れるといったのは、内外相分れたものが外を内に映すということである。外の方向に死があり、内の方向に生があるのである。物とは内外相互転換の外の方向に、死として生に対立するものである。内はそれを生に転ずべくはたらくものである。それは物の多を一にすることである。物の多を一にするとは、無限に分れた対象を、生命の純一なる流れの中に消化することである。分れたものを一にするとは努力である。聖書にも言える如く、人間は額に汗して働かなければならないのである。斯くして死を生に転ずべく見出されたものが物である。それは生の固定化として、無限に動的なる生に対立するのである。

 内外相互転換は固定化なくして流動はない、否定なくして肯定はない。固定化とは形に見ることである。生命は物に自己を見てゆくのである。斯くして生命は無限なる固定化と、流動化である。固定化と流動化とは、物にはたらくものを映し、はたらくものに物を映すことである。いよいよ深くはたらくものを宿すことによって物はいよいよ物となり、物をいよいよ深く宿すことによって、はたらくものはいよいよはたらくものとなるのである。而してそれは内と外、生命と物がいよいよ対立するものとなることである。それは例え平和産業の発展を期したノーベルの火薬が殺人兵器となり、原子力が人類絶滅の危機を孕み、化学の進歩が環境汚染として生物の死をもたらしている如きである。内が外となるとはいよいよ大なる否定として立ちはだかることであり、外が内となるとはいよいよ大なる肯定として輝かしい生命を見ることである。

 斯るものとして製作は無限なる内面的発展である。内面的発展とは物が物を見、技術が技術を展いてゆくことである。物は否定が肯定に転ぜられるものである。斯る転換は何処迄も物に即して転でられるのである。技術とは物に即し、物そのものとなって転じてゆく方法である。物となって見、物となってはたらくとは、物が内面的発展をもつということである。技術は構成である。それは自分の目的に従って構成してゆくのである。目的的に構成することによって、いよいよ自己の目的が明らかとなり、明らかになることによって目的の秩序に構成するのである。それが技術の内面的発展である。

 対立する物と技術は内外相互転換に於て、内面的発展として結合するのである。内面的発展は相互転換としての時を内包するものとして、永遠の形相をもつものである。そのことは逆に言えば永遠とは無限に動的にして、初めと終りを結ぶものである。製作とは永遠が自己矛盾的に自己の中に自己を見てゆくことである。生命が動的であるとは、自己の中に自己否定をもつことである。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」