時間と空間

 子等夫婦と私達は離れて住んでいる。外科医という仕事は手術をしている関係で暇を取ることが大変らしい。それで帰ってくることは年に二、三回である。帰ってくる楽しみは何と言っても孫の成長である。期間が長いので一回一回の変貌が驚きである。この頃は幼稚園に入って、恥しがったり、こましゃくれたことを言ったり、すねたりするようになってきておじいちゃんのところには中々来ない。一番なついてくれたのは走り出したころのようにおもう。「おじいちゃん」と言って指を引っ張っては外に連れ出し、突然走り出しては、自動車が来ないかと心配させたものである。私は弾むように走る幼い姿を見ながら、時間・空間について思いをめぐらしていったものである。

 孫は一日一日よく走るようになっていった。それは行動範囲の拡大であった。それは私に生命の空間形成を思わせるものであった。行動範囲の拡大は空間の拡大である。斯る拡大は走るという行為によって実現してゆくのである。走ると言う行動は時間的である。それは一瞬一瞬の連続に於て成立する。空間は時間によってあるのである。空間が時間によってあるとは、時間は空間形成的にあるということである。空間の中に自己が消えてゆくことによってあるということである。而して時間が空間の中に消えゆくことによってあるとは、空間は亦時間の中に消えゆくことによってあるということである。走るという時間の中に消えてゆくことによって、空間は自己を露わとするのである。走るという行為は一瞬一瞬が消えて現われることである。消えて現われるものによって、走り出したところか行き着いたところ迄、初めと終りを結ぶものが露わとなるのである。

 生命は内外相互転換的に形成的である。その原型的なものが摂食と排泄である。呼気と吸気である。斯る内外相互転換は単に交互の繰り返しではない、そこに生命の形成作用があるのである。生命はそれによって身体的に自己を形造ってゆくのである。それは形に自己を見、自己を実現してゆくことであると共に、絶えざる形の否定である。内外相互転換とは否定が肯定であり、肯定が否定であることである。身体の形成に於て、形ははたらくものであり、はたらくものは形である。斯る生命形成の形の方向に空間が見られ、はたらくものの方向に時が成立するのである。孫が走った一歩一歩の連続は時間であり、範囲は身体の外化として、外的身体として空間である。

 併し走ると言う如き身体に直接するときは未だ真に時間・空間と言うことは出来ない。それは時間・空間の原質とでも言うべきもので真に時間・空間が言われるには物の成立がなければならない。形とはたらくものの対立がなければならない。内外相互転換は形を外とし、はたらくものを内とするものの転換とならなければならない。外を物として、内を精神とするものの否定的転換とならなければならない。斯る相互否定的転換に於て外は形として空間となり、内ははたらくものとして時間となるのである。

 内外相互転換として内と外とは対立する。時間と空間は相互否定的に対立する。併しそれは生命は内外相互転換的に自己自身を形成するものとして、何処迄も純一な流れとしてあるのである。はたらくものは物となることによってはたらくものであり、物ははたらくものとなることによって物である。はたらくとは努力することであり、努力することは物が物を呼ぶことである。物がはたらくものとなるということは、我々がはたらくとは物に呼ばれることによってあるということである。物としての世界より呼ばれるということである。イデアに招かれて製作するということである。物と精神は何処迄も対立する。併しそれは物は精神の中に消えてゆき、精神は物の中に消えてゆくものとして対立するのである。万物流転すると言われる如く物を尋ねてものはなく、精神を尋ねて精神はない。純一なる流れとは、生命は形をもち、形は形造ることによってあるということである。それは無限に動的なるものとして、形の方向に空間が成立し、形造る方向に時間が成立するのである。生命は時間的・空間的、空間的・時間的に自己を形成してゆくのである。

 時間と空間が対立し、相互否定的になってあるとは自覚的ということである。自覚とは自己が自己を見ることである。自己が自己を見るとは自己の中に自己を見てゆくことである。自己の中に自己を見るとは初めがはたらくことである。内外相互転換は一瞬一瞬である。一瞬一瞬の内外相互転換とは、生命が一瞬に否定を肯定に転じ、肯定を否定に転じてゆくことである。外を内とし、内を外とすることである。外を内とし内を外とすることは機能的・構造的である。身体は機能的に自己を形成してゆくのである。機能的なるものが始めがはたらくとは、一瞬一瞬が消え去るものではなくしてはたらくものとなることである。一瞬一瞬の転換を技術として技術の蓄積をもつことである。無限の瞬間が現在にはたらくところに言葉があり道具があるのである。無限の瞬間が現在の内容として固定するところに物があるのであり、機能が蓄積に於て外化するところに道具があるのである。無限の瞬間を現在に固定せしめるものは言葉であり、我々はそこに記憶をもつのである。記憶をもつということは無限の過去が現在に於てあり、現在が道具を介して物を作るということである。故に記憶は現在がはたらくこと、物を作ることによって維持されるのである。斯る現在は新たなる内外相互転換によって破られ、次の現在の内容となり世界に新しい物が生れるのである。斯くして内外相互転換は無限なる創造の世界となり、われわれは否定されて否定するものとして自己を知るものとなるのである。

 創造的生命に於ては外は技術によって作られたものとなる、道具を媒介して変革された外となる。而して外は、内外相互転換として内を否定するものとして、生に対して死として迫ってくるものである。内は外を否定するものとして、死を生に転ずるものとして、新たな技術によってより大なる中心へと歩を進めるのである。ここに空間と時間が分れるのである。分れるとは、内と外として否定し合うものとなり、対立するものとなることである。空間は過去よりとして、形として現前するものとなり、時間は未来よりとして形なくしてはたらくものとなるのである。

 内と外とが相互に否定し合うとは、一つの形が滅して新たな形が生れることである。道具を媒介として製作的に相互転換をもつとは、空間はわれわれに変容さるべきものとして空間であり、時間は変革するものとして時間である。斯る変革は蓄積として、変容はより大なる形相として、形相の密度を高めてゆくことである。それは内が外を否定し、外が内を否定する終りなき展開である。創造的世界は無限の展開である。 人智無限という言葉がある。内外相互転換は形成作用として内が外を否定し、外が内を否定することは内が外を作り、外は内を作るものとして、世界はより大なる形相展開をもつのである。

 自覚的生命として自己の中に自己を見てゆくことが経験としての技術の蓄積であるとは生命形成は初めがはたらくということである。最初にあったものが自己の中に自己を見てゆくということである。時間がはたらくものとして時間であるとは、形が形の中に形を見てゆくことである。見られたものは個として、見るものは世界として、個の限定は世界の現定であり、世界の限定は個の限定として生命は自己を形成するのである。斯る限定の個の方向に時間が成立し、世界の方向に空間が成立するのである。個が世界の限定として個が世界の中に消えてゆくときに空間が成立し、世界が個の限定として世界が個の中へ消えてゆくとき時間があるのである。

 時間は無限の流れである。併し単に流れるものは時間ではない。単なる流れというも のがあるのではない。時間の無限なる流れは前に見た如く創造的時の流れである。形の中に見てゆく形の流れである。生死の流れである。形の中に形を見てゆくものとして、時間の流れは初めと終りを結ぶものがなければならない。過去と未来がそこにあり、そこより見られるものがなければならない。創造的時が形成的時であるとき、形を超えた形としての世界の内を流れるのである。時間は神の胸底を流れるのである。

 空間というとき私達は直に宇宙をおもう。無辺の広大なるものをおもう。この無辺の広 大なるものは如何なるものであるか。私は幼時四辺を囲む山の中の範囲より外に世界があると信ずることが出来なかった。山の向うにおばさんの家があると聞かされても幻の如く、どうしても実在感をもつことが出来なかった。それが実在感をもてだしたのは遠足などによりたびたび外との交通をもってからである。即ち目と足の範囲より出でなかったのである。私は空間とは生命の外延以上に出でないものであるとおもう。長い事人類が信じて疑わなかった天動説も我々の視覚の必然である。近代的宇宙論は目が手を加えた視覚の拡張転換である。望遠鏡なくして近代の宇宙認識はなかったと言って過言ではない。而して更に大なる望遠鏡の出現は如何なる宇宙理論を生むか予測しがたいとおもう。望遠鏡の精緻化は視覚が視覚の中に見出でた視覚の発展である。近代的自覚としての生命空間である。勿論宇宙はわれわれが作ったものではない。それはあったものである。併しそれは人間が自己の中に自己を見てことによって開いていったものである。無辺の空間は無限の時間に裏付けられてあるのである。内が外となり、外が内となる創造の内容としてあるのである。今我等がもつ宇宙とは斯る自覚的生命の無限の内面的発展としてあるのである。問いと答、仮設と実証の上に築かれてあるのである。内面的発展としてあるということは、時間をもつということである。時間が形を超えた形としての、空間を背後にひそめるがごとくにあるのである。

 時間は空間の中に消えてゆくことによってあり、空間は時間の中に消えゆくことによってあるとは、生命は無としてはたらくことによってあるということである。無としてはたらくとは現在が絶対現在の意味をもつということである。空間は現在の空間に於て空間であるということである。空間が現在の空間であるところに、時間が空間の中に消えることによって自己を実現したということがあるのである。ここに物が作られ、物が生れるということがあるのである。斯かるものとして時は絶対現在より絶対現在へと動いてゆくのである。時間的・空間的として初めがはたらくところに形があり、新たな形が生れるところに終りがはたらくのである。初めと終りを結ぶものとして神の内容である。一瞬より一瞬に移るものとして見るべからざる神の姿は、一瞬一瞬に自己を露わとする神である。絶対時間は亦絶対空間である。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」