根源への問いを問う

 哲学は根源への問いであると言われる。この根源が問われると言うのは如何なるこ となのであろうか。根源と言う以上全てのものがそこから出て来た筈である。而し問われるものである以上、それは未だ有り得ないものであり、求められるものでなければならない。根源への問いである以上その解答は終わりとしての全解答でなければな らない。根源への問いは、全てのものがそこより出で来ったものとしてすでにありつ つ、問われるものとして未だあり得ないものである。根源は根源として一つでなけれ ばならない。根源が二つあれば根源ではない。而し問うということは問うものと問わ れるものに距離がある事である。私はここに人間の自覚的生命を見る事が出来ると思う。

 ありつつあり得ないものとは、自己の中に自己を見ていくものである。自己の中に自己を見るものに於いて、問いは根源への、始めへの問いである。始めへの問いが問 い自身の中に深まりゆくことが自己自身を見ることである。根源が自己自身を明かし ゆくのである。根源は何故に自己自身を明かさんとするのであるか。私は矛盾として の人間生命の存在形態なるが故であると思う。

 根源的なるものは、始めなく終わりなきものとして自己を見るのではない。始めが終わりであるとは、始めと終わりが一つでありつつ、既に始めと終わりを分かつのである。根源を問うものは根源ならざるものでなければならない。根源ならざるものが根源を問う事が、根源が根源自身を問う事でなければならない。根源を問うものは個としてのこの我であり汝である。この我は、無数の人々の中の一人として、宇宙の一微塵である。生死するものとして無限の時間の中の一泡沫である。

 而して我があるとは、一微塵として、一泡沫としてあるのではない。問うのは言葉をもってする。生きるのは技術によって物を作ることによってする。言葉、技術は一微塵、一泡沫を超えたものである。この超えたものへの問いが根源への問いである。根源が自己自身を問うとは、根源ならざるものが根源を問うことである。根源が自己自身を見るとは、生死するものが普遍的一者を見る事である。勿論根源でないものが根源を見る事は出来ない。根源的なるものが自己自身を見ることが、根源ならざるものが見るということは出来ない。そこには相互媒介的なるものがなければならない。相互媒介的とは、根源によって、根源ならざるものはあり、根源ならざるものによって、根源はあると言うことである。一者によってこの我はあり、この我によって一者はあると言うことである。そこに自覚がある。自覚はこの我の自覚である。而してこの我の自覚が根源が自己自身を見ると言うことである。

 古来幾多の哲学が語られて来た。今も多くの人々によって語られている。各々が完 結しつつ、各々が内容を異にして、これからも多くの人々によって語られ問われる根源は一者である。而しそれは多くの人々によって異なった内容に於いて語られるのである。

 全ての人は個性としてある。それは世界が矛盾的に自己自身を作ってゆくものとして、唯一のものとして現前する。この我は過去にあった事も、未来に現われる事もな いものである。斯る個に於いて根源への問いをもち得るのである。個としての人間は 生まれて死んでゆく、この唯一なるものの死が根源を求めるのである。生まれ来った 新しい個は、新しい状況の下で唯一の個を形成してゆく。この新しい個の根源への問 いが新しい哲学のスタイルである。哲学は個がその一々に於いて根源を問うのである。個の全への終わりなき問いである。そしてそれが始めに終わりがあり、終わりに始めがあるものの形態である。

 問いが根源の自己自身の問いであり、問うものが個としてこの我であるとき、永遠は常に現在にあるのでなければならない。而してそれは無数の個を包むものとして、 無限の過去と未来を包むものでなければならない。無限の過去、未来の一瞬一瞬を現在として、この我と対話さすものでなければならない。生者必滅の悲しみに於いて、 永遠に対面しつつ、私達は滅んでゆくのであると思う。而して無限の未来に於いての 現在として、語り続けるのであると思う。其処に根源を問う所以があると思う。全ては唯一者に於いてあるのである。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」