血の記憶

 透明な初冬の空をふるわせて銃声が響く。目を向けると木の間がくれに、二、三人猟銃を担いだ人が山を登っていくのが見える。ああ今日から狩猟解禁になったのだなあと思う。

 今は亡くなったが私の家に鎌を作って持って来る出井肇という男がいた。其の男が無類の狩猟好きであった。私達もよくついて行ったものである。そして行く度にその無精髭を生やした男達の敏速な行動に感心したものである。誰かが「兎だ」と叫ぶと、声と同時に担いだ銃を手に執り直しグループの者は走り出していた。その背後より出井さんは、「誰は向こうの山の峯、誰は彼処の谷の入口、誰は何処」と指示を与えていた。慣れというのはえらいもので地形を見ると兎の逃走経路が判るらしい。やがて犬が追い出した姿を見つけると轟然たる音が響き、暫くすると鉄砲の先に縄で括った人が現われたものである。

 けものの棲む山路は険しい。夕方になると犬は長い舌を垂らして激しい息遣いに歩き、人は谷間の水を見つけると鼻先を浸し乍ら水を呑んだものである。四、五人のグループの人がそれ程苦労をし乍ら其の日の獲物は私達ついて行った者に呉れたものであった。私はもらい乍ら何で獲りに来たのであろうと思ったものであった。聞くといつも「面白いから」という答えが帰ってきた。

 何時であったか私は、我々が狩猟に興ずるのは獲物を追って山野を駆け回った縄文時代の血の記憶が騒ぐのだという記事を読んだことがある。勿論血は記憶を持たない。記憶をもつのは頭脳である。而し頭脳が記憶を持とうにも、我々は縄文時代の山野も知らなければけものも知らない。大正に生まれた者が縄文時代の野を走れる筈もない。私はこの言葉の中に深い真実が潜んでいると思わざるを得ない。

 私達の生命は無限の過去を背負っている。私達が今この人間の姿をもつ迄に生命は 幾つもの過程を持って来たのである。私達が胎児となった最初には、横に幾つかの点模様がついており、それは人間が曽って水中に棲んでいた頃鰓で呼吸した痕跡であるというのを読んだ事がある。それから両性類、哺乳類の形態をとり、生まれた時は猿に似てやがて人間の姿を完成すると書いてあったと記憶する。恐らく私達は生命創生以来の姿をこの身に具現するのであろう。私達の身体は斯るものの統一としてあり、斯るものの統一としてある事は斯る無限なるものが働く事であると思う。働くとは動かす事である。我々の行為をあらしめる事である。

 私達は水を浴びたい欲求をもつ。若し水に馴染めない皮膚であれば何うしてこのような欲求をもつのであろうか。そしてこのような皮膚は原初の水の中に生きた時に作られたものであると思う。尚その時の生命が働いているのであると思う。濡れたままでいる事を嫌う。それは水の生活を超え、水中の生命を否定して現在の形態を獲得した生命の働きではないかと思う。

 自覚的生命としての我々の行為は意志的である。合目的的である。而し我々の日常の全てが合目的的な有意動作ではなくして、意識下としての無意識的なものが働いている事は多くの人の言うとおりである。私は意識下とは身体自身としての無限の過去が働いている事であると思う。我々がそれを超克し来ったものとして、我々が其の上に成り立つものとして掴む事の出来ない大なる生命の力であると思う。超克するとは我々の目的的行為はその上に成り立つ事である。全存在は我々を一点の微塵とするものである。

 超克するとは一微塵が逆に全存在を内にもつ事である。現在の一点に於いて過去を 未来に転ずることである。有意的動作は無意識的としての意識の縁暈の上に成り立つのである。意識下の世界は我々を一微塵とする延展を有すのである。我々は混沌の中にある。自覚は混沌の自覚である。

 自覚的生命は表現的生命である。自覚とは外に物を作る事に自己を見てゆく事である。物を介しての人間の連結が社会である。斯るものとしての我々の身体の無限の過去は社会としての習慣の中に保持すると言う事が出来ると思う。血の記憶とは、親の興奮する声が我の興奮を呼んだものであり、親はその親より、その親より連綿として継続せる血の騒ぎであると思う。水浴は太古の皮膚の記憶とも言い得ると思う。縄文の血の記憶とは社会的習性を通じて我と縄文人が直に一なるものがあるということであると思う。

 ギリシャ悲劇に流した人の涙は直に私の涙として私の目より溢れ出て来る。幼児の 微笑みは直に我々のほほえみとなる。血に於いて、涙に於いて、ほほえみに於いて、 古今東西を超えて我々は直に一つなるものをもつ。私は世界は異なるものによって作られ乍ら一つであるというのは斯るものに根差すと思う。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」