苦悩について

 生、病、老、死は苦ではない。鯉は背に庖丁を入れられても騒がない。犬は老いの 不安を持たない。かまきりの雄は雌に食われて死ぬのを当然とする。生物にとって生・老・死は形相維持の循環であって本然の姿である。其処に苦悩のあるべき余地はない。それが苦悩であるのは永遠の鏡に映して有限なるが故である。何故に永遠に映す事によって苦悩があるか、それは自己の来所が永遠であり、永遠は自己本来の面目なるが故である。苦悩とは自己か自己ならざる事である。努力とは自己が自己であろうとする事である。苦悩は生、死、老、病にあるのではなくして我々が自覚的自己である処によるのである。私達はよく脳溢血となって中風になり、生の意欲も死の恐怖もなく、よだれを垂らして唯其の日、其の日を生きているのを見る、自覚の喪失は赤苦悩の喪失である。

 しかし永遠が永遠である処も苦悩はない。苦悩は何処迄も生、病、老、死にかかわる のである。生、病、老、死なくして我々の苦悩はあり得ないと言っても過言ではない。槿花一朝の嘆きは文芸の素材となり、老醜無惨は老いゆくものの悲しみである。我々 は生、病、老、死をもつものとして苦悩するのである。壮健不死ならんと欲してならざるが故に苦悩するのである。

 自己が自己ならざる事が苦悩である時、苦悩をもつとは自己矛盾的にあると言う事 でなければならない。私が苦悩すると言う時、私は生死する生命と永遠なる生命とし ての相反するものの統一としてあるのでなければならない。それは二つの生命が合 さって一つとなったのではない。直に一つである。永遠なるものが生死し、生死する ものが永遠なるものである。生死を見るのは永遠より見るのである。永遠は生死する ものが見るのである。其処に自己が自己ならざる苦悩が生まれるのである。自己の中に絶対の懸絶を持つのである。我々の自覚は其処より生まれるのである。自覚に於いては、見るものが見られるものであり、見られるものが見るものである。自覚は単に知るのではなくして相反する自己が限定し合うのである。自覚は苦悩より生まれ来るのである。

 自己とは世界の中にあるこの我が逆に世界を自己の内容とする事である。世界とは この我が生まれ働き死んでゆく処である。それは我々が現れ来り、消え去る処として この我を絶対に超えたところである。斯る世界に於いて我々は働くものとして自己と なるのである。私達は名刺を刷る時に住所、氏名と共に職業、地位を記入する。其処 に私達の具体的な自己はあるのである。私達は職業に於いて限り無く関り会う、其処 に社会があるのである。そして社会は限り無い過去と未来を負う、それが世界である。私は鎌を商うものであるが、その淵源は遠く鉄の発見に遡り、更に石器、木器と遡らなければならないであろう。私は其の無限の時間を内容とする事によって私なのである。今商っているのはこの無限の時間を負う事によってあるのである。今此処に住むのも氏名を持つのも重々無盡の過去を持つのである。私が鎌を商うと言うのはこの無限の過去を内に持つと言う事である。そして現在に於いて働き、未来を望むと言う事である。

 我らの自己は斯く生死する生命を超えた処に成立するのである。生死する生命は斯 る世界に映す事によって生死はあるのである。若し私が生まれて直ぐに野犬の中に 育ったとすれば、私は私の死を知らないであろう。生物本然の死をもつのみであろう。 無限の時間に映して我々は無常の嘆きを持つのである。而して無限の時間とは全宇宙が、そして全宇宙の尖端として全人類が行為的に創造し来ったものである。世界は全人類の内容として、この我を超えたものとして無限に自己創造的である。時代の流れには勝てないという言葉がある。世界は個人を超えるのである。

 しかし亦個人なくして世界はない。あるものはこの我、汝として個々の人々である。個々の人々に背負はれる事によって世界はあるのである。個人とは身体的に行為するものである。世界の自己創造と言うも身体的行為な してはあり得ない。この事は身 体が無限の過去、現在、未来を内容として持つとゆう事でなければならない。身体は 生、死する身体である。生死する身体が無限の過去、現在、未来を持つのである。それは相反するものである。而して身体は一つである。相反するものが一つであるとは 身体に於いて一つであると言う事である。細胞そのものが自己矛盾的であるところに 無限に動的な生命があるのであり、我々の自己があるのである。身体の中に時間が生まれ、時間の消えゆく全存在があるのである。

 私達は世界の中にありつつ世界を内に持つものとして自分が世界であろうとする。全能と永生と自由を望んでそれを実現せんと欲する。而し生死するものとして我々は何処迄も有限である。あろうとする我とある我とは深淵を距てて乖離する。自己が自己ならざるとはこの乖離である。あろうとする我は世界よりの声として実現を迫るのである。自己の所在として実現を迫るのである。苦悩は此処に生まれるのである。人間にとって肉体的な死よりも社会的な死こそ真の死である。よく社会に参与し得ざるものが自殺するのはこれに因由すると思う。犬が死の不安を持たず、人間が不安をもつのは世界の実現として無限なるべきものが死によって絶たれるが故に外ならないと 思う。我々は苦悩を離脱せんと欲する、而し有限的、無限的としての矛盾的存在である限りそれは不可能である。離脱せんと欲する事愈々深くして、苦悩は愈々深まるば かりである。キエルケゴールの死に至る病は此処にあると言えるであろう。

 しかし翻って考へれば苦悩こそが永遠であると言う事が出来る。永遠は現前に於い 永遠である。形なきものは何ものでもない。生命に於いて現前するとは一瞬一瞬に 消えつつ現れる事である。單に個とゆうものはない。單に世界とゆうものはない。あるものは個と世界の矛盾としてあるのである。この事は世界の自己創造は刹那現成的 にある事である。生死するものに現前する事である。個と世界の矛盾の中に苦悩はあった。それは離脱せんとして離脱する事の出来ないものであった。而し斯る矛盾の中に世界は現前するのである。世界が現前する事は、世界を内にもつ事によってある自己も亦現前する事である。私達は自己が苦悩をもつのではなく。苦悩の中より現前し来るのである。唯現前し来った自己が世界を内包するものとして苦悩はあるのである。絶望は有限に於ける無限の喪失と、無限に於ける有限の喪失の二つがあると言われる。苦悩とは抽象的立場に立つ事である。永遠とは無限なるものと有限なるものが相互限定的に一つになる事である。生命が生命として自己完結を持つ事である。

 私達の苦悩は自己が世界たらんとして世界となり得ない処にあった。而し苦悩に於いてこの我と世界が現前する時、この我は直に世界であり、世界は直にこの我でなければならない。この我と世界の出で来る処として、この我と世界を離れて苦悩に直接する時、苦悩は苦悩を離れて一大生命の具現となり、大歓喜えと転ずるのであると思う。苦悩は自己ならざる自己が自己であろうとする努力であった。而して斯る努力は超える事の出来ない断崖に面せざるを得なかった。而し努力自身が本来の相として、行きつくべきものとしてあったのである。苦悩の克服ははるか彼方にあるのではなく、苦悩自身を観る所にあったのである。

 この我に世界を見る事によって自己であろうとする努力は、世界がその内容としての個的生命に於いて世界自身を実現しようとする事であるという事が出来る。若し野犬の中に育ったならばこの我の意識をもたないであろうという事は、この我は世界を映す事によって自己となると言う事である。この我が世界を映すとは、世界は個的生命に於いて顕はとなる事である。苦悩は其の接点にあるのでる。生命は矛盾としてあり、矛盾は苦悩である。この我の苦悩は世界の自己実現の形相である。自己ならん と欲して自己ならざる苦悩は、直ちにそのまま世界の実現である。

 私達は何処迄もこの我として生きる。死の悲しみは逃れ得ぬ運命である。而しこの 悲しみは永遠が自己自身を見ている相である。苦悩は、苦悩が世界の自己形相とし て苦悩を離脱するのである。其処に最も深いよろこびが生まれる。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」