盗作

 露踏みて畑に通ひ来し女育つキャベツに屈みゆきたり

 先日出した未知の己の中の一首である。併し私は表題に入ってゆくために斉藤茂吉から語らなければならない。私は茂吉が好きである、一番偉大なる歌人はと問われたら、私躊躇なく氏の名を挙げるであろう。幾度も書く通り

 赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり

に、それ迄技巧的な表現の歌を上手いと思っていた私は魂の根より動かされたのである。下句の何れ程も離れてゐないという把握に、単に赤茄子の腐れではなく、全生命が負うている腐れに思いを運ばす力がある。私は目を開かれた思いがしたものである。

 私は氏がものを見るのは単に目で見るのではなく、全身の生死に於て見ているようにおもう。河豚を殺した歌、蚕の歌にも苦行僧の心の裡を見るような粛然としたひびきをもっているようにおもう。対象を見ると同時に自己を見ているようにおもう。

 冬原に絵をかく男ひとり来て動く煙をかきはじめたり

の歌も好きである。四句の動く煙は凡庸の出る言葉ではない、動的な生命をもつものの目によってのみ見られるものである。動的とは背後より何ものかに衝き動かされいるということである。

 ここ迄書けば賢明なる読者は既に了解されているであろう如く、初掲の私の四句育つキャベツの育つは、本首の四句動く煙の動くを発想に於て盗んだものである。

 盗作というのはどこからを言うのであろうか、余りにも言い古された言葉であるが、「学ぶ」は「真似ぶ」から来たと言われる。私達は短歌を学ぶとき先蹤を真似ぶのである。言わば盗むのである。併しそのことは先蹤を受け継ぐことである。そこに伝統が生れるのである。私はわれわれの感性は先人を受けることによって陶冶されるのであり、創造は先人の上に立つことであるとおもう。

 私は今回の「未知の己」に於て「照り出でて」を多用している。これは初井しずゑが使 っていたのを盗用しているのである。私はこの言葉に研ぎ澄まされ感覚を感じた。そしてその言葉を使うことによって、表現の野とでも言うべきものが拡大されるようにおもうのである。これからも使いたいとおもっている。併し盗作ということを意識すると心中じくじたらざるを得ない。非難さるべき盗作の範囲は何のあたりからと編集当局の松尾さんや藤木さんの御教示を賜われば有難いとおもう。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」