同じ音でも列車の走る音は芸術ではない。而るにバイオリンを弾く音は芸術である。 私達は感覚をとおして外界を受入れる。而し匂いは芸術となり得ないのに対して、色 彩は芸術となる。即ち嗅覚は芸術となり得ないのに対して、視覚は芸術となる。言わ れる如く、芸術となる感覚は繰り返す事によって明らかとなってゆくものであり、繰り返す事によって失われてゆく感覚は芸術となり得ないのであると思う。高架鉄道の下に住んでいる人達が、初めはその騒音に悩まされて眠れなかったのがやがてなれて平気になったと言うのを聞いた事がある。如何によい匂いも繰り返すと感じなくなり、如何に美味しい食事も繰り返すと感じなくなる。音楽家がバイオリンを日夜弾く事によってよりよい音色が生まれ、画家が寝食を忘れて描く事によってよりよい形や色彩を見てゆくのと対照的である。前者の生存に直接するに因するのであろうか。
果してそうであるならば感覚が繰り返す事によって明らかになるとは如何なる事であろうか。画家は描く事によって無限に多くの色を見ると言われる。私達の見ていない色彩を見ていくと言われる。赤の中に赤を分かつのである。私達が一つの赤を見て いるのに対し、無限の赤を見るのである。此処に無限と言うのは何処迄も赤を分かっ てゆく事を言うのである。私達が絵を美しいと言うのはこの見る事の出来ない色彩を 見ているが故に外ならないと思う。内藤先生がやっておられる書もそうであろう。書は線の芸術と言われるが、練習を繰り返すうちに幾多の線が見えて来るのであると思 う。斯る幾多の線からのみ今筆を動かしている線の必然が生じるのである。人前では筆を執ることも出来ない私がこのような事を言うのは、或は見当違いであるかも知れ ない。而し私は斯るものなくして書の芸術はあり得ないと思うのである。色彩に於け る如く視覚は自己自身を無限に分化する事によって自己自身を明らかにしていくので ある。よく創造という時、ゲーテの幼児の時の体験が語られる。今引用すべき典籍が ないので正確ではないが、何べんもバラの花を見ていると、花片の中から花片が生じ、視界が花片で埋まったと言った如きであったと思う。それによってバラの美はゲーテの内容となったのである。限りなく分かつことによって視覚は自己を実現するのである。限りなく溢れ出るバラの花片は、最早対象バラではなくしてゲーテの視覚的生命の内面的発展であり、自己創造である。この内面的発展が即ち美であり、芸術である。
それならば、この無限に自己を分かち、自己自身を創造していくものは如何なるものであろうか。私はこれを最も深き意味においての質に求めたいと思う。愛とは何か。人間が世界形成的に自己を見ていく、人格の形相である。我と汝がこの世界を創っていく、相互の関わり合いである。お互いがこの世界を創っていくものとして認め合い、お互いが世界を創ろうとする意志である。私達は身辺的にも可愛い孫を見る時、他人に見る事の出来ない幾つもの孫の動きを見る事が出来るであろう。而しそれは未だ世界形成的ではない。本能的であって人格的ではない。よく孫の短歌が作られるがそれが芸術として深い感動を呼ばないのは世界形成的として無限の展開を持たない事に因すると思う。それが深い芸術となる為には他者として、共に世界を形成するものとして、人格の発見がなければならないと思う。私達はミケルアンゼロの作品の暗さを見る時如何に彼が人類を愛したかを思わざるを得ない。黒焰の渦巻く深い噴火口に臨むと評される彼の大なる力はそのまま彼の人類への愛の力である。レムブラントの作品も暗い、而しよく見ると其の色彩は大変美しいと言われる。好んで庶民を描いたと言われる彼は、共に世界を形造るものとしての限無き同情と愛がその作品を生んだものと思う。書に於いても其の線に書く人の人格を具現する事なくして芸術の意味があり得ないであろう。豊かさは他人を包み得る豊かさであり、きびしさは自己を律するきびしさである。其処に顔眞卿、王義之のリズムがあると思う。或は自人一体の飄逸であるであろう。線に主体が自己を見ていくのである。此処に線が次の線を生むのである。自己の奥所が現われるのである。表現に於いてはこの自己の奥所が世界の奥所である所に芸術としての美があるのである。芸術の根底には深く人格としての愛が働くのである。限り無く分化し、分化を自己の分化として深く統一するものは愛としての人格である。
人格は主体の世界として我と汝の関わり合いである。我と汝の関わり合うのは社会であり、それの実現は歴史的である。この事は必然的に、芸術は歴史的具現の内容とならなければならないと思う。最近芸術論に於いて最も問題となるのは、近代絵画に於ける純粋視覚の問題であろう。視覚とは何か、私はかつて目とは生命が対象に向かって流れ出た身体の堀割であると書いてあるのを読んだ事がある。鯛は深海にあっては人間の五千倍の明らかさでものを見る事が出来ると言われる。而し見えるのは餌と敵だけであると言われる。禿鷹は千米の上空より地上をありありと見る事が出来るが見 るものは野ねずみだけだそうである。外が内であり、内外である。私達の目は自然として単に生まれたのではない。長い人類の歴史によって培われたのである。よく開眼と言う事が言われる。心を展く事によってこれ迄と異なった意味に於いて事象が見える事である。高次の形相に於いて物が捉えられる事である。そのような深いものでなくても、洋画に接する事によって日本人の目に一つのものが加わったのは確かである。
ペルーの山奥の原始生活を営んでいる村落に行って、呪術社会を研究した人の著書 によると、アンデス山の美しい積雪の景色も彼等は悪魔の棲家として恐怖の対象であり、ことに吹雪ける日は、悪魔の怒りの鼻息として、見るのも怖れるそうである。私 達はそれを荘厳と見る私達の目と、彼等の目に介在する時間の長さに思いを致すべきである。私達も其処に生まれておれば恐怖しつつ見上げるのである。純粋視覚とは視覚的なるものを具体的世界より抽象するのではなくして、具体的世界にあるものの目として、具体的世界の根元に還るのでなければならないと思う。私達は世界を創ると共に世界に生まれるのである。 世界より作られるのである。先輩に向かって其の考えを古いと言い得るのは動きゆく世界の現在の確信を持つが故に外ならない。世界は私達が動かすと共に、世界自身の内在的矛盾によって動きゆくのである。私達が世界を動かすとはその内在的矛盾の内容となる事によって行為する事である。国乱れて忠臣出づと言われる如く、世界よりの声に呼ばれて我々はあると言う事が出来る。その時我々の目も耳も時の声に向かって開くのである。純粋視覚とはこの動く世界の歴史的現在の形相を見る目となる事でなければならない。
斯る意味に於いて自己とは、自己の奥底に自己を越えたものを持つ事によって自己 となるのである。歴史が自己の内在的矛盾によって動き、その歴史的現在として我々 の目があると言う事は、我々の目は歴史が自己自身を見ていく目としてあると言う事 でなければならない。斯る内容として我々があると言う時、この我とは全人類的自覚 の内容としてあるのでなければならない。自覚は歴史を包む全人間的であり、その形 象は全人類的でなければならない。この全人類的なるものが一即多、内即外として動いていく時我々の目はあるのである。近代絵画に対する深い鑑賞眼を持たない私は一々具体的にこれを例証する事は出来ない。而し私は前衛と言われるのも斯るものでなければならないと思うものである。
自己が自己を見、自己を表現する。外の物に内なる自己を露わにする。其処に歴史 は生まれ、世界は動く。時間、空間は人間の自覚の内容である。空間は自覚の中に展き、時間は自覚の中を流れるのである。斯るものとして自覚的生としての人間は無限であり、永遠である。而して斯る自覚は一即多、多即一、内即外、外即内として現在より現在へ、事実的に自己を実現していくのである。現在は無限の過去をはらみ、永遠の未来をはぐくむと言われる所以である。全時間が今の内容となる意味に於いて永遠の今である。芸術が刹那を露わにしつつ芸術は永遠なりと言われる所以は、この人間存在を形象的に映すと言う所にあるのでなければならない。
而して現在が現在を越えて過去と未来を内容とすると言う事はこの我と汝が働き合うものとしてある事であり、働き合うこの我と汝は自己を見るものとして逆に世界を自己の内容とするものでなければならない。一々の私が過去をはらみ、未来をはぐくむのである。知るものとして永遠を宿すのである。斯かる我と汝が相対立しつつ世界を実現せんとするのが愛である。私達は斯る存在として歴史的現在の事実としてあるの である。この我が世界を実現せんとする時、世界は無限の陰翳をもって現われて来る。声が出、手が動く時詩が生まれ絵画が生まれる。この無限の陰翳が歴史的現在が自己自身を表す形象である。私は私達が作歌する時この世界実現として我と汝、我と対象が接する所を見なければならないと思う。我に対象を見、対象に我を見るのである。対象が我を作り、我が対象を作るものを見るのである。我を映す純なる目となるのである。
この我が世界を包み、世界を作ると言っても、世界は深く且大である。歴史が歴史自身の内在的矛盾によって動きゆく時、よく一個の人間の補足し得る所ではない。而し歴史が動くとは何処かに自己を表していく事である。其処に天才がある。啓示とか天来を受くべき人間がいる。天才は歴史の自己実現である。個的意志を超えて深き世 界より呼ばれるものである。
美の範型は「時代の様式的正」であると言われる。この事は歴史は時代的に自己自 身を限定していく事であると思う。歴史的現在が過去、現在、未来を包む永遠の今の 意味を持つ如く一つの完結を持つのである。大なる今の意味を持つのである。歴史は常に原初的な生とイデーの矛盾と統一である。新たな生命が生まれて新たな形象をつくる。新たな形象があるとは、形象が生と死を持つ事である。斯るものが知るものとして生死を超えるのである。時代に於いて歴史は最も具体的である。この形象は生を其の秘奥に於いて露はにするものであろう。時代の様式的正、それはこの我の最も深き自己の顔として、我々に対面さすものであると思う。歴史的創造的生命が自己自身の顔を見ていく、其処に芸術の最も根元的なものがある。
註)鳥やけものは孫を愛さない。歴史的、形成的の故に色々なものが見えて来るので ある。唯それが直接的な時は浅い。故に本能的と書いたのである。
長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」