自覚について

自覚とは自己が自己を見ることである。自己が自己を見るとは、見られたものものも亦見るものでなければならない。見られたものものも亦自己が自己を見るものであることによって自己が自己を見ると言い得るのであるとおもう。私達の自覚とは斯る無限の創造的形成の上に成立するのであるとおもう。

見られたものとは何か、それは森羅万象としてのわれわれを取り巻く環境である。草木瓦礫であり、虫類鳥獣であり、人類社会である。見られたものも亦自己が自己を見るものであるとは、斯るものの全てが自己が自己を見るものでなければならない。われわれ人間の自覚は斯るものの上に成立するのでなければならない。併し私達は瓦礫が自己を見るものであるとおもうことは出来ない。草木も亦意識をもつとおもうことは出来ない、意識なき処に自己が自己を見ることが出来るとおもうことは出来ない。而してそこには見られたものが見るものであるわれわれの自覚は成立することが出来ないと言わなければならない。見られたものが見るものであるとは如何にして成立するのであるか、草木瓦礫が自己を見るとは如何なることであるか。私はその為に深く自己の根源に還ってみなければならないとおもう。

生命は幾つかの元素の結合によって出来たと言われる。斯る元素は宇宙の爆発により、 最初素粒子が出来、素粒子から原子、原子から分子が出来たと言われるその分子であり、 その分子が集合して宇宙を構成すると言われるものである。 それによって宇宙が出来たとすれば、われわれの淵源も亦遠く此処に存すると言わなければならない。われわれも亦宇宙の一塵として、宇宙生成の一要素として、その内容としてあるのでなければない。即ち宇宙生成の中に人間生命の出現の胚種があったと言わなければならない。最初に全てが素粒子であったときに、素粒子は生命を胚胎すべきものをもっていたと言わなければならない。斯る素粒子が分子化の過程に於て気体となり液体となり、固体となり、岩石とな り、金属となり、空気となり、水となったのである。 それで生命も斯る中に生れたのである。斯る中に生れたとは宇宙生成の力動的関係の中に生れたということである。力動的関係の中に生れたとは、力として他者と相対立することである。他者と相対立するということは、他者によって否定されると共に、他者を否定せんとすることである。他者によっ て否定されるとは自己の消滅を意味すると共に、他者を否定するとは、自己が宇宙の全存在たらんとすることである。而して他者の否定として自己の肯定があるとき、全ての他者の消滅は否定すべきものの消滅として自己の消滅でなければならない。他者の消滅が自己の消滅であるとは、他者も亦消滅と全存在を両極としてもつものでなければならない。対立するとは消滅と全存在を両極にもつことによって対立し、そこに力動的関係が生れる のである。そして宇宙は自己の形を見出でてゆくのである。力動的関係とは宇宙の自己形成なるが故に、宇宙の一要素としてあるものは、否定の対象を失なうことは亦自己を失なうこととなるのである。力動的関係とは宇宙の生成運動である。生命は斯る宇宙生成の中より生れたものとして、常に対立が統一であり、統一が対立である。対立の方向に個の形成があり、統一の方向に宇宙の形成があるのである。

三菱化成生命化学研究所の柳川弘志氏は「生命は入れ物をもち、自己複製、自己増殖が出来、自己維持機能をもち、進化する能力をもつものである。すなわち細胞膜をもち、外界から自己を維持するのに必要な素材やエネルギーを取り込み、DNAの遺伝情報にしたがってタンパク質を合成し、その触媒作用によって種々の構成成分を合成、分解することの出来る進化する分子機械であるといえる」と言っておられる。入れ物をもつとは個体として成立するということであろう。細胞膜は必要とするものはどんどん取り入れ、いらなくなったものを外に排出するといわれる。それは外としての他者と対立するということであろう。取り入れるとは自己ならざるものでなければならない。他者を否定して自己となすことでなければならない。そしてそれは亦他者によって作られるものとして、他者によって作られるものである。自己複製が出来、自己増殖が出来るとは生命は形相実現的であるということであろう。形を高密度化することによって自己を見出してゆくということであろう。自己維持機能をもつとは生命が何等かの意味で不滅なるものを持つことであろう。維持機能をもつと言われるには、生命は滅するものであり、滅することを克服して生を保つものでなければならない。その根底には全体者が時間を超えて自己自身を見てゆくものがなければならないとおもう。進化するとは機能のより高い実現を目指しているということであろう。

生命の単位は細胞であるといわれる。無数にある細胞の一々が斯る生命の条件を具備するのである。細胞が無数にあってその各々が生存せんとすることは一々の細胞が他の無数の細胞に対するということである。恰も素粒子が他の素粒子に対する如きものである。それが細胞に於てはその特性に於て持続的形成的となり、はたらくものとその対象として主体と環境となるのである。生命の否定とは死である。対するとは相互否定的なることであり、相互否定的とは死をもって相対することである。環境とは生命にとって死をもって囲繞するものとして環境である。それは単に細胞が細胞に対するのみではない。細胞は細胞が出来った生命以前をも背負うのである。宇宙の力動的関係をも背負うのである。否細胞も亦力動的関係の宇宙の生成運動の中より出で来ったものとして、宇宙の生成の内容としてあるのである。斯るものとして私は環境の二重構造を見ることが出来るとおもう。一つは素粒子より生命出現迄の根元的な力である。一つは其の中より出で来った生命として生命が他の生命に対するものである。そして私は後者が環境としてより深大なるものをもつのであるとおもう。われわれは生命創造の尖端に立つのであり、単細胞動物より多細胞動物へ、水棲動物より両棲動物、更に爬虫類、哺乳類、霊長類、人類へと進化して来たものである。高度化したものは高度化したものに対するのである。 そして私は最も高度化したものとして人が人に対すところに最も高度なものがあるとおもう。環境として最も深大なるものは人間環境であり、社会環境であるとおもう。

生命が生命の環境となるとは、生命が食物連鎖としてあることであるとおもう。植物は 光合成に於て自己の必要とする物質やエネルギーを獲得する。併し動物に於ては植物が形成した細胞を獲得し、更にその動物を獲得することによって必要な物質やエネルギーを補給するのである。その世界は殺し合いの世界であり、弱肉強食の世界であり、自然陶汰の世界である。併し対立は形成であるところに世界形成はあるのである。対手を食べようとし、或は逃れようとするところより生命は様々の機能を創出するのである。桑原万寿太郎氏はその著「動物の本能」に於て驚異とも言うべき動物の本能の生態を紹介し、「本能行動の先生は自然陶汰であったようである」と言っておられる。以前にも書いたことがあるが、我々人間の祖先がまだ無顎類動物であった頃、同じ無顎類の巨大で獰猛なウミサソリに食われ続け、遂に背中に甲羅が出来てウミサソリが食うことが出来なくなって絶滅し、やがてその甲羅が身体の中に入って骨格となり、現在のわれわれの形体の基礎となってアメリカの著名な生物学者が「われわれはウミサソリに感謝しなければならない」と言ったというのを読んだことがある。同書には亦一億五千万年程前から六千五百万年程前の恐竜の時代に住んでいたわれわれの祖先が恐竜に食われ続け、それより逃れんが為に夜行性動物となり、脳量が他の動物と体積比四、五倍となり、同学者は「われわれは恐竜に感謝しなければならない」と言ったと書かれていた。食われることによって新たな機能と身体をもったのである。万の生命は食物連鎖であることによってより大なる能力を獲得したのである。生命はそこに自己創造をもつのである。人間は斯る自然陶の克服の上にあるのである。祖先の限りない闘争と死の上に今日のわれわれの生命をもつのである。

自然陶汰の世界は適者生存の世界である。適者生存とは環境を映し、環境に映されることである。環境を作り、環境に作られるのである。蟹は甲羅に似せて穴を掘ると言われる。併しその甲羅は生棲の条件によって作られたのである。映し映されるものとして生命の形は常に環境の総和の意味をもつのである。水中に棲む魚が鱗をもち、泥中に棲む魚がぬめりをもつ如く、棲むために気温、地形に適応した身体とならなければならない。斯る形態に於て他者との生存競争をもつのである。生死に於て新たな形態を獲得するとは、より大きく環境を映し、環境に映されるものとして、身体の環境の総和の意をより明めるものである。生命は死をもつことによってより大なる自己を見出でてゆくのである。内に否定をもち否定を媒介することによってより明らかな自己を見出でてゆくのである。それは全生命としての宇宙的生命とでも言うべきものである。生命と生命が生死をもって対立するものを内にもつものとして自己を見てゆくものは生死するものではない。それはより大なる生命でなければならない。それは形に見てゆく形なき生命として全生命というより他なき生命である。

数万年前ネアンデルタール人が墳墓を作り、花を供えた時より人間は人間になったというのを何かで読んだことがある。私はその事に深い共感をもつものである。墳墓を作ったとは死者と我とをつなぐのをもったということである。過去によって現在があるということである。生命の営みは一瞬一瞬の内外相互転換である。外を内とし、内を外とする止まることなき流れである。死者とわれをつなぐものをもったということは一瞬一瞬を超えるものをもったということである。内外相互転換を内に包むものとなったということである。花を供えたということは、過去と現在をつなぐいのちが死者によって喪われということであり、喪われたものを死者とわれが共に愛したものによってつなぐということである。

人間のみにあって他の動物にないものは言語中枢であると言われる。人間は言葉をもつことによって人間になったと言われる。言葉とは何か、言葉を作った人はないと言われる。作った人がないとは、誰のものでもなくて誰のものでもあることである。呼び交すところにあり、応答の内容であることである。限りない人々が呼び交すところより生れ来たったのである。誰のものでもなくて誰のものでもあるとは全ての人を包むということである。昔わが国に語部というのが有って民族の伝承を語り継いだと言われる。語り継ぐとは過去を未来へ伝達することである。それは過去と未来が呼び交すことであると同時に、言葉が過去と未来を包むということである。また人間は手をもつことによって人間になったと言われる。手とは物を製作的にはものである、製作するとは技術をもつことである。かかる技術は天より来たのでもなければ地から湧いたのでもない。環境と身体の闘いから出で来たったものである。而して単なる闘いから技術は出て来ない。そこに経験の蓄積がなければならない、無数の人々の無限の経験が行為的現在の一点に結合する時、新たな環境と身体の形が現われるのである。それが外の方向に物の製作であり、内の方向に技術である。技術の発展と言葉の発展は軌を一にすると言われる。私はそこに共に瞬間的な生命限定を超えてそれを包んだより大なる生命の自己限定が見られなければならないとおもう。私は人間が人間になったとはこの超越としてのより大なる生命の現れをもったことにあるとおもう。墳墓を作ることも、言葉をもつことも、技術をもつことも共に対立するものを超えたところに見られるものである。それは逆に言えばより大なる生命がそこに自己を露わにしたということである。より大なる生命とは何か、それは素粒子の対立を内容として宇宙が自己形成をもつ如き一者の成立である。勿論それは突然現われたのではない、初めからあったのである。それが対立の底に露わとなったのである。形成作用としての生命の底に翻ったのである。底から対立を写すもの、見るものとなったのである。私はそこにわれわれの自覚を見ることが出来るとおもう。自覚とは自己が自己を見ることである。この我が我を知るのが自覚である。併しての我から自己が何処より来たったかを知ることは出来ない。唯斯る自己があるというだけである。それは真に我の知的要求を満たす自己ではない、われわれの自己は自己を全人類に写し、全生命に写し、宇宙に写すことによってあるのである。無限の時間の中に高々百年未満で生死する生命はうたかた以外の何ものでもない。自分を馬鹿だと思っているものはないと言われる。斯る確信は自己を永遠に映すところよりくるのである。勿論永遠の自覚をもつというのではない。言葉をもち、技術的にはたらくとき、言葉や技術のもつ超時間性が意識下に生れるのである。真の自覚はこの意識下に現われたものが言葉に現われることである。旧約聖書の創世紀のはじめに神の霊水があったというのがある。太初に胚胎していた生命と物質に分れるべきものが、素粒子の中に分子を生み、分子の中に生命を生み、単細胞動物より多細胞動物、そして遂に言葉をもつ生命に達した時の深さがわれわれの確信を生むのである。道元は「此生、他生の最善最勝の生なり」という。宇宙形成の中核の感情より確信は生れるのである。

宇宙一なる生命がはたらくといっても、宇宙一なる生命があるのではない。あるのはこの我であり汝である。我と汝は個体として対い合うものである。それは動物の自然陶汰の流れを汲むものである。対立は相互否定であり、闘争である。われわれも亦相互否定と対立を失うものではない。動物の中より出で来ったものとして何処迄も闘争をもつのである。唯その闘争の意味が変質するのである。それは個体保存にのみ生きるのではない、われわれの身体が宇宙を写したものとして、写し返すものとなるのである。身体は宇宙が形成し 来った最後のものとして、身体より逆に宇宙を作るものとなるのである。そこに真に宇宙が宇宙を見るものとなろうとするのである、身体は創造的身体となるのである。技術をもっと斯る生命となることである。外に世界を作るということは、身体が内に世界をもつということである。身は外に物を作ることによって内に世界をもつものとなるのである。ここに生命は世界形成的となり、自己保存、種族保存本能は郷土愛となり、愛国心となり、人類愛となるのである。闘争は世界形成的自己の闘争となるのである。個体は世界を内にもつものとして個性となり、世界を内にもつものとして、己れの内なる世界を外に実現せんとするのである。人々はこれが世界の中心たらんとして争うのである。而して世界形成的に争うことは、世界が益々自己の形を露わにすることである。

かかる形成は何処迄も否定的形成である。世界を内にもつとは自己が世界になるということである。世界の中に消えてゆくことである。世界の中に死することによって世界を実現してゆくことである。そして斯る実現が世界を作ることである。而して世界を作ることは世界が我の中に消えることである。自己が世界を否定して自己が世界となることである。我が世界となることは世界が我となることであり、世界が我となることが我が世界となることである。この我が自己の中に見る世界を他にして世界があるのではない。併しての我は世界ではない。世界の中の一個物である。個物として個物と対立するものである。ということは無数の個物が自己の中に世界をもつものとして対立するということでなければならない。この我は無数の汝と対立するのである。斯る世界と世界が対立するところより言葉は生れるのである。而して対立は関り合うものとして一である。斯るより高次なる一が生れるのも我や汝の中である。我と汝が対立と統一の中から生れた新たな言葉をもち、対話するというのがより高い世界が出現したということである。われわれは人類として 無数の汝に対するのである。対するとは対話するのである。それは言葉に生きるものとし無限の過去と未来を結ぶものである。われわれが死ぬとは斯る中に死ぬのである。われは無数の中の一として、無数の人々の言葉の中に言葉をもつものとして、その言葉によってあらしめられるものとして、無数の他者によってあるものとして自己を殺すのである。自己を殺すとは無数の他者の言葉を自己の内容とすることである。自己によってあるのではなく、無数の他者によってあらしめられることである。而して無数の人々によってあり、その言葉を内にもつものとして、われわれは生死を超えて確固たる自己となるのである。

生死の問題は複雑である。それは我々が死を知るところより来るのである。死を知るとは死を自己の中にもつことである。死ぬ自己としてわれわれは死をもつと共に、死ぬ自己を知るものとして死を超えたものである。而して死ぬとは生死する自己が死んで死を知る自己が残るというものではない。死を知る自己が死ぬから死である。死を知る者にとって、死を知らないものの死は真の死ではない、死を知るものの死は絶対の死である。死を知るものはそれを生れたときよりもつ避くべからざる運命として知るのである、そこに不安と恐怖、死の限りなき悲しみがある。而してこの絶対の死こそが絶対の生へ転ぜしむるものなのである。限りない悲しみが己が存在の根源へと回帰せしめるのである。不安、恐怖、限りない悲しみは死を知るものの現在である。そこに言葉をもついのちに転ずるのである。転ずるとは言葉によってあらわれ、言葉によって生かされるわれとなるのである。無限の他者との対話が一なる中にあらわれ、そしてそれは無限の他者を自己の中にもつわれとして生きるものとなるのである。それは以前の生命が死して新たに生れることである。併しそれは生死がなくなったのではない、新たに生れたものとは以前の中より生れつつ以前のものを包むものとして新たなのである。死は依然として深いかなしみである。これを包むとは死へのかなしみをより大なる生へ転ずる契機と見ることである。生死のよろこび、かなしみを底深く湛えたものとなるのである。言葉は生死の中より生れたのである、それが逆に生死を包むものとなったのである。ここに宇宙的生命の開顕があるのである。宇宙的生命という特別のものがあるのではなくして、この我に即して開顕してゆくのである。対立が一として開顕してゆくのである。われわれの自己はそれによってあり、それによって生きるものとなるのである。自己がそれによってあり、それによって生きるのが客観的事実の世界である。われわれの自覚は客観的事実の形成としての自覚である。客観的事実とは宇宙の自己開顕である。

客観的世界は歴史的形成的である、その中に於てわれわれは対象を作り、対象に作られるものとなるのである。対象を作るとは、世界の中に作られたものが作るものとして世界に対し、世界を再構築せんとすることである。対象に作られるとは、われがあるとはどこも世界を写すことによってあるのであり、作った世界はわれの影を宿すものであり乍ら、世界としてわれわれはその中に生きるのであり、他者として外として対立し、否定し来るものとしてそれを自己の内容としてのみ生存をもち得るものとなることである。自己の内容とすることが写すことであり、作られることである。何処迄も写し写されるものとして形造ってゆくのである。作られた世界は写されて写すものとして更に密度の高い世界となるのである。作るものとしてのこの我は密度の高い世界を写すものとしてより大なる能力をもつものとなるのである。化学者ノーベルは対象の中から火薬という大なる力を人類の為にとり出した。併しその力はより大なる殺傷をもつものとして外として対立するものとなった。ものを作るとは自己の生存を対象に映すのであり、対象はより密度高い外としてより大なる危機として迫ってくるのである。縄文時代に入って大なる戦乱が多発したと言われるのも道具の発明に関るものとおもう。更に写し映され、作り作られるものとして、われわれは原子力機器を作り、化学製品を作り、電子機器を作った。それは飛躍的な生活の向上と共に、戦争として、環境破壊として人類滅亡の危機を孕むものである。私は歴史は常に危機と危機の救済としてあるとおもう。歴史的発展とは斯る危機の増大とその救済としての克服の無限の過程であるとおもう。生命は危機と救済として自己を形成してゆくのである。歴史とは斯る生命形成である。

作られたものが作るものになるとは、世界の中にあるものが世界に対立するものとなることである。対立するとは逆に世界を内にもつことによって、内の世界と外の世界が対立するのである。生命がその自己保存としての営為の経験を蓄積することである。自然の生命の流れを堰き止めて時の統一者として、自然の営為を自己の目的に構築することである。斯る蓄積を言葉によってもつのである。言葉とは語り合うものであり、それは無数の人々の間より出で来ったものである、即ち経験の蓄積は無数の人々によってあり、無数の人々によって担われるものである。実言葉は生産の発展、道具の増大と共に複雑化したと言われる。そのことは言葉によって道具の発展、生産の増大があったということである。経験の蓄積として歴史があり、無数の人々が対話するものとして蓄積を担うとは、対話をもつ無数の人々が歴史的主体となるということである。斯る歴史的主体が対象を作り、対象に作られるものとして危機を担うものである。危機は物と生命、主体と客体、我と汝の対立の中に必然的に潜むものであり、斯る対立を通じて世界が自己を形成するとは、世界は危機を媒介として自己を形成するものであり、危機は救済をもつということでなければ ならない。

世界が形成的世界として、対象がより大なる力を見出したということは物がより大なる言葉を孕んだということである。内と外に言葉の均衡が破れようとすることである。この救済は歴史的主体が新たな言葉を孕むことでなければならない。そしてそれはより大なる物の力の中より聞えてくるのである。われわれは危機としての呼び交しの中からその言葉 を聞き出すのである。それに従うものは生き、それに背くものは死ぬのである。そこに神の声がある。その声を聞くときわれわれは真個の自己となるのである。それは危機の世界よりの声を聞いたものとして大なる力であると共に、世界によってあるものとして絶対に無力である。世界が世界を運ぶ影として無なると共に、運ぶ世界を担うものとして絶対の有である。善も美もここより生れるのである。われわれは力の究極に神を置く、併し神とは外より大なる力がはたらくのではない、単に外にはたらく力は知りようがない。それはわれわれの根底としての我ならざるのである。無数の声の一が神の声であった如く、無数の力の一として、力の究極はあるのである。われも亦声をもつもの、力をもつものとして、われと汝の関りは深く神の大いなるものにつながるのである。神の中にあるわれは逆に自己の深奥に神をもつのである。超越的なるものは内在的なるものとなるのである。われわれはそこに大いなる言葉、大いなる力を得ると共に世界に運ばれるものとして、言葉が言葉を運び、力が力を運ぶものとして、それによってあるものとして絶対の無知無力となるのである。宇宙は言葉に満ち、力に満ちたものとなるのであり、われわれはそれによってあるものとして、それを返照するものとなるのである。

知るということもここからくるのである。田辺元博士はその著哲学通論に於て「肯定的 判断主観は自己に対立する否定者を予想し、自己の内に否定者としての汝を含む社会的な我としてのみ成立する。即ち直接なる肯定者としての個人的我に対し否定者としての汝を媒介として超個人的なる我に高められたる社会我が判断の主観となり、其内に於て個人的なる我と汝が相対立すると言っていい。而して我は汝に対してのみ我があるから、直接なる概念の統一に対応する主観は我として具体化せられた主観ということは出来ない。判断に至って始めて我というものが現れる。」と言っておられる。個人的我に対して否定者としての汝を媒介として超個人的なる我に高められるとは如何なることであろうか。低次なるものから高次に至る道はない、われわれは自己によって対立するものをもつことは出来ない、我と汝が対立するとは我と汝を包んだものの内容として対立するのでなければならない。即ち超個人的なるものに高められるとは、我と汝が対立することが我と汝を包んだ超個人的なるものが自己を露わにすることでなければならない。超個人的なるものに照されてわれわれは高められるのである。判断は超個人的なるものが自己を露わにしてゆく内容であり、判断に至って始めて我というものが現れるとは、超個人的なるものに照されて我は真の我となるのでなければならない。その我は判断の中より生れたものとして判断する我でなければならない。超個人的なるものが自己を露わにするとは、我と汝の対立が超個人的なるものに照らされたものとして照り返すことである。我をあらしめるものによって出で来る言葉に、我をあらしめるものを映し出すことである。そこに思惟があるのである。自覚として自己が自己を知るということもここより来るのである。」と書いておられる。博士も推論によって社会我が自覚せられると言っておられる。われわれが考えるとは世界が世界を運ぶ形としてわれわれにはたらくのである。われわれは考えることによって常にわれより出でて世界の中に入ってゆくのである。それは世界が世界を見る内容として世界が実現してゆくことである。

世界が自己の中に自己を見るとき見られたものは世界が実現したということでなければならない。そして実現した世界が更に自己の中に自己を見るところに世界がはたらくということがあるのでなければならない。私は歴史的形成というものも斯るはたらきとしてあるのであるとおもう。われわれの自己も亦歴史的世界に於て真にはたらく自己となるのである。以下私は歴史の様相を見ることによって自己を尋ねてみたいとおもう。前にも書いた如く歴史を成立せしめるものは主体と環境の相互転換を構成的ならしめる主体の技術の獲得であり、技術の具現としての道具の使用である。道具の使用によって内に転換すべき外としての物を飛躍的に増大せしめたのである。而してそのことは環境と主体の対立、我と汝の対立を解消せしめたのではない、否逆に飛躍的に増大せしめたのである。食糧の増産は人口の増大を招いた、人口の増大は生産の増大をもたらすと共に、凶作に於ける飢餓の増大をもたらすものである。生産が大となるに随って自然の暴威は大となるのである。治山治水に大なる労力を要求するのである。我と汝は生産物、生産手段の争奪をなすものとなるのである。伝えられる卑弥呼の項の天下大乱は斯る現れの第一段階であるとおもう。そこに強大なる力が要求される、その力は人間の結束であり、集団である。そしてその統率者は矛盾対立の増大につれて力を増してくるものとなるのであり、大王が出現するのである。大王の出現は亦奴隷の出現である。戦に敗れたものは単なる生産力として勝者に隷属 し、勝者の生活に奉仕するものとなるのである。戦乱は曽って経験しなかった酸鼻をもたらし、奴隷は勝者のあらゆる苦痛を押し付けられる悲惨の生涯をもつものとなったのである。集団のより大なる力への進展は組織が要求され、組織の進展はその頂点に立つ統率者を益々大ならしめて、遂には全ての力を統率者の所有とするのである。勿論統率者は個人として所有するのではない、全体表象として、集団の威厳として所有するのである。組織は組織の論理の要請をもつ、それは多数のものを一ならしめるものである。そこから新しい行為の基準が求められ倫理としての道徳が生れる。その内容は全体表象の状況によって決定されるのである。大王の統率の下に於ては統率者の仁慈と服従者の忠誠が要求されるのである。多数が一としての大なる力はその力の表象をもとうとする、それが表われるのは先ず衣食住である。衣は位階を表わすものとなるのであり、食は典礼の基礎となるのである。住は統率者の生涯を托するものなるが故に威厳を表わすものとなるのである。そこからは自己保存、種族保存を超えた形が要求せられる。斯る要求の中から生れた様々の形が芸術へと発展してゆくものである。併し衣食住は尚全体を表象するものではない、全体を表象するものは個々の生滅を超えたものでなければならない。先祖と現存する者と未来に生きるものを一ならしめるものでなければならない。それは例えば農耕生活に於て田や道具が祖先を負い、子孫を予測するものとしての必然である。そこに全てがそれによってあるものとしての超越者が要請される。それは最早感覚の対象としての形に於て見る べきものではない。言葉によって見るべきものである。併しそれには言葉を宣べる所が必要である。そこに神殿、仏閣、教堂の作られる所以があったとおもう。而してそれが形として現われた以上権威の表象とならなければならない必然をもつ、それは過去現在未来 を包む表象を要求するものとなるのである。そこに人類の栄光は打ち樹てられる。併し私がここで言いたいのは大なる栄光は常に大なる悲惨をまとうことによってあったということである。エヂプトのピラミッドは十万の奴隷が何十年かかかって作ったと言われる。私はその作業の間に牛馬以上に加えられた箸の数を思うものである。恐らく骨と皮に細った背に血を噴き乍ら石を運ぶ綱を引いたのであろう。我国の大仏殿も仏教に国家理念を見出した天皇が象徴として建立したと言われる。而してその失費は巨額を要し、ために苛斂誅求に苦しんだ民衆の路上に餓死するもの数知れず、強盗がはびこり、怨嗟の声国中に満ちたというのを読んだことがある。

歴史が対立が統一として矛盾的に動いてゆくとは対立が統一の中に解消することではない。対立即統一として矛盾が顕在化してゆくことである。対立が愈々対立することが統一がより大なる統一をもつことである。技術による生産の拡大と蓄積は人類の力の増大であると同時に、消費と安逸をもたらすものとして力を削減するものである。人は物の争奪に於て対立を尖鋭化し、消費に於て頽廃の淵に沈んでゆくのである。大なる文化の輝く都市はその裏面に悪徳の渦巻く都市である。われわれはホモ・サンピエスとして六十兆の細胞と百四十億の脳細胞をもつ有機体と言われる。この生命が生れては死に生れては死に乍ら環境を写し環境を形成してゆくのが歴史である。 生れてくるものは環境を映すものとして白紙として生れてくるのである。環境を映したものが生きてゆく事が環境を作るということである。争ひに生れたものは争ひを 育て、和に生れたものは和を育てるのである。光明に生れたものは光明を育て、闇に生れたものは闇を育てるのである。生れ来ったものは善を求め、或は悪を求めて生きるのではない、自己の生存を求めて生きるのである。生存は外を内とし、内を外とするものとして環境の中に生れ、環境を作るものとして生を営むのである。環境と生の相互限定として、悪にまれ、善にまれ一度生れた形は自己を肥大化させてゆくのである。斯くして世界は無数の個の対立としてある限り栄光と悲惨、善と悪の紋様を織りなして動転してゆくのである。われわれの自覚が歴史的形成的であるとは斯る構図の上に自己を見出してゆくことに外ならない。否定と肯定、対立の緊張の上に自覚はあるのである。

われわれは歴史を知るものである。歴史を知るとは、歴史の中にあるものが逆に歴史を内にもつことである。時の中にあるものが時を内にもつことである。無限の時間はこの我の中を流れるものとなるのである。而して時の中にあるものが時を内にもつとは矛盾である、そこに於て歴史を知るものとは生死に自己を露わにする永遠なるものでなければならない、ここに於て歴史を知るとは単に無限の経過去の知識をもつことではない。絶対の矛盾を絶対の同一として生死を永遠に包摂することである。併しそれは風呂敷が物を包む如 く包摂するのではない。生死するもの、対立するものが飜るのでなければならない。一々が世界の内容でありつつ、世界を構成するものとして対立するものが一なるものへと飜転するのである。私は断るものとして全ての人間が自覚の可能性を孕みつつ真の自覚をもつものは世界の底に宇宙的生命の声を聞いたもののみのであるとおもう。生死するものと永遠なるものの矛盾の葛藤に生きたわれわれはここに真の在処に参見するのである。歴史は常に危機と救済として動転する、而して救済は常にここより来るのである。

自覚者は宇宙的生命の実現者として、生死の淵に苦しむものの救済者として自覚者である。故にそれは善悪の審判者の世界ではない、全ては宇宙的生命の実現として「誰か罪なきものこの者を石もて打て」の世界である。「善人尚もて救わる、況んや悪人をや」の世界である、それ等の人の為にこそ涙を流すべき世界である。そこに善悪の価値判断が入るとき対立の世界へ堕するのである。それは我と汝の対立世界の判断であって真に自己の中に世界を見る所以であることは出来ない。

われわれは宇宙的生命の内容として、宇宙的生命の如何なるものかを知ることは出来ない、唯現れとしてあるのみである。それが対立の苦としてあり、一者の救済としてあるとき神の恩寵の世界、仏の大慈大悲の世界となるのである。われわれはその前に絶対の無となるのである。併しそれは世界がなくなることではない、否世界はそこより生れるのである。対立が統一として自己自身を見ゆく神は力の神であり、無限に創造する神である。われわれは無となることによって世界に現われるのである。無に生きるとは自己を捨てて世界に生きんとする無限の努力である。

長谷川利春「自覚的形成」