私達の身体を組成する物質は地表に存在する物質に比例するといわれる。身体の有する水分は約六十五%であり、それは地球上に占める水分の比率にほぼ等しいものであり、その他の物質も地球上に多く存在するものであり、その比率もほぼ等しいといわれる。私達の身体は外を環境として、環境を映す環境の凝縮物であるのである。私はそこに生命形成があるとおもう。外を宇宙と名付ければ身体は宇宙が自己の中に見出でた自己の形相である。生命は身体的に自己を形成してゆくのである。身体的に自己を形成し、身体は宇宙が自己の中に自己を見出した形相であるとすれば、生命は宇宙が自己の中に自己を見る無限のはたらきであると言わなければならない。生命は内外相互転換的である、内外相互転換的とは外を食物として、食物を摂取することによって身体を養うことであり、不用のものを排泄することによって身体を形成してゆくことである。斯る形成として環境は食物連鎖をもつのである、私は食物連鎖とは宇宙が自己の中に自己を見てゆく一環として捉えるべきであるとおもう。低次なる生物を捕食することによって高次なる機能を生む力を獲得するのである、否捕えるということが既に優越する力をもつということである。それは生存競争の中より生れるのである、形として生み出された生命は生存せんと欲する、生存と生存の対立するところ、対手を倒して己が生きんとするのが生存競争である。生命は常に死に取り囲まれているのである。生命の行為は対面する死を生に転ぜんとする努力である。 そこから身体により大なる機能が生れるのであり、より大なる機能による行動がより明らかな対象を生むのである。そこに宇宙の自己実現があるのである。生命に自己を実現した宇宙は生死に於て自己を発展させてゆくのである。
生命が生死に於て自己を見出してゆくということは情緒的であるということである。生命は身体として自己を形成してゆく、それは一瞬も止まざる生死の転換としてあるのであり、転換の形象は情緒である。情緒の表出は生きている証しである。情緒は死に面し、生に面する身体の対応である。喜ばんとして喜ぶのではない、怒らんとして怒るのではない。対象に面して身体が躍り、身体が竦むのである、われわれは情動として自己をもつのである。われわれの生命が自覚的であるとは、斯る生命が自己の中に自己を見るということである。
自覚とは生命の生死の転換による形成としての身体が、宇宙の自己形成の内容としてではなく、逆に宇宙の形成を内にもったということである、経験の蓄積をもったということである。身体が新たに手と言語中枢を加えたということである、一瞬一瞬に現われて消えてゆく生死転換の営為を統一する生命となったということである。そこに物の製作と言語がある、物の製作とは宇宙が自己の中に見出でた自己の形象としての身体が、その作られた宇宙の形象に於て逆に宇宙を作ることである。宇宙の創造をその転換に於て更に大なる創造点に立つことである。そこにわれわれの自己が成立し、世界が成立するのである、経験の蓄積として内外相互転換を統一し、宇宙を内に見るものが自己となるのである。
製作とは内外相互転換としての生命の流れを形に表わすことである、そこに自己を確認し、世界を確認するのである。それは形より形へである、内が外を映し、外が内を映すのである。内が外を映すとは表象として世界をもつということである。外が内を映すとは物として生命を宿すということである。世界を内にもつとは、世界が内として次の世界を作る力となることである。物として生命を宿すとは、物は生命の表れとして次の形を呼ぶことである。製作することは内に力がつき、外に新たな形が生れることである。そこに自覚的生命の内外相互転換の必然があるのであり、生命の無限の形成があるのである。
斯るものとして私は形は情緒が言葉をもつということであるとおもう。経験の蓄積は生死転換による生命形成である、それは宇宙が宇宙を見ることである。宇宙が宇宙を見ることがこの我が我を見ることである。私達の祖先が最初に見た形は宇宙としての世界表象であったとおもう。而してそれはそれによって我がある根源的存在である。私はそこに原始的イメージがあるとおもう。われわれは根源的存在の具現として存在する。併しわれわれは生死する。そこに根源的存在は超越者として絶対の力を有するものとなる。われわれはそれによってあるものとして、無限の形を生み継ぐものの内容となり、運命的となるのである。
表象は一人一人がもつ、一人一人はその表象を生死に於てもつのである。而してその表象はわれわれに生死をあらしめ、われわれの生死に於て自己を見てゆく超越者の形象である、その形象は一人一人の生死を映すものとしてこの我に擬ふるものである。私は擬人ということが最初の世界表象であったとおもう。超越者は生と死の方向に分れて戦い、在る ものは喜び、悲しみ、怒り、怖れるものとしてあるのである。このことは私は宇宙は先ず情緒に於て自己を現わしたのであるとおもう。そして超越者としての一をあらしめるものは判断の概念的普遍ではなくして共感であるとおもう。共感は生死より来るのであり、生死は宇宙が自己の中に自己を見るより来るのである。普遍とは全てのものがそれによってあるものの自己限定ということである。私はそこに共感のもつ世界性、感情のもつ普遍性 があるとおもう。
喜怒哀楽に時間はない、私はそこに最初の生命の形象があったとおもう、常に現在として喜び悲しみはあるのである。形は言葉より生れる、斯る言葉は生死より出るのである。死を生に転じ、生が死に転ずるところより出てくるのである。言葉は呼び応えるところにあるのである。呼びかけはより大なる生命を見んとするところより生れるのである、より大なる生命を呼びかけに於て見んとすることは、呼びかけるものと、呼びかけられるものがより大なるものの内容としてあり、呼び応えることによってそれが露わになるということであるとおもう。そこに継起はない、あるのはこの我の生死を介した超越者の姿である。生死を転換させる神の、若くは英雄の大力量の姿である。古代に於て神話は物語りではなくして現実を限定するものであったと言われるのもそこに所以をもつとおもう。神や英雄は実在した人物ではない、世界が自己矛盾的に自己を限定した姿である。それが個的行為の根底として、個的行為がそれによってあるものとして見られたのである。私は神話に生命の形成的真実があったとおもう。情緒として無時間的なる世界像は理性による我と世界の合一ではなくして、熱気と興奮の世界体験であったとおもう。
言葉をもったときに人間が世界像をもったということは言葉によって世界像をつくったということではない、形成的生命が形象として自己を現わしたということが言葉をもったということである。ネアンデルタール人は曖昧な言葉をもったと言われる。それは情緒的表出より言語的表現に発展する過渡期としての形態であるとおもう。意味に訴えるよりも多く共感に訴えるのである。言葉は世界を自己の現れとして、更に自己の中に自己を見てゆくのである。そこに言葉が世界をつくるということが現れてくるのである、それが経験の蓄積として内外相互転換的に製作的となるということである。情緒は生命の死生転換の形成作用より来るのであり、言葉はその形の内面的発展より来るのである。情緒は既に形である。喜びは生の悲しみは死の形である。蓄積が製作であるとは、製作的生命になるということは、喜び悲しみも作られるということでなければならない。物の出現は喜びの出現と共にあったのである、そこに情緒は形である所以があるのである。情緒は既に形であるとは、形の発展は情緒が担うということである。生命が動的に形成的であるとは蓄積的であるということである。生命の形は無限の内外相互転換としての体験の蓄積をもつことによってあるということである。内外相互転換の表象が情緒であるとき、蓄積は形の発展であり、形が形を生むということは情緒が形の中に沈むということでなければならない。沈むとは形に消えて形に現われるということである。情緒が形である時は神話的であり、形の中に沈んで形に現われるとは理性的となったということである。そこに知の根底に情があるといわれる所以があるのであり、知は情に運ばれることによって生々たるのである。熱情なくして世界の如何なるものもあり得なかったと言われるのもここにあるのである。
内外相互転換は一瞬一瞬の生命の行履であり、情緒は現われて消えゆくものである。併し単に現われて消えゆくものによろこびかなしみはない、そこにはよろこびかなしみを感じるものがなければならない、私はそこに生命の生死を見ることが出来るとおもう。生死は否定し合うものである、死は生の否定であり、生は死の否定である。 生命が内外相互転換的であるとは一瞬一瞬が死に面することであり、危機としてあるということである。それを生に転換することが形が生れるということである。形とは外が内に即するということである、無限に外を内とすることによって生命は形を維持するのである、そこに理性があるのである。理性とは真に形成するものを宇宙的生命として、内外相互転換的に宇宙的生命を露わならしめるものである。われわれの身体は宇宙的生命の自己形成として、宇宙的生命を内とするのである、全て生命の形は宇宙的生命の実現として外を転換的に統べる形 である。故に全ての動物は理性を潜在せしめるのである。唯形成が生存競争として個体維 持的であるため世界形成としての宇宙的生命の実現をもち得ないのである。対立するものは相互否定として、形の実現としての否定の肯定、対立の統一をもち得ないのである。それが人間に於ては経験の蓄積としての技術と言葉をもち、製作するものとして多の一をもつものとなるのである、私はそこに理性が出現するのであるとおもう。手が外部の理性であり、大脳が内部の理性と言われる所以であるとおもう。
私は斯るものとして理性は外の方向に形の多様と統一をもち、内の方向に感情の抑制をもつとおもう、形の多様と統一は形が形の中に形を見るということでなければならない。見られたものが多様であり、見るものに於て一である。判断というのもそこにあるのであるとおもう。判断とは形を生んでゆくことである。新たな形が生れることである、理性とは生命が自覚的創造的となったということであるとおもう。新たな形が生れるということは、意識に於て自己ならざるものが自己になったということである。生命に於て隠れていたものが現われたということである。それは生命がより大なる自己をあらしめたということである。斯くより大なる自己の出現へ自己を運ぶものは何か、私はそこに喜び、悲しみ、 驚き畏れを見ることが出来るとおもう。感情は自己の根底の出現を指向するのである。
内外相互転換としての生命形成は現在より現在へである。危機として死を生に転じ、生が死に転でられる生命は身体的事実として自己を形成してゆくのである。記憶も理想も身体がもち、身体が生むのである。理性も身体が危機の中より生み、危機に於て保持するものとしてはたらくものとなるのである。理性は時間・空間を超えて内にもつ、それは身体が時間・空間を超えて内にもつものとしてあるということである。時間・空間を超えた理性の内容として現在があるのではない、そこからははたらくものを見ることは出来ない、そこには理性というものも消えてしまわなくてはならない、現在ははたらくものとしてそこに形の実現するところである。形の実現として過去と未来が出合うところである。記憶と理想が否定的に一なるところにはたらくものとして現在があるのである、理性はここに生れ、ここに保持されるのである、現在に於て理性ははたらくものとして、判断として形を生み、概念として形を保持するものとなるのである。
私は前にわれわれは形成的生命として生の方向によろこびを持ち、死の方向にかなしみをもつと言った。理性は身体に時間・空間を見出すことによってより大なる形相を見出したものとおもう。そこにはより大なるよろこびと、反面としてのより深きかなしみをもつのであるとおもう。身体のより大なる発現が理性なのである、それはより大なる身体としてより大なるよろこびである。その死はより大なるかなしみである。理性は生死を見るものとして永遠である。而して生死は如何にして見られるのであるか、私はそこに生死の自覚を見ざるを得ない、生死が生死の底に生死を超えて生死を映すのである。よろこびかなしみが自己の底に自己を映すのである。そこは全てがよろこびかなしみとして、よろこびなきよろこびであり、かなしみなきかなしみである、そこに最も深いよろこびかなしみがあると共に、永遠の形相をそこに獲得するのであるとおもう。私達は永遠を時間の無限の延長としてもつのではない、その過去と未来をもち、生れ死にゆく現在として永遠をもつのである。自覚的生命として身体を永遠の今として実現するのである。そこは生命の完結としての大なるよろこびである。永遠は理性によって把握することは出来ない、私はこのよろこびが自己に永遠の確信を与えるのであるとおもう。そこは過去と未来がそこに合い、そこに分れるところとして全てがあるところである。
長谷川利春「自覚的形成」