短歌の客観性について

 先日みかしほの短歌会が南坊の神呪寺で行われた時のことである。誰かが「短歌の 作品の価値は読む者の好き嫌いによって決定すべきではない」と言われた。何うして このような当然のことが言われたのか私には解らなかったが、何か言われるべき機縁があったのであろう。

 作品の価値が読者の好き嫌いにあるとすれば、その矛盾に於いて価値を失わなければならないのは理の当然であろう。例えば一つの作品に対して一人が私はこの歌が好きだから良いと言ったとする。それに対して他の一人がいや嫌いだから悪いと言ったとする。その場合何によって価値決定をするのであろうか。価値はそれ自身の内容をもち、それ自身の内容に於いて万人を動かすものである。即ち普遍妥当性を要求するものである。貴方は嫌いだから悪いと思っている。私は好きだから良いと思っている、それでよいではないかでは無価値に等しいということである。其処には短歌会に於ける批評なども全く無意義と言わざるを得ないと思う。

 それを脱却するためには、何故に私はこの作品が好きであるか、貴方は何故にこの 作品が嫌いであるかという問いかけが必要であろう。そして共通の地盤を確立することが必要であろう。私は其の時はすでに好き嫌いが価値決定の基準としての位置を 失っていると思う。好き嫌いは個人に属し、共通ということは私性を超えているが故 である。

 勿論好き嫌いが価値に関与しないというのではない。好きでなかったら読むということもなし得ないであろう。唯だんだん深くなってゆくに随って、今迄解らなかった歌や、よいと思わなかった歌が好きになったということをよく聞く。亦好きだった歌がつまらなくなったということもよく聞く。好きに無限の奥底があるということである。好きということが価値ではなくしてその深さが価値であるということである。

 芸術の世界は共感の世界であると言われる。共感の世界とは如何なるものであろう か。よく価値を真、善、美として、それに対応する内的なるものに知、情、意がいわれる。そして芸術は美の実現として、感動の表現であると言われる。而して知、意と異なって感情は個人に属するものである。私の感情は何処迄も私の感情である。斯る個々の感情が個々を超えて直に一つであるのが共感である。

 静御前の話を聞くとき涙がおのずから出て来、ラファエルの絵を見るとき思わずほほえみが湧いて来る。千年を隔てて静御前を見る由もなければラファエルに会うことも出来ない。而し静御前の涙は直に我の涙であり、ラファエルのほほえみは直に我のほほえみである。私はこの現在の一点に於いて、古今東西を超えた永遠の相を実現するのが芸術であり、美的価値であると思う。永遠とは無限の過去、未来より働きかけられ、無限の過去、未来へ働きかけてゆくこの我の生命である。この我の生命は千年を直に一つとする全人類的なるものに基礎づけられているのである。表現とはこの有限なる個としての我に全人類的なる永遠が自己を露わとしてゆくことである。

 無限の過去より働きかけられ、無限の未来へ働きかけてゆく生命は歴史的でなければならない。私は短歌の客観性とはこの歴史的世界にあると思う。歴史的世界とは私達が生まれ、働き、死んでゆくところである。而して我々はこの歴史的世界に於いて永遠なるものに接するのである。芸術としての短歌の客観性は認識論的な普遍妥当性にあるのではなくして、個々の生命が其の中に於いて個性となるより大なる世界にあると思う。そしてその基礎となるのが共感であると思う。

 作品の良否を決定するものはこの歴史的現在の一点に捉えた生命の深さである。初歩的な好嫌の判断基準は己の愚を露呈するのみであると思う

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」