歴史の意味

 歴史の意味とは、我々は何故に歴史を知ろうとするかの一語につきるであろう。堀米教授は其の論文「歴史の意味について」に於いて「われわれが歴史に向かうのは、われわれ自身を知ろうとしてである。われわれ自身を知るためには多くの人文、社会の学問があるように、その方法は種々である。而し歴史的方法はそのすべての基礎にあり、事物をその生成においてとらえようとするものである。

 歴史的にみずからを知ろうとすることは、不断に生成転化する歴史世界の中において、同じく不断の生成転化の過程にあるわれわれがどのような位置を占めるかを明ら かにしようとする事である。ここにみずからへの問いは客観的歴史世界への問いに結び付く。われわれはこの世界のわれわれにとっての意味を問うているのである。」と述べている。

 最近は歴史ブームであると言われている。それには種々の条件があるであろう。而しその最も深い理由は我々の自己は歴史的にあるということに外ならないと思う。知るとは自己を知る事であり、自己は他者と関わる事によって自己である。他者に関わるとは世界に生きる事である。世界に生きる事が自己を知る事である時、自己を知るとは世界を自己の内にもつ事でなければならない。我々は世界の中に生まれ、働き、死んでゆく。この世界の中に生きるこの我が逆に世界を内容とするところに自己はあるのである。世界の中にあるものが逆に世界を内容とするという事は、何処迄も世界の中に入ってゆく事でなければならない。世界の中に入ってゆくという事は、我々が自己を失って世界が世界自身を実現してゆく事である。私達の自己は自己を無とする事によって自己を実現するのである。生命は無限に動いてゆくものである。それ自身に動きをもつものである。動くとは一つの形を否定して次の形を生む事である。生命は自己の中に自己の否定を含む矛盾的存在として生命である。否定の喪失は死に外ならない。自己の否定として世界があり、世界の否定として自己がある。世界となる事によって自己があり、自己となる事によって世界がある。それが人間の働きであり、歴史である。

 時代の変化に勝つ事は出来ないと言われる如く歴史は我々を超えた流れである。無 限の過去と未来、数十億人の汝、彼が交叉する歴史的現在は一つの魔力とでも言うしかない力である。我々を一微塵として翻弄するのみである。歴史的事件はよく意表をついて複雑怪奇であると言われる。世界は世界自身の展開として我々の思量を超えたところに働くのである。而し其の故に世界を内にもつ事によって見出される自己は亦限りない奥行きをもつ事が出来るのであると思う。「自己を知れ」とか「汝自身を知れ」という言葉がある。自己の知るべからざる深さを歎いた言葉である。この言葉は自己が世界を円にもつ事によって自己である世界の深さに淵源をもつと思う。

 しかし翻って考えれば歴史の複雑怪奇は、この我、汝としての個人が世界を超えたものであるが故に起こり得るのであると思う。私が世界を内にもつという事は働く事よって私に世界を実現するという事である。すでにある世界を否定して私による世界を実現する事である。世界は個的生命を超えて個的生命の否定として動く。而し世界が動くのは世界を超えた個的生命の世界の否定として動くのであると思う。それなくして世界が動くという事が出来ないと思う。われわれは世界によってあると共に、世界は我々によってあるのである。この事は世界を知る事は我を知る事であると共に、我を知る事は世界を知る事であるという事が出来ると思う。それならば我を知る事が世界を知る事であるとは如何なる事であろうか。

 教授も言う如く歴史的世界は不断に生成転化する。而し単なる転化は何ものでもない。転化は一の多として転化するのでなければならない。世界史という時、転化は常 に世界に包まれていなければならない。常に転化を超えて世界でありつつ自己自身を転化させてゆく世界がなければならない。時は流れる、而し単に流れるものは時間ではない。時間は過去、現在、未来の統一に於いて成立するのである。初めと終わりが結びつくのである。初めが終わりを孕み、終わりが初めを含むのである。キリスト教 の世界終末の神の審判の如き、佛教の億劫未来の弥陀の救済の如き、近代思惟に照らして荒唐無稽とも言い得るであろう。私もこれを肯うものではない。而し斯るものによって時は成り立ち、歴史は動くのである。私は斯る時の統一は、我を知る事が世界を知る事であるところより考えられると思うのである。

 世界を内にもつとは働く事であり、我々は働く事によってこの我となる。働く事は技術的として物を製作する事であり、技術は無限の過去を負うところに成立する。物は世界の相として作られる。我々は無限の過去を自己の内容とすることによって一瞬、一瞬世界を実現していくのである。一瞬、一瞬世界を実現していくことは、一瞬、一瞬世界を過去として否定していく事である。実現せられた世界は、外的世界として我に対立し、我々に否定として、死として迫って来るのである。形相的個化として、我々の自由なる創造的生命を固化せんとするのである。斯る死として迫って来るものを生に転換するのが働く事である。世界は生死転換として自己を実現するのである。与えられたのは否定すべく与えられている。この否定的転換点が歴史的現在として時を包むのである。

 問の中に答はあると言われる。問の根底に還える事が答である。世界は時の統一として世界であり、統一するものが働く事が世界である。働くものは我々であり、我々が働く事は逆に世界を内にもつ事である。この事は我々の一人、一人が世界と同じ根底に立つということでなければならない。無始無終の世界は、無始無終のこの我でなければならない。私達一人、一人が無限の過去と未来の統一である。一々が時の統一者であって初めて世界の時の統一が成立すると思う。生殺与奪の長い繰り返し、流れたはかり知れない血と涙、我々の感性はその上に成り立っているのであり、それを潜めるのである。而してそれは知る事によってより養われるのである。私は我々の歴史的認識の欲求はここより来るのであると思う。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」