歴史と身体について

 人間のみが歴史をもつ、他のものは歴史をもたないと言えば、或は鳥には鳥の歴史 があり、馬は馬の歴史をもつ、唯我々の窺い知ることが出来ないのみであると言う人 があるかも知れない。而し歴史は人間のみがもつのである。これを明らかにする為に 先ず歴史とは何かを問わなければならない。

 私は歴史とは生命が自覚的であることであると思う。自覚的とは自己が自己を見、自己が自己を知ることである。自己が自己を見、自己が自己を知るとは、自己の形相を外に打樹てることである。外に打樹てることによって自己が自己を見、自己が自己を知ることが出来るのである。外に打樹てるとは物を作ることである。製作的生命となることである。内外相互転換的としての生命は常に欲求的である。物を作るとは欲求的生命が自己を外とすることである。外を内、内を外とする生命が、内を外として自己を見るのが物を作るということである。物に映すことによって我々は自己を見、自己を知るのである。

 歴史とは斯る人類の生産と配分、生産物の所有と争奪の交叉である。生命は常に矛 盾的として生命である。生きているものは常に死を学んでいる。自己の内に自己を否 定するものをもつのが生命である。内を外とすることは外を自己の否定的要素とする ことである。外を内とすることはこの否定的要素を更に否定して自己とすることである。生産物の増加による人口の増加は自然の暴威を倍加せしめ、常に人間を危機の下に置かしめる。危機の克服へのより大なる力の結集の必要が主権者と服従者をうむ。内外相互転換はその無限なる幅輳の間に自然への対立と、人間と人間の対立をうんでいくのである。危機は生活圏と生活圏の闘争を生む。而して戦いは万物の父である。戦いの中からより大なるもの、美しいものが生まれて来る。それは戦いが生命の自覚の上にあるが故である。犬の喧嘩は歴史ではない。始と終を結び、より大なる世界への歩みをもつものとしてのみ戦いが歴史なのである。人類の闘争は常に何等かの意味に於いてるものをもつが故に歴史なのである。歴史的時は過去より未来へ流れるのではない。自己の奥底に深化していくのである。

 人間のみが歴史的であるということは、人間のみが自覚的であるということである。 而して我々は自己の身体を介して物を製作する、身体を介して物を製作するというこ とは、身体は自己自身を見る身体であるということでなければならない。自覚的身体 とは如何なるものであるか、以下斯るものを考えることによって歴史の内的なるもの 幾らかでも明らかにしたいと思う。

 私をして斯る考えを觸発せしめたものは祖父江孝男氏の「文化人類学入門」という本であった。以下少々長くなるが必要な処を引用させて戴いてその上に私の考えを展 開していきたいと思う。氏は第二章、人間は文化をもつに於いて斯く書かれている。

 人間を他の動物に比べてみたとき、其の特色は何んな点にあるのだろうか?ふつう、 まずあげられるのは二本アシによる直立歩行が可能になったということだ。この為に 人間は両手を自由に使えるようになり、その結果、種々の道具を作ったり使ったりす ることが出来るようになったのだ。ところがこの点については、いろいろな学者から批判が出た。類人猿の場合、とくに古くから研究の行われて来たチンパンジーの場合、 天井からつり下っている手の届かないところにある餌をみつけると、いくつかの箱を つみ重ねて台とし、その上にのぼってなんなく手に入れる。あるいはまた床にころがっ ている、いくつかの短い竿をつなぎあわせて長い棒を作り、これではたき落す、これ などひじょうに原始的な段階であるとはいえ、道具の製作、道具の使用に外ならない わけで、こうした能力は人間だけのものではない事がわかるのだ。中略

 そこで両者をはっきり分ける、もっと根本的で、まさに質的な相違点を探して見れば、それは人間の大脳における言語中枢(あるいは言語領域)の発生なのである。中 略、類人猿の中のチンパンジーに於いてはその萌芽的なものがみとめられるようだが、而しまだ言語中枢とまではいかず、これは矢張り人間特有のものだということになる。中略

 それでは人間の言語の発生の結果として、人間の社会にはどんな変化がもたらされ ることになったのか?、人間に於ける言語の発生ということをなぜそれ程重視せなけ ればならないのだろうか?

 この点をよく示してくれるのが、アメリカの心理学者クロウフォードが行ったチンパンジーについての実験だ。チンパンジーを二匹オリの中に入れ、その外に餌をのせた台をおいてロープを結びつけ、その端をチンパンジーの手の届くところにおいてやる。而しこの台は一匹では引けない位の重さにして、二匹が協力して引っぱらなければ食物が手に入らないよう台の重さを調節したのである。

 ところがこの二匹は協力して引っぱることにはなかなか気がつかない。各自が自分だけで餌をとろうとして、めいめい勝手に引っぱって見るばかりだ。そのうちに二匹の引く瞬間が偶然に一致することがあり、このときは餌が手もとに引き寄せられる。こうしたことをくり返すうちに、はじめてチンパンジーも互に協力することをおぼえるにいたるのだ。この訓練がさらに進んで来ると、台の上に餌がおかれるや、一方のチンパンジーは鳴き声やジェスチュアを使ってもう一匹に合図するのであって、二匹のあいだのコミュニケーションは完全に成立することになる。

 ところが次にこの二匹のうち一匹を外に出し、他の全く新しい別のチンパンジーと入れ換えてしまうとどうなるだろう?、餌が台の上に置かれると、前からいたほうのチンパンジーはいろいろと合図や身ぶりを使って、なんとか相手の注意をひき、自分といっしょにロープを引かせようとするのだが、新入りの方は少しもその意味を解さないので、協力はいっこうに行われず、食物も手に入らない。新入りの方は相棒の合図にはおかまいなしに、なんとか自分だけで餌を手に入れようとして単独でロープを引くことを何十回となくくり返す。こうしてたまたま二匹の引く瞬間が再び偶然にも一致したときに食物が手に入ることになり、ここではじめて協力ということに気がつき、食物の獲得が可能となるのである。

 しかしこの実験に於いてチンパンジーのかわりに主役が二人の人間であればどういう ことになるだろう?人間の場合に於いてはなにしろ言語がある。その為に前からいる 者は新入りに事情を口で説明することができるので、二人はただちに協力してロープ を引くことが出来る。かくて食物のほうも、次の瞬間からなんなく手に入れることができるにいたるのだ。

 つまりこの簡単な実験からわかるのは、人間の場合には言語があるため、新しい工 夫、新しい発明や発見を他の仲間やあとに続くものに何なく伝えることが出来るとい うこと、したがってあとに続くものは、もう一度はじめからやり直す必要は全くない。そのすぐ次の段階から出発すればよいわけだ。言いかえれば人間の場合には世代を重ねれば重ねるほど知識はどんどん蓄積されていく。文字通り加速度的に蓄積されていくのである。歴史をずっとさかのぼって、旧石器時代の人間のもつ知識や技術はきわめて乏しく、動物のそれとあまり大きく変ってもいなかった。而し人間の場合は言葉がある為、現代にいたるまでのあいだに大きく知識を増大した。それに対して動物の方は旧石器時代と比べて見ても、その知識はほとんど変わらない。人間が動物をはるかに追いぬくにいたったのは、ひとつにはこのためである。中略

 而し言語の発生の結果、生まれたものとして、ある意味ではもっと重要なのが、記憶とそしてさまざまにものを考える思考能力の著しい発達なのだ。ここでもチンパンジーの実験がヒントを与えてくれるのだが、アメリカの動物心理学者として有名なヤーキースらによって研究されたものである。チンパンジーの背丈ほどに作られた機械仕掛の箱に窓が小さくついており、そこに赤か緑の枝が不規則な順序であらわれるようになっているが、赤の板が出たときにそばのレバーを押すと彩色板は消え、一定時間がたってから餌が出てくるが、緑の板が出た時にレバーを押しても彩色板が消えるだけで、いつになっても餌は出てこないのである。

 この装置の前にチンパンジーをおいてみると、彩色板が消えてから餌が出て来るまでの時間を四~五秒以内であるように調節しておくと、チンパンジーは何回かの試行錯誤のあとで容易にこの仕組みをおぼえてしまい、楽に餌を手に入れるようになる。ところが餌の出て来る時間をこれより遅くすると、何回くり返しても決しておぼえられないのだ。というのは、彩色板が消えてから四秒以上たってしまうと、其処に出ていたのは何色であったか、チンパンジーは完全に忘れてしまうからなのである。

 この場合でももし主人公が人間だったらどうだろう。この際においても人間なら言語があるため、彩色板に出てきた色彩を「アオ」とか「ミドリ」とかのコトバに直し頭の中におぼえておくので、相当の長期にわたって記憶を保持することが出来る。もしかりに時間がひじょうに長くなった場合には、それこそ文字に直してメモにしておくのであろうが、短時間の場合には文学に書かないだけの違いで、当人はまったく意識していなくても、コトバに直して頭のなかにメモに書きつけているのである。

 以上の説はすこぶる興味深く、示唆されること多大であった。言語があるため、新しい工夫、新しい発明や発見を他の仲間やあとに続くものに何なく伝えることが出来るということ、したがってあとに続くものは、もう一度はじめからやり直す必要は全くないということは、言葉は自己と他者、前と後を超えたものであり、自己と他者、前と後を内容とするということでなければならない。内容とするということは言葉が働くことによって、自己と他者、前と後があるということでなければならない。我々が言葉をもつということは、我々を超えたものとしての言葉が働くことであり、我々を超えたものによって我々は物を作る者として製作的自己となるのである。勿論言葉が物を作ることは出来ない。生命が言葉をもつことによって物を作るのである。

 而して言葉が自己と他者を超えて言葉の内容として、個としての自己と他者を包むということは、言葉をもつこの我は自己の中に自己を超えたものをもつということでなければならない。我々は自己の中に自己を超えた言葉をもつことによって、前の者の発明や発見をはじめからやり直すことなく行為し、其処を出発として其処より新しい発明や発見へと進むことが出来るのである。超えたものによって自己を見るとは超えたものが働くことによって自己があることである、我々が製作的自己となり、製作生命に於いて歴史があるとすれば、我々を超えて働くものは歴史的世界でなければならない。私は人間が言葉をもつことによって歴史をもち、我々は言葉をもつ身体であることによって歴史を担うことが出来るのであると思う。

 記憶ということも、「アオ」とか「ミドリ」とかの言葉に直して色彩を長期に保存することが出来るということは、動物的感官を超えることであり、それを内容とすることでなければならない。更に言葉が自己と他者を超えて包むという意味に於いて、単にこの我の体験を記憶するというのではなく、この我を超えた全人類の過去を記憶するのでなければならない。私は過去として記憶するのみでなく、言葉によって過去を掘り起こし、過去を創造すらするのであると思う。

 言葉を作った人はないと言われる。而して言葉は常に語る者其の人の言葉であると いわれる。人は自分以外の者の言葉を語ることは出来ない。そのことは、この我とは 自分も知らない深い底をもち、深い底よりの限定としてあることであると思う。言葉を言葉を作った人はないと同時に、言葉は人の作ったものである。それは個々の人間を超えた無限の関り合いの中に作られたものである。我々も亦言葉の中に生まれたのである。言葉の中に生まれ乍ら、私の言葉は私以外の何ものでもないということは、私は私を超えた無限の関り合いの中にあり乍ら逆に無限の関り合いを自己の内にもつということでなければならない。無始無終なる宇宙時間を内にもつということでなければならない。対話は世界を内にもつものが世界の中にいるものとして出合うということである。

 言葉が個々の人間を超えるということは、言葉が世界として世界自身を創っていくということである。言葉の蓄積が加速度的に増大していくということは、言葉が言葉自身の内面的発展をもつことである。言葉が言葉自身の展開をもつのである。売言葉に買言葉という俗諺がある。言葉が言葉を呼ぶのである。斯るものとして私達が言葉 をもつということは言葉の内面的発展に運ばれることであり、言葉が内面的発展をも つということは私達が言葉をもつということである。

 自覚は生命が内に超越的なるものをもつことである。生命は自己矛盾的である。生きるものは死をもつ、生死するものが永遠なるところに自覚がある。斯る自覚は言葉 によって成り立つのである。言葉によって成り立つ製作的生命は個々を超え、個々を うむものとして永遠である。私達の身体は言われる如く手をもつものとして技術的製 作的である。それは個々の生命の生死を超えて無限の過去より承け継ぎ、未来へと伝えゆくものである。有限なるものが無限なるものであり、生死するものが永遠なるも のとして我々の身体は自己自身を知るのである。有限なるものは無限なるものではない。生死するものは永遠なるものではない。言葉が世界として世界自身の内面的発展をもつということは、個々としてのこの我を否定して来ることである。それが一つであるとは個としての生命は無限なる努力であるということである。無限なる自己否定 として身体より汗と血を流さなければならないということである。

 歴史の流れは単に直線的ではない。自然としての過去より未来への流れと、自覚的 意志としての未来より過去への流れの交叉として現在より現在へである。製作に於い 過去は与えられたものである。未来は実現すべきものである。過去も未来も製作行為が担うのである。行為的現在が担うのである。現在は過去よりと未来よりの流れが軋轢するところとして現在である。戦うところとして現在である。軋轢することによって現在より現在へと転じていくのが歴史である。

 歴史が直線的な流れではなくして、現在より現在へであるということは、歴史的時間は始めと終りを結ぶものがなければならないということである。全時間が一つの意味をもたなければならないということである。私は言葉が斯る永遠の意味を担うと思う。時間は変ずるが故に時間である。それが一つとは自己撞着も甚しい。而し斯るものなくして我々は歴史をもつということは出来ない。言葉をもつ生命が製作的として無限に蓄積的であるといわれる。蓄積の多様化が生産の変転である。歴史は其の上にあるのである。

 個々の人間が世界の部分であるところに歴史はない。この我も汝も言葉をもつもの である。言葉をもつとは個の中に世界をもつことである。個の中に世界をもつとは個 を介して世界が自己自身を実現することである。個々の人間が世界たらんとすることである。天下人たらんとすることである。中国に中原に覇を争うという言葉がある。自己が世界たらんとする人々が相競うのが歴史である。

 言葉は内面的発展をもち、我々を超えて自己の世界を展開する。而し言葉をもつものはこの我である。言語中枢は一人一人がもつ、私はこのことは一人一人の人に現れ、一人一人の形相は歴史の形相であると思う。歴史的現在が過去と未来を含むということも、この我、汝としての個々の人々が記憶と理想をもつことであると思う。我々 を一微塵として翻弄しつくす歴史の流れははかるべからざる深淵である。而しかえり みるときこの五尺の身体に潜む限りなさに畏敬の念をもたざるを得ない。品川嘉也教 授は、人間の脳髄は宇宙の自己認識であると言われる。この我が知ることは宇宙が宇宙自身を知ることであると言われるのである。私は歴史の無限の錯綜は斯る統一の上に立つと思わざるを得ない。初めに終わりがあり、終わりに初めがある最も端的なるものはこの身体である。我々の内なる声は歴史の底より聞こえるのである。歴史の声は流れる歴史より聞こえるのではない、永遠の円環より聞こえるのである。永遠に女性的なるものわれを誘うとゲーテの言った誘いを歴史も亦其の奥底にもつのである。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」