帰りの汽車の中で井上秀雄さんより、今回参加の記事を書いてくれと言われた。少々酔っていた私は即座に肯いた。そして一夜明けた今日、今度は少々後悔している。実はこの旅行は学究心といった大それたものではなかったのである。商売の出張で散々旅に出た私は、廃業してから三年半宿泊する旅行をしたことがなかった。それで一度外に泊った旅行がしたかったのである。
併し全然興味がなかった訳ではない。私は私なりに東大寺建立に対して解くべき一つの課題をもっている。それは大なる失費による国力の疲弊と、人民の困苦である。その反対給付としての、飛躍的な技術の発展であり、偉大なる理念の表現である。曽って流浪者巷に溢れ、弱きは餓死し、強きは盗賊となって掠奪を事としたというのを読んだことがある。死者道辺に累ったと書いてあったようにおもう。而して斯る悲惨に顔を覆わない強靭な意志があって初めて、斯る大事業の完遂は可能であろう。それは個的感情を超えた世界意志といったものがはたらくのであろうか。例えば乃木大将が悲傷を胸にかくして、「進め、進め」と号令した如きである。そして斯る世界実現の意志を、如何に個的感情に感応させ個的意志に結びつけるかが統卒者の素質であろう。強靭な意志は世界意志の権化となるところより生れるのであろう。個と全の矛盾対立は流血流汗の残酷がつなぐのである。而してこの大事業のもたらしたものは実に大である。第一に用材の伐採、搬出の技術、河川、道路の整備、輸送用具の工夫、航路の開拓、石刻、鋳造の技術、更には大なる建築、装飾の技術、それ等は未来に限り無い可能性の展望を与えるものである。仏心の形相化は民衆の心の拠り処として心を一ならしめるものである。併し私にはまだこれ等を統一する論理体系をもっていないのである。
電車の中で配られたパンフレットには、参加都市の名が載っていた。それは宮城県より山口県迄、日本本土を縦断するものであった。披いた私は当時既に強大な統一国家の実現していたことを感じた。勿論その中には第一次創建に関るものと、第二次創建に関るものがある。併し最北の宮城県の涌谷金山と、最南の山口県の長登銅山は第一次に関ることは、この憶測を否定するものでないとおもった。聖武天皇の夢を開いたのはこの強大な国家の成立であったのであろう。
防府駅に降りた私達に近寄って丁寧に頭を下げた方がおられた。市の観光課の方が待って下さっていたのである。会長や飯尾さんと暫く話をされて、準備されたバスに案内して下さった。実に周到であり、其の態度は誠心を感じさせるものであって、私達を愉しくさせるものであった。そしてそれは町が変り、人が変っても、二日間を通じて変ることのないものであった。
その日は防府の名所廻りとして、阿弥陀寺、防府天満宮、毛利公邸等を観光した。その内阿弥陀寺は重源上人の創建として、天満宮は日本三大天神の一つとしてという外は特に記すべきものが無かったようにおもう。唯阿弥陀寺は僧侶が、天満宮は神官が石段の下迄迎えに来ておられた。それは初めての経験であり、貴賓に接するものの如くであった。私はそれがサミットの重大によるものか、この辺りの恒例とするのか知らない。
毛利公邸は明治の元勲井上馨が、建築技術の粋をあつめて造営しただけあって、その宏壮目を瞠るばかりであった。門に至る迄、及び門に入ってから玄関迄の道には両側に、剪栽の手の行届いた松が並んでいる。玄関の前は広くなり、右手に庭園に入る門が開かれている。靴を脱いで上ってゆくと、天皇宿泊の間というのが続いてあり、数奇を極めた格子天井は、今日の職人の日当を以って算えれば量り知れないものであるとおもわれた。一番奥の室に竹で囲いがしてあって大名火鉢が置かれていた。精緻を極めた金蒔絵は、千回もうるしを塗り重ねたであろう厚さをもっていた。恐らく豪家一軒に価する値打ちをもつものであろう。出ると女の人が居て二階へ上るように言われた。そこは庭園が一望に見下せるところであった。上る途中この階段の板は何とか言う木であると教えてくれたが忘れた。床に法眼栄川の落款の絵が掛っていた。眺めていると、横の人が「いい画ですか」と尋ねられた。私は栄川の名に記憶がなかったので「法眼は技芸の最高の者に与えられたものですから、幕府の絵所預りかはそれに準ずるもので悪くはないのでしょう。私はよく知らないのです」と答えた。その後その人は助役の山本さんではなかったかという気がしている。若しそうであればもっと礼をつくすべきであった。私はどうも粗忽でいけない。降りると博物館と記した板が立ててあった。入ると流石毛利家の宝物は凄い。入口から栄川のものがずらりと並んでいるのを見ると、恐らく毛利藩お抱え絵師であったのであろう。見てゆく内に梅花を描いた青緑山水があった。古木特有の枝の曲線が田能村竹田に似ている。唯竹田よりも稍繁雑である、近寄って見ると直入と書いてあった。名前を言うと二、三の 人が「わしも持っとる」「わしも持っとる」と言った。加西に二年程滞在していたと聞い たことがあるので、小野近在には所有者が多いようである。克明な父竹田の画風の継承は氏の誠実を思わせる。時間の制約があるので何うしても見るのは私も所有する作者のものになり勝ちである。そうゆう意味で記憶に残っているのは長沢芦雪の虎の対幅と、丸山応挙の鯉の三幅対である。芦雪の虎は他の絵に較べて略された線で書かれていた。一見粗雑なように見えたがその目はらんらんとしていた。私は日本画程眼睛を尊んだ絵はないとおもう。そこには感覚の快よりは、生命の気韻を尊んだのではないかとおもう。芦雪はこの眼が描きたかったのではないだろうかとおもう。応挙の鯉は彼の最も得意とするところであると幾度も聞いた。併し私の今迄見て来たのは残念乍ら複製ばかりであった。それだけに念入りに眺めた。精緻を極めた写生はさながら泳いでいるようであった。併しそれ以上は私には解らなかった。内藤さんが「一幅壱千万円なら買う」と言われた。私は内心「私なら二百万だ」とおもった。出口に雪舟等揚の水墨山水があった。読むと模写と書いてあった。恐らく蔵の奥深く秘されているのであろう。それにしても雪舟はこの近くに住んでいた筈である。それにしては作品が少ないように思われた。博物館を出てから玄関迄行く途中、建物の間に十数坪程の空間があった。そしてそこにもちゃんと石と木の配置があった。流石に違ったものである。玄関を出てから庭園を少時逍遥した。一万五千坪の庭は広大である。石木池水の配置は目を飽きさせないものであった。唯庭園の知識の乏しい私はそれを表わすべき言葉を知らない。
夕飯のたのしみは今回の旅行の目的の一つである。日本料理双鶴と書かれた室内の一隅に腰を下した一行は、膳の来るや遅しとビールで乾杯をした。私はその後日本酒二本を註文した。歓談と昼の観光の疲れに、酒は快く体内を廻り、千金とも言うべき陶然とした気分になる。広瀬さんが女性二人と宗教論義を初められ、真言宗から空海へと移っていた。そこへ私が「空海の根本的な誤りは即身成仏をしたことにある」と口を挟んだ。そこで広瀬さんの猛反撃を受けた。論争を記述することは本文の目的より外れるので、一寸紙面を 借りて私の論旨の要点だけ書かせていただきたいとおもう。
私達の身体は生死する身体である。しかし身体の内にある言語中枢は生死を超えたものである。昔語り部によって祖先の事歴を語り継いだと言われる如く、言葉は人間の始めと終りを結ぶものである。単細胞として発生した生命は、人間に於て六十兆の細胞と、百四十億の脳細胞の構造を形成したのである。我々の身体は三十八億年の生命形成の統一としてあるのである。われわれの一瞬一瞬の行為は斯かる統一をもつものとしてはたらくのである。而して斯る統一は一瞬一瞬の営みが形成してきたものである。瞬間が永遠であり永遠が瞬間である。われわれの身体は永遠と瞬間の相として生の相を実現してゆくのである。死と不死の矛盾の統一として生きているのである。
般若心経の色即是空というのは、瞬間的なものが永遠の相としての形相を見出すことであり、空即是色というのは、時の統一として永遠なるものが瞬間の行為に表われることである。瞬間的なるものが永遠の相を見るとは、死して生きるということである。消えて現われるということである。死して生れないところに生命の動きはない。単細胞動物から大日如来の世界の実現を説明することが出来ない。空海が岩蔭に今以って食事をし、衣更えするというとき、曼陀羅は唯凝固した形骸として、現実を動かす力を失なったと言わざるを得ない。人類は空海の残飯に生きるのではない、はたらいて食うのである。
サミットは三日の朝九時から初まった。主題は重源上人を語るであった。小野からは坂田大爾氏が発表者として高座の席に並ばれた。ライトに照し出された坂田氏は、その白哲の美貌に於て群を抜いていた。背すじを伸ばした姿勢は自信に溢れているようであった。三重県の大山田其の他の方が各地域に於ける上人の事蹟について語られた。その一々の詳細は書き切れるものでもないし、亦知っても仕方のないことと思うので心に残って、感慨を湧かせられたことだけ書きたいとおもう。その一つは上人が東大寺の僧ではないのに、多くの僧を置いて大勧進に後白河法皇によって推挙されたということであった。私はこれ程上人の力量、人間的魅力を語るものはないとおもう。該博なる知識、高潔なる人格、強固なる意志は勿論として、何よりも出会ったときにその人との一体感を覚えさせるものがなければならない。昔坂上田村麿は、怒れば髭が針金の如く逆立ち虎も恐れたが、笑えば幼児も寄ってきたというのを読んだことがある。命の次に大切であるといわれる金を出させるのである。暴力的強請によるのでなければ、その人に包まれるような力を感じなければならないとおもう。後白河法皇は上人に、世界意志と個人感情を結びつける力のあることを直観されたのではあるまいか。白皙の美丈夫坂田氏の発表も勝れていた。それは他の発表者が個々の事柄に着いたのに対して、上人の一々の事業を瀬戸内航路重視に結びつけたことである。一般論として重源上人を語るサミットとしては、事業家上人を語ること多くして、人間上人を語ることが少なかったことが不満であった。司会の女子大教授はそれに気付かれたのであろうか、時間を延長してエピソードを尋ねられたが不発に終った。
その後で小学生の男女十四、五人による重源太鼓の披露があった。それは会の緊張をほぐしてくれて、まことにたのしいものであった。余程練習しているのであろう、幕が開いてライトに照し出された有様は、見事に並べられた人形館を見るようであった。大太鼓が一つ、後は酒用に使う四斗樽である。重源は酒呑みであったのであろうか、その一つ一つに小さな少年少女が微動はおろか、またたきもせずに立っている。やがて小さな口から切口上で、交る交るに由来を語り、琴が弾かれて、太鼓が打鳴らされた。
この町の町おこしのキャッチフレーズは重源上人の町である。曽っては町おこしといえば殖産興業であった。重源と殖産興業は私には何うも繋りを見ることが出来ないようにおもう。或は日本は物質的なものよりは、時間の深さ、心の豊かさを求める時代となったのであり、その表れとしてこのような言葉が見出されたのであろうか。
慌しく昼食を摂り、バスは佐波川の上流へと向った。上人が東大寺用材を調達したというところである。川幅はいよいよ狭くなってゆく。私は東大寺のあの太い柱となる材木を何うしてこの川から運んだのであろうかとおもった。聞くところによると、この流れのままではとても運べるものではないのだそうである。それで海迄の短い間に百八十もの堰を作ったのだそうである。そして水を貯めて流したのだそうである。私は技術の生れるところを教えられるように聞いた。
バスの駐車した処に案内板があった。それによると伐り出した用材の巨きなのは、直径一、八米長さ三十米にも及んだらしい。伐採道具、搬出用具、搬出方法、人員の調達等は何したのだろうかと思った。書物によると上人は現在の山口県の支配を委されていたらしい。それにしてもこの峻険な山からの伐採、搬出は、現在の我々でさえ途方に暮れさせ るものである。
聞くところによると上人は協力を拒む人々を詢々と説いて廻ったらしい。さもあろうと おもう、今次大戦に於けるわれわれの協力とは状況が違う。二次大戦は帝国主義的国権拡張の最後の時であり、世界中の書棚に愛国の文字が並んだ時期である。唯さえ貧しかった無知なる人々が何うして協力し得ようか、恐らく上人の魅力と、不退転の意志が成就せしめたのであろう、今でも協力した村落と協力しなかった村落に草がどうとかの言い伝えが残っているそうである。
月輪寺の前に立ったとき、私は目が拭われたように思った。実にいい、厚い藁葺きの屋 根がやや白さびて、最も単純な三角の線をひいている。その下に柱と扉が簡素に並んでいる。今迄複雑な組木や、反り返った屋根の作りが棟を重ねているのを見て来ただけに、心の故郷といった思いを懐かざるを得なかった。それは他の寺院が目に荘麗なのに対して、住いを移してしずかに生を養いたいとおもわせるものであった。
岸見の石風呂というのは、月輪寺を出たバスが、いくつかの山間を縫った山裾にあった。説明によると、佐波川上流から用材を運んだとき、非常な難事業で病人やけが人が続出、こうした人々を救うために石風呂を方々に造らせたそうである。それは小舎の中に炭焼かまどのようなものが築いてあった。中を覗くと両側に席のようなものが敷いてある。使用法は薪を燃して内部を熱した後、焚殻を掻出してから室内に入り、内部の熱気に浴したものとおもわれる。と書いてある。現在のサウナ風呂と軌を一にするものである。
サウナ風呂といえばソ聯が米国と対立し、世界史のヘゲモニーを握っていた頃、中央アジアの世界の長寿地、飯尾さんによればウクライナとのことであるが、其処を調査研究したところ、健康の原因はサウナ風呂と乳酸菌であると発表してたちまち世界中に普及したものである。上人は斯る知識を何処から得て来たのであろうか。それとも炭焼きや、陶器作りから創出されたものがあったのであろうか、ともあれ重源は風呂作りが好きである。浄土寺にも湯屋跡があるそうであるが、到る処に作っている。それは恐らく愛情より出たものであると同時に、人心収攬術の一つであったのであろう。光明皇后の湯屋施療の逸話が残っている如く、それは広く行われたものであり、民心に大なるものを与えたのかも知れない。
長登銅山跡は深い山中にあった。説明によれば本邦銅精練に画期的な変革があった証拠が学術的に発見されているらしい。併しそれは専門家の問題であって、われわれは唯鉱滓の埋った丘と暗い坑道を見るだけである。それよりも感心したのは、この深い山中迄観光課の方が来て、パンフレットを持って待っていて下さっていたことである。何の寺でも茶と菓子の接待を受け、心温るおもいに二日間を過せたのはこの誠意によるとおもう。
それにしても歴史を知る会の旅行は、何時も内容が充実していて有難い。単に見るだけでなく掘り下げて考えられるものがある。会長、副会長、井上秀雄さん、原田さんに御礼を申し上げる。
尚短歌百首作る予定であったが目まぐるしい行程で半分も出来なかった。
長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」