自覚的表現としての力

 小野短歌会の歌会に中央公民館に行くと、書道展が小ホールであったので覗いた。墨書というと年末の年賀状や、文化祭に色紙を出展する位の私には、どれがどれ程上手なのかさっぱり判らない。併し構築された線の力の統一を見ることは楽しいことである。私達にはとてもああゆう線が引けるものではない。一つの字がまあまあ書けたなあと思うと、次の字がひ弱くなったり、跳ねすぎたりしている。筆力の違いというものであろう。このような力はおそらく天性と修練の賜であろう。私は見ながら力というものを考えた。

 ベルグソンは物を軽く摘むとき、指の第一関節のみが働いており、更に強い力が要求されるときは第二関節、第三関節が働くのであって、第一関節の働きは変らないという。手首の関節、肘の関節、肩の関節と働いて、最も強い力は全身の関節を動かすという。指の第一関節は、全身の関節覚が集中することによって強い力をもち得るのである。事実私達が親指と人差指で紐を摘んで引っ張り合いをすると、上記の過程を経てには腰を引き足を奮張る。

 物事を軽蔑するのに小手先の業という言葉がある。小手先というのは何の部分かはっきり知らないが、剣道で小手というのは手首のことらしいから、おそらく手首から先ということであろう。それはまだ僅かな力しか働いていないということであり、全身の力を働かすことが出来ないということであろう。

 私は修練とは力を養うことであり、力を養うとは身体の部分の力より初まって、全身の 力を使い得るようになることであると思う。墨書するときに手先の力で書いていたのが腕の力となり、腰を据えた力となることであると思う。昔の剣客の本を読むと、木剣にかくれて姿が見えないというようなことが書かれている。あの小さな木剣に姿が見えないということは物理的にあり得ないことである。それは恐らく木剣に潜められた干の変化が、外のものに目を移す余裕を与えないということであろう。そのとき木剣をもつ身体の、何処一つにもゆるみがあってはいけないと思う。それは毛髪迄が自在に動く力の張りがなければならないと思う。表わす形の尖端に全身の力が凝縮する、その一点に集中する、それは修練することによって養われるのであり、修練するとはこの力を養うことであると思う。ミケランジェロは「私の眼はのみの先にある」と言っている。それは小手先の業によってあるものではなく、全身の力が流れ出てのみの先に凝縮し、大理石に視覚の形相を刻んでゆくのであると思う。力とは内面的なるものを、外に形に実現してゆく働きである。

 考えるということは頭を使うことである。併しそれも力の表出なくしてあり得ない。ロダンの名作「考える人」は、筋骨逞しい男が体を二つに折曲げ、両手で頭を抱えている。それは全身的な苦悶である。松尾さんはよく「斉藤茂吉は、半日北上川の畔に頭を抱えこんで歌一首を作った」と言われる。力は通常動くものである。併し私はこの時半日動かなかったのも力であると思う。思考の働きが全身を縛ったのである。ゲーテは「初めに行為ありき」と言った。その当否は兎も角人間生命は自覚的表現的としてあり、表現は無限に動的として力の表出をもつ、斯かる力は無限に深まりゆく力として修練によって養われるのであり、修練とは部分より全身の力を凝縮し得る営為であると思う。

 表現とは物に自己を表わすことである。外に表わすことによって自己を見ることである。物に表わすとは自己が物になることである。墨書に表現するとき、手が毛筆となり、腕が毛筆となり、全身毛筆となるのである。手が毛筆となるとは、手が手を無にすることであり、全身が毛筆となるとは、全身が無となることである。無となるとは墨書に表われることである。自覚的表現とは死して生きる道である。

 表現は技術的製作的である。技術は世界が世界を限定する形式であり、それは歴史的形成的である。無数の人々が、無限の過去より伝承し、無限の未来へ伝達するものである。その内容は世界の形相である。私達は技術をもつことによって世界の一員となるのである。物を作ることは世界を作ることであり、私達は作った世界の中に生きるのである。技術は世界の中に生きるものが世界を作るのである。世界の中に生きるものが、世界を作るものとしてそれは全身的である。世界の中に全身を投げこんでゆかねばならないものである。全身を投げ込んでゆくとは自己が無となることであり、世界が現われてくることである。世界が現れてくるとは、この如く個的生命の尖端に自己を露にしてくるのである。

 全身無となり、動きが全て世界の形相を露にするものであるとき、我々は自由とか、自在の感覚をもつのである。そこに真個の生命に接するのである。我々の生命は愛憎する五尺の生命に尽きるのではなくして、全存在の自己実現としてあることを知るのである。修練の道は自己を無にして道であり、それは苦しい道である。併し一たびその道に入ったものは、苦しみを乗り超えて進むべき心の要請をもつ、斯る要請は永遠なる全存在としての真個の自己の呼び声である。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」