短歌と俳句

 先日或る人から、「短歌と俳句はどう違うのですか」と尋ねられた。私は「そうですね、勿論字数の違いはありますが、根本的な違いは俳句は季がなければならないことでしょうね」と答えた。私は答え乍ら季がなければならない詩は世界でも外にないのではないかと思った。そして帰ってから季とは何かと考えた。

 季とは一年を周期とする気象の変化であり、変化に対する生体の対応である。それ は四季に分かちて日本に於いて最も鮮明であると言われる。よく日本人の繊細なる感性は斯る変化の微妙の上に培われたと言われる。

 私は季がなけれならないとは自然を感性の根元として、自然の中に没入することであると思う。我をも自然として、何処迄も自然の中に我があるのである。自然の中に没入するとは我の情念を否定して自然のあるがままが情念となることである。

 菜の花や月は東に日は西に

 春の海ひねもすのたりのたりかな

 秋深し隣は何をする人ぞ

 そこに個人の喜怒哀楽はない。自然との深き一体として、自然は我のなりたるもの、我は自然のなりたるものの唯一生命があるのみである。私は其処に日本的なるものの深い自覚を見ると共に、日本的生命の完結を見ることが出来ると思う。私はわびとは斯る自覚の空間的方向であり、さびとは時間的方向であると思う。

 それに対して歌垣より発し、相聞えと発展した短歌は、何処迄も我と汝の世界である。相対の世界である。生者必滅、会者定離、生々流転の世界である。短歌とは「嘆 「き」であると言った人がいる。

 月見れば千々にものこそ悲しけれ我が身一つの秋にはあらねど

 さびしさに宿を立ち出でて眺むれば何処も同じ秋の夕暮れ

 それは悲傷の世界である。そしてこの悲傷はこの我がこの我としてある限り避くべからざるものである。哀歓を消してゆくのではない、哀歓の方向に展きゆくのである。勿論俳句も斯る哀歓を内包する。内包しつつこれを超えた自覚として否定するのである。私はその意味に於いて俳句の高次性を肯うものである。江戸時代に幾多俳句の俊秀が生まれたのも宜なるかなと思う。

 而し時代は移る。私は俳句はその高次なるフォームの完成の故に現代の表白に耐え 得ないものと思う。近代的自覚は個性の発見であり、自由意志の確立であった。個性 の発見とは世界の中のこの我が逆に世界を内にもつことである。創造的世界の創造的要素となることである。近代的技術発展によって季感がうすれたということではない。没入としての基本理念が覆されたことである。

 個は個に対することに個である。それは矛盾として闘争としてあるものである。その点に於いて我と汝と相面し、情念の多面へと展開していった短歌の方が現代の表白に適しているようにと思う。言いかえれば短歌の方が近代的自覚の表白により近縁的であると思う。

 現代歌人は修羅なき所にも修羅を見ようとする。其処に対立するものの深淵はあり、それによる人間精神の拡大が調和である。アンドレ・ジイドは悪魔の囁きなくして芸術はあり得ないと言った。俳句も亦近代詩となるためには悪魔の声を聞かねばならな いであろう。

(後記) 本文は子午線に寄稿したものである。歌を作る者として俳人の反論を得たいと 思って後半敢えて暴論を草した。読み返して大いに恥じる次第である。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」