自由と必然

 生命は形成としてあり、形成は内外相互転換的である。外を内とし、内を外とする限り ないはたらきによって、生命は自己を形作ってゆくのである。我々が物を作るのは斯る内外相互転換が自覚的となったということである。

 動物に於ては斯る内外転換が直に一である。直に一であるとは、生れ来った身体の機能のはたらくままということである。内外相互転換が一つの生命の機能として、無媒介的に はたらくということである。それに対して自覚的生命に於ては、内と外とが対立するもの となるのである。内は外を否定するものとなり、外は内を否定するものとなるのである。否定を媒介する一となるのである。もともと動物に於ても、内と外とは否定的契機をもつ対立するものである。食物を得るために努力と争闘をもたなければならない。それは苦患的である。併し動物に於てはそれは身体に具有的である。本能的動作の中に含まれている。それに対して製作に於ては、内と外とが対立するものとし学習的である。

 学習とは過去の内外相互転換を、現在の内外相互転換に応用することである。そこには無限の過去の内外相互転換の著積がなければならない。外を内に変じ、内を外に変ずるとは技術的ということである。身体は転換の実現者として無限に機構的である。製作は一瞬一瞬の内外相互転換の生命の営為を、一瞬一瞬を超えて、一瞬一瞬を包む生命の内容とすることである。学習は時を超えて時を包むものの、生産手段としての技術の確立がなければならない。我々は学習的に技術を蓄積し、新たなより大なる生産力とするのである。

 学習とは新たな個性が世界を内にもつことである。新たな個性が世界を内にもつとは、世界は無数の個性によって作られていることであり、無数の個性によって常に新たな転化をもつことである。個性と個性が製作を介して呼び応えるのである。内外相互転換の外は 学ばれるものとして、一瞬一瞬を超えた形相となるのである。一瞬一瞬としての内外相互転換が、一瞬一瞬を超えた形相となるとは、世界の無数の個性によって作られたものが、この我に於て作るものとして、はたらくものとなることである。新たな個性が世界を内にもつとは、作られたものとしての無限の過去の形が此の我の中に消え、新たに世界創造の力として生れることである。学習とは内外対立したものが、外としての凝固した形相を再び流動化せしめることである。見られたものが見るものに転生することである。

 過去として作られたものが、はたらくものとして作るものとなるとは、形相が形相を作 り生んでゆくことである。新たなる内外相互転換に自己を投影してゆくことである。無限の内外相互転換に於て外とは内の転じたものである。内の転じたものが外となるとは、転じるとは我に対立するものとなり、我を否定し来るものとなることである。形相としての物は我に死をもって迫ってくるものである。外が転じて内となり、はたらくもの作るものとなるとは、死として迫ってくるものが、新たな個性に於て自己自身を否定し、新たな生命の形相として装いを新たにすることである。死として迫ってくるものが生に転じる、そこに生命の創造があるのである。

 生が死に転じ、死が生に転ずるものとして世界は形より形へである。世界は物として自己を実現し、物は物が生んでゆくのである。そこに世界の必然がある。私は元鎌の販売業を営んでいたが、鎌は収穫器として、大古に於ては木の股の如きが使用されていたのではないかと言われている。それが鉄となり、鉄と鋼の接合物となり、現在は草刈機、稲刈機に転化している。それは一つの形としての物が死して、新たな形の物が生れた大なる流れである。 過ぎ去った形としての物は死んだものとして、捨ててかえり見られないものである。而して新たな形は過去の形が内包するものより生れ来ったものである。内包するものより生れ来ったとは、形が内包するものは無限の転化の呼び声をもつということである。内外相互転換の内容としてあるということである。必然とは形が次の形を呼んでゆくということである。

 内を身体とし、外を環境とすることによって内外相互転換はある。内を身体とし外を環 境とするものの転換として、身体は環境の凝縮したものであり、環境は身体の拡散したものである。身体は環境を映し、環境は身体を写すのである。写す行為は否定的転換より生れるのである。身体は死と対面することによって物を作ってゆくのである。外を内とするのである。製作的生命は製作物の中に生きてゆく、物の中に生きてゆくとは、物を環境とすることである。そこに物が物を生み、形が形を呼ぶのである。自覚的生命が生きるとは必然の世界に生きるのである。

 物の形は物が物を生み、形が形を呼ぶことによってあるとは、物の中に物を見、形の中に形を見ることである。初めに終りがあることである。新しい物を作るとは、何もないところに物が生れることではない。何もないところからは何物も生れることは出来ない。物を作るとは過去に現在を映すことである。内外相互転換としての現在の状況を過去に映すことである。伝統の上に製作はあるのである。過去に映すことによってあるとは初めがはたらくことである。はじめがはたらくことによって新たなものが作られるとは、物ははじめとおわりを結ぶものが、自己の中に自己を見てゆくことによってあるということである。必然もそこにある。はじめとおわりを結ぶものが自己の中に自己を見てゆくのが必然である。全ての物はそこより見られ、そこより作られたのである。我々はその究極に神を見るのである。

 内外相互転換をもつものは個体的である。個の生存に於て内外相互転換はある。個が内外相互転換をもつということは機構的であり、機構的であるとは身体的であるということである。我々は製作を身体に於てもつ、身体に於てもつと 内外相互転換的に物を作るということである。内外相互転換は外が内となり、内が外となることである。外が内となるとは、物が消えて身体となることであり、内が外となるとは、身体が消えて物となることである。外は内に消えることによって外であり、内は外に消えることによって内である。そこに無限の形成作用はある。形造るとは単に直線的にあるのではない。死して生れるところにあるのである。単に一つの形は何ものでもない。形は形成作用に於て形であり、形成作用は次の形を生むことによって形成作用である。次の形が生れることは、前の形が死して新たな形が生れることである。

 製作も亦斯る形成作用の延長として物を作るのである。作るとは、外を与えられたものとしてもつのではなく、言葉を介し意志によって変革することである。それは技術的である。意識することによって、身体を使うことによって、内を外とし、外を内とするのである。身体は意識的身体であり、技術的身体である。製作に於ては斯る意識的、技術的なる身体が死して物に生れゆくのである。製作は自覚的生命の死生転換としての内外相互転換である。

 死して生れるとは現在に生れるのである。現在が新たな生命であることである。製作に於て物が死ぬとは未来によって否定されることであり、生れるとは否定の底に甦るということである。死するとは無に帰することであり、生れるとは形が出現することである。自覚的生命に於てこの転換は意志によって行為的に実現するのである。それは無よりの構築である。そこに意志の自由がある。己れの生を構築してゆくのである。生死するものは個物であり、はたらくものはこの我であり、汝である。物の製作はこの我、汝が死生転換として自己を見出てゆくのである。

 自覚的生命に於て個とは全を内に包むものである。自己は世界を内にもつことによって自己である。私は前に学習によって自覚的生命を自己となると言った。学習とは世界を内とせんとする努力である。世界とは斯る我と汝によって作られているのである。世界を作る我と汝の死生転換は、亦同時に世界の死生転換でなければならない。この我の意志は亦同時に世界の意志でなければならない。我々の行為は世界の自己形成である。世界の自己形成はその一面に個の無よりの形成として、個の自由意志をもつのである。

 形より形への必然は、形の転換の断絶に於て自由意志の行為をもつのである。個は世界の中に死して生れる程より大なる個となり、世界は個の中に死して生れる程より大なる世界となる。必然がより大なる世界を形成するほど、意志は愈々自由となり、意志が自由となるほど、世界は愈々大なる形成をもつのである。死して生れるとは、死ぬことが生れることである。死ぬことは無となることであり、無となることが有となることである。無が有であるとは生命形成の初めにかえることである。無始無終の時に於て初めにかえるとは形成の根底にかえることである。そこに初まって、そこに終るもの、初めと終りを包むものにかえることである。自己が自己を見るが故に絶対の自由であり、自己の中に自己を見るが故に絶対の必然である。根底にかえることが死であり、そこより形造ることが生である。現在とは斯る創造点であり、世界は斯る生命形成の形象である。父母未生以前の自己として我々は無限の形成をもつのである。神は絶対の自由と必然である。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」