知的抒情について

 先日大熊さんが来られて、片岡さんからと言って合同歌集を戴いた。その中で氏は 「珠」の短歌理念である「知的抒情」には到底及び難くと書いておられる。知的抒情とは一体如何なるものなのであろうか。

 知は分別である。それに対して情は常に純一である。知が求めるものは普遍妥当性であり、古今を通貫し、東西に敷延するものである。不変のものである。情は純一なるものと無限の流動である。喜び悲しみの何処より来り、何処に去りゆくかを知らないといわれる。生きゆく生命の直接の現れである。斯る意味に於て知と情は、相反するものと言わなければならない。

 併し知も情も我々のもつものである。我々はこの相反するものをもつことによって、人 間として行動し、生命を維持してゆくのである。

 生命は唯一生命として生命である。斯る唯一なる生命が内に相反するものをもつということは、生命は矛盾として生命であり、相反するものは相互媒介的にあるということでなければならない。知は情を媒介することによって自己を愈々明らかにするのであり、情は知を媒介とすることによって自己を深めてゆくのである。

 知は何によって対象を辨別するのであるか、私はそこに刹那刹那ということがなければならないと思う。大なる時間の中に刹那刹那を見てゆくのが辨別であると思う。普遍妥当性ということも、大なる時間を満たす刹那でなければならないと思う。スピノーザは知的愛を言っている。それは勿論知を愛することをもって至上の生とすることであるが、それは亦愛によって知があることでなければならないと思う。愛は情の至純なるものである。

 情が知を媒介するというのは如何なることであろうか。知は普遍妥当性の要求者として刹那を越えたものである。私は刹那的なるものが普遍的なるものをもつとき、そこに永遠を見ると思う。達することの出来ない深淵をもつのである。そこに情の深まりがあると思う。生来的な喜怒哀楽に生きるのではない。不安と絶望への戦いとして生きるのである。不安の暗黒、見出でた歓喜、人間の情念はそこに形象をもつ、知的抒情とは日常の事象を借りて生死の深淵に降りてゆくことであると思う。

 相互媒介としての日々の行履に於て知と情は一つである。而してその知が情を包む方向に散文があり、情が知を包む方向に詩があると言い得るであろう。知的抒情はそれが抒情である限り、情の中に知を消化しなければならないであろう。

 以下片岡さんの作品を二、三例にとり乍ら具体的に追及したいと思う。

切り岸に踵を返すまひるまの海の曠野を眺めつくして

 海の曠野とは何なのであろうか、私はそこに限りない生の渾沌の前に立つ作者を思うことが出来ると思う。その前に作者は無力である。五句作者のあり方を表わして遺憾ない。知的抒情の成功作である。

額あげて生きねばならぬ容赦なく朱の散剤を喉(のみど)にこぼす

 生の修羅を捉えて上手い作品。併し前作より深さに於て劣ると思う。

みひらきて他人の顔のわれがゐる夜の鏡の不意におそろし

 自己の中にある他者、実存的なるものに挑んだ作者の深さを思う。併し五句更に他者への突込みがないと一首として成功していると言い難いと思う。

天までも昇りつめれば雲雀子の声は堕ちくるまっさかさまに

 全体が観念であり、知が露呈している。抒情の方向を逆行するものであると思う。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」