花有情

 よく飲みに寄るグリル文福の正面に、花竹有情と書いた額が掲っている。明るさと 温かみを持ったよい言葉だなあと思って何時も眺める。書体も優美、清楚でよい。此処にはたまゑ君と言って評判の才媛がいる。ドストエフスキーに傾倒していると言うので、話すのを楽しみに行くのであるが、何分私は一番安物の客である。利潤追求の必然として、私の前に来るのは客の空いた時となる。豪勢な客に彼女が営業用の微笑をもつ時、手持無沙汰な私は花竹有情とは何ういう事なのだろうかなどと考える。今日は一寸閑なので以下感じた事を書いて見たいと思う。花も竹もとはいかないので花 に主題をとりたいと思う。

 花有情と言っても花が情念をもつのではないと思う。遺伝因子と環境の関連の必然 としてある花に、感情や意志のあり得ないのは当然である。而し私達がこの言葉にうなづかざるを得ない時、花は私達に語りかけ、誘いかけるものをもつのでなければな らないと思う。呼び応えるものがなければならないと思う。それが花自身から考えられない時、花有情の花は花自身より更に深い意味をもつものでなければならないと思う。勿論それは花以外のものであってはいけない。あく迄も花でなければならない。果してそうであるならば、この語らさるものが語るとは如何なることであろうか。私はこの謎を解くためには人類が経て来た、限り無い時間の秘密の中に入りゆかねばならないと思う。

 私達は目で花を見る。そして見えた花を美しいと思う。そして花を見る目は直ちに美と結び付くように思う。而し花を見る目は直ちに美に結び付くものであろうか。或る人の短歌に、畦の草刈をしていると美しい花の一株があったので其処だけを刈り残したと言うのがあった。若しこれが牛であったら食べ残しはしないであろう。若し食べ残すとすれば食えないからであろう。視覚神経は同じ構造をもつはずである。生命としての生体を維持せんとする動物に於いてあるのは食物のみである。其処に花の美しさはあり得ない。若し花園の中に羊をつないだとしても、羊の知るのは何れが食えるかであり、見るのは食えるもののみであろう。今でもオーストラリアの山中に真に原始生活を営む人がいるそうである。雨期になって川に水が溢れ、植物が茂り、動物が繁殖すると、何処からかともなくその種族の人が集まって来、乾燥期になって食物がなくなると亦何処かへ散ってゆくそうである。その人達は死の恐怖も生の歓喜ももたないそうである。そして汚れた泥のような肢体に生きているそうである。私は其処にはやはり花を美しいとする目はないように思う。それならば人間が花を美しいと見る目を開いた発端は何であったのであろうか。私はそれは人間が神を見た時に始まると思う。我々の祖先は先ず死の恐怖に於いて神を見た。死として無に帰した霊魂を形に露わにする事によって鎮めんとした。生死を超え、生死を支配するものを造形する事によって死よりの救済を求めんとした。私はそれは人間の自覚の最初のものであると共に、最も本質的なものであると思うのである。(それについての考察は亦別 の機会に譲りたいと思う。) 古代遺跡として今に残る造形物は全て斯る意味をもつと思う。全て怪異であり、巨大である。而しそれはまだ美ではない。此処に美ではないと言うのはまだ美意識を生まなかったと言う意味である。私はそれが美となったのは製作者が自己の力の自覚を持った時からであると思う。形の中から次の形が生まれた時からであると思う。形の中から次の形が生まれる為には、作者は自己の内面的なものに入ってゆかなければならない。無なるものが形となるのは全て内面的なるものの表出である。原初に於いては人間一般的であったものが、この我としての真の内面的なるものとなるのであろう。人間一般と言うのはあり得ない。あるのはこの我だけであり汝である。この我が自とは如何なるものであるかを求めた時、自己の奥底に人間一般が見られるのである。人間一般は内面となる。表現はこの個と一般の相剋と統一の苦悩と歓喜である。この我の確立によって生死は愈々深くなる。無限の形は此処より生まれるのである。この自己の底から一つの形より、次の形が生まれる時、私達は美しいものの意識をもつのであると思う。自己の形を見るとは世界のイデアを見るのである。

 花を見て美しいと思うのは、このような人類の内面的発展をひそめもつが故に外ならないと思う。私達の目を牛や鳥の目と分かつものはこの限りない苦悩と歓喜の努力の上にあるが故に外ならないと思う。或は私はそのような苦悩と歓喜、内面的発展を持たないと言われるかも知れない。而し前に書いた如く、個としてのこの我が見てゆく自己の奥底は世界である。世界の自己実現としてこの我はある。世界の自己実現として真の創造は歴史的創造であり、歴史的現在としてこの世界は無限の過去を孕み、未来をはぐくむのである。我々はこの世界を映すものとしてこの我である。我々は一つの生物としてではなく、歴史的創造の創造点として、過去、現在、未来を統一するものである。

 日本人は花を自然の花としてではなく、活花として存在の相を表そうとした。自分の一番深い相を見ようとした。種の花に無常な己の生命の姿を見、散りゆく桜の花に己の死すべき姿を見ようとした。やはり野におけれんげ草と言う句は、亦己が野生への郷愁でもあったであろう。白い花に清潔を、赤い花に情熱を、全て花は情念に於いて捉えられ、見られたと言う事が出来る。そして私達が今花を見る目はこの生花の形が働き、和歌、俳句の心が働き、物語りが働き、絵画が働くのである。私は花有情と言うのは、花が情念をもつのではなくして、過去より数限りなき情念の目を以って見られ、私達の目はそれをひそめるものとして、花を介しての過去との目の対話であると思う。目がひそめもつと言う事は花がひそめもつと言う事であり、花がひそめもつと言う事は目がひそめもつと言う事である。目は歴史的現在の目であり、我々の目は歴史的現在の目として全人類となる。内容をもつのである。この事は花が情念の影となる事ではない。斯る目に於いて花は愈々赤く、愈々白いのである。花の色愈々鮮やかにして情念の愈々大なるものがあるのである。園芸を培うのは亦自己の情念を培うのである。そしてその情念の背後に深き歴史的創造の世界があるのである。バラを見る時リルケの詩があり、ダリヤを見る時ゴッホの画がある。菜の花を見る時蕪村の句があり、垣根の小さな花を見る時芭蕉がある。世界に入る事深くして花は多くを語ってくれるようである。花に我と過去と出会う時花に情のすまうのである。花も目も我も重畳無限の歴史的自覚の内容であり、限りなき生命の荘厳である。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」