自覚について 其の2

 よく私の書いたものが解らないといわれる。而しそう言われる人は生命が矛盾であることを考えられたことがあるのだろうか。矛盾とは相反するものが一つということである。般若心経に於いて色即是空という如く何処迄も相反するものが一つということである。

 よく人は俺は大工の腕は誰にも負けない、庖丁を使えば俺は誰にも負けないという。 そしてその腕前を自己の支点とする。彼の存在を支えるものはその腕前である。彼等 が俺はという技術とは如何なるものであろうか。

 彼等はその技術を師匠は先輩より習ったのである。その師匠、先輩はその師匠、先輩えとさかのぼるものである。其処に俺と言うべきものはない。無限なる技術形成者の影があるのみである。而しその故にこの俺はと言い得るのである。一人だけの技 術であればどうして誰にも負けないと言い得るであろうか。一人だけの技術はあり得 ないものであるし若しあっても価値のないものである。何故ならば人類が必要とする ものであればすでに歴史の初めに其の萌芽があった筈である。技術は技術の上に築かれるのである。

 我々はこの自己が技術をもち、知識をもち、意志として世界を実現しようとする。行為者として自己から全てを律しようとする。而し上に見た如く自己とは無限なる人間連鎖の中の一つの輪に外ならない。世界の中の自己として、自己の腕前を誇ろうと思えば逆に自己を捨て行かなければならない。料理の腕を誇ろうと思へば自分の今迄の技術を捨てて古往の秘伝を尋ね、東西の味覚を較べて其の上に技術を築かなければ ならない。更に評価は客が定めるのである。

 自覚という時通常はこの我が自己を知ると思う。勿論この我なくして自己を知るものはない。而しこの我が知るという背後には更に深大なる生命の働きがあるのである。技術に於いて見た如く、師匠、先輩えと限りなくさかのぼるということは人類が限り無い年月に技術を築いて来たということである。言葉にしてもそうである。神代人は今のように豊饒な言葉をもっていなかった。それは永い間の多くの人の関り合いの中から生まれて来たものである。

 自覚とは人間生命が自覚的生命であるということである。生物の生命には個体保存 種属保存の二つの本能があると言はれる。人間も亦生物である。自覚的とは斯る生 命が自覚的ということである。犬は犬より生まれて犬を生んでゆく、個を超えて個に 形相を維持してゆくのが種の生命である。人間は自覚者として個人を超えた技術や言葉を内にもつ世界を形造ってゆくのである。世界とは人間の種の自覚的形相である。我々の自覚は世界を形造るものとしてあるのである。それでは矛盾とは何か。

 我々の生命は身体的として生まれて死んでゆく。有限なるものである。それに対し世界は個人がそれによってあり、それによって成り立つものとして永遠なるものである。而してこの生まれ死んでゆく身体は手をもち、言語中枢をもつ、技術をもち、言語をもつ。技術、言語は前に見た如く世界の形相である。世界の形相を身体がもつとゆうことは、この身体に於いて世界を実現せんとすることである。人はこの自己をして世界たらしめんとするのである。王者となって一切を自己の意志の下に統率せんと欲し、永遠の生命を得んと欲するのである。自己が神たらんとするのである。

 而し技術は環境に対する事によってあり、言葉は隣人に対する事によってもち得る ものである。環境に相対し死を生に転ずるのが技術であり、隣人に相対し、喜び、悲 しみをもつ処より言葉は生まれるのである。而してそれは人間は生死するものなると ころより生まれるのである。世界であろうと欲し、永遠たらんと欲するのは生死する生命であるところよりあるのである。我と世界とは絶対の深淵をもって距てるのである。超えることの出来ない懸絶をもつのである。

 矛盾とは一つたらんとするものが相否定し合うものである事である。前にも書いた如く環境の否定を肯定に転ずるのが技術である。相対する隣人と一つたらんとするのが言葉である。生命は矛盾に於いて生命である。矛盾によって無限に動的となるのである。而して最大の矛盾はこの我と世界との懸絶である。自己と神とを距てる深淵である。それは我々がそれによってあり、それの実現としてありつつ、達すべからざる彼岸である。我々は永遠なるものの形相としてありつつ、何処迄も生死するもの、有限なるものである。

 この問題は関心をもたざる人にとっては単なる閑人の遊戯とも見えるであろう。而しこれこそは自覚的生命にとっての生死の問題なのである。我々の自己成立の根源の問題なのである。身体は生死するものでありつつ、言語中枢をもつものとして永遠なるものである。そのことは世界と我、神と我との絶対の懸絶を身体がもつということである。而して身体は一つである。身体が一つであるとはこの相反するものが各々の自己を主張することでなければならない。生死する身体はその官能の充足に於いて自己を維持せんとするのであり、永遠の生命はその形相の実現の為に寝食を忘れることを要求するのである。相剋とは一つが身体を統べんとすることである。

 人間生命が自覚的生命である限り斯る相剋は永遠が自己を実現せんとするものであ る。それが絶対の懸絶である限り生死する身体としての目や耳によっては見ることも聞くことも出来ないものでなければならない。斯る意味に於いてそれは何処迄も否定されなければならない。斯る否定の深さが自覚の深さである。その極限に全てを失う時、大死一番とか、百尺竿頭更に一歩を進めるとか言われるものがあるのである。死の断崖に身を絶して絶後に蘇るといわれる如く、そこに於いて目は永遠を見る目とな り耳は永遠を聞く耳となってよみがえるのである。そこに自覚は完成するのである。全ての自覚は斯る自覚を分有するのである。

 生死するものが永遠なるものであり、永遠なるものが生死するものである時その限定の形式は歴史的形成でなければならない。我々は歴史の流れの一点として、全時間 としての永遠に面するのである。絶対の懸絶は歴史的時間としての懸絶である。一微 塵としての存在が限りない過去を承け、限りない未来をはぐくむものとして、今、此処に働くものとして神に面するのである。技術、言葉に於いて絶対に接するのである。 私は自覚の最も深いものを日常底に置いた東洋の先覚者に深甚なる敬意をもたざるを得ない。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」