生命の目の出現について

 昔はクーラーが無かったと言うより扇風機のある家も稀であった。それに大方が人力に頼った労働は今よりも体のほてりが激しいものであった。夕飯がすむと大凡の家が庭前に床机を出して涼をとったものである。仰向けに寝て疲れを医しながら冷えた風が体の上を流れてゆくのは、この世ならざるところへ運ばれてゆくように快いものであった。現し身を忘れたような目に満天の星のきらめきが迫って来たものである。限りない視野に満ちた光りは少時の私達の目を奪って離さぬものであった。私達はそこで北極星や北斗七星を教わり、織女星の話を聞いたものである。昔の夕涼みは蚊との戦いであった。血をもつものの匂を嗅いだ蚊の来襲は凄いものであった。団扇で追払い、煙で退けながら私達は能う限り天恵の涼をとった。併しやがて負けて手や足のほろせを掻き乍ら暑い家内へと退散するのであった。今私の記憶には蚊との戦いは痒さと共に遠のいて、涼風の中に見た星の映像が鮮明である。それは限りない懐旧の念として私の心の中に住むものである。

 私は今目とは何か、如何にして目が出来たのであるかを問おうとしている。それは生命として生存に必要であるからであろう。それならば何故生命は生存の必要として目を形成 したのであろうか。ベルグソンは目は生命が身体より外に溢れ出る堀割であると言っているそうである。そうであるとすれば生命はどうして身体の外へ溢れ出ようとするのであろうか、目は光りによってはたらくとすれば、目は如何にして光りに関るのであろうか、目は身体に属し、光りは外界に存在する。目は光りによってはたらき、光りは目によってこの我に存在するということは、見るということは目と光りがはたらきに於て一であるということでなければならない。はたらきに於て一つであるとは、目と光りははたらきに於てあるということである、それは目からも光りからも捉えられるものではなくして、はたらきに於て一方の極に光りが見られ、一方の極に目が見られるのでなければならない。

 はたらくものは時に於てはたらくと共に、はたらくものに依って時は成立する、そこに形は生れるのである。全て形は時に於てあるものとして形である。時間とは形成作用である、私は目も亦生命の形成作用の内容として形相の成立を時の形成作用に求めなければならないとおもう。宇宙は爆発によって成り、生成の初めは超高温状態にあり、光りに満ちていたと言われる。物質は光りのエネルギーが物に転化したのであると言われる。そして生命は物質より生れたと言われる。私は全宇宙が光りであったとき如何なる様相を呈していたかを知らない。併し質を同じくするものとして全一的運動をもったであろうと想像するのは、もろもろの事象からして大して誤りではないとおもう。例えば火の如きも全一的運動をもとうとする習性をもつとおもう、断るものを前提として、物質に転化した光りのこの全一的なものは何うなったのであろうか、物質は相対的なものである。全一的なものは物質とは言い得ないものである。私は全一的なるものは相対的なるものの底に潜在したのであるとおもう。潜在する全一として物質の相対を成立さすものとなったのであるとおもう。相対を成立さすとは、相対としての運動が全宇宙一として運動をあらしめることである。全宇宙が光りとして全てが同質なるとき、個が全であり、全が個である。一の光子は全宇宙を表わすものである。私は生命も光より物質へ、物質より生命へと転じたものとしてこの原初のはたらきの上に立つとおもう。

 目は無限の遠くを見んことを欲する、それは光りが無限の運動であり、光りの運動を自己の内容とせんとすることであるとおもう、宇宙の微塵としてのこの我に全宇宙を映さんとするのである。私はそこに全宇宙が光りとして、一が全であり、全が一であったときの運動が潜在としてこの我にはたらき、潜在を顕現しようとするはたらきを見ることが出来るとおもう。私は目の形成をそこに見ることが出来るとおもう。光りから物へ、物から生命への形成は宇宙が自己を形成するということである。目は生命がもつ、併し目が生命としてのこの我が解くことが出来ないのは生命が宇宙の形成として作られたものであり、目も生命の内容として作られたものに外ならないからであるとおもう。生命が宇宙の形成であるとき、その形象は宇宙の形象を宿すのであり、宇宙の形象を実現するのでなければならない。全一体として全が個であり、個が全であった原形質を物として相対化した個に見出すのでなければならない、初めがはたらくものとして宇宙の形成はあるのである。私は目は個としてこの我が全空間と一なるところに出現したとおもう。外へ溢れ出る生命が肉体の一部を切り拓いたということは、宇宙がこの身体に於て自己を実現せんとしたことであるとおもう。私は斯る全と一との関係は単に動物のみではなく全物質にあるとおもう。よくこの頃新聞にフェライトとか水晶振動子というのを見かける、それは通信機、電子機器などに応用されて宇宙の他の物質との交渉をもつらしい。先日鉄が純分九九、九九九に精錬されると、それ迄と全然異なった性質をもってくると報じられていた。異なった性質とは他との関りに異なった性能を発揮するということであろう。純化されるとき、不純な分子によって遮られてきた性能が露わになるのであろう。私はそこに多様なる性能が現われるとは、その純なるものは原初の全と個の同一の潜在せるものが顕現すると思わざるを得ない、私はその純なるとき全ての物質は宇宙の全存在と呼応するものをもつのではないかとおもう。人間はそれを目に於てもつのであるとおもう。

 目が以上の如くあるとすれば生命は光りとして全一であった宇宙が運動に於て対立をもち、対立が常に全一に還り、全一を維持せんとするものであるとおもう。それは全物質に関るものであると言い得るであろう、唯物質と言われるものは単に宇宙の運動としてあるに対して、生命は自己の中に作用としてもつのである。作用をもつとは外に関ることによって内を変じ、内を変ずることによって外を変ずることである、生命は身体をもつものとして外を映して身体を作るのである。而して身体が外を映し作るということは外を身体を映すものとならしめることである、身体として外を映すには何等かの行動がなければならない、行動をもつとは外に身体を適応さすと共に外を変革することである。斯る外が宇宙である。私達の身体は宇宙の大より見れば一微塵に過ぎない、断るものをもってして自己の周辺を宇宙とするのはおこがましいと言われるであろう。併しそれが宇宙であり、それ以外に宇宙はないのである。外に適応し、外を変革するということは無限の展開をもつということである。人間も原初は単細胞動物であった、それが生死に於て外に適応し、外を変革することによって現在の人間を形成したのである、生死に於て外に自己を映し、自己に外を映して現在の世界を実現したのである。宇宙は身体の感官が拓いた世界である。斯る無限の展開は有限として生死する身体のよくするところではない。身体が生死に於て自 己を形成するとは、身体は生死しつつ生死を超えたものとしての二重構造をもつということである。死は消滅である、併しそれが形成であるとは実現であるということでなければならない、生死するわれわれは底に大なる生命を有するのである。私達の身体は六十兆の細胞を有すると言われる、それは単細胞としての生命が三十八億年の時間に於て生成したものである。私達は三十八億年の時間を内包するものとして、僅かな時間の中に次の生命を生んで死んでゆくのである。三十八億年の時間を内包するとは、人類が三十八億年の生死の経験をこの身体に蓄積するということである。われわれのこの一瞬一瞬は三十八億年の生命の蓄積がはたらく一瞬一瞬である、而してわれわれは生れ来ったものとしてこれを創り上げたのである、そこにわれわれは一挙手一投足に宇宙を見るのである、私はこの我を超えたところに我がはたらき、そこに宇宙が実現するということは、この我がはたらくということは宇宙が自己を実現することであるとおもう。この我も亦宇宙が自己の中に自己を見てゆくところに成立するとおもう。宇宙が光りとなり、物となり、生命が生れたということは宇宙が自己形成的であるということであるとおもう。このわれも亦宇宙の自己形成の内容としてあるのである。われわれが感ずるということも宇宙が自己を見るのであり、言葉も思考も宇宙が自己の中に自己を見ることであるとおもう。われわれが宇宙の中に現われ、現われたものが言葉をもち、思考をもつということは、私は斯く考えざるを得ないとおもう。全即個、一即多として無限の運動が形成的であるとき、其処に感覚が生れ、言葉が思考が生れるのである。目は対立する全と個、一と多を作用に於て結ぶ通路になるものであるとおもう。そこに生命の自己実現としての目の出現があるとおもう。

長谷川利春「自覚的形成」