色 即 是 空

 以前に読んだ生物学の本には、人間の細胞は三十兆、脳細胞は百二十億と書いてあったと記憶する。それが今度の本には細胞が六十兆、脳細胞が百四十億と書いてある。短期間にそんなに増える筈がないから測定の方法が精密化したのであろう。前に読んだ本では脳のはたらき得る可能性は、百二十億の百二十億乗、全宇宙の電子の数に匹敵すると書いてあった。そうとすると現在は更に増えていることになる。但し人間が生涯に使うのは十数%にすぎないと書いてあった。それにしても人間の想像を絶する深大さには、驚異とも畏敬ともつかないものをもつばかりである。

 生命は三十八億年程前に誕生したらしい。その生命が単細胞生物から、多細胞生物となったのは六億年程前らしい。それから陸棲動物となり、両棲類、爬虫類、哺乳類より人類へと進化したらしい。即ち六十兆の細胞と百四十億の脳細胞は、人類が三十八億年の生死の陶汰を繰り返して形作ってきたものである。二十億年の無核生物、十二億年の単細胞生物、六億年の海中、陸棲を積重ねてきた生命の構造物である。多彩なる機能は長い間の、生死の中より獲得してきた形質である。

 この頃テレビできんさんぎんさんというのが評判になっている。双生児の姉妹で共に百才であるらしい。評判の原因はその長生にあやかりたいということらしい。この頃の平均寿命は男七十六才位女八十一才位と新聞に書いてある。私達の若い頃の人生五十年に較べれば長生きになったものである。併し死は幾つになっても悲しいものである。

 般若心経は五蘊(ごうん)は皆空なりと照見して一切苦厄をし給うと説き、色即是空と説く。五蘊は五官であり、感覚であり欲求である。欲求の対象は物である。物は全て対立をもつものであり、対立は相互否定的である。否定すると共に否定されることによって物はあるのである。否定すると共に否定されるとは形が変ずることである。物は必ず壊れるものである。身体も亦形あるものとして、必ず死にゆくのである。物の壊れてゆくのは所有するものにとって苦しみであり、死ぬことは生きるものにとって苦しみである。生を死に映すとき、見るもの聞くもの全て苦しみたらざるはない。斯る苦しみは皆空なりと観ずることによって救済されると説くのである。

 何故死ぬことは悲しく苦しいのであるか、犬は老いの来るのを悩まない、唯食物を探すだけである。鯉は背を包丁で割かれても静かである。死に面せずして死に苦悩するのは人間だけである。他の動物は健康であるのに悩むことはない、そこに人間の知があるのである。人は他者の死を見て自己に来る死を知る。他者の死を知るということは、自己ならざるもの、自己を超えたものを知ることである。それは無数の生死を知ることである。人は必ず死ぬという命題は、唯一人や二人の死を見ることによって生れたのではない。病・老・死を無数に見ることによって来ったのである。自己を超えた無数の生死を見ることは、無限の時を見ることである。生死を超えた時間を見ることである。死のかなしみは、生死を超えた無限の時間の中に、自己の有限を見るが故にかなしいのである。無限の時間の中に映すとき、有限なるものは何れも儚きものとして、泡沫と生れて消えゆくもののかなしみを持たざるを得ないのである。

 如何にして人間は無限の時間を見、自己を有限と見るのであるか、私はそこに三十八億年の生命形成を見ることが出来るとおもう。私達の生命は一瞬一瞬の内外相互転換に於て自己を維持してゆく、呼吸をし、食物を摂り、ニュースを聞き、他者と語らって生きている。併しその一瞬一瞬は六十兆の細胞を作り、百四十億の脳細胞を作った、三十八億年の時間を孕むものの一瞬である。我々の身体は生れて死ぬ、併しこの泡沫とも言うべき八十年は、過去の無数の生死の集積としての身体である。無数の生死の集積とは、生死を超え生死を内に包むということである。私達は歩き乍ら様々のものを見る、一歩一歩異ったものを見る、而して其の一々は脳細胞の測り得ないはたらきを背後にもつ目によって見るのである。一瞬一瞬は意識の達すべからざる時間をもつのである。達すべからざるものとして、過ぎゆく一瞬一瞬がそれによってあり、その中にあるものとしてそれは永遠なるものである。生命が動的として無限にはたらくとは身体的に自己を形成することであり、身体は永遠なるものが瞬間的であり、瞬間的なるものが永遠なるものとして自己を形成するのである。動的であるとは矛盾の統一ということであり、永遠なるものに瞬間的なるものを映し、瞬間的なるものに永遠を映すことによって自己を形成してゆくのである。矛盾の統一として、永遠なるものと瞬間的なるものが相互限定的に自己を形成してゆくとは、生命は自己の中に自己を見てゆくことであり、身体は生命の具現としてあることである。身体は身体の中に自己を見てゆくのである。

 人間は言葉をもつものとして自覚的に自己を限定する。自覚的とは外に表現的に自己を見てゆくことである。瞬間に永遠を映し、永遠に瞬間を映すということは表現的に自己を見てゆくことである。見るものの方向に三十八億年の生命を宿す永遠なるものがあり、見られたものの方向に現在の形として、形より形へと移りゆくものがあるのである。無限なるものの前に立つ有限なるものの悲しみはここにあるのである。身体は見られたものであると同時に見るものである。悲しみ苦しみは動的なるものとしての、身体がもつ矛盾乖離にあるのである。苦悩は無限と有限、永遠と瞬間が対立することにあるのではない。自己が自己ならざるところにあるのである。対立するとは自己が自己ならざることである。自己ならざる自己が、自己ならんと努力するのが苦悩である。それは苦悩せんとして苦悩するのではない、矛盾はそれ自身が一なることを要求するものであり、人間に於ては自覚と して、言葉に露わならんとするのである。真に生きんとすればする程、生の根源として湧き来るのである。

 この我とは今此処にせんべいを嚙り、原稿紙にペンを走らせている我である。それ以外に我があるのではない。それは他者に罵られて腹を立て、病みては床に呻吟するわれである。やがて死して焼場に送られる我である。何処迄も色身としての我である。色身を離れて我はない。而して色身の世界は対立矛盾の世界であり、苦悩の世界である。空なりと観ずるとは如何なることであろうか。色身は現実に於て如何にして救済されるのであろうか。離れてあり得ないものを離れる観とは如何なるものであろうか。

 今囓っているせんべいは、人類が長い歴史の中に経験の蓄積としての技術による世界形の内容としてあるのである。私は今身の養いとしてせんべいを食っている、それは外を内とする行為である。この一瞬の内外相互転換は無限の時間を背後にもつ一瞬である。このせんべいが世界形成の内容としてあるということは、このせんべいを作った人が技術をもつものとして、無限の時間を内にもつものでなければならない。世界とは無限に多様なる技術の集積が形成的に一として動くところである。即ちせんべいを作ったものも、せんべいも、せんべいを食うものも無限の時をもつものとしてこの一瞬があるのである。無限の時間の蓄積は技術的形成として歴史的創造の世界である。我々は創造的世界の一要素としてあるのである。ここに於て我々は更に深き自己に面するのである。罵られて腹を立てる自己は、罵るものに対する自己であり、罵られることによって失われる自己である。創造的世界の要素となるとは、無限の時間を内にもつものとして、斯かるものを超えて中に見るものとなるのである。それは自己の生死をも裡に見るものである。人類の形成し来った全時間に目を置くものとなるのである。全時間の現在としてはたらくものとなるのである。はたらくものは永遠の今としてはたらくのであり、我々がはたらくとは永遠の今として自己があることであり、そこに真の自己を見るのが観である。

 色即是空とは一瞬一瞬が永遠の具現であり、現身の生死が創造であることである。そこより蓄積が生れ形成があることである。一瞬が永遠に転じ、永遠が一瞬に転ずるのである。生死するものが、生死が直に永遠であることを覚ることである。対立するものは対立なきものの対立であり、一者は対立するものの一者である。斯る動転が形成するはたらきということである。対立するものは一者に消え、一者は対立するものに消えるのである。消えることは亦出現することである。より大なる形へと歩を進めることである。生死するものは永遠の中に消えることによって真に生死を現し、永遠なるものは生死の中に消えることによって真に永遠を現すのである。

 我々は形をもつ対立するものとして、生死するものとして、永遠の中に消えゆくことに よって真に自己を現わすことが出来るのである。消えてゆくとは相対を滅して永遠即自となることである。全てが永遠の相貌となることである。欲求的自己を殺すのである。絶対に死ぬのである。それは勿論肉体の死ではない、世界形成としての我よりを捨てるのである。我よりを捨てるとは、我のはたらきに世界のはたらきを見るのである。我の一挙手一投足を世界の一挙手一投足とするのである。我のはからいを世界のはからいとして、生滅を包むものに目をおいて生滅を見るのである。肉体のあるところに官能はある、官能が死すとは、一瞬としての欲求が永遠の陰翳を帯びるということである。言葉の内容となることである。

 禅家に大死一番という言葉がある。死とは無に帰することである。大死とは積極的に自己を殺すことである。自己否定に徹することである。生命形成が瞬間に永遠を映し、永遠に瞬間を映すものであるとき、大死とは永遠に瞬間を映すことであり、そのことは亦同時に瞬間に永遠を映すことである。我々が永遠の中に消えたということは、我々に永遠を現わしたことである。

 生死するこの我が永遠の中に死して甦り、永遠が生死す我に消えて形を現わすとは、生命形成とは絶対の無として動いてゆくことである。三十八億年の生命は刹那生滅的に形成し来ったということである。絶対の有は絶対の無である。そこに色身に対する空の救済があるのである。色があるのでもなければ、空があるのでもない。永遠と瞬間が純一として現在より現在へとこの我がはたらくとき、有限と無限に乖離したこの我は真個の我の具現を見るのである。それが色即是空であり、そこに救済があるのである。斯かるものとして色身を離れるというは更に大なる光りを色身に受けるということである。救済とは現実に生きることであり、日常に生きることである。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」