眼晴

 正法眼蔵の第五十八、眼晴の中に天童和尚の「秋風清く、秋月明らかなり、大地山河露眼睛なり。」という言葉がある。私はこの言葉は見るとは何ういうことかという問いの解明に深い示唆を与えるものであるとおもう。眼睛とは瞳である。瞳とは光りを介してこの我が他と関るところである。斯る関りが見るということである。見るとは如何なることであるか、私は私達の見るということは生命の自己形成を背後にもつとおもう。生命は内外相互転換的である。外を内とし、内を外とする無限の形成である。外を食物的環境として身体を形作ってゆくのである。内外相互転換とは摂取と排泄である。絶えざる摂取と排泄によってわれわれは身体を形成してゆくのである。斯る食物は食物連鎖的である、有機物は有機物を食うことによって栄養とするのである。光合成をもたざる動物は他の生命を捕獲することによって生長と生存を維持するのである。動物はその食の獲得に行動するものとして動物であり、その行動圏を自己の空間とするのである。目は斯る行動圏を空間とする機能として成立するのである。禿鷹は三千米の高所より地上をありありと見ることが出来るという。併し見るのは餌としての野鼠だけであると言われる。そこに動物の目があり、空間があるのである。食物連鎖は弱肉強食の世界である。それは常に生死を賭けた世界である。生命は斯る生死の中からより大なる機能を見出してゆくのである。捕えんとし、逃げんとするところより機能を発展させてゆくのである。感覚はより精緻となり、より大となるのである。私は生命は食物連鎖を内的矛盾としてより大なる形相を見出してゆく一大体系として把握したいとおもう。視覚というものも斯る生命形成の発展の内容として捉えるべきであるとおもう。生存競争は修羅の世界である。而して闘争なくして生命の形相はあり得ないとおもう。修羅に於て生命は自己を見出でてゆくのである。目は内外相互転換の外を拓いてゆく尖端として修羅の中に発展をもつのであるとおもう。

 私は人間生命を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚とは自己の中に自己を見ることである。自己の中に自己を見るとは見出した形が見るものとなることである。見出でた形がより大なる機能を有するものとして次の形を見出してゆくことである。そこに経験の蓄積があるのである。経験の蓄積とは過去と現在と未来を現在の行為に於てもつこ とである。外としての偶然を内としての必然に転化せしめることである、探すものより、作るものとなるのである。生命はここに百八十度の転回をもつのである、食物をもって距てられた個体は製作に於て協同するものとなるのである。人間が最初に作ったのは食物としての栽培であった。それは自然の力を人間が駆使しなければならないものであった。墾し、耕耘し、水利をもたなければならなかった。然も天災は人間の努力を絶えず無にしたのである。中国の王権は水利事業の上に成立したと言われる。そこには大なる集団の力が必要であった。多くの人々が一つの力となったのである。製作の発展はより大なる力を必要とした、そこに人類は個を超えた一として生存し、人類一の自覚をもったのである。私はそこに目も亦製作的生命の目とならなければならなかったとおもう。降雨、寒暖のために天文を知り、水利の為に地理を見る目となるのである。人類一の実現の為に鋭さの奥に柔和を湛えた目となるのである。

 生命が内外相互転換的に形成的であるとは内外をあらしめるものが自己を実現してゆくということである。枝穴にすむ蟹は偏平であり、泥中に生きる鰻に鱗が無い。空中と羽根は鳥に於て不可分である。形成的生命として形は機能であり、機能は形である。生命は内外相互転換的に内外一として自己を形成してゆくのである。自覚的生命とは斯るものが製作的になったということである。人間は手と言葉をもつことによって製作的となった、製作的となったとは表現的となったということである。外を物として、物の形に身体を見てゆくことである。製作とは物に自己を実現してゆくことである。物を作ることによって自己を見てゆくのである。物を作ることによって自己を見てゆくということが世界形成的ということである。

 物を作るとは如何なることであるか、物は私達が作る、併し私達は物の法則に随うこと なくして一物を動かすことは出来ない。物を作るとは物の中に深く入っていって物の性質を知ることによって可能である。物の性質に随って私達の生活に合う如く形を変じてゆくのが作るということである。私は鎌の販売に携わったものであるが、鉄というものは人間の製作的生命の翳を宿すとき無限の性質の奥行きをもつものである。鎌を作るというのは鍛造の温度、焼入れの温度によって千変万化する鉄の性質の中から、切味という唯一点を見出すことである。その為に作るものは切れるということを目指して鉄の化身となるのである。それは切れるという目的の実現としてこの我の実現であると共に、鉄の化身として鉄自身が何処迄も自己を展開してゆくものである。外が開けてゆくことが自己が展けてゆくことであり、自己がけてゆくことが外が開けてゆくことである。私は芸術の創造の如きも斯かるところから考えられるとおもう。画家は通常の人が見ることの出来ない美しい色を見ると言われる。描くことによってさまざまの色が現れてくるのである。さまざまの色が現われてくるとは、今迄見えていなかったものが見えてくることである。描くことによって目の中に色が色を分つのである。赤や緑が自己の中に無限の色の系列を見、画布にその一点を決定するのである。画家の目は色彩と化し、色彩の中に消えてゆくのである。色彩が色彩を見、色彩が内面的発展をもってくるのである。而して斯る色彩の内面的発展は画家が描くことによってあるのである。描く手を動かすものは作者の生命である。描くとは作者の生命の表出である。色彩が色彩を見るとは画家が自己を見ることであり、描かれたものは作者が見出でた自己の形象である。作者が対象に消えることは、対象が作者に消 えることである。形はそこに新たな形として生れるのである。そしてその形から対象が見 られ自己が見られるのである。生れ継ぎ、生み継ぐことによって対象があり、自己があるのである。そこは自己が対象の中に消えることによって自己があり、対象が自己の中に消えることによって対象があるのである。形が形を見、世界が世界を限定するのである。われわれの自己が対象の中に消えてゆくということは、製作する世界として開かれてゆく対象に招かれるということである。色彩が色彩を見る無限の深さに呼ばれるのである。そこにわれわれの行為があるのである。われがあるのでもなければ、対象があるのでもない。表現的世界の中から自己が見られ、対象が見られるのである、そして見られたものが見るものとして自己と対象があるのである。故にわれわれは表現的世界に還ることによって真個の自己に接するのである。自覚的生命として全てあるものは表現的にあるのである。私は斯るものを宇宙的生命が自己を見るというのである。目は見るものであり、対象は見られるものであるというところからは物の内面的発展ということは考えることは出来ない。目は製作の目として、宇宙的生命が視覚的に自己を露わにする器官である。絵画の如きはその最も純なる内容であるとおもう。

 「秋風清く、秋月明らかなり。大地山河露眼睛なり。」という言葉も斯るところより出てくるのであるとおもう。大地山河露眼晴とは大地山河が自己自身を見ることによってあるということであるとおもう。私はそれを尋ねるためにわれわれにとって山河とは何かを問いたいとおもう。私は生命は内外相互転換として、外があるためには内がなければならないとおもう。外の形が生れるためには内の形が生れなければならないとおもう。そこに生命の形成があるのであるとおもう。斯る形成の外の方向に物があり、内の方向に生命としての身体があるのである。その意味に於て空を飛ぶ鳥や、地を這う虫は山や河をもたないとおもう。人間にとって山や河は、行路を遮る山や河であり、幸としての生命を養う物を生み出し、恵んでくれる山や河である。行路の難渋はわれわれに強靭な四肢を育くんでくれるものであり、恵みの食物は豊かな身体を作ってくれるものである。それは同時に私達の情緒である。獲得した強靭な脚にとって峻険な山に登ることは喜びである。私達は大なる山に尊厳の情をもつ、私はそれは山を登る力の表出と無縁ではないとおもう。私達は雲に対して尊厳の情を抱かないのは力の表出を伴わないところにあるとおもう。

 全てあるものは生命の自己形成としてあり、生命の自己形成は宇宙の自己形成としてあるのである。山や河は生命形成の自覚の露わなものとしてあるのである。眼睛も亦そこより生れ、そこに働くのであるとおもう。木の実や薪、茸やけものを獲る山、脚力と山、魚を追う河、水浴をする河、我と山河は斯るものの自覚として出現するのであり、出現は我と山河が形成として自己自身を見ることである。「秋風清く、秋月明らかなり。は斯く見ることが成立する純なる情緒であるとおもう。純なる情緒とは、形成が形成自身を見ることである。茸やけものを獲ることや、魚を追い水浴することを離れて、山河と我が形に於て映し合うことである。欲求や生死を超えて形成の永遠の相に目を移すことである。山河の形に我を見、我の形に山河を見るのである。そこには我があるのでもなければ山河があるのでもない。山河は我であり、我は山河である。秋風清しは映し合う我と山河がそこに透明にしてありのままに一なるのである、月明らかなりは我と山河が明らかな形に映し出 されるのであり、その明らかな形は山河が山河を見るのであり、我が我を見るのであり、 生命が生命を見るのであり、宇宙が自己を露わにするのである。

長谷川利春「自覚的形成」