書店の時間的考察

 田村さんが活字浴と称して、書店に行くのが私の贅沢であるという歌を作っていた。私も活字中毒というのであろうか、書店を見るとふらふらと入ってしまう。別に何を買うというのでもない、強いて言えば未知なる内の欲求に出合いたいということなのであろうか、自分の知らない自分の内奥の姿が映し出されているものがあるような気がするのである。ささやかなロマンとでも言うものであろうか。それと書店は知の凝縮である。知は物を写す。並んでいる本の表題を見ていると、世界の動き、現代の心の動きに触れたような気がする。勿論気がするだけである。併し今書こうとするのはそのようなことではない。ふと垣間に見た時間空間についてである。

 若い母親らしき女が絵本を買っている。差出された本を見て、女店員が愛想のつもりであろうか、「おいくつになられたんですか」と尋ねている。すると若い女は長い間絵本の並んでいる棚の前に立って、片っ端から開けて見ていたくせに「四才になったんですが、こんな本でよいのでしょうか」と尋ね返している。そして「そうですねえ、皆さんこの本はよく買って帰られますよ、それにあの本もよく売れています」の答に、もう一冊の本を取って来て二冊を包んでもらい安心したような足どりで帰って行った。私はそこに子供のすこやかな成長を祈っている母親の姿を見ると共に、ふと本が内蔵している時間の相に思いを馳せた。

 本は既にあるもの、形作られてあるものとして過去の内容である。併し彼の女が子供に読ませることによって、子供の成長をはかるということは未来に関り、未来を拓くものであることである。そう思って見ると犇(ひし)めいて本棚に向っている人全てが、明日の自分を形造るためのようである。八割を占める学生は、受験のためか知識欲のためか知らない、併しその何れも成人の日に用立てんがためである。料理の本の前に立っている女性は明日の家庭の団らんのためであろう。小説を買っている人は、情感のみずみずしさを保つためであろう。よきにせよ悪しきにせよ、本は明日の自分を作るために読むようである。

 本という既成のものによって、読むものが自己の未来を作るとは、形作られたものは形作るものであるということである。過ぎ去ったものははたらくものであるということである。過ぎ去ったものが働くことによって未来が形作られるとは、未来は過去の投げた影であるということが出来る。併しそのことは過去は未来によってあることである。そこに撰択がある。私は前に母親らしき女が片っ端から絵本を開いていたと書いた。彼女はその時子供の未来像を描いていたのであろう。彼女は子供の未来像と結びつけ得る絵本を買ったのであるとおもう。撰択は未来が自己に結びつく過去の撰択である。未来の要請として過去はあるのである。未来の要請によって過去があるとは、未来ははたらくものとして未来であるということである。

 一冊の本はそれ自身の内容をもつものとして分つべからざるものである。それに対して過去と未来は相対するものである。未来は過去によってあり、過去は未来によってあるとは、過去と未来は相互否定的に結ばれているということである。未来は過去の否定として未来であり、過去は未来の否定として過去である。分つべからざるものは道元禅師の言う同時である。一冊の本は一つの時として存在する。分つべからざるものとして一である。それが過去と未来として相対立するものを含むとは、形が形を生み、形が形を作る創造的なるものの一点としてあるということである。無限に対立するものを含む同時とは、時を 超えて時をあらしむる永遠ということである。一冊の本は時を含む永遠なるもののあらわれとして、内に過去と未来をもつことが出来るのである。

 創造とは作られたものが作るものとなることである。私達がドストエフスキーの小説を読んで感動したとき、その感動がものを見るときにはたらくのである。私は短歌を作るものであるが、斉藤茂吉の「赤茄子の腐れていたるところよりいく程もなき歩みなりけり」 に心うたれて以来、そのように感じ、そのように表現しようと心に掛っていたのを思い出す。私達が書店に見る膨大な文字の氾濫は、形が形を生み、文字が文字を生む人類創生以来の作られたものが作るものとなってきた結果である。分つべからざる本の内容とは、この創造線の一点としてあるということであり、内に相分つものをもつとは、この形成作用を背負うことによってあるということである。

 背負うことによってあるとは、本が創造をもつということではない。創造するものが本 に自己を表わし、表わすことによって自己を見てゆくということである。創造をもつも は、買った母親であり、読む子であり、更に著わした作者である。生死する生命である。生死する生命が自覚的形成的である時、創造があるのである。生れてくる子が未来となるのであり、死んで行った者が過去となるのである。死んで行った者より生れた我々が、死んで行った者等が作った世界を否し、我々の世界を作ったところに死者は過去となるのであり、生れてくる子が我々の作った世界を否定して、彼等の世界を作るところに未来があるのである。而してそれが作られたものより作るものへとして、一つの連続をもつところに時の成立があり、創造があるのである。一ころ時代が違うと言う言葉が流行ったことがある。親乃至は先輩の思考方法を否定する言葉であり、行動の断絶を宣言する言葉であった。生命が自覚的形成的として創造的となればなる程斯る断絶は避け得ないものとなる。斯かる断絶が作られたものより作るものへとして一なるところに創造があるのである。

 作られたものより作るものへとして、否定を超えて生命が一であるとは、生命の創生以来、作られたもの作るものへとなった作るものが今もはたらいているということである。死者が過去となり、生れてくる子が未来となるとき、現在とは生命と生命が呼び交すことである。多くの人が関り合って一つの世界を形作っていることである。最初の生命が今にはたらいているとは、自覚的形成としての最初の表現物が、我々に呼びかけるものをもっているということである。クロマニョンの絵が、 印度のボェウダが、エヂプトのピラミッドが我々に呼びかけをもつということである。書店の棚よりゲーテやミケランジェロを取り出すことは、われわれがその呼びかけに応答するということである。呼び応えるところに現在があるとすれば、創生以来の全生命は大なる現在にあるということが出来る。断絶は斯る世界に於て連続し、一なるものの内容となるのである。

 本が過去を蔵し、未来をはぐくむものでありつつ分つべからざるものであるとは、斯る ものの表れとしてあるということである。分つべからざるものとは直に一であるというこ とである。過去と未来が現在に於てあるということである。呼び応えるという一つのはたらきの中にあるということである。過去と未来が現在に於て一つであるとは、呼び応えるということは、初めと終りを結ぶいのちがはたらくということである。初めと終りを結ぶものは、内に否定と断絶を含むものとして永遠なるものである。否定と断絶に於て呼びかけと応答があるのであり、呼びかけと応答に於て現在があるのであり、現在が成立することによって時の統一、変化の統一があるのである。一冊の本は永遠なるものがはたらくものとしてあるのであり、全てあるものは永遠なるものの形としてあるのである。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」